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モノづくりで大事なのは、観客にとって不要なものを切り捨てる術(全2記事)

できるディレクターとは“不要なものを切る技術”がある人 クリエイティブの世界における「客観視」の難しさ

経営者、事業責任者、マーケターからPRパーソン、デザイナーまで、業界業種を問わず、企画職の誰もが頭を悩ます「ブランディング」をテーマに、じっくり向き合う音声番組『本音茶会じっくりブランディング学』。今回のゲストは、『ハイパーハードボイルドグルメリポート』シリーズを手がけた映像ディレクターの上出遼平氏。第二部の前半となる本記事では、モノづくりにおける“不要なものを切り捨てる技術”の重要性について語りました。 ■音声コンテンツはこちら

上出氏の初小説『歩山録』が誕生した背景

工藤拓真氏(以下、工藤):「本音茶会じっくりブランディング学」。この番組は、業界や業種を超えて生活者を魅了する、ブランドづくりに本気で挑まれるプロフェッショナルの方々と、Voicyさんが構える和室でブランディングについてじっくりじっくり深掘るトーク番組です。

こんばんは。ブランディングディレクターの工藤拓真です。前回に引き続き、映像ディレクターの上出遼平さんにお話をうかがえればと思います。上出さん、お願いします。

上出遼平(以下、上出):お願いします。

工藤:前回の話でもありましたが、本当にいろんなメディアやいろんなものにクリエイティブを注ぎ込まれている上出さんですが、今回(出版された)小説『歩山録』。これ、すごいですよ。「奇想天外、予測不能、スーパーサイケデリックマウンテンノベル」。

上出:いやぁ。さすが、帯文が言い得て妙です。

工藤:(笑)。「混沌的登山小説」ということで出ている作品です。本の中身は、もしかしたら(視聴者も)読んでいただいているかもしれないですが。

「一番届くかたちで(作品を)作れればいい」というお話でしたが、いろんな作品を作られている中で、今回は小説というパターンで挑まれているのはどういう心境なんですか?

上出:これに関しては「小説を書くぞ」と言って始まったわけではなくて。『群像』という講談社の文芸誌があるんですが、「その連載をしてくれ」という話があって。

さっきからお話しているとおり、旅して見たものや聞いたものを書いたりなんだりして、共有して飯を食えりゃいいというのが僕の理想形の1個なので。その連載の話が来た時に、いつも山ばかり登っているもんですから、山登りの話でも書こうと思って書いたんですよ。そしたら、混沌的登山小説化したという。

工藤:(笑)。だんだん混沌としてきて。

上出:だんだん混沌として。なんでなんでしょうね(笑)。

工藤:(笑)。

映像にはない、文章の自由さ

上出:映像だと、こんなことできないじゃないですか。簡単に言うと、普通に山を登っていたら変な世界に入っていくんですが、文章の自由さに引っ張られたというか、文章って何でもできちゃうんですよね。それが書き手としての一番ワクワクする部分でもあって。

もちろん映像って情報量がすごく多いじゃないですか。だけど、できることが道具にものすごく依存するんですよ。

工藤:そうか。道具によっても制限が掛かってくる。

上出:そうそう。普通の16対9が撮れるカメラと360度カメラではまったく違ったり、どんなカメラなのか(で作れるものが変わってくる)。ドローンが生じた時に、撮れるものがまた変わってくるとか。

工藤:そうですね。ドローンで、ライブの映像も全部ウィーンって(撮れるように)なりますよね。

上出:まったく違うわけじゃないですか。そうすると、「映像のほうがいろいろできるじゃん」と思われる可能性もありますが、僕にとって文章の自由さはすごく貴重でデカいので。今思えば、山歩きの文章を書いた時に、どうしてもその自由さを最大限生かそうとしちゃったのかも。

工藤:(笑)。ドキュメンタリーとか、「ここは行けないよね」というところに触手が伸びちゃうと。

上出:そうですね。この小説で描こうとしているのは、現実と非現実の、それまた境界線の曖昧さだったんですよ。

工藤:そこは一貫しているんですよね。

上出:そうそう、そこは本当に一貫していて。「本当にこれはフィクションですか?」と(よく言われるんですが)、僕にとってこの中の話はほぼ本当なんですよ。一見サイケデリックなヤバイ世界なんですが、僕はこんなようなものを見たことがあるし。

自分の世界に対する、五感を使って得られるインプットの解釈は本当にこんな世界なんですが、映像では表現することができなかったので。それが、ここ(文章)では実現できたんですよね。

工藤:なるほど。そうか。

客観視を入れるほど、作品は凡庸なものになる

工藤:いろんな作り方がある中で、小説っていろんな意味で特殊さがあると思うんです。文字も含めですが、けっこう単独プレイなところがあるじゃないですか。当然、編集者さんはいらっしゃるでしょうけど、1人というのは創作に何か影響を与える部分はありますか?

上出:あると思いますね。とはいえ、今まで番組作りも相当少数でやってきているので。

工藤:そうかそうか。

上出:基本的には、大勢でやることはあまり経験していないんですが、とはいえ映像より少ない。僕と編集者2人きりみたいな世界で作っているので、そういう意味ではものすごく小さな人数でやっていますが、不安とワクワクと半々みたいなところがありますよね。

他人の目が入らないことに対する不安は当然あって。作り手は、最後のアウトプットの瞬間まで客観視できずにいるので。客観視がまったくできていないものって、鬼のように滑ることがあるわけですよ。「俺はこれをおもろいと思っているんだけど」というものが、誰にも伝わらないことがあります。

だから、客観視を入れれば入れるほど、その部分の安心感は担保できるんです。一方で、例えば10人の客観的な視点を入れて、10人に満足してもらえるようにアジャストしていったら、めちゃくちゃ凡庸なものになるんですよね。

万人を満足させようと思って作られたものは、当然そうなるんですよ。それが今のテレビ番組だと思うんです。

「万人にウケるとはこれっぽっちも思っていない」

上出:みんながなんとなく満足するものって、強くは刺さらないですよね。だって、見たことあるようなものばかりですから。

工藤:「ノー」とは言われない、みたいな感じですよね。

上出:ノーとは言われない、減点されることを避けたもの。本当にごく個人的に作られたものがザクっと刺さるのがモノづくりの世界なので、そういう可能性を持ったものにはなっていると思います。万人にウケるとはこれっぽっちも思っていない。

工藤:(笑)。何人かにグッと刺さるという。

上出:と、思っていますね。

工藤:編集者さんとのやり取りでいうと、それこそ「そこは滑るよ」というやり取りもあったんですか?

上出:そこまではないかもしれないですが、近いことはありましたよね。「ここの気分が乗らない」「ここのシーンをもうちょっと活かすために、手前にこの人との話が必要なんじゃないか」とか、本当に必要なことを常におっしゃっていただいて、ものすごく勉強にもなりました。

出版社の方とがっぷり四つで書いたものを添削されたり、指摘されることがものすごく勉強になるので、すごく好きなんですよね。いつも本当に泣きそうになりますけどね。

工藤:(笑)。そうですよね。

できるディレクターとは“切るのが上手な人”

上出:本当に一生懸命書いたのに「ここ、不要だと思います」とか。がっかり、みたいなことがありますけどね。でもこれは絶対にやったほうがいいんですよね。テレビの編集と一緒で、テレビもディレクターはみんな自分で撮ったものが大切だから、絶対に切りたくないんですよ。

おもしろくない映像って、変なシーンがいっぱい残っちゃっているものが多くて。撮った人間の執着が介在しちゃっているんですが、視聴者にとってはまったく関係ないので。

できるディレクターは、基本的に切るのが上手なディレクターなんですよね。いかに切れるかが本当にディレクターの腕なので。それは(書籍の編集者と)同じような。心が痛むが、切ったほうが絶対に良くなるのがモノづくりの世界だと思っています。

工藤:やり方とか、関わる人の人数は違えど、「視聴者のためにここは切る」という感覚は、小説作りでも通底している部分なんですね。

上出:それはあると思いますね。ただ、テレビ的なストーリーテリングの作法は、いろんな意味で活かされているとは思います。テレビは基本「1秒でも飽きさせたらチャンネルを替えられる」という恐怖感でずっと作っているので。

書籍はそれほどではないにしろ、「この3行は、次の3行を読んでもらうために存在しているんだ」という気持ちで書いてはいますね。

工藤:なるほど。それこそ今回一緒に『muda』を作らせてもらった時も、「この時に、見ている人が……」という話は、よく上出さんもしていたと思います。

作品づくりにおいて、視聴者をどこまで意識するか

工藤:テレビでよく言う話って「視聴率戦争」みたいなことですが、さっきおっしゃっていたように、それ(視聴率戦争)に飲まれると、末路は平均点を狙う悪いほうに行っちゃう。

一方で、脳内にいる視聴者の話もあるじゃないですか。そこをちょっと深掘りして聞きたくて。「視聴者」と言っている時の視聴者って、どんな人をイメージしているんですか?

上出:うーん、わかりません。

工藤:(笑)。たぶん視聴率の平均的な何かではないんですよね。

上出:ではないですね。

工藤:「深く刺さればいい」と言っていたのと、近いところにいる誰かなのか。

上出:そうですね。作るものによってちょっと違うんですが、自分の出会ったことのない人がどう思うかなんて想像できるはずがないので、基本的には自分の近しい人が想定されています。極端な話、僕ですよね。

工藤:そうなんだ。

上出:「この作品を見たことのない僕がどう感じるか」とか。というか、本来はそれ以外は想像することって不可能なんですよ。不可能だし、それができると思うことがおごりだと思うので、自分のできる限界は「その作品をまったく知らない自分がどう見るか」。

それ以外のところは想像じゃ到底まかなえないので、人の目をちゃんと入れているということかなと思います。

数字よりも、精度を上げることのほうが重要

上出:ただ、ものによってですが、例えば文章は妻に一番最初に読んでもらうことがわりと多いんです。

工藤:そうなんですね。

上出:「あの人が読んだらどう思うかな」っていうのは、考えたりはしますけどね。

工藤:そうか。リアクションも含めて、想像できる近い人の感覚をまず一番大事にするところはあるんですね。

上出:それしか無理ですよね。例えばテレビで「この枠はF1が強い枠だから、F1にちゃんと届くように作ってね」と言われたとしても、無理っすと。だったらF1の人をスタッフに入れる。それしかできない。

工藤;ちゃんと顔が見えるF1を目の前に置いて。

上出:その人の意見を、常に真摯に取り入れていくことしか無理ですね。

工藤:なるほどね。それこそ『ハイパーハードボイルドグルメリポート』がどんどん話題になって。(放送時間帯が)夜でも数字が……という話も含めて、今に至っている部分があると思うんですが、視聴率との向き合い方って当時はどういうスタンスだったんですか?

上出:『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の視聴率、1回も見てないです。気にしてないです。

工藤:気にしてない。

上出:ヤバイですよ。

工藤:「周りが何か言っとんな」みたいな。

上出:無理じゃない。数字なんて取るわけないじゃん。

工藤:(笑)。

上出:というか、そもそもテレビ東京の深夜枠で「数字を取れた」と言ったって、取れなかったやつと変わんない。どんぐりの背比べなので、どんぐりの中の数字を気にするくらいだったら、いかにモノとしての精度を上げるかのほうが、僕にとっては重要だと思って。

その結果、Netflixに買ってもらえるとか、人に深く刺さったことによって書籍を作ろうかとか、そういう話になったんだと思うんですよね。だから今振り返っても、間違っていなかったと思いますけどね。

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