ゲノム解析ベンチャーの創業者・高橋祥子氏が登壇

入山章栄氏(以下、入山):今週はお客さまにジーンクエスト取締役ファウンダーの高橋祥子さん、森清顕さんをお迎えしました。高橋さん、森さん、どうぞよろしくお願いします。

高橋祥子氏(以下、高橋):よろしくお願いします。

森清顕氏(以下、森):よろしくお願いいたします。

田ケ原恵美氏(以下、田ケ原):高橋さんのプロフィールです。京都大学を卒業され、2013年、東京大学大学院在学中にジーンクエストを起業。個人向けに疾患リスクや体質などに関する遺伝子情報を伝える、ゲノム解析サービスをスタートされました。今年4月には代表取締役社長を退任し、取締役ファウンダーに就任されています。

また、これまでの活動も高く評価され、東京大学大学院農学生命科学研究科長賞、経済産業省第2回日本ベンチャー大賞、経済産業大臣賞などに選ばれ、各方面で注目を集めています。また、NewsPicksパブリッシングから出版されたご著書、『生命科学的思考』も好評発売中です。

入山:あらためて、高橋さんが今までどういうことをやられてきて、ジーンクエストがどういう会社かというのを教えていただけますか?

高橋:簡単に言うと、人の遺伝子を解析する仕事をやっています。みなさん遺伝子情報を持っているんですけど、一人ひとり違うんですよね。その違う部分を解析することで、どういう病気のリスクがあるかや、どういった体質の傾向があるかを解き明かしてお知らせするという、個人向けのサービスを提供しています。

あとはそこで解析されたゲノムデータをデータベース化して、製薬企業さんや大学、国の研究機関と一緒に共同研究をして、この遺伝子は何に関わっているのかというのを解き明かしていくようなこともやっています。なので、事業を進めながら研究も進めるという、両輪をやっている会社ですね。

入山:おもしろいですね、ご自身が研究をやりながら事業もやっているという。

高橋:そうですね。

医者になるか、医者以外になるかという二択

入山:高橋さんは、なぜ遺伝子にご関心があったんですか?

高橋:もともとは私の家族は医者が多かったんですよ。それで進路を考える時にまず、医者になるか、医者以外になるかという二択から考え始めたんですね(笑)。

(一同笑)

高校生ぐらいの時に、1つ上の姉と一緒に父親の病院に見学に行きました。初めて大きな病院に行ったんですけど、その空間の中は患者さんだらけで、みんな病気なんですよ。

みんなが病気という異様な世界を目の当たりにして、それを治療するということもすばらしい仕事ですけど、そもそもなんで病気になるのかとか、なる前になんとかできないのかなという病気の予防とか、もう少し幅広い視点で関わりたいと思って、生命科学の研究員のほうにいったんですね。ゲノムはその中の根本の情報なので、ゲノムからスタートしたというところですね。

入山:ジーンクエストでは、さまざまな個人のいわゆるゲノム解析をして、「あなたはこういうタイプですよ」みたいなことを分析されて、それが1個の大きな事業になっているという。

高橋:そうですね。

入山:ということで、実はうちの番組スタッフの、遺伝子情報をジーンクエストさんに分析してもらったんですよね、

高橋:わざわざやっていただいたんですか?

入山:今我々の手元にあるんですけど、高橋さんがご覧になっていかがですか?

高橋:そうですね、まずお酒のタイプというのがあって、すごく強いとまったく飲めないの間のタイプなんですけど、実はこの間のタイプの人が一番危なくて。

田ケ原:お酒を飲んだ時に?

高橋:そうです。強い人と同じぐらい飲んでしまうと、アルコールによる食道がんのリスクがものすごく高いタイプなんですよね。私もこのタイプなんですけど、だからちゃんと飲んだ後はうがいをしておくとか、適正な飲酒量を守るとか、気をつけておいたほうがいいですね。

仏門に入った理由

田ケ原:続いて、森さんのプロフィールです。立正大学大学院を経て、現在は清水寺に勤める森さん。講演・執筆などを通して、観音信仰や仏教をより楽しみやすく伝えるだけでなく、京都市社会教育委員会副議長や上智大学非常勤講師としても活動されています。お父さまは年末に今年の漢字を特大の筆で描き上げる森清範貫主です。

入山:というわけで森さん、どうぞよろしくお願いします。

:よろしくお願いいたします。

入山:森さんもいろんなご活動をされていますけど、まずどういうことをされているかを教えていただけますか?

:主には京都の清水寺におりまして、ご来客があればご案内させていただいたり。はたまたいろんなお寺の会がありまして、西国三十三所という、1300年前から続いている巡礼の、御朱印の発祥になったようなのがあるのですが、そこの会議に行かしてもらったりとか。

ご紹介いただいたように、大学関係なんかも、まぁ漫談みたいなことですけど、宗教学のお話をさせていただいたり。あとは京都市さんの、学校教育以外の、図書館とか児童館の議論を少しさせていただいたりということをさせていただいております。

入山:私は不勉強なんですけど、お父さまが清水寺の森清範貫主さんでいらっしゃって、ということは、「清水寺は森家が」というわけでもないんですか?

:ないんです。別に世襲でもなんでもないので、他にも和尚はたくさんおりますし、今はたまたまうちの師父が住職をさせていただいているというようなことでございます。

入山:なるほど。森さんはなぜ仏門に入られたんですか?

:先ほど、高橋先生もおうちがお医者さんやからというのがありましたが、うちも生まれたところがお寺やったので、継ぐか継がんかという……。

入山:似ていますね(笑)。寺か寺以外がいいか。

:はい、そうなんですよ。「どうする?」というのが中学の時にありましてね。別に継がんでもいいし、他の仕事をしてもいいしと。しかしいろいろ考える中で、かと言って自分の中でお寺が嫌いでもないなと。であればと、その道を進むような感じになったわけでございます。

人間の体は食べ物をちょっと多めに摂るようにできている

入山:ここからは、「もっと自由に生きるための思考法」というテーマでお話ししていこうと思います。まず、高橋さんにあらためておうかがいしますが、ご著書の『生命科学的思考』という大変話題になった本でも、生命原則みたいなものを客観的に理解することが大事だと書かれています。あらためて、どういう主張かを教えていただけますか?

高橋:1980年代に『利己的な遺伝子』という本が話題になったんですけど、基本的に人間とか生物は全部遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎず、遺伝子を後世に伝えていくただの機械だということを書いた本なんですね。それはそうなんですよ。なんですけど、私たちの感情がなんであるのかと。怒りが私たちを守るためで、不安はリスクを回避するためであったり。

入山:つまり生命としてうまく機能するために感情があると。

高橋:そういうことです。とはいえ、感情や人間の特性を全部俯瞰してしまうと、個体としては生きる意味って特にないんですよね。

入山:つまり生命維持装置みたいなものだということですね。

高橋:そう。だけど私はその生命原則を俯瞰した上で「余地がある」と思っていて。その遺伝子に抗うことが大事だよという話をしているんです。例えば食べるという行為も、好きなだけ食べると結局太ってしまって、体を壊してしまう。

腹八分目にしたほうが最も長生きで健康になるんですけど、それってなんかおかしいじゃないですか。好きなだけ食べた時に最も健康になったほうが良さそうに見えるんですけど、そうはなっていない。

それはなんでかと言うと、進化の過程で常に食料へのアクセスがあるとは限らない環境で生きてきたから、健康になるより、ちょっと多めに摂取するように体ができているんですよね。その欲望を理解した上で、「じゃあ腹八分目にしておこうか」と理性で抑えることができるのが人間の知性だと思うんです。

それは資本主義も一緒で、基本的に欲求のままに消費行動をすると市場が成り立つという考え方ですけど、それだと格差を生んで、地球環境を破壊して、どんどんコントロールが効かなくなっていく。だから、欲求だけじゃなく、それに抗おうと。遺伝子に抗うような意思を持つことが、結局は自由に生きることになるという話をしています。

お坊さんの托鉢と腹八分目

入山:森さん、今の話はどうですか。

:例えばインドなどでお坊さんが托鉢に行くでしょう。その時の鉢は鉄鉢と言いますが、これは自分の胃袋の大きさなんですよ。(食物を)いただいて、満タンになったらみんなで集めて、大きなお鍋に火を入れるんです。

それをみんなに再分配したあと、鳥や動物の供養をするために満杯の鉢から少しずつ取っていくんですね。それがだいたい20パーセントぐらい。そして残ったものをいただくと。だから腹八分目なんですね。胃袋の80パーセントなんですよ。

入山:なるほど。

:言葉もここからきたという話もあったりするんですよ。今のお話でしたら、本能的にいくと全部を食べちゃえということになるけれども、「いや、それは駄目だよ」と戒律や生活の決まりの中でそれを決めてしまっているということなんやなと。

一方で科学的に生命としての欲求的なものからアクセスすると、今まで単なるルールとして受け止めていたものが、実はそうじゃなくて、凄まじく科学的で理にかなっているなと感じているんですけどね。

入山:おもしろいですね。高橋さん、今の清顕さんの話はどうですか?

高橋:おもしろいですね。今の話を聞くと、科学が仏教から学ぶことは多そうだなと思いましたね。例えば人間の性悪的な部分と、善良な部分のどっちが引き出されるかみたいなものって、科学ではなかなか予測できないわけですよ。誰が犯罪者になるのかみたいな話とか。

だけど、もともと善人も悪人もいなくて、環境がそれを引き出すという。悪人な部分も自分を守るためとしては、生存の可能性を上げるわけなので、生物としてはニュートラルに持っている能力ではあるんですけど。例えば今、Twitterとかってもう悪に満ちているじゃないですか。

(一同笑)

入山:わかります。

高橋:ああいうのもアルゴリズムをちょっと変えるだけですごく良い世界にできる可能性はあると思うんですけど。そのへんを仏教から学ぶことはないのかと思いますよね。

何千年も締め切った部屋も、戸を開けたら一瞬で明るくなる

入山:おもしろいですね(笑)。清顕さんはいかがですか?

:そこは仏教では縁という言葉で集約されるんですよね。

入山:縁(えにし)ということね。

:縁(えにし)、縁なんですよ。悪いことをするはずがないんだけど、いろんな縁……誘われたとか、知らないうちとか、なんかわかりませんけども、そういうものが重なって、その縁が結ばれた時にそれが起こっちゃう。例えば車を運転していても、事故は当然起こしたくないんですよね。

起こしたくないんだけど、ぶつけてしまった、なんてありますでしょう? 家を出る時に、「靴を履き間違えた」という一瞬があったら、ひょっとしたらぶつけなかったかもしれないとか。そういう縁によって起こっちゃうということなんですよね。仏教でも人間ちゅうのは、善人悪人はいないんですよ。ものすごくニュートラルなんです。

入山:仏教もそうなんですか。

:そうなんですよ。何千年と開けたことのない真っ暗な部屋でも、戸を開けたら一瞬にして明るくなるんですよね。また閉めたら暗くなるんですよ。それと一緒で、悪いことをしても立ち直ることはできるんですよね。

「良いことをし続けているから大丈夫や」ということだと、慢心でひょっとしたらつまずくこともある。我々のスタンスは本当はニュートラルなんやということが大事なんかなちゅうのもありますね。

入山:高橋さん、いかがですか?

高橋:そのとおりだと思いますね。結局どういう環境を準備するかですよね。

:そうですね。

高橋:特に今のインターネットの環境って、悪を引き出すような環境になっていると思っていて。例えば他人の生活が見えてしまうので、比較してしまう。本当は幸福の定義に多様性があるほうが社会全体の幸福度は上がるはずなんですよ。

入山:なるほど。

高橋:だからそういう設計をインターネット上にすべきなんですよね。例えば自動車でも、人間が本来持ち得ないスピードを出せるわけじゃないですか。

入山:そうですね。

高橋:それによってスピード狂みたいな、別の欲求が出てくるわけですけど、でもそれを交通ルールとかで、コントロールできているわけじゃないですか。そういうふうに新しい環境ができて、新しい欲求ができて、その欲求に対処する方法を私たちが「まだ知らない」という状況なのかなと。

自分の物差しを持つことの重要性

入山:そういう時に、まさに宗教が果たせる役割。法律が追いつかない時に、例えば「他人と比較しないで、自分と向き合おう」とか、そういう役割が出てくる可能性はいかがですか?

:今の入山先生がおっしゃったように、法律というか制度がまだ追いついていないところ、倫理的なものとか、そういうところへの宗教の果たす役割の大きさはものすごいもんやろなというのは感じているんですよ。

例えば幸せにしても比較して、羨ましいなとか。確かに羨ましいんだけど、やはり自分ちゅうものがまず大事なんやろうなと思うんですよね。自分の物差しが要るやろなと。

入山:なるほど。

:「主人公」なんていう言葉が禅語にありますけど、人生の中で自分の代わりは誰もいないんですよね。その場に立った時に幸せなのか羨ましいのか、それともどうなんやということを考えていくことが、宗教の1つの大きな観点ではあると。

入山:確かに宗教って自分と向き合うことですもんね。

:そうなんですよね。だから一人ひとりのものの考え方が変わると、この世の中は一瞬にして変わる。これは確実に変わるんですよ。

入山:今の清顕さんのお話、高橋さんはいかがですか? 

高橋:ちょっと清顕さんに聞きたいことがあるんですけど。その欲と大義の概念をどう捉えるべきかみたいなところがあって。経営者って欲求まみれな人が多いじゃないですか。私はその変な欲求は捨てたいけど、大義は失いたくないし、野望は持ち続けたいと思っているんです。そこってどういう関係性として捉えたらいいのかというのをお聞きしたいです。

:難しい話ですね。欲をなくすと人間は死んじゃうんですよね。極論していけば、生きることも欲になっちゃうから。

入山:なるほど、生きることが欲であると。

:食べるとかいうところも欲求になってくるので、よく「煩悩を断じて」とか「滅して」なんて言いますけどね。お経の中に書いてあるのを読んでいると、「欲から離れろ」って書いてあるんですよ。「欲があるのを認めなさい」と。あるんですけど、ちょっと離れる。

離れると、見えてくるものがあるという感じなんですよね。これはなかなか抽象的な言い方で難しいんですけど、要求から少し離れた時に、先生がおっしゃった大義とか「こうして生きるべきやな」というのが出てくるんじゃないか。ということになると、やっぱり自分の物差しって大事やなと思うんですよね。

今の自分が生きる上で必要か否かを考えて、「いや、やっぱりいらんかな」というんやったら、別にそこに入っていかなくてもいいとか。そういうことを判定する物差しが、ほんまに今大事だなとすごく思っているんですよね。

高橋氏が考える欲と大義の違い

入山:ちなみに高橋さんは今問われた、欲と大義の峻別ってご自身の中ではどういうふうにされているんですか?

高橋:わからないから聞いているというのもあるんですけど、私は欲を達成することによってハッピーになる人の数で分けて考えていましたね。小さい欲って、その欲を達成することでハッピーになるのは自分だけだったりするけど、大義の場合は、その野望を達成すると多くの人がハッピーになる。

入山:なるほど。

:幸せっちゅうのも、幸せを感じることができない、それを一番阻害しているものはたぶん「慣れ」やと思うんですよね。毎日ご飯を食べられていることがほんまは幸せなんやけど、幸せを感じていない。

ブータンでしたかね、幸せの国ってありましたでしょう。幸福度というのは日本も一時流行りましたけど、日本は幸福度よりも、その前の段階として「感謝度」ちゅうのをもう1回考えたほうがええと思うんですよね。

入山:今の現状があってありがとうということですね。

:そうそう。蛇口をひねったら水が出てくるとか、ガスをカチッとしたら火がつくとか、こんなにありがたいことはほんまにないです。一瞬でもそういうのを考えると少し見方が変わるんかなという気がします。

「夢がない」と言う若い人が多くても仕方がない

入山:タガエミちゃん、どうですか? お二人に何か質問とか。

田ケ原:お二人のお話しを聞いていると、俯瞰がすごく大事なんだなとよくわかったんですけど、一方で最近は夢がないというか、衣食住が足りていれば、もうこれ以上求めない。例えば「今のままで出世しなくてもいいや」ということも一方であると思った時に、欲との向き合い方がより難しくなっている中で……。

入山:例えば今の20代の子たちってガツガツしていない人が増えているという、そういう話ですかね?

田ケ原:そうです。比較できすぎるがゆえに、失ったものも一方であるかなと思った時に、どう向き合っていけばいいのかなというか。

入山:なるほど。どうですか、お二人はそういう違いみたいなのって感じられます?

高橋:個人レベルの話で言うと、夢がない人は単純に多様な体験をあまりしていないということだけだと思うんですよね。

入山:なるほど。

高橋:例えばカオスな体験をすればするほど、自分の理想の世界はこうだったのにこうじゃないという「現状のギャップ」を認識できて、それが課題になって、課題イコール夢になるわけなので。

入山:まさにこの『生命科学的思考』でそういうことが書かれていますけれども。

高橋:今の日本で、普通に学校へ行って、食べて過ごしてというだけだと、別に解決すべき課題はそんなにないので。

入山:まさに慣れちゃっていますからね。

高橋:今の教育環境だと、夢がないように育つのは当然ですよね。あと、世代観で言うと、別にガツガツしなくなったということではないと思っていて。対象が変わったんじゃないかなと思います。

入山:対象が変わった?

高橋:例えばちょっと上の方の欲求は、家とか車とかモノが多いなと思って。だけど、今の人はモノに対して欲求がなくて、どちらかというと体験とか、社会課題とか、そっちのほうに関心がある人が上の人よりは増えているという感じはしますよね。

入山:欲の向かう先が変わっただけであると。

高橋:と思っていますけどね。