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#わたしたちの生存戦略 WE Launch Event DAY2 「社会システム」編(全9記事)

なぜ都会では「遅い人」にイライラするのか? YAMAP代表が語る、人が「助け合いモード」になる場の特徴

“社会課題の解決” という社会ニーズの市場化を加速することを目的とした、社会事業家の有志連合「WE」。このWE主催で、4日間にわたって行われたローンチイベント「#わたしたちの生存戦略」の2日目は、社会学者の宮台真司氏、デジタルガレージ共同創業者の藤穰一氏、立命館大学の小川さやか氏、そしてヤマップの代表・春山慶彦氏が登壇。社会彫刻家/Next Commons Labファウンダーの林篤志氏のモデレートのもと、日本語の変化とアニミズム的感性の関連性や、「同調圧力」が生まれる理由などが語られました。

日本語の変化とアニミズム的感性の関連性

小川さやか氏(以下、小川):カストロの多自然主義みたいな話は、最近確かに人類学でめっちゃパースペクティビズムとかも含めて流行ってまして。

アニミズム的感性という、文化は1つで自然は多種類で、いろんな世界が実はうごめいていて。その多種間の間にコモンズが排退したりとかっていう話があったっていうのは、確かに今の日本の人たちにちょっと「えっ」てなってるかもしれないなとは思うんですけど。

もう1つやっぱり日本のアニミズムと一緒に語っていいかわからないですけど、もう少し偶然的な変容みたいな、変身みたいなものがあったと思うんですよね。その可能性がすごく減退したから、硬直的でアニミズム的感性が失われたんじゃないかなというふうにも思っていて。

例えば、規範的、倫理的に取り締まるみたいなのがあんまり好きじゃないので(笑)、いっそのことインターネットはすべて声の文化に戻ったほうがいいんじゃないかみたいなエッセイを書いたんですけれども。日本語ってとりわけ主語がなくても、どんどん変身していける言語じゃないですか。「私は宮台さんが好き、ていうのは冗談、って言ったら悲しい?」みたいな感じで。

述語に応じて、私が何者かっていう私、宮台さんが好きな私、宮台さんが好きという冗談を言う私、宮台さんが好きという冗談を言ったら宮台さんが悲しむか知りたい私みたいな感じで、変身していけるような言語で。

それに応じてすごく変容可能なものだったと思うんです。その変容可能性みたいなものと、例えばキツネ憑きとかですね。何かが変わったり、豹変したりするっていうようなものも十全に受け入れられてたと思うんですけど、今なんかそういうのがなくて。

発した言葉とか行動そのものが、物のようにフェティッシュ化して固定化してしまうのが、なんかつまんない現象の一歩なんじゃないかって思っていて。

そういう意味ではすごく、身体性をもう1度埋め戻すっていうのは、メタバースやなんなり、インターネットの世界においてすごく重要だなって思います。答えになってないかもしれないですけど。

少数意見に圧をかける人が増えたワケ

林篤志氏(以下、林):そういう許容性が失われてしまったもの。実は今Discordの中にも、世間がなくなったっていうけど同調圧力めちゃくちゃ強いじゃんみたいなコメントもあったりするんですね。

今、さやかさんが言ってくださった許容性みたいなものがなくなってしまった要因ってなんだと思いますか。

宮台真司氏(以下、宮台):それは単純に言えば、文脈の共有がなくなったからですね。コンテクスト、テクストと共にあるもの、テクストの横にあるものを共有していれば、テクストは比較的どうでもいいんですよ。

しかし形式的に言えば、コンテクストの共有がなくなれば、テクストの同一性に固執するという神経症の症状が生まれるんですよね。

小川:そうですね。

宮台:今もすごい広がっているのが、現在だということです。例えば今コンテクストの共有に戻るということは、日本というマクロなレベルでは、はっきり言えば100パーセント不可能ですね。

それはさまざまな最近の事件を考えればわかると思うんですけども。なので、マイクロな民主政体、あるいは共同体自治、コミュニタリーミュニシパリズムが必要である理由が、コンテクストの共有から始める必要があるということなんですよね。

もちろんコンテクストにもいろんなレイヤーがあります。身体のレイヤーもあれば、身体と心のインターフェイスというレイヤーもあれば、心、あるいは意識のレイヤーもあります。いろんなレイヤーがあるんだけれども、コンテクストをたくさん共有していればしているほど人は寛容になるんですね。

:うん。

宮台:これは形式的な問題なので、疑いがないという意味です。

「同調圧力」を生むもの

:これ、一応確認なんですけど、ここで言ってるコンテクストは、必ずしもそのパーパスと同一ではないですよね。

宮台:パーパスは、コンテクストとは何の関係もないですよね。パーパスはまさにテクストそのものです。だから、あんまり言及する必要はないと思うんですけれども。例えば遊びって目的ないですよね。遊びはただ楽しいだけです。

遊びをする前に、まず目的を決めようというトンマはいませんよね。そこから考えれば、そのすべてがわかると思います。

:なんでそれをわざわざ聞いたかというと、これからその反システム化に対する対抗策として、マイクロコミュニティ、小さな共同体が生まれていった時に、結局その中で同調圧力が生まれるんじゃないのっていう、そういう指摘とコメントがけっこういろんなとこで散見されたので聞いたんですけど。

そういった意味ではマイクロコミュニティの中でのコンテクストが共有されているっていうことが重要であり、それが大前提であるということですね。

宮台:「森のようちえん」の実践を最近よくやってるんですけれど。そこで遊んでる子どもたちには同調圧力はまったくないんですね。むしろ分業が生じるんです。あるいはみんなでやってる時に、「じゃあ君はこれね」「僕はこれね」とやることによって、遊びが楽しくなるということがあるわけですね。

そこからわかることだけれども、遊びっていうのはコンサマトリーであるが故に、つまり自体的というか、self‐contentであるが故に、つまりパーパスがないが故に同調圧力がないんですね。

簡単に言うと、目的の共有から始まっている場合には「君の営みは目的に資するところがない」みたいな感じで、同調圧力が目的という起点をベースにして働いてしまうんですよね。

コミュニティと組織集団の違い

宮台:これは社会学で言うと戦間期の議論だけれど、コミュニティというのは目的がないんです。アソシエーション、組織集団というふうに訳したりもしますが、組織集団には目的があるんですね。

これは非常に重要な議論で、我々は目的がないコミュニティをベースにして、つまりホームベースにして、バトルフィールドとしてのアソシエーション(組織集団)に乗り出す。特にこれがアングロサクソンの考えなんですよね。あるいはアメリカ的な通念であると言ってもいいわけですけれども。

その意味で言うと、アソシエーション、目的を共有する集団が、我々の感情的な安全、エモーショナルセキュリティを支えてくれるホームベースになる可能性は基本的にないんです。

ただ19世紀の後半にマルクスはアソシエーション、つまり人為的に作った集団だけれど、それが感情の安全を保障するコミュニティになり得るのではないかということで、ある種労働組合を構成した。そうした発想はイギリスの協同組合の発想などに、すでに19世紀の初めに見られるんですよね。

我々のホームベースであるけど、たまたまそこに生まれ落ちたっていう偶然性に依存しすぎていて、その分自分で作ることが難しい。自分たちで作ることが難しいっていう。

しかしそれをなんとかしないと我々の未来は開けないんではないかっていう発想は、19世紀に出てきていて。それは我々にとって、あるいは林さんにとっても非常に重要。なぜかって言うと、もう日本には自生的なコミュニティって残っていないからですよね。

:そうですよね。だから高度経済成長の日本の、いわゆる日本型の大企業みたいなものっていうのはある種のアソシエーションでありコミュニティ的な機能を担っていたと僕は思ってるんですけど。

なぜ山では、「こんにちは」が自然に言えるのか?

:これは、春山さんにちょっと振りたいんだけど。YAMAPっていうベンチャーは、アソシテーションなんですか? もしくは、コミュニティ的な要素もあるんですか? 春山慶彦氏(以下、春山):さっきの流れで僕なりに振り返ると、アニミズム的って、小川さんが言ったように、僕もけっこう思考は日本語に引っ張られてると思っていて。

つまり主語がない言語は、ものすごく特徴的だと思ってるんですね。主語がない中で、僕らは文脈がわかる。これがコンテクストだと思っています。

そこに対しての「切実な場」があるかが極めて重要だと思っていて。こういう言語になったのはどうしてかと僕なりに考えると、やっぱり場とか風土とか。要は自然の変化が激しいので、無常観も含めてそっちのほうに重きがあるっていう文化形成をしてきたんじゃないかなと思っているんですけど。

戦後、災害が少なかったことも含めて、場がどんどん崩壊していって。それは自然環境もだし、世間もなくなっていってしまって。場がない中で、根がない葉っぱ同士でふわふわやっている。なんか生命力がないというか議論がかみ合わないという感じになっているのかなと思います。

自然に場を置いた時に、さっきの宮台さんの「森のようちえん」の話にもつながるんですけど、山に行くと未だにみんな挨拶するんですよ。まったく都会では挨拶しない人たちが山に行ったら挨拶をする。

あと、スピードも別にそれぞれのスピードで頂上を目指すことが何の違和感もないんですけど、都会でそれをやると、エスカレーターとかで歩いてるとイライラし始めるっていう。

これ、どういうことかって、やっぱ場の設定だと思っていて。自然を舞台にした時には人間ってそもそもが弱い存在なので「助け合おう」っていうデフォルトになる。これが僕は当たり前というか、地球環境の前提だと思うんですけど。都市化が進んでしまったが故に、そこの感覚が麻痺してしまったということだと思っています。

林さんが今言った質問で言うと、YAMAPは遊びのコミュニティなんですね。だからこうあらねばならないって、実はなくて。山を汚さないレベルで好き勝手に自分なりの楽しみ方をすればいいっていうか。

それは1人でもいいし集団でもいいし、子どもとでも親子でもいい。楽しむってことが今の時代において、すごく貴重な余白だと思っていて。自分で感じてどう楽しむかっていう。つまり出発点は自分にあるっていう。これが極めて貴重。逆に言うと、都会であまりにもそのスペースがなくなってしまったのが、もったいないなと思っています。

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