「最後を褒められても、途中を見ててくれなかったじゃん」

曽和利光氏(以下、曽和):さっきは「上司の問題」って言いましたけども、「大勢で取り組むと、一人ひとりのモチベーションは下がる」っていうこともあります。(スライドを指して)「お神輿」って書いてますが、お神輿を担ぐ時に手を抜いているやつって絶対にいるじゃないですか。全員ががんばってるんじゃなくて「あれ? ぜんぜん力入れなくてもいけるわ」って思ったら、手を添えてるだけみたいなこと。これを「フリーライダー現象」っていいます。

それでも集団の中で手を抜かずにがんばるためには「見ていてくれてる誰かがいる」とか「応援してくれている誰かがいる」みたいな。「自分のがんばりを適切に評価してくれるもの」があれば、こういった「社会的手抜き」はなくなることがわかっています。

さっきの「えんま帳」(メンバーの行動記録)は上司の話でしたけども、みんなから見られてるっていう話はすごく、モチベーションというか最終的な行動を促すということがわかってる、ということですね。

あと「フィードバック」。これも1on1のミーティングとかすごい流行ってますよね。月1回とか2週間に1回とか、いろいろなペースでキャリアの話をしたり。

そこで行われてるフィードバックって要は、今までの行動を見ていて「あなたにはこういうふうに思う。今度はこうしていこうね」みたいな話だと思います。じゃあフィードバックってパフォーマンスを高めるか? っていうと、これもいろいろあって。

ただ単にフィードバックすればいい、ということではなくて。「いいね」「ダメだね」とかではなくて、プロセスの途中で「順調だね」とか。結果じゃなくてプロセスの途中で応援していって、最後に「よくやったね。順調だったのを最後までやり切ったね」っていうふうに「プロセスに関わったものへの評価」みたいなことまで入れておかないとフィードバックの効果はわからない。

要は「最後を褒められても、途中を見ててくれなかったじゃん」みたいなことで「褒められたのにモチベーションが下がる」ということが、どうもあるらしいです。

“自分で選んだ感”がないと、反発したがる

曽和:次で最後ですけど「心理的リアクタンス」。これは「“自分で選んだ感”がなかったら、なんか反発したがる」という話なんです。結局、これを評価の話で考えると「みんなが誰を評価するのか?」っていう事実ですね。

「どういう人たちが評価されるか?」がわかる、そこに自分が投票している。民主主義みたいな話かもしれませんけど、そうやって「自分も1票を持っていて、いろんな人に投票できる」「みんなが同じような関係になっていて、そういう権利を持っている」という時に「この人は評価されている、それを会社もきちんと追認する」みたいな。

これだと“自分で選んだ感”があるんですけど、上から下りてきた評価だけで問題ないか? というと、この心理的リアクタンスみたいなのがあって。「上から選んだ評価? まあ、上はそう思ってるんですね」みたいな感じで、ちょっとふてくされたりしてしまう効果があるということです。

けっこういろいろ言いましたけど、評価には上司の問題もあれば、こういう目標達成の問題とかフィードバックにも、いろんなバイアスがそれぞれに含まれていて。もう一筋縄ではいかないし「1個なんかをやればいい」というわけでもないというのが、おわかりいただけたんじゃないかなと思います。

バイアスについて学んでも「効果はない」という残念な事実

曽和:(スライドを指して)最も残念な話っていうのは、今お話ししたような「バイアス理論」について。これは評価に関してですけども、他にもいっぱい、さっきの伊達(洋駆)さんとの本『組織論と行動科学から見た 人と組織のマネジメントバイアス』とかにも入れてます。

残念は話はですね「そういうのを学んでも効果はない」っていう研究です。こんな科学的な知識とか今日の話って、すべてエビデンス・研究があるってことなんです。こういうのを知っても、バイアスは低減しないんですよ。「経験者ほど偏見が多い」っていって、次の面接ではめっちゃ偏見だらけの評価を出してる、みたいなことをしちゃうんですよね。

ですから結局、なんらかのファクトを持って、その自分の中のバイアスを思い知らせることが……思い知らせるってちょっと強い言葉すぎるかもしれませんけど、それが大事でですね。

例えば、評価者訓練をするにしても「この人をどう評価するか?」っていうのを、みんなですり合わせせずにポンッと出してみて。それで「自分だけが少数派だった」みたいな経験を研修とかですると、やっぱりインパクトがあるんですよね。「みんなこの人を評価してるのに、俺は違う。あれ? 俺ってもしかしてバイアス持ってる?」みたいな。

こういう心理的インパクトみたいなものがない限り、理論だけ学んでも「俺は違うけど」っていうのが最後につくんですよ。「経験者は偏見を持ってる。まあ俺は違うけどね」みたいな(笑)。だから、学んだからといって効果ないってことだと思うんですけど。

それをいかに人事の方は、会社の権力者の方々の偏見をいかに取り除くか? これがまさに“評価のコア”なんじゃないかなと考えています。今日はバイアスと評価の関係について、最初の“刺激材料”としてお話させていただきました。どうもご清聴ありがとうございました。

米国の人事担当者は、心理学で博士号まで取ってる人も多い

斉藤知明氏(以下、斉藤):曽和さんありがとうございました。ではディスカッションに入っていきたいと思います。

斉藤:僕、(スライドを指して)この中でも最初の「正しい理論が浸透した上で持論がある状態がすばらしい」っていうのが、すごく刺さったなと思っていまして。今までってけっこう、持論だけでやってる状態がどうしても多くなってくるし、私自身も「経営者として即断即決タイプですよ」って言ってたら、まさに揶揄されて(笑)。

曽和:そう言ってる自分も即決タイプなんで、天につばを吐くような話なんですけどね(笑)。何も考えずに、パッと思ったらやっちゃうんで。

これ、別に「アメリカがいい」ってわけじゃないんですけども、アメリカとかで人事やってる人は、例えば心理学を必ず勉強しててPh.D.(博士号)まで取ってる、みたいな人がけっこういると。

『採用学』の服部(泰宏)先生の書かれてた文章とかでも「衝撃的だった」みたいな感じで。民間企業の人事担当者がアメリカに行った時に、最新の論文を見せられて「あなたはこれどう思うんだ?」みたいなことを言われて「うわ、日本とぜんぜん違う」と思った、みたいな話があったっていうぐらい。

さすがアメリカはそこらへんすごいなと思うのは、ちゃんと勉強してるんですよね。でも「論文ばっかり読んでれば、いい人事ができるのか?」っていったら、そうでもないと思うので。伊達さんとかのような人から、いろいろインプットを受ければいいと思います。

やっぱり人の人生をあずかる以上は「とりあえず、理論はどうなってる?」っていうのはわかった上で「でもうちは特別だから、こういうのがある」っていうのもありだと思うんですよね。

斉藤:まさにチャットでも「守破離の守で、そのあと破離があって然るべしだよね」っていうコメントもいただいていました。曽和さんご自身がセオリーを学ぼうと思ったきっかけというか。「ちゃんと落とし込まないといけないな」と思うようになった、なにか痛い目をみた経験とかってあったりされるんですか?

曽和:どちらかというと、今から言うとお笑い種なんですけど、僕は学者志望だったんで。むしろ、それを挫折したというか。今、自分は50才ですから、自分でセオリーを発見する研究はやる気がなくて。やる気ないってのは、誰かに発見してほしいなと思ってるんですよ(笑)。伊達さんとかそういう若い方に。

それを教えてもらうことによって、僕は実践家で、実際の問題を解決するというのが仕事なので。セオリー自体は、やっぱり学者とか研究者とかがやってくれる。そこをキャッチアップしとけばいいかな、と思ってるんですけど。

でも、もともとはセオリーから入った人間ですね。で、実践の荒波にさらされて、今に至るっていう。ちょっと流れとしては特殊かもしれないんですけど、もともと大事だと思ってました。

ただ「その現場のいろんな制約条件を無視して、そんな一般論が常に通じるわけではない」と、逆にわかってったっていうタイプですね。

「同質」が大事なステージ・「異質」が大事なステージ

斉藤:プレゼンテーションの中で、いろんなセオリーをご紹介いただきましたが「成果を出すのが組織」という考えを前提とした時に、この「類似性効果」のスライドを拝見して。「異質」が「補完」している状態が、長期的生産性が一番向上するんだ、と。これはすごく納得感が高かったんですね。

ここを意識すると、本質的には同質な人だけを評価してはいけなくて。異質だけれども補完関係にある人をちゃんと評価して、そういう集団を作っていかねばならないんだと、頭ではスッとわかるんですよ。

曽和:これ、理屈はわかりますよね。僕もそうだと思うんですけど、異質な人って基本的に最初はわかり合えないし、なんなら感情の面でいうと嫌だったりムカついたりするんですよね(笑)。

おもしろいなと思うのは、世の中にあるドラマって「異質補完の関係にある人が相互理解を深めていく」っていうストーリーになってることが、ほとんどなんですね。特に恋愛モノなんか完全にそんな感じ。

でも(実際に相互理解を深めていくには)半年とか1年とかかかるらしいんですよね。その半年間ぐらい、ずっと「こいつなんか鼻につくな」みたいな状況。それは同僚でも上司・部下の間でも。それを、さっきの「過度の一般化」じゃないですけども「見切りをつけてしまわない」っていう話で。

「積極的判断を保留」みたいなことができるのかどうか? っていうのは、すごい大事だと思います。人を決めつけちゃいますからね。

斉藤:これを拝見した時に、いわゆる「大量生産・大量消費の時代」って、同質な人の集団こそが一番動きが早くて。「右向け右」で右に向いてくれるし、1回走った時のベクトルが揃うので、成果が出やすかった。だから「そういう人を重用してきた今までの経営が成功してきた」っていう経験を、日本は持ってるのかな? と解釈しました。

曽和:そのとおりだと思います。でも実は、高度長期とかだけではなくて、ベンチャー企業とかで勝ちパターンが決まっていて。「アクセル踏むぞ!」って時も、やっぱり「同質」が楽なんですよね。

私が入った頃のオープンハウスとかはたぶんそうで。「もう、この勝ちパターンで!」という感じで、不動産なのでけっこう勝ちパターンはわかりやすいかもしれないんですけど。それが決まったら、もう“鉄の集団”というか“一枚岩”みたいなものを作って、アクセルをガーンと踏むと。

そういう会社なんて、伸びがすごいですよね。逆に多様性なんてあまりないほうが、そういう状態の時はいいわけですよね。ただ「ずっとそれでいけるか?」っていうと、そういうわけにはいかない。企業というのは「成長して停滞して、変革して成長して」みたいなことの繰り返しでいくわけですよね。

なので、いつまでもそう(同質だけの集まり)ではいけない。それがやたら長かったのが高度成長期っていう感じかなと思うんですね。今でも同質が大事なステージっていうのはあると思うんですよ。

斉藤:そこが変わるタイミングこそが、ある意味、評価制度が必要になってくるタイミングだったりもするんですかね?

曽和:そうだと思います。

一人の人間がマネジメントできる範囲は「6〜7人」

斉藤:「評価制度がいらないタイミングもあるんじゃないか?」ないしは今、評価制度の一部になると思いますが「目標管理がいらない」っていう組織も出てきた。

これって今のお話を聞いていると「最初、評価制度はいらなかった」。ただ、ある状態から「評価制度が求められてくるだろう」というタイミングがあって、さらにそれを突き詰めていった先に「目標管理がなくなってくる」という、3段階ぐらいあるのかな? と思ったんです。

曽和さんの中で、評価制度はどのタイミングから必要になってくると思いますか? 

曽和:評価制度がまずマストになってくるところっていうのは、結局のところ「人間の認知限界」というのがベースにあって。例えば、社長である斉藤さんが見えてる範囲ってありますよね。で、人が増えると見えなくなる。

よく「マネジメント・スパン・オブ・コントロール」みたいな感じで言うんですけど。要は「統制できる、マネジメントできる範囲って何人ぐらいだ」みたいな研究です。(マネジメントできる範囲は)だいたい6、7人なんですよ。人の能力にもよると思うんですけど。

例えば、10人とか20人になってくると、見えてるつもりでも実際は見えていない。そうすると、2つのチームに分けて1人誰か(マネージャーを)置いて、権限移譲して評価させるわけですよね。そういう時に、斉藤さんが思うような評価を任せた2人(のマネージャー)がやってくれるかどうか? って、わからないですよね。

だから、権限移譲の裏に制度がある。完全に自由にさせるわけにはいかないんで、「じゃあこの制度」っていうのを一応作っておけば、斉藤さんが思っている評価を擬似的にはしてくれるんじゃないかなっていう。そこがだから、タイミングなんですよね。

例えば、単純計算して「6人しか見られない」んだったら、人が増えていくと管理職を作らなきゃいけないわけなので。36人ぐらいになってそれを超えていくと、今度は2段階とかになってくるわけですね。6掛ける6の「36」で。

となってくると、さらに見えなくなるんで「そろそろ制度を入れないと目が届かなくて、変な評価がされちゃってるぞ」と。例えば、会社としてはこういう評価をしてほしいのに、さっきみたいないろんなバイアスが強くて。

「制度を作って明文律を作っておかないと、不文律に左右される」って話をしたと思うんですけど。明文律って制度のことですね。明文化された律・法律を作っておかないと、不文律が跋扈してくるわけですよ。その不文律っていうのが、今日ずっと言ったバイアスなわけですね。

それに支配されていくので「じゃあもう明文律をきちっと作っておかないといけないよね」と。もちろん明文律を作ることのデメリットもあるわけなんですけども、そうしないと、もう不文律の天下になるわけです。

斉藤:複数人で一定の規律に従って「会社にとって重要な人とは?」というものを定義しなければならないタイミングが、まさに制度が必要になってくるタイミングということなのかなと。

曽和:だと思いますね。なので「小っちゃいからいらない」「大きからいる」ってことでもなかったりするというか。例えばオープンハウスに僕が入った時って、​社員が500人居たんですけど厳密な制度はなかったんですよ。社長がきちんと個々人を見て中心になって500人全員の給料を決めてたので。

ただそこは、荒井(正昭)社長はすごい馬力のある方で、一人ひとりをすごく知っている。だから(評価を)つけられたほうも「確かにそのとおりです」っていう、納得感を持ってたからできたのかなとは思うんですけど。まあ、でもそこは特例でしょうね。