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ベンチャー経営者が考える、働く人のための「制度」の在り方(全2記事)

最初に起業する人たちは“変わり者”しか来ない 福島の小さなスタートアップが、17ヶ国からGeekが集う会社になるまで

スタートアップは大企業に比べて十分な制度が整っていないというイメージがありますが、実は小規模ゆえの柔軟さや意思決定の早さを活かして、さまざまな独自の制度を作り上げている企業も存在します。福島県会津若松市で創業し、今では海外からもGeekが集う株式会社Eyes,JAPANは、創業当時から人を資本と捉え、さまざまな福利厚生制度を取り入れています。代表取締役社長の山寺純氏に、スタートアップにおける制度作りについてうかがいました。前半では、システム・ソフトウェア開発の会社を創業するまでの経緯と、人にお金をかける大切さを意識したきっかけを語ります。

Geekが集う、福島県会津若松市のスタートアップ

——昨今は、一般企業からベンチャー・スタートアップに転職される方も増えていますが、良くも悪くもギャップがあるという話も少なくないようです。そこで、企業側も個人もお互いに歩み寄れるように、これから転職をしようという方に向けて、スタートアップ企業のさまざまな側面をご紹介したいと思います。

スタートアップは制度面が充実していないイメージがありますが、中には働く人のことを考えた独自の制度を設けている企業もあります。今回は創業当時からユニークな福利厚生制度を作ってこられた、株式会社 Eyes, JAPANさまの取り組みについてうかがわせてください。

山寺純氏(以下、山寺):よろしくお願いします。

——さっそくですが、御社はシステム・エンジニア、ネットワーク・エンジニア、デザイナー、ディレクターから構成されるGeek集団で、創業当時から社員の健康やストレス解消に取り組まれています。起業したばかりだと福利厚生どころではないような話も聞きますが、まずはどういった経緯で事業を始められたのかを教えていただけますか?

山寺:わかりました。もともと自分は福島県の会津若松市の出身で、高校まではずっと進学校に行っていました。当時はインターネットも何もなかったので、人口10万人くらいの小さな町ではぜんぜんおもしろくなくて。早く東京に行きたいなとずっと思っていたんです。

自分が大学受験をした時はちょうどベビーブーマーの子どもくらいの世代で、入試の競争率が60倍とか、受験する人口が一番多いような世代だったんですね。それで東京の予備校に行ったんですけど、正直東京に行ければ予備校でも大学でもよかった。親にはまだ言ってないんですけど、実は3日しか行っていなくて。

——(笑)。

東京から地元・会津に戻り、インターネットに出会った

山寺:やっぱり遊ぶのが楽しすぎて、毎日遊んでいたわけです。そうすると当然成績は上がらなくて、翌年も大学受験に失敗して、親に呼び出されて「これからどうするんだ」と言われて。ちょうどバブルの終わりくらいだったので、「なんとかなるのかな」と思って「大学に行ったと思って、その分のお金を俺にくれ」と言ったら「お前はもう帰ってこなくていい」と。

勘当じゃないですけどだいぶ親とも揉めて、それからずっと東京にいました。カフェでバイトしたり、東京ディズニーランドのジャングルクルーズの船長をやったりしたんですけど。

——起業されるまでに紆余曲折があったんですね(笑)。

山寺:24歳くらいの時には親との折り合いが良くなってきたのと、地元の会津若松市に高速道路と大学ができるという話を聞いて、地方も変わるのかなと思って帰ったんです。

そこで働くつもりはまったくなかったんですけど、会津大学というコンピュータサイエンスの大学がありました。ここはいまだに外国人が多い大学で、通訳翻訳員の仕事を募集していたんです。

県職員の人は英語がしゃべれないので、海外から来られた先生との間を取り持つ人が必要ということで、試験を受けたら合格してしまって。1993年から1994年の2年間は、公務員として大学の事務局でお世話になりました。

それまでとはまったく違う環境だったので、「すごい世界だな」と思いましたが、自分は求められたことに応じるのが好きなので、それはそれでうまくやっていました。

インターネットに出会ったのはその頃ですね。1993年と1994年は、インターネットの歴史の中でも特別な年だったと思うんですけど。当時はGoogleもなかったので、ヤフーとかで「会津」と検索すると、俺たちががんばって(Webページを)作ったのもあって、6,000件くらいの情報が出てきたんです。でも「東京」で検索すると、4,000件くらいしかなかった。そんなことは常識的には考えられないじゃないですか。

好きな仕事のために、自由時間は1日4時間の日々

山寺:当時アメリカでは、優秀な学生は大企業に行かずに自分で会社を興すようになってきていました。ヤフーの創業者のジェリー・ヤンが起業したり、今VCで有名なアンドリーセンがスタンフォードを辞めてNetscapeという会社を作ったような黄金時代だったので、自分でもできるのかなと。

通訳翻訳員の仕事自体は嫌いじゃなかったんですが、たぶん産業革命の時代に生まれた人はこんな感じなんだろうなと思って、その当時の学生と一緒に会社を作りました。Learning by doingの典型だと思うんですけど、それで起業したのが1995年ですね。こんなに続くと思っていなかったので、会社は立ち上げよりも続けるほうが大変だと、後で気づきました。

——経営はどうやって学ばれたんでしょうか?

山寺:今みたいにスタートアップや起業の本とかもほとんどなかったですし、請求書の書き方も知らなかったので、すごく苦労しましたね。ただ、小さい町で親も自営業をしていたので、何かやらかしても「どこどこの息子か」とちょっと大目に見てもらえたり、起業したのが圧倒的に早かったので、周りに競争相手が誰もいないというのはありました。

ブルーオーシャンではあるものの、お客さまを作るところはなかなか大変でした。今は絶対できないと思いますけど、学生たちも昼間は授業を受けて夜に働いていたので、起業して最初の半年くらいは、だいたい週120〜130時間くらい仕事をしていたんですよ。

平日も土日祝日もなく寝る時間や風呂に入る時間を全部含めても、4時間くらいしか自由時間がない。誰かに給料をもらってやるのは絶対に嫌ですけど、自分が好きなことをやっていたらたまたまそうなっていたという感じで、床に寝たりしながらもやってきました。

創業期には“変わり者”しか集まらない

山寺:ちょうど2年くらい経った頃、会社としての信用力をつけるために、法人化しました。今は1円でも創業できますけど、当時は資本金制度があったので300万円貯められないと会社が作れなくて。2週間だけ口座に300万円あれば残高証明が出て、すぐ下ろしても大丈夫になるから、なんとか300万円を貯めて会社を作りました。

それから行政の仕事をいただいたり、NTTのISDNの回線の代理店をやらせていただきました。当時の会津若松支店の支店長に「君らは崇高なインターネットの夢があるんだろうけど、日銭は必要だろうし、NTTはこれからインターネットの時代で回線を売りたい。君らにはつまらないかもしれないけど、代理店をやってみたら?」と声をかけてもらって。

そういうふうに、周りのコミュニティの人にすごく助けてもらいました。東京で失敗しても匿名性が高いので2回目、3回目があるとは言いますけど、お金や能力でしか評価できないので、協力を得るのは難しいじゃないですか。

でも地方だと「知り合いのあいつがやっているからいいか」「失敗しても次がんばればいいよ」という部分もあって、良い悪いどちらもありますけど、自分にはそこがうまく働いたかなと思いますね。

——ご自身はハードワークも経験されてきた中で、会社として福利厚生に取り組もうと思われたのは何がきっかけだったんですか?

山寺:起業の本にもよく書いてあるパターンなんですけど、最初に起業する人たちは変わり者しか来ないんですよ。お金や制度がなくてもみんな勝手にやるというか。

創業時の仲間が辞めた時に、初めて「ビジョン」の大切さを実感

山寺:ただ、起業して1年半が経って、ちょうど法人化するタイミングで創業者の2人が辞めることになりました。会社は自分を入れて3人だったんですけど、俺はアメリカで2ヶ月くらいにCGの勉強をしに行っていたので、メールの連絡で知るんですよ。

俺はプログラムを書けないので学生を応援する立場でやっていたんですけど、創業者の2人にとっては、会津大学はそこそこ良い大学で良いところに就職できる。「ソニーと東芝に内定が決まったから、Eyes,JAPANは山寺さんがやればいいよ」とメールでもらうわけです。

俺は友だちだと思ってやっていたので、2ヶ月くらい落ち込んで、その時のメールも10年くらい見られなかったんですけど。その2人が辞めちゃった時に、初めてビジョンが大事なんだなと思ったんですね。

会社はビジョンがないとだめだというのは確かにそうなんですけど、創業してすぐの頃はビジョンを作っている暇があったら、みんな仕事したいわけですよ。仕事とプライベートの境もまったくないんですけど、ある程度の段階になると普通の会社だと思って入ってくる人が増えるので、同じような働き方をするのはサステナブルじゃない。

創業当時は労働時間が長かったり、給料がすごくいいわけでもないので、やっぱりきっちりしたビジョンがないとならないと思って、3年目くらいに作りました。会社のロゴも2時間くらい話せるストーリーがあります。MBAを持っているような人は、最初にビジョンありきでやると思うんですけど、資金もないしとりあえずやりながらアジャイルに考えながらやってきましたね。

会社にとって唯一の財産である「人」にお金をかける大切さ

山寺:うちみたいな会社は、設備や土地があるわけではなくて、財産は人しかないので。人にお金をかけるというのは、長く働いてもらえるような仕掛けだったり、心理的安全を確保したり、多様性を高めることでしかないなと思ったんです。それで、ここ10年くらい残業とかはしたことがないですね。

たまにお客さんの都合でサーバが止まったりしたら対応しますが、別の日にちゃんと休んでもらいます。基本週休3日くらいでもいいかなと思ったりもしているんですけど、1回やっちゃうとなかなか戻れないので。

今は25人くらいの会社で、労働管理しなくちゃいけないので一応タイムカードは取っていますけど、時間もほぼ見ていないです。別に早く帰ろうがなんとも思わないし、もしみんなで30人しか乗れない小さなボートで、1人だけ漕いでいない人がいたら、この規模の会社であれば明らかにわかるじゃないですか。

だから労働管理は、基本的に信頼してやったほうが圧倒的に楽です。小さい地方のスタートアップに来るような、意識が高いというか変わった子を伸ばすには、基本的にはあまり管理しない方向でやっていますね。

——なるほど。起業してからどの段階で入るかによって、かなり違いますよね。今はワークライフバランスを期待して入ってくる方も昔よりは増えているんでしょうか。

山寺:今はもう完全にそうですね。自分で立ち上げたプロジェクトをとことんやりたいという子もいると思いますけど、うちくらいのフェーズになると、昔のように仕事をしたいという子はほとんどいない前提ですかね。

例えばVCからお金をもらっていると、経営者を含めいろんなプレッシャーがあると思うんですけど、うちは好きなことをしながら、生活コストが安い地方で東京と同じくらいの単価の仕事をもらっていれば、最大公約数で見れば生活の質は高いよねと。

30人足らずの社員たちの出身地は17ヶ国、社内公用語は英語

山寺:コロナ前は1年の3分の1は海外で、3分の1は東京や神戸、3分の1は会津というかたちで、俺はほとんど会社にいなかったんですが、今は17ヶ国くらいのスタッフがいます。

——すごく多様性のある職場ですね。

※香港デザインセンターが毎年12月に開催する、1週間にわたるデザインイベント「Business of Design Week」にて

山寺:多様性があるというか、日本人の新卒は大企業・大都市志向なのでなかなか採れないんです。でも、外国人のエンジニアは世界中から尖ったこととか、おもしろいことをやっているところを探してくる子が多いんですね。

あとは、日本だと「後はよろしく」とか「いい感じにやっておいて」というとみんなやってくれるけど、外国人だとそういうのはまずないし、世界中のいろんなところから来ているのであまり常識が揃わない。英語でめちゃくちゃローコンテクストに話さなくちゃいけなくて、プロジェクトが始まる前にたくさん打ち合わせをしたり文章を書くのも、最初は「すごく効率が悪いな」と思ってたんです。

でも、ソフトウェアの仕事は、抽象的なものをいかにプログラムに落としていくのかという作業なので、ローコンテクストな話にすると誤解も少ないし、開発の出戻りや間違いも少ない。実際にやってみた後で「これは良かったな」と気づきましたね。

——オフィシャルで明示されてはいないですが、社内は英語がメインなんですね。

山寺:そうですね。たぶんうちを辞めても楽天はいつでも入れると思います(笑)。中には英語が話せない子もいるので、周りが手伝ったり、外国人もできるだけ日本語を話すようにしたり。うちの会社のコーポレートカルチャーを、みんなでがんばって作り上げている途中かなという気はしますね。

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