「増加」と「定常化」を繰り返す、人口の歴史

前野隆司氏:みなさん、こんにちは。会場に来てくださった方々、ありがとうございます。オンラインの方もありがとうございます。

『ディストピア禍の新・幸福論』という本を出したんですよ。今日のテーマは「幸福学×経営学」ですが、『ディストピア禍の新・幸福論』という本に書いた人類史の話から始めたいと思います。

人類は20万年前に生まれました。リニアなグラフにすると、近代以降にすごく増えたように見えますが、これを両対数グラフにすると、どうなるかご存じですか? ディーヴェイさんの図があるんですけど、増えて止まって増えて止まって増えて止まってという、3つのフェーズからなってるんですよ。

1回目の増加は20万年前、アフリカで人類が生まれてから、人類が世界中に広がっていったときですね。つまり狩猟採集生活をしている時に増えたんです。ところがある時に増加が止まります。なぜだと思いますか?

生物学の基本ですね。餌とネズミの数を調べると、餌が多すぎるとネズミは増えますけど、餌が足りないと減るんです。ですから、人間も地球上で狩猟採集生活をしてころ、これ以上増えることができなくて、アフリカからヨーロッパに行ったチーム、アジアに行ったチームといろいろあったんですが、人口が定常化したんです。

これが5万年前。止まったと思ったら、また増え始めます。なぜ増えたと思いますか? 農耕革命です。単位面積あたりの食糧生産量が増えますから、増えるわけです。

増化は、紀元前500年、今から2500年前に止まるんです。なぜかというと、農耕で米とか小麦とかジャガイモとか作って生きられる人口の限界が来たかです。

その後、また増え始めます。産業革命です。300年前ぐらいから、また増えています。

今度は産業革命によって都市にも住めますからね。農作物を輸送したり、人が動いたりできますから、単位面積あたりに住める数も増えて、人口は急激に増えます。

世界人口は今80億人で、100億人を超えると言われてます。まだまだ増えますが、日本は少子高齢化が始まりましたね。つまり日本は世界に先駆けて、増加が止まったということなんです。

狩猟採集生活の頃からの「働き方」を考えてみる

なんでこんな話をしているかを考えてみましょう。経営学は「働く」ということや、組織を経営するということを対象にします。その根本に立ち返ってみましょう。狩猟採集生活の頃の組織ってなんだったでしょうか?

みんな、家族経営みたいなもんですよね。家族で狩りをします。「アサリ採りに行くか」とか、「木の実を採りに行くか」、「イノシシが捕れたぞ」といって。

男性が狩りをしたり、女性が料理したりしていました。旧石器時代ですから、石器を作ったり。つまり、石器を作り、狩りをし、料理を作り、狩りの仕方を子どもに教える教育をするというように、全部みんな自分たちでやっていたんですよね。

分業していなかったんですよ。少しはあったかもしれません。アニミズムが始まっていたので、祈祷する人とか、石器を作る人とかはいたかもしれませんけど。でも基本的に、自分たちで採って自分たちで食べるという、そういう生き方をしてたわけですよね。

日本だと縄文時代は、実は3000年前まで続いていたんです。世界では増化が止まった後の、今から1万年前に農耕革命が始まった。人類の1つめのフェーズは、(多くの地域では)1万年前に終わるんですけど、日本では3000年前まで続いてるんです。

3000年前までずっと縄文時代。旧石器時代には一般的には定住していなかったんですよ。みんな移動しながら、餌を、食べ物を求めて生きていたんです。ところが、日本では、定住しているのに狩猟採集生活でした。

食べ物が豊かだからです。農耕しなくても、山に行ったり海に行ったりするといろんなものが採れるから、定住しているけれども狩猟採集生活をするという生活を3000年前までやっていたんです。

農耕生活が生んだ「貧富の差」

縄文時代は幸せな時代だったという説もありますよね。これが正しいかどうかという議論はありますけど、確かにみなが力を合わせて生きていた。狩猟採集ですから、米のような穀物を貯めることはできなかったんですよ。

貯められないとはどういうことかというと、逆に農耕生活を見ればわかります。農耕生活で人が増えていくとどうなったでしょう。どんどん米とか小麦とかを備蓄できますよね。

備蓄できると、貯めた人ほど偉いとなります。蓄積した者は支配者となり、一般人は奴隷のように農業をする。「貧富の格差」が生まれたんです。

つまり、縄文時代は平等だった。狩猟採集生活では貧富の格差がつきにくいので、大金持ちの王様がいない時代だったわけです。ところが、農耕が始まると格差が拡大します。

紀元前5世紀に人口増加が止まり、定常化します。定常化した時に何が起こったでしょう。インドではブッダ(釈迦)が生まれました。中国では老子、孔子などの諸氏百家。ギリシャではソクラテス、プラトン、アリストテレス。

紀元前5世紀には、ずっと増えていた人口が、定常化したわけですよ。農耕によって貧富の格差が拡大して、増えている時は格差が気にならなかったかもしれないんですが、経済成長が停滞し始めた時に、インドにはブッダという人が生まれました。

ブッダは王様(豪族)の子どもでした。自分の家は豊かなのに、檻の外を見ると人々が非常に苦しんでいる。貧困にあえいでいる。これはなんなんだろうとブッダは悩みました。

思想家たちが唱えた「無」という言葉

狩猟採集をしていた頃は平等で豊かだったのに、人類はよかれと思って農耕を始めたわけです。単位面積当たり、たくさんの作物を作れるから。「やっと楽になるぞ」と思って農耕を始めた。しかし、余剰の米によって格差ができて、それによって貧困という苦しみが生まれたんです。

ブッダは「こりゃいかん。私は大金持ちだと喜んでる場合じゃない」と、妻も子どもも捨てて、修行の旅に出て、それで悟ったと言われてますね。

諸行無常という仏教の基本があるじゃないですか。金銭的に豊かになることを目指すのは、正しくないんじゃないんかなってブッダは言ったんですよね。中沢新一先生は『未来のルーシー』の中で「仏教は、もっと前の狩猟採集生活に戻ろうという運動だったんじゃないか」と言っています。

同じく中国では、老子・荘子が「無為自然」と言ったんです。人間だけが自然を開発して、森林とか豊かな大地を農地に変えてきた。人工的な農地に変えて人間だけが増えるっていう生活は、やりすぎだったんじゃないのって言ったのが、老荘思想です。

ギリシャのソクラテスは「無知の知」です。これもちょっと似ています。みんな(知らないのに)「知ってる、知ってる」って言ってるけど、「自分は知らないとわかっている、俺のほうが、みんな知らないってわかってるぜ」って言ったのがソクラテスです。

「無」という言葉が、ソクラテスにも老子にもブッダにも出てくるんです。要するに、もっと前の、そんなに豊かじゃなかった頃。人類の最初のフェーズに戻ったほうがいいんじゃないのと考えた。これが2つめの定常期に起きたことです。

人口増加が止まると、アートや宗教が栄えた

ちなみに、1回目の定常期に何が起きたかご存じですか。人類が増えて止まりましたよね。この止まったところで、何が起きたか。

心のビッグバンです。今から1万年前はアートが栄えた時代と言われてます。世界中の洞窟に壁画が書かれたり、縄文土器が作られた。人類がアートを発明したんです。

もっと言うと「アート」というのは、もともとアニミズム、神を崇拝するところから起きてますから、神道の元になった自然崇拝が関係しています。

つまり、人口が増えて止まったところにアートとか自然崇拝、原始宗教というものが生じました。神道の元になった概念です。あるいはアイヌの祈りとか、ネイティブアメリカンの宗教とか。そういう古い宗教は、西アジアが発祥の地だと言われています。

人類がアフリカから西アジアに来て、西アジアから東アジアに広がって、さらにアメリカに渡った。その途中でたくさんの神話ができます。ですから、神道の神話と、ネイティブアメリカンの神話と、それからメラネシアの神話と、けっこう似ているんです。元は西アジアから、我々が狩猟採集しながら移住した頃の神話じゃないかと言われています。

つまり、人類最初の定常期は原始宗教が栄えた時代です。2回目の、農耕革命後の定常期は高等宗教が生まれた時代です。仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった高等宗教が栄えた時代です。

狩猟採集生活の頃の「生産性」は、農耕生活の頃よりも高い

働き方で言うと、最初は自然に家族経営をして自由に生きていた時代。ふたつめは、農業をし、役割分担を始めた時代。3回目は産業革命後の世界です。世界は近代化し、会社は株式会社になります。

働き方が非常に役割分担的になりました。「社畜」という言葉がありますよね。嫌な言葉ですけど、とにかくたくさんの人が「つべこべ言わずに働け!」と言われて働くな時代になったと言われています。

ちなみに「生産性」は、この狩猟採集生活と農耕生活と産業化後の、いつの時代が一番高かったと思いますか?

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると、狩猟採集生活の頃の生産性は、農耕生活の頃よりも高かったんです。私も初めにそれを読んだ時に、「え!?」と疑問に思いました。いやいや、単位面積あたりの生産性は農耕のほうが高いに決まってるじゃないかと。

「単位面積あたりの生産性」は、農耕生活のほうが狩猟採集生活よりもちろん高いんですが、「富を生み出すための時間」、つまり労働生産性を考えてみてください。「ここでアサリが採れたぞ」とか、「イノシシ捕れたぞ」とか、「あ、米がなってたから米食べよう」のように探して食べていた狩猟採集生活は、育てなくていいわけですから、労働時間は短いんですよ。

動物を見ていればわかりますよね。鳥とか魚とか、そんなに働いていない。ずっと飛んでて、餌があったらシュッと採るじゃないですか。飛んでる間も労働といえば労働ですが、餌を取るのは一瞬です。

縄文時代に比べて、現代人は「働きすぎ」

人類も、農耕を始める前は自由に生きていて、「よし、あっちのほうに獲物がいるに違いない。こっちはこの季節にアサリが採れるよ」とか「こっちに行ったら魚が取れるよ」って採って、まぁ鹿の1頭も捕れれば「ああ、これで2週間は食えるぞ」ってお祭りをして、その2週間は子どもに武器の作り方を教えたりとか。まぁ、のんびりしてたんじゃないかと思うんです。

もちろん敵の種族とか、イノシシが襲ってきたとか、そういう時には戦うんでしょうけど、9時から5時まで働くようなことはしなかったと思います。だから農耕生活は、狩猟採集生活より非常に労働集約的で、(時間当たりの)生産性は下がったんです。

格差も生じましたから、奴隷とか農民は非常に苦しい生活をしていた。産業革命直後もそうです。産業革命直後のイギリスの労働者ってすごいですね。月曜から日曜まで週7日、朝から深夜まで働いていたと言われてます。ものすごい労働集約的なんですよ。

ものすごい格差もできるから、お金持ちはすごいお金持ちになる。貧乏な人は、とにかく死ぬほど働かなきゃいけない。さすがに生産性を上げようということになった。今、日本人の労働はどうですか。(平均年間労働時間は)1500時間とか1800時間ぐらいになりました。産業革命直後ほどは働いてないと思います。

でもみなさんは、狩猟採集時代と比べると、絶対働きすぎてると思うんですよ。

もちろん、狩猟採集時代にも、苦労はあったと思います。縄文時代の平均寿命は15歳だったと言われてます。縄文時代と今とどっちがいいかというと、医療福祉とか快適さとか、健康という意味では、明らかに現代の方が長生きで、いい面はもちろんあります。だから縄文時代がすべてすばらしいとは言いません。

しかし、どうでしょう。人類はよかれと思って農耕を始めた。「やったぁ、単位面積あたりの収穫が増えた」。産業革命。「やったぁ、科学技術が進歩すれば人間は楽になるはずだ」と思った。現代社会、インターネットもそうですよね。「インターネットができれば、仕事が楽になるはずだ」と思った。なのに、「なんで私はメールに支配されてるんだろう」と思いませんか。

現代社会は本当に“いい社会”なのか?

ハラリは言いましたよね。農耕革命は、人間が農耕革命したんじゃなくて、米とか小麦の戦略だと。米とか小麦は、本当は地球上にあんまり生えてなかったのに、人間に育ててもらうことによってものすごく繁栄してるわけですよ。つまり、人間を使って米とか小麦が勝利したのである。

もともと地球上の森とかいろんなところにいろいろな植物が生えていたのに、人間が過重労働した結果、米や小麦だらけになった。米や小麦の戦略的勝利であるとハラリは言います。もちろん、皮肉を込めて言ってるんです。

では現代世界は何かというと、パソコンに働かされた、メールの勝利である。メールがはびこるために、私たちは産業革命したんじゃないかとも言えます。あるいはコンクリートの勝利かもしれないですね。今度は小麦に変わってコンクリートが地球上を覆い尽くし、人間はCO2を出しまくっている時代。

ですから本当にこの現代社会が“いい社会”なのか。もちろん物理的に発展して豊かになって、世界は清潔になり人は長生きするという意味ではいい社会です。こうやって今私が話してることが、いろんなところに伝わるという便利さの点では、もちろん狩猟採集時代よりもいいでしょう。

でも思い出すべきは、「本来人々はどう働いていたか」ということです。

本当は「みんなが幸せになるために」役割分担をしていたはず

「経営」とはそもそも役割分担です。もともと人々が狩猟採集していたころ、武器を作ること、石器を作ることのうまい人がいたから、「君は狩りが下手だけど、石器作るのうまいから石器作ってよ」、「よし、俺たちが石器を作る組合を作ろう」となりました。

お祈りする人たちが「なんかお祈りしてくれたおかげでいいことが起きたから、祈る専門家になってくださいよ」ということになった。そうやって専門家がちょっとずつできてきて、みんなのための役割分担の仕組みとして組織を作ったわけじゃないですか。

農業が始まって、さらに分化が進みました。産業革命後にはさらに分化が発展したしたわけです。

私は最近、自宅のちっちゃい庭で、家庭菜園をしているんです。すごく時間がかかるんですね。私は1時間ぐらい講演するとお金をもらえるんですけど、農業はへたくそなわけですよ。高度に役割分担しているから、農林水産業や、その他、自分ではできないことをしなくても生きられる。本当は、みんな、狩猟採集時代のように、あらゆる仕事の体験をしたほうがいいと思いますね。

我々は役割分担することによって、ここまで発展してきました。私は、講演はできるけど、野菜も作れないし、魚も取れないし、イノシシも捕れないし、イノシシと戦うこともできません。昔はみんなできたんですよ。農業が始まった頃から、「私は農業しかしません」とか、「斧しか作りません」とか、そういう役割分担をしたんです。

よかれと思って、この現代社会、みんな役割分担しているじゃないですか。ここに来ているみなさん、それぞれいろんなことをやって、役割分担していますよね。振り返ってみると、そもそも、「みんなが幸せになるために」役割分担していたんですね。それだけのことなんですよ。それを、現代人は、役割分担しすぎて、忘れている。

視野が広い人は幸せで、視野が狭い人は不幸せ

会社は幸せなところであるはずです。社員も幸せ、社会も幸せにするべきなんです。ところが、役割分担しすぎて視野が狭くなっている。「視野が広い人は幸せで、視野が狭い人は不幸せだ」という研究結果があります。現代とは、視野狭窄社会です。

ちなみに、経営者は幸せな傾向があります。どちらかというと、全体のことを考えていますから。一方で、大企業のピラミッド組織の末端にいる一般社員は、不幸せなんです。視野が狭くなりがちですから。

僕が若い社員だった頃、コンピューターの部屋でシミュレーションばっかりしてました。それが仕事だったから。ガチャガチャガチャガチャシミュレーションして、答えを出して、繰り返し繰り返し同じようなことをやるんです。

狭い視野で考えると、「俺はなんでこんなつまんない、ガチャガチャガチャガチャシミュレーションするためにこの会社にいるのか」って思うこともできます。

でも会社の理念が浸透していて、視野が広い社員は、「私がシミュレーションした結果、いい製品ができて、その製品を使った人が幸せになって、みんなにこの技術が回ることで、世界中の幸せの一部を担ってるんだ」と思えます。これって、幸せじゃないですか。

やっぱり縄文時代とか旧石器時代は、生きてる感じがしたと思うんですよね。自分で獲物を捕って、お父さんが捕った獲物をみんなで切り割いて食べて、火をおこして、「あぁ火があるから人間って安全なんだなぁ」と、生き方全部を理解して経験して生きていた。現代よりも圧倒的に視野の広い社会です。生きるとか死ぬとか、生きることの喜びを感じやすい社会だったんです。

現代社会は、すごく視野が狭くなった社会なんじゃないかと思うんです。