人食いバクテリアに感染した経験

エイミー・コープランド氏:みなさん、ありがとうございます。本日こちらにお招きいただいたことは、大変な名誉です。

2016年卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。みなさんを誇りに思います。地元出身の方のなかには、2012年5月のニュースで、人食いバクテリアに体を侵食された者として、私をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

また、私がつらい時にグウィネット郡のみなさんが団結して支援してくださったこと、回復の見込みは極めて薄いとされたにもかかわらず、運命の手により生き永らえることができたことをご存知の方もいらっしゃることでしょう。

私をご存知ない方のために、最初からお話しをさせていただきます。

2012年5月、私はウエスト・ジョージア大学の卒業試験を終わらせたばかりでした。ウエスト・ジョージアでは、私は3つのアルバイトをかけ持ちしていました。

その朝、私は地元の朝食レストランの「サニーサイドカフェ」で、ウェイトレスのシフトをこなし、同僚のウェイトレスに招かれて、裏に川の流れる彼女の自宅に遊びに行きました。彼女はうさぎや小鳥のヒナを飼っていて、私には断る理由はありませんでした。

その日は、ちょうど今日のように、よく晴れた、あたたかくて風の強い日で、私たちは家の裏にある川で水遊びをしました。やがて私たちは、古い自家製の、ジップラインというロープを使った遊具を見つけました。みなさんはどうだかわかりませんが、私は南部の育ちなので、ロープのブランコや梯子がついた樹があると、問答無用で飛びつくのです(笑)。

私たちは順番にジップラインで遊びました。さて、2度目にジップラインで滑り下りた時に、私は世にも恐ろしい音を聞きました。1つ目は、ロープが切れる音、2つ目は、私が下の尖った岩に激突する音でした。見ると、私の脚は、今まで見たことがないほどのひどい怪我をしていました。その時はわかっていませんでしたが、私の脚は、恐ろしいバクテリアに感染していたのです。

死の瀬戸際から奇跡の復活

それは壊死性筋膜炎でした。私の左足は、急激に壊死していったのです。診断が下るまでに3日かかりました。

私はオーガスタのドクターズ病院にヘリで救急搬送されました。私の左脚は腰から胴体にかけて大きく切断され、両手と右脚もまた、後日に切断されました。私の内臓は機能停止しつつあり、ストレッチャーから手術台に移され、両親は医師から、「お嬢さんは今夜はとてももたないだろう」と告げられました。両親が「なにかできることはないか」と尋ねると、「祈るほかありません」という衝撃的な答えが返ってきたのです。その晩、両親は私のために祈って過ごしました。

私の在籍していた心理学部のみんなは、私が病院のベッドで死の瀬戸際にある間、一晩中祈りを捧げてくれました。その晩、私の乳酸量は、生存可能域の2倍にまで上昇しました。

私の回復を描写する医師の言葉は「驚愕すべき」「唖然とするような」「すばらしい」「信じがたい」などでした。

しかし私はこの間、ずっとなにが起こっているのかがわからずにいました。薬により朦朧としていて、始終ここはどこか、なぜ私はここにいるのかと尋ねていました。

2012年の夏を、このように過ごすのは、私の夏の休暇の計画にはありませんでしたが、この人生の旅路のおかげで私は、自分自身について、ほかの人々について、またこの世界について、多くを学びました。

今日、みなさんが、ご自身の人生において新たな一章を刻むにあたり、ここGGC(ジョージアグウィネット大学の略)でみなさんが受けたすばらしい教育をもとに、みなさんが勇気と尊厳、そして喜びをもって今後の人生を生きていくために、そのいくつかをおすそわけしようと思います。

思いやりは相手と自分を癒す

今日までで私が学んだことのなかでももっとも大切なことは、「思いやりは人を癒す」ということです。気にかける相手だけでなく、自分自身も癒します。これは、この場にいらっしゃっている、私の担当看護師のみなさんも、よくご存知のことでしょう。

(会場歓声)

ほかの人を手助けすると、人生の多くのことは実は些末であり、それほど重要ではないことに気づかされます。自分がどんな状況であっても、それよりもさらに悪い状況がまだ存在するのです。生きていれば、もっと悪い状況がありえます。私は、これをリハビリに通っていたシェパードセンターで学びました。

切断手術対象者の専門病院ではなく、なぜ脊髄損傷対象者のシェパードセンターに通院しているのか、大勢の人に聞かれました。しかし、私はそこに通って本当によかったと思っています。もし私が、切断手術者の病院に行っていたら、四肢切断者のなかで、一番状態が悪い患者であったことでしょう。切断者の世界では「紙で切っただけ」と言われるような、ひざ下の片足切除だけの人もいるのですから。

(会場笑)

しかしその一方で、脊髄損傷者の病院へ行くと、私の両隣は四肢麻痺の患者でした。2人とも、首の下からは、まったく動かすことができなかったのです。

そのおかげで私は、速やかに、自分がいかに幸運であるかを知り、根本的なことについて、感謝することがました。

また、FODAC、成人・児童身体障害者と友の会(注:Friends and Disabled Adults and Children)のような団体のために活動することにより、私の人生はいかにすばらしいか、どんなに恵まれているかを知ることができました。

とくに、FODACの子供たちは私の胸を打ちました。24歳までごく普通の人生を送ってきた私は、スケートに行けない、誕生日パーティに行けない、校庭で遊べない子供のことを考えたことすらありませんでした。

この経験は、私を敬虔な気持ちにさせてくれました。そして、同じような状況にあって苦労している人々に恩返しをしたいと考えるようになりました。

私たちは、みな困難に直面します。私にとって、このことはすぐそばにあったのでわかりやすかったのですが、客席のなかにも苦労している最中の方が大勢いらっしゃると思います。共にがんばることで、私たちはお互いに変化をもたらすことができます。

たいていのことは強く望めば実現できると学んだ

次に私が学んだことは、もっと実用的なことです。「Where there's a will, there's a way(意志があれば道は開ける)」ということわざを聞いたことがあるでしょう。私は、これが真実であることを発見しました。

私が病院にいたころは、決してできないであろうと考えていたこと、帰宅し、一人暮らしをして、電話線を差し、料理をし、壁に頭を持たせかけて、足を上げるなど、本当にやりたいと思ったことは、どんなに手間がかかっても、たいていはできることがわかりました。

みなさんの目標がどうであれ、それはみなさんにとっても同じであると言うことができます。人生においてどのような困難にぶち当たっても、成し遂げたいと強く望めば、なんとか実現できるものです。

もしうまく実現できなかったとしたら、それはきっとみなさんが十分に強く望まなかったということでしょう。とは言えど、私にはいまだに、洗濯をどうやったらよいか、うまい方法が思いつけないでいるのですが……。

(会場笑)

私の人生においては、私にはこれができるだろう、あるいはできないだろうなどと、ほかの人が説得を試みたことが何度かありました。

今、私はほかの人に「それはできないだろう」と言われることを楽しんでいます。なぜなら、私は「では挑戦してみましょう」と答え、彼らが間違っていることを証明することを、自分のなかの目標としているからです。

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