イケてるベンチャー企業の経営陣は、どのような20代を過ごしたか?

田中章雄氏(以下、田中):よろしくお願いします。インフィニティ・ベンチャーズの田中です。

今回は「挑戦する人生」というタイトルなのですが、朝の最初のセッションでは、若手の、今イケイケのベンチャーの経営者の皆さんにお会いいただきましたが、今度はすでに成功している大先輩。こちら3名の方々に登壇いただきます。たくさん大きなビジネスをつくってきた中で、チャレンジに遭遇してきたりなど、そういうスケールの話も聞けるかなとは思うんですが。

まずそんな大きなことをやる前に、ここにいるメンバー、僕も含めて平均年齢40代半ばなんですが、でも20歳の頃があったはずですね(笑)。過去の記憶を振り返っていただき、皆さんと同じ20代前半の頃に、皆がどんなことを考えていて、どういうことを悩んでいたのか……というところからスタートしたいと思います。

登壇する順番ですが、端に座ると最初に回ってくるんじゃないか、ということで、千葉さんが逃げて真ん中に座っているのを見て(笑)、その逃げている千葉さんからお願いしたいと思います。千葉さん、学生時代はありましたか?

千葉功太郎氏(以下、千葉):はい。

田中:その頃の記憶はまだありますか?

千葉:うっすらと。

田中:ではそのうっすらとした部分を拡大して、皆さんと共有していただければと思います。

千葉:はい。皆さん初めまして。よろしくお願いします。

千葉:コロプラの副社長をしている千葉と申します。はい、学生時代ありました。同じ慶応なのですが、残念ながら日吉ではなく、藤沢のSFCのほうに97年に入学しました。SFCは当時できたばかりで、93年にできたので4期生でした。まだキャンパスに道路ができていなくて、建築途中のビルがたくさん建っているなかで入って、まだ卒業生が1人も出ていない。

そんな学校に入って一体就職どうするんだよ? みたいな空気感の中で入ったのが学生時代です。

田中:ちなみにSFCって、他の慶応のキャンパスは違う雰囲気なんですか?

千葉:慶応の人はよくわかると思うのですが、全く別世界だし、こちら(日吉)からは多分嫌われている(笑)。別物で扱われており、異端児。入学式と卒業式しか来ていない日吉、という全然懐かしくないキャンパスです。

田舎だったからインターネットに集中できた

田中:では、その異端児の学生の集まりだった場所で何をしていたんですか?

千葉:ずっと勉強していました。SFCは勉強する学校でした。クソ田舎で何もないんですよ、周りに。遊びに行く場所もないし、男女が1対1くらいの素敵な比率だったので、自給自足でキャンパス内で勉強し、遊び、これが成立している非常にのどかな空間でした。そこにインターネットのふりかけがかかってきて、村井純先生(慶応大学・環境情報学部長)が「インターネットだ」と。

授業が面白かったです。大学1年生の時に、村井先生からインターネットプロバイダーをつくるワークをさせられて、シスコのルーターがいくらだとか事業計画をつくれ、と。それが面白くて。それが1年生の時で、すごく衝撃的でした。

当時「ベッコアメ(日本国内で最も早くサービスを始めた個人・小規模顧客向け商用インターネットプロバイダ)」が出始めたときに、あ、わからないですよね。インターネットプロバイダーを学生がつくったらどうなるか、というところから授業のアプローチで。よくわからない機器を調べて、学生全員がシスコ(システムズ)に連絡する、という迷惑な状態になったりですね(笑)。

学生全員がサン(・マイクロシステムズ)に連絡をして、「サーバーいくらですか?」って聞いたりとか(笑)。でも「村井先生の授業なんです」と言うと、企業の方がやさしく対応してくれたりとか(笑)。そういうハイパーな学生時代でした。女の子もたくさんいたので、女の子とのコミュニケーションも全部校内のインターネットのチャットで、ログインシステムがあって。

田中:チャットで女の子とコミュニケーションするのは、今も昔も変わらないですね。

千葉:そうです。変わらないのですが、その先駆けで。しかも学内LANなので、今みたいにログインは常時接続していない文化だったので、学内のどこかの端末にアクセスした瞬間に、そのお気に入りの子がピッとフラグで立つプログラムを皆で開発して共有したりですね(笑)。

すると、「何々ちゃんがあの何とかの部屋でログインした!」というのがわかり、ふらっと行って、「あ、こんにちは!」みたいな(笑)。そういうリア充なんだか非リアなのだか、まったくわからない学生生活がSFCの1993年から94年ですね。

田中:チェックインの機能がなかった時に、そういうものをつくっていたわけですね(笑)。

千葉:皆でやっていました。テクノロジーはそのために進化するということを実感した(笑)。

田中:ちなみに当時、悩んでいたことはありますか?

千葉:あまりなかったですね。楽しくやっていました。

田中:楽しくて悩めなかった?

千葉:なんだか忙しかったですね。色々仕事もやっていたし、勉強と仕事をずっと忙しくやっていました。

熊谷氏、新ドメイン「.tokyo」をアピール

田中:では、楽しい学生生活から浮いていた感じの千葉さんの話を聞いたので、熊谷さんから、逆説パターンである若い頃の話をぜひお聞かせいただければと思います。

熊谷正寿氏(以下、熊谷):GMOインターネットグループの代表の熊谷です。今回はパンフレットにも載せていただきました。ありがとうございます。皆さん今日はよろしくお願いします。

田中:ちなみに熊谷さん、始める前に、今日はいつもと違うTシャツを着ているんですがこれはなんですか?

熊谷:ありがとうございます。

これは今日ちょうどAKBのCMを収録しているのですが、7月の中旬から大プロモーションをする、新しいドメイン「.tokyo」でございます。今は優先登録機関でちょっと高いのですが、7月の中旬から年間920円です。皆さんが提供する新しいサービスにはぜひ「.tokyo」をお使いください。.com、 .net、 .jpと違って新しくスタートするから、いいドメインがいっぱい空いているからね。ぜひ「お名前.com」で検索してみてください。宣伝時間ありがとうございました。もう十分です(笑)。

田中:ちなみに、今このタイミングで「.tokyo」が出てきた背景は?

熊谷:やはり.com、.netのドメインの文字列が不足してきていて、それをICANNという海外の管理団体が問題視していて、世界中に新しいドメインを誕生させて、もっと短くてわかりやすいインターネットにしようという流れなんです。

田中:オリンピック前に東京というブランドを売り込む、これもビジョンの中にあるのでしょうか?

熊谷:それはありますね。オリンピックのスポンサーをやらせていただきたいと思っていまして。次のオリンピックは、「olympic.tokyo」でぜひウェブをスタートしたいと思っています。

田中:皆さんも東京にブランディングが関連するようなサービスをつくろう、という人達もいると思います。ぜひ「.tokyo」も920円なのでお小遣いで試してみていただければと思います。では……。

熊谷:宣伝ありがとうございます。

高校中退から売上1000億円超、GMOグループを立ち上げた

田中:宣伝タイムはこれで終わりにして(笑)、本題。20歳の頃のお話を聞かせていただければと思います。

熊谷:はい。まさに真逆で、僕は高校2年で中退しておりまして、学生時代はありませんでした。通信制の放送大学というところで勉強していましたけれども、皆さんと同じようないわゆる通常の大学生の時間は僕にはなかったですね。当時は朝から晩まで、父親が事業をやっていたものですから、そこの手伝いをして働いていました。

僕は20歳で結婚をしていて、子供が21歳でできています。娘は今29歳です。皆さんと同じ年の頃は、仕事をする社会人、家庭人、父親、あとは放送大学で勉強する通信制の学生、という通常とは違う20代の前半でした。

今、我々のグループがどうなっているかというと、会社の数は80社以上。上場企業が6社ありまして、東証一部が2社、あとはジャスダックとマザーズ合わせて6社の上場企業があります。80社以上のグループ会社があり、売上高が1千億円。利益が今年の見通しが大体125億円くらいの利益を出すようになっています。

僕は、皆さんと比べて、学もない、ゼロから自分の資本でスタートしています。お金もないし、学もないし、人脈もないような僕でも、周りの人に何を言われようとも夢を持って毎日コツコツと。僕は20歳の頃からこういう今のようなグループ企業をつくりたいと思っていて今日に至っていますが。

たくさん人に夢を話したけれども、大半の人からは「お前なんかにできるわけがないよ」とか、「やれるもんならやってみろ」とか、そんな風に言われ続けてきました。コツコツ夢を諦めずに、毎日淡々と苦労をしていると、僕みたいな人でもこういう企業グループをつくることができる、事業がつくれる。社会にちょびっとでも影響することができるようになる。

今皆さんがやるべきことは、大きな夢を持つ。一足飛びでそこには行けないから、それを細分化してコツコツコツコツと、人に何を言われようとも自分の気持ちを変えずにやることが、僕らのようになれる最大のポイントだと思います。

田中:今と同じような質問を20歳の頃の熊谷さんに聞いたら、何と言うと思います?

熊谷:僕は20歳くらいから自分で絶対にやってやろうと思っていたので、自分はできます、必ずやります、という風に言っていたと思います。

時給650円の皿洗いバイトをやっていた、LINE・森川社長

田中:ありがとうございます。対照的だと思うのですが、こっちは20歳の頃から成功する、夢を持ってやっていた。遊んでいた千葉さんと対照的なシーンが描かれていると思うのですが、森川さんはどういう学生時代、20歳の頃は何をしていましたか?

森川亮氏(以下、森川):そうですね。僕は大学が筑波大学で、情報工学を専攻していました。

田中:ちょっと千葉さんに近いですね。

森川:そうですね。実は恥ずかしながら、情報工学に入るまでパソコンをほとんど触ったことがなかったんです。

田中:パソコン触ったことがなくても入れたんですか?(笑)

森川:これからはコンピュータの時代が来るだろうと思っていたのですが、触ったことがほとんどなくて、初めての授業に行った時に愕然とした。いわゆるオタクと呼ばれる方々に囲まれて、最初から挫折をしてしまった、というのが僕のスタートでした。当時まだインターネットがなくて、最初の授業は何だったかというと、アセンブラーをいきなり始めたんですね。

田中:それは何年の頃ですか?

森川:84年ですかね。コンピューターの最初から勉強した。アセンブラーをやって、アセンブラーでプログラムをつくるということをやっていました。イチゼロ世界で、ちょっとしたものをつくるのも、ものすごく大変なんですよ。皆さんはアセンブラーは使ったことないですよね? そういう組み込み系プログラムをやって、僕挫折しまして。大学に行かなくなりました。

音楽をずっとやっていて、ジャズを毎日やっていました。学校に行かず、毎日スタジオに通う生活でした。

田中:ジャズは楽器は何をやっていたんですか?

森川:ドラムをやっていました。音楽で食べていくのはなかなか難しい。学生の時は、かなりいいところまで音楽で稼いでいたのですが、今後それでどうなるか、という不安をいつも抱えていました。

田中:ちなみに大学生でジャズバンドのドラマーをやっているとモテるんですか?

森川:ちなみに筑波は女性がほとんどいない学校でして、99%男性という、恵まれた環境でした(笑)。

一同:(笑)。

田中:その頃、森川さんが悩んでいたことは?

森川:筑波は何もなくて、女性もいないしアルバイトもないんですよ。最初のアルバイトはシェイキーズの店員でした。その後ラーメン屋も蕎麦屋もやりました。皿洗い、自給650円(笑)。

今振り返ると、「何もないからこそ自分でやらなくてはいけない」という、考える力は持っていたと思います。何か生み出さなくてはいけない。東京ってなんでもあるから、選択肢もあるし。「選ぶ人生」と「つくる人生」は大きく違うと思います。例えば起業はつくる人生じゃないですか? 就職は選ぶ人生ですよね? そういうことを考えた20代だったと思います。