「プリンシプル」とは何か

上田勲氏:上田と申します。よろしくお願いします。本日は、ともにつくるための長く広く使える知識、とくに人間というものにフォーカスした情報を紹介したいと思います。

まず自己紹介ですけど、キヤノンITソリューションズ株式会社所属のソフトウェアエンジニアです。現在はWebアプリケーションを自動生成するツール、「Web Performer」という製品の開発を担当しています。

個人の活動としましては、「ストラテジックチョイス」という技術書読書ブログを8年ほどやっていました。また、『プリンシプル オブ プログラミング』というプログラミングの原理・原則を101個紹介した書籍を執筆しています。これは中国や韓国で翻訳されて出版されています。あとは、「@IT」で連載などを行っていました。

本日のアウトラインですが、2部構成になっていまして、1部では主に人間にまつわるプリンシプル、2部ではもう少し具体寄りの、我々の製品開発の中で実際に使っているプリンシプルを紹介します。

「ドクトリン」というのはプリンシプルなんですけど、その中でも規律とか指針とか、そういったニュアンスを持つものに使っています。

プリンシプルを紹介するときは、スライドをWhat・Why・Howにそれぞれ分けて説明します。

では、はじめに、ここでのプリンシプルの定義ですが、人類が歴史のなかで濾過して蓄積した、普遍かつ有用な抽象的知見。歴史の長い審査を受けてもなお生き残った役に立つ情報の精鋭部隊というイメージです。なので、通常の意味よりはだいぶ広く使っています。

では、第1部、これは「ともにつくる」という観点でピックアップしたプリンシプルを紹介します。6つ用意したんですけど、時間の関係で3つだけ説明して、残り3つはワードだけ紹介させてください。

相手をヒトとして見る「我と汝」の世界

1つ目ですね。ブーバーの「我と汝」というプリンシプルです。ブーバーはユダヤ系の宗教哲学者で、思想的には対話の哲学といわれています。

これは人間関係のプリンシプルで「自分の相手に対する姿勢が世界をつくります」という内容なので、チーム内のコミュニケーションにぜひ使ってほしいと思います。

まずWhat。人間は2つの世界を生きているといいます。1つは「我と汝」の世界。これは相手を自分と同じぐらい大切な「ヒト」として見る、そういう世界です。もう一方の「我とそれ」の世界は、相手を便利な機能を持つ「モノ」として見る世界です。

Whatが続きまして、こちらのほうが重要なんですけど、「我」は「我の態度」に応じて相手が規定するというものです。「我と汝」の世界では、相手をちゃんとヒトとして見るので、汝側も我をヒトとして見てくれるんですけど、「我・それ」の世界のほうは、相手をモノとして見てしまうので、相手も我をモノとして見てしまうような世界です。

例えば、誰かにプログラミングとかをお願いするときも、相手を実装するマシーンのようなかたちで見てしまうと、相手もこちら側を評価するマシーンのように見てしまって、最低限怒られないようにやってお金なり評価なりをもらおうとなるので、結果、モノ対モノの関係になってしまいます。自分の態度で自分が決まる。それを相手が決めるという意味です。

なぜこれを知っておく必要があるかというと、「我とそれ」ではチームにならないからです。まず、「我とそれ」は人を追い詰めます。人間を機能とみなして、その一面だけで付き合う関係なので、機能の失敗、役割遂行の失敗がそのまま人格の否定につながります。

たまに電車が遅れていて駅員さんに怒鳴っている人がいますけど、おそらくこの人は駅員さんを電車を正確に走らせる機能として見て、あまり意識することもなく駅員さんを追い詰めているのだと思います。

もう1つ、「我・それ」は、コミュニケーション不全にも陥ります。互いに相手をモノ扱いするので、言葉にどうしてもトゲが出てしまいますし、あるいは、相手の言葉を聞かないで、自分の言いたいことだけを考えて投げつけ合うような関係になってしまいます。軍隊とかなら別なんですけど、相乗効果を生み出したいような創造的なチームは構築できなくなります。

ということで、Howは、相手を「汝」と見る。ブーバーは次のように言っています。他者を、自分の利益を得るための道具として見ない。他者は、はかり知れない独自性を持った存在として見る。これは意外にできていなくて、とくに上下関係や金銭の授受関係、店員さんとお客さんみたいな、そういった関係のときに「我・それ」になりやすいと思っています。

例えば、後輩が先輩になにか報告などをしているときに、先輩がそれを聞きながらPCやスマホを見ていたりすると、後輩は自分は結局道具の並びと感じてしまって「我・それ」一直線、というのはよく見る光景かと思います。

とにかく、相手は自分と同じかけがえのない人間だと認識して、人間同士の関係を築くということだと思います。

また、「我と汝」の確率を上げるアイデアとして「歓待」というのがあります。これは他者を条件をつけることなしに受け入れることです。そのためには、まず人間同士の違いを認めることだと言っています。違いにはマイナス方向の違いもあるんですけど、そういうものも含めて「違いは正しい」とまず思ってしまうということです。

それからもう1つ、「相手の靴を履く」。これは他人事をいったん自分事に考えてみることの比喩です。覚えやすいので、会話の折に思い出して使ってほしいと思います。

世界は言葉が作っている

続いて、ソシュールの「シニフィアン」と「シニフィエ」というプリンシプルです。ソシュールは近代言語学の開祖と言われている方で、言葉に関するプリンシプルです。

人が考えるのも会話するのも言葉なんですけど、言葉って実は思っているほど確実なものではないので、そういった言葉の本質とか正体みたいなものをつかんで、それを前提として持っていてほしいなと思います。

まず用語から。シニフィアンは「意味するもの」、シニフィエは「意味される」ものと訳されるんですけど、ここはちょっと正確さは置いておいて、シニフィアンは文字や発声、つまり言葉で、シニフィエは言葉が指すモノやイメージというような理解で見てほしいと思います。

ここからが本題で、言葉と世界の関係というのは、特徴が2つあります。内容がややこしいので、このあとそれぞれ具体例を出して説明します。

1つ目が言語の恣意性というもので、これは、シニフィアンとシニフィエの関係は唯一に決定されるわけではない、その関係性には必然性がないということです。必然性がないと言っているところが恣意的という意味です。

具体例ですが、1つ目は言語の例です。シニフィエがウマという生き物のときに、シニフィアンは、日本では「馬」、英語では「Horse」が当てられています。日本語と英語でシニフィアンがすでにズレているので、シニフィエになにか本質のようなものがあって、そこから唯一無二のシニフィアンが出てくるというわけではない、ということです。

今度は文化の例で、日本ではシニフィエが蝶という生き物のときには、シニフィアンは「蝶」で、蛾のときは「蛾」なんですけど、フランスは両方とも「Papillon(パピヨン)」というシニフィアンが当てられています。

ちなみに蛾って、日本では昔から害虫として扱われていたんですけど、フランスではどうもそういう認識がなかったみたいで、とくに分けられていなかったという経緯があるそうです。

この類はけっこうあって、ほかにも例えば英語の「Brother」も兄と弟を区別していないとか。そういうものもこの類かなと思います。

このように、モノと言葉はいろいろな事情があって決まってくるものなので、決定的な1対1の関係ではない。これが言語の恣意性です。

2番目の世界の分節化。これはちょっと直感とは逆のことを言うので、今日で一番ややこしいところかもしれません。

定義は「言葉は、その言葉を生み出すことによって、世界から概念を切り取って、世界を構築している」。この切り取ってというところが、切り取ってそれとそれ以外に分けているというので分節化と言ってるんですけど、そうすると、世界がまずあって、それに対する言葉があるという順番ではなくて、言葉があって、それに対応する世界があるということになります。つまり、言葉が世界をつくっているという意味です。

これも例を出します。これは赤ちゃんで考えるととてもわかりやすいと思っています。左側のなにも知らない赤ちゃんが見ている像は、おそらくもやもやの動画なんですね。でも、右側のように「蝶」という言葉を覚えると、そのことによってこの花畑の中からひらひらしている蝶だけが世界から浮かび上がってくる。言葉によって蝶と蝶以外に世界が分かれる。これを分節化と言っています。

Whatが少し長くなってしまったので、補足しながらまとめます。

言葉で世界を切り取っていく。これが分節化で、これには漏れもあるし、重なりもあるし、歪みもあります。しかし、その言葉には必然性がありません。これが恣意性で、仮のもの、曖昧なもの、時代・文化・人によっても異なるものです。

そうすると、我々の認識している世界というのはありのままというわけではなくて、言葉によって歪められた歪な世界ということになります。世界をそのまま見ることができていない。いわば、品質がよくないパッチワーク、継ぎ接ぎの世界を見ているということです。

なぜこれを知っておく必要があるかというと、人間は言葉で思考/会話しているんですけど、その言葉は世界を完全には表現できないので、思考も会話も完璧にはなりません。「自分の考えていることが絶対正しい」とか「相手が絶対悪いんだ」ということはなくなりますし、「自分の言ったことが絶対伝わる」「伝わらないのは相手が悪い」ということもなくなります。

なので、このような前提に立つことは思考と会話の質を高めることになります。正しく伝わらなくても、「そういうものか」と感情的にならずに済みますし、言ったつもり・わかったつもりにならないように確認の対策をとったりできますし、さらに、自分の考えや説明を疑って改善することもできるようになります。

Howですが、思考のほうは言葉を増やすことに尽きると思います。言葉が世界を構築するんだったら、知識を増やせば思考も豊かになります。世界の中から見える部分が増えますし、いわゆるパッチワークの隙間が減ってくるので、世界をより正確に見ることができるようになります。これには読書が一番いいかなと思います。

会話のほうは、「相手の言葉のその先を見る」と書きましたが、言葉が歪な世界しか表現できないんだったら、投げかけられた言葉そのものよりも「相手がその言葉を使って、結局本当は何を意味したいのだろう?」というほうに意識を向けるほうが会話がうまくいくと思います。

確かに伝わらないときって、だいたい説明する側が悪いことは多いんですけど、受け取り側もこうやってがんばることで、会話のやりとりの質は上がってくると思っています。ここは「我・汝」になってがんばれるところかなと思います。

知的に成長し続けるための「無知の知」

続いて、ソクラテスの「無知の知」というプリンシプルです。これはすごく有名で、たぶんみなさんご存知だと思うんですけど、うまく使うのがとても難しいプリンシプルということでピックアップしてみました。

人間の知性や理性に関するプリンシプルで、人間が知的に成長し続けるためにはどうしていけばよいかという点を参考にしてもらいたいなと思います。

WhatとWhyはすごくシンプルで、我々は全員もれなく無知なんですけど、そのことは問題ではなくて、無知を自覚していないことが問題です。無知を知ったものが賢者であるということです。

なぜその無知の無知がいけないのかというと、成長を止めるからです。人は世界全体を知り得ないのに、知的に怠惰になることは、成長する意思がないということです。「私はわかっている」という態度は「無知のままでいる」という決意表明と同じだと思います。

これは参考なんですけど、実は無知に関する名言はすごくたくさんあって、古くは紀元前の孔子の言葉から現代のアカデミックな研究成果まで、どの時代にもまんべんなくあるんですね。ここでは心理学の研究成果から1つ引用してきました。

ダニングさんとクルーガーさんの研究成果で、そのまま「ダニング=クルーガー効果」という名前がついていますが、心理学の認知バイアスの一種で、「無知は、自分が無知であることを知る知識すら持っていないために、自分が無知だと気づけない」という内容のものです。

科学の成果でこういうふうに言われてしまうとどうしようもない気がするんですけど、このサイクルから抜け出す対策を3ステップ+αで考えてみます。

Howの1つ目ですね。未知の分量を知る。この下の図はラムズフェルドの「既知と未知の輪」というものです。

一番内側の輪が「既知の既知」で、普通に知っている領域です。外側に「既知の未知」、知らないことを知っている、「こういう分野があるのは知ってるだけど、中身は知らないな」といったニュアンスの領域があって。そのさらに外に「未知の未知」、知らないことすら知らない領域があります。ここがほかと比較にならないぐらい、とてつもなく広い。便宜上書いてますけど、本当は点線の輪がないぐらい膨大な領域だということです。

それなのに人間は、人は認識の限界で、既知の未知というところまでを世界のすべてだと誤解してしまう傾向があります。なので、その外には既知の世界とは比べ物にならないぐらい広い世界があるというのを認識する。これが第1歩目だと思います。

2ステップ目が「無知を努々自覚する」。これは無知であるという姿勢でどんな人からも学ぶということです。尊大な態度をとって「我・それ」になって人の話を聞かないというのはもったいないですし、その逆で、卑屈とか慇懃無礼になって「私なんかにはわからない」というふうにするのもかなりもったいないです。誰からも学べると思います。

さらに、無知であるので、知識は吸収し続けなければなりません。逆説的なんですけど、知れば知るほど知らないことが増えるはずです。これは勉強すると知らない領域がどんどん出てきて、先ほどの2番目の輪、既知の未知が広がるからです。でも、それは自分の世界が広がったということなので、ネガティブに捉えないでそのまま学び続けてほしいなと思います。

では、最後、「既知すら疑う」。これは自分の現在の解釈や考えをいったん疑うということです。自分の考えって過去を振り返ると間違っていることもあると思います。例えば子どもの頃の考えってけっこう間違っていますけど、そのまま更新しないで使っていることもありますし、また、ある時点で正しかったとしても、時代が動いて常識が変わってしまうこともあります。

なので、相手がおかしいとは決めつけないで、「自分の理解できない世界があるかも」というふうに、自分を相対化するということが必要になります。

このときに、「当たり前」という発言は自分絶対化の思考停止ワードだと思っています。自分が絶対正しいという考えから離れることができると、考えを相対化できると、「まさかこれ、自分が原因だったのか」とか「自分のほうが間違ってたんだ」というのがけっこう見つかるんですね。けっこうショックなんですけど。

でも、とにかく1回トライしてみて、なにか体験できれば蟻の一穴になってそこから習慣化できるかもしれないので、1回試してほしいなと思います。

これは参考なんですけど、無知の自覚にしても、既知の懐疑にしても、謙虚さが必要だと思います。学ぶには謙虚であることというのは、どの時代でも言われていることです。しかも謙虚さの射程距離ってけっこう広くて、人類の大きな課題、戦争や差別などの打開策としても提案されていて、広く使えるツールなので、少しふわっとしたビッグワードなんですけど、キーワードとして紹介しておきました。