「医者の人間性が歪むのは当たり前」と語る理由

高木俊介氏:今でこそ障害者総合支援法ができて、ずいぶんと重症の人がしている作業にもお金が出るようになっています。私がやっていた頃は、作業所といえば、まだ家族会が細々とやっていたくらいでした。

時々スタッフがビスケットを焼いて、教会のバザーで売って、お情けで買ってもらうくらい。そういうのがほとんどでした。私たちが見ているような重症の人は、そういう作業所では見てくれなかったんですね。

そこで、私の次の課題は「ちゃんと儲けられて、作業のお金が出せて、自分たちが(運営するから)かなり重症な人でもやれるような仕事の場を作ること」になった。それを思いついちゃったのが、私の不幸なところです(笑)。

ACTが経済的に成功しちゃったものだから、「できるやん、ビジネス」と、医者の分際で思っちゃったんです。「なんでもできる」みたいな(笑)。その時、医者というビジネスがいかに甘えたビジネスか、というのを忘れていたんですね。

今考えてみると、医者というビジネスは失敗してもお金がもらえるんです。そういうビジネスの上に、最初に言ったように「医局講座制」のもと、医局団というところで教授の言うことだけを聞いてきた。そういう人たちが参入しているのだから、医者の人間性が歪むのは当たり前です。

なぜビール業界を選んだのか

僕も歪んでいたから、「何でもできる」と思ったんです。それで、ビジネスをやろうと。最初は何をしたらいいかわからないから、いろいろなことを考えました。

「これからウナギが高くなるから、ドジョウの養殖がいいかもしれない」と思ったり(笑)。池を作って養殖をやったのはいいんだけど、冬の間に全部鳥に食べられたりね。「靴磨きもいいかな」とか「何かないかな」と思って、いろいろやりました。

そんな中、ビールに出会ったんです。ビールを作ったことのある友人がいまして、その彼が、こっそり自宅のパーティで(自家製のビールを)出してくれた。これがすごくおいしいんですよね。これが2年間熟成させたシナモンの黒ビールで、今でも忘れません。めちゃくちゃおいしかったです。「これがビール!?」という(笑)。

その人が、ちょうどリーマンショックの時に職を失っちゃったんですよ。「それはおめでとう。俺とビール業をやれば儲かるから、一緒にやろう」と(笑)。それで、一緒にビール工場を始めようとしました。

私はそれまであまりビールについて知らなかったんですが、そこからいろいろ勉強しました。クラフトビールがブームですが、みなさんもあまりビールのことを知らないと思います。

日本ではビールというと、キリン、アサヒ、サッポロの苦いものを思い浮かべますよね。「とりあえず、まずはビール」の泡立つやつ。それがビールだと。でも実は、ビールというものは世界で一番種類の多いお酒なんです。ビールを作っていない国はないんです。

日本のビールが「ラガービール一辺倒」になった

ビールは多様性のお酒だということがわかった。じゃあ、なんで日本はどの会社も同じようなビールしか作っていないのか。これ、話したら長くなるんだけど(笑)。一言で言うと、森鴎外と乃木希典がドイツに留学するわけです。

森鴎外というと、留学という名目で遊びに行って、女を作って、帰国したらその女が追いかけてきて、それをあとで小説にした悪いやつでしょ? 悪いやつらしく、ビールが好きなんですよ。

彼がドイツに行って最初に書いた論文は、「ビールの利尿作用について」。それで、乃木希典とビールを飲み歩いている。その時にちょうどドイツがフランスに(戦争で)勝っちゃって、「これからはドイツの時代だ」と言って、ものすごく意気揚々としている。

だから、日本から来た森鷗外や乃木希典にも「俺らと一緒にやろう!」なんて言って、ビスマルクまで出てきて接待するわけですよ。その接待がまた「一気飲み」です。パーンと乾杯したビールを、倒れるまで飲む。「捧げ~! ビール!」「一気に飲め!」と言うんですよ。それを、軍隊もみんなやっていた。

乃木希典がそれに感動しちゃって、ビールを日本に取り入れたんですね。「イギリス人は英語のわからない俺たちを仲間外れにする。イギリスの紳士が黙って飲んでいるようなビールはダメだ。これからの日本はドイツとともにある。そのためにドイツのラガービールを作れ」と言う。

それで、日清戦争の賠償金をかなりつぎ込んで、ビール作りの施設を作ったんです。それ以来、日本のビールはラガービール一辺倒になったんですね。

日本のビールは、戦後も「富国強兵ビール」のまま

日本のビールは「富国強兵ビール」なんですよ。それがそのまま戦後も、サラリーマンが24時間働くためのビールになった。富国強兵ビールは変えなきゃダメじゃん。

世界で一番多様性があって、しかもその作業行程は分けることができる。もし今後、障害者に(ビール作りを)やってもらうとなれば、いろいろな作業工程がある。さらに小さい工場でも生産できて、その地域のものになれば消費量も増えてくる。

そして、私がそれに気づいた2008年は、日本のクラフトビールブームがどん底だった時期なんです。1994年に日本のクラフトビール作りが解禁されて、キリン、アサヒ、サントリーのような大量生産じゃなくてもビールが作れるようになった。それで、いろいろなところが第三セクターとして、街づくりの一環でやり始めたんです。

90年代を知っている人は、長野とか山のほうに建つテーマパークには必ずその土地のビールがついていたのを覚えているでしょう? 今はそのテーマパークのビール工場、全部廃墟になっていますね。(富士ガリバー王国の)ガリバー像がズドーンと倒れている頭のところがビール工場だったんです。

それはそうですよ。その頃の街づくりは、消費のことを考えていないから。テーマパークにはみんな車で来るんですが、当時はオヤジしかビールなんて飲まなかった時代です。そのオヤジは運転手だから、ビールを飲めないじゃないですか。

テーマパークから全国に商品を発送しようとしたって、「ガリバービールなんて誰も飲まねえよ」という。

バブル崩壊と共に去った、地ビールブーム

当時は第三セクターが「お前やれ」と言って、役所勤めだった人にいきなり職人をやらせるわけですよ。(そんなふうにして作られたビールが)おいしいわけないじゃん。

なので、日本の地ビールブームは「まずい」「高い」で、バブル崩壊とともにどんどん倒れた。私が知った2008年くらいにはどん底と言われていました。700くらいできていたビール工場が、200くらいになっちゃったわけです。

そこがまた「俺ってビジネスマン!?」なんですけど、「どん底なら上がるしかない」と思っちゃった。しかもお酒のブームで言えば、ワインブームが来て、川島なお美さんだけが残って去った。日本酒ブームが来て、小売りさんが足りなくて去った。ウイスキーブームが来て、高級すぎて去った。梅酒ブームが来て、とろすぎて去った……。

(会場笑)

そうしたらこれはもう、次はビールが来るに決まっているじゃないですか。このように、みんなを口説いてビールを作ったんですが、(製造)免許を取るのに2年かかりました。もうブームはどん底になっている。

京都は大阪国税局の所轄です。大阪の国税といったら、奈良と伏見ですよね。エリートコースです。エリートコースだから、自分たちの失点を作りたくない。だから、変なことを言っている医者にはなかなか取り合ってくれないんですよ。

しかもその医者は「ビールは家でも作れる。ラーメン屋の寸胴鍋で作れます」みたいなことを言っている(笑)。ガスコンロに寸胴鍋を乗せて、かき混ぜながら麦汁を煮れば十分できるんですよ。でも「そんなふうに作って衛生面はどうするんだ」とか、いろいろな文句をつけられて、2年間製造免許が取れなかったのよ。

2年がかりで酒類製造免許を取得

ところが、他の地方では小さいブリュワリーが少しずつできていたんですね。そういう人たちが応援してくれて、「他所の国税で通るものが、なんで京都ではあかんねん」と言ってくれた。それで、2年間かかってようやく(免許が)取れたんですね。その時に、いろいろな社会勉強をしたわけです。

そして、そうやって作った時に、協力してくれた全国の人たちも「ビールって障害者作業にすごくいいじゃん」と気づいたんです。だから応援してくれた人たちも、同時に障害者の作業所でやり始めました。

岡山に、心理士の方がやっている「吉備土手下麦酒」というのがあります。「自分が精神科病院から退院させた人を就労させたいから、なんとかビールを作りたい」という思いで、だいぶ前からやってきたみたいです。

もちろん、まだ障害者就労支援はできていなかったのだけど、倉敷にある岡山マインド「こころ」という施設と一緒に、ビール作りをしていました。ここは精神障害者のための施設やグループホームや就労支援をやっていて成功しているところです。そこも、ちょうど私たちと同時にビール作りを始めたんですね。

「施設で作る」というやり方で、僕たちと同じ2011年から創業していて、一緒にいろいろなことをやっています。「ビール、できるんだよなぁ」ということで、いろんな面で協力関係となりました。

それまでは大阪国税局が許さなかったから、京都や大阪には小さな地ビール工場はなかったんですよ。でも、私が小さなビール工場を作ったので、「できるんだ」ということで、同時にいろいろな人がやり始めた。

医者の給料のほとんどをビール作りに費やした

役所っておもしろいですよね。最初は一点突破するのに2年かかったのに、次からは3ヶ月でいけるんだ(笑)。悔しい。

(会場笑)

人を雇ってビールが作れる施設を2年待たせるなんて、ひどいよね。その間失業した友達にお金を払わなきゃいけない。医者で儲けた給料を、ほとんどこっちにポイですよ。それでずっと続けていました。

僕が作り始めた2011年から障害者の法律が変わって、それまでやっていた施設がビジネスをできるようになったんですね。だから、全国の障害者施設でビジネスをやるようになって、ビジネス感覚のある人は十分に成功できる時代が来たんです。

その頃ちょうど、京都で自閉症の方々の支援をしている人たちがいました。制度のない頃からがんばってやってきていたのですが、その中にビジネス感覚のある人がいて、「ビールならやれる」と。僕が小さなところでやれているので、「自分たちもやりたい」ということでした。

それで、こちらがいろいろビールのことを教えて、彼らが作り始めたのが「西陣麦酒」という自閉症の方たちの生活介護(事業所)です。

そこは経営的にはすごく成功しています。なんせ、門眞一郎さんという自閉症のことでは有名な医者がやり始めたから。彼はクラフトビールファンで、「高木がやっているのに、なんでワシがやれへんのや」と言ってやり始めたんです。

彼には全国にファンがいっぱいいるから、みんなそこで作ったビールを買うんですよ(笑)。最初から大成功です。そこのビールはだんだんおいしくなっていきましたね。そういうところと一緒にやれるようになりました。

倒産寸前で雇った人物が「天才的なブリュワー」だった

僕のほうは立ち上げたのはいいけれど、医者のビジネス「武士の商法」ですよ。「待ってりゃ来るだろう」みたいな。でね、ぜんぜん売れないわけです(笑)。

こちらはなかなか売れない。どうやって商売したらいいかわからないうちに、最初に一緒に始めた友人の醸造家が親の世話のために帰省しないといけないことになった。その時、僕は「もうこれでダメだ」と思いました。

もう4年間くらい、赤字を自分の給料からつぎ込んで(ビール製造を)やっていたんです。その時に気づいたのが、「俺、やっぱり医者だから病院のビジネスだけはできていたんだ」ということです(笑)。病院だからできていた。

医療というのは、なんという甘えた構造をしているんだと。医者の人が聞いていたら怒るかもしれないけど、失敗してもお金が入る。そんな環境で育って、ビジネスがうまくいくわけないんですよね。

最初の目的だった「障害者の雇用」や、いろんなビールのブレンドを作ったり、ラベル作りをする中で「障害者施設とつながっていくこと」も、ぜんぜんできずにいたんです。

「もうこれはしょうがないな。辞めようか」という時に、東京農業大学を卒業したばかりの、知り合いの息子さんが来てくれました。「自分もメンタルのことでいろいろ苦労したので、障害者のために何かしようとしているところに協力したい」と言ってくれて。

「うちはもう閉めるんだよ」と言うんだけど、「内定していた沖縄の泡盛の会社を蹴ってきましたから」と(笑)。「とほほ」で、こいつ雇わなきゃしょうがないし。でも、雇ったそいつが天才的なブリュワーでした。

ビール作りにのめり込むあまり、組織にガタつきが生じた

彼は農大の醸造学科の実験でちょっとビールを作っただけで、それまで本格的には作ったことがなかったんです。それなのに、ビールを1杯飲んで、匂いを嗅いで、「こういうのを作るんですか?」と言って、ちゃんと作ってくるんですよね。そういう才能がある。

またその頃、京都の北のほうで日本酒を作っていた会社が潰れました。そこでは「周山街道ビール」というビールも作っていて、これは昔からあるビールの中でもすごくおいしいと評判で、東京でも飲まれていたんです。その会社には、10年間ずっと同じビールしか作らせてもらえなかったビール職人がいました。

その会社が潰れた時に、それまでなかなか売れなかった私たちのビール工場にやってきた。そして「あんたのところみたいに、自分たちの作りたいと思うビールを思いきり作ってみたい」と。そういう方も来てくれて、引くに引けなくなっちゃったんです。

それで「どうしようか」という時ですね。私がビールにのめり込んだり、いろいろなことをやっているから、自分の足元組織がガタガタになっていたんです。これも、自分の人生のままならないところですね。