科学者になった長男と、実家の寺を継いだ次男

質問者4:時間的に大丈夫だったら(質問)いいですか? 本当に楽しい話をありがとうございます。めちゃくちゃ刺激を受けてます。

稲田ズイキ氏(以下、稲田):よかった。

質問者4:稲田さんご自身がものすごく能力が高いというか、ある意味頭の良い人だと思うので、これだけの実績があるんだと思うんです。大学に入る、大学院に行く、それから会社に採用される、全部は能力があってのことですよね。

とはいえ、どこの会社に行くかはあまり選べないところもあるじゃないですか。自分が本当に選べるところに行ったわけではないかもしれない。仕事の内容はもっとそうですよね、本当はやりたい仕事が別にあったのにそれができなくて、思いとは違うことをやっていた。

そうこうしてる間に、稲田さんご自身の力に見合ったすごい人たちが現れて、声をかけてくれる人が現れた。一緒に住んでくれる友だちがいるのはめちゃくちゃすてきな話だし、先生も電話をかけてくれた。ご自身で選べない、ご自身とは違う力が働いているのと同時に、定めが見えた時にインドに行ってみたとか、出家せずに家出をしていたとか。

流れや周囲の働きかけに乗ってる部分と、力を加えて逆らってなにかしらのアクションを起こそうとしてるところが、2つあるように思ったんです。稲田さんご自身は流れに逆らってるタイプか、それとも流れに乗ってるタイプかどっちだと思いますか?

稲田:すごく良いですね。自分は流れに乗ってる人生だと思ってたんですが、今言ってくださった質問で自分自身の人生が編集された気がして、「確かに逆らってるんかも」って思ったりね(笑)。すごくうれしいです。

僕自身の認識は、ほんまにさっき言ったとおりなんですが、流れに乗っている。もちろん見極めた上で流れには乗ってるんですが、「お寺を継ぐとか」とか、逃げ切れない運命みたいなものがあるんですね。

それでいうと兄は計画的なタイプなので、「寺を継ぐのはイヤだ」という自我を発揮して、小学校の頃から寺から離れる術を考えて、今は科学者をしてるんです。僕は切り捨てることがけっこう苦手なので、そういう意味では自分の運命に流されるほうだとは思うんです。

「お寺ミュージカル映画」撮影時、父親と揉めたことも

稲田:この間ちょうど友だちに人生相談したら、友だちから「稲田はなにかを切り捨てる選択はあんまりしてないけど、精一杯自分の運命を愛せる角度を探してる」って言われたんですよ。「愛する工夫をすごくしようとがんばってる。それがやっぱり、君の人生のすごくおもしろいところだよ」って言われて、「なるほど!」と思ったんですよね。

お坊さんが嫌だ。でも、なんとかお坊さんを自分自身が尊べるように、愛せるように、自分で工夫して切り口を見つけたり。結論としては運命を受け入れているが、常に角度を見極めてることなのかなと思ってます。それが結局のところ、(流れに)逆らってるのかもしれないですけどね。

質問者4:ありがとうございます。すばらしい人生だと思います。参考にしたいと思います。

稲田:いやいや。

質問者4:お父さんやお母さん、それから檀家さんがすばらしいですね。これは感想です。

稲田:そうなんですよ、そこは恵まれていて。普通はこういうのって認めてくれないんでね。厳格な寺だったらもちろんそんなことできないし、「お寺ミュージカル映画撮りましょう」と檀家さんに提案したら、「は?」って言われるようなことだと思うんです(笑)。

幸運なことに、そういうことを冗談で言っても「おもしろそうですね」みたいな感じで、全檀家が映画にも参加しましたからね。なぜか応援してくれている状態でした。

質問者4:すごい。

稲田:息子に甘い父親として、今日この話では父を協力者のように語ってきましたが、めちゃくちゃ揉めてるんですね。映画を撮りたいと言った時も「なんでそんなことせなあかんねん」「恥ずかしいやろ」と、ずっと言われてたんです。

ただ自分で「こうありたいんだ」ということを企画で主張し続けてると、周りにも認識されてくるから、「こいつは仕方ねえな」と思われるんですね。徐々に環境がならされていく。

もちろん周りと協調することは大事ですが、それで不幸せになる人がいないのであれば、できる限り自分のやりたいこととか、「自分はこういうお坊さんになりたいんだ」という像を周りの人に言うと良いと思いますよ。

質問者4:ありがとうございます。

僧侶になる以前は、映画の脚本家を志していた稲田氏

司会者:他の方、ご質問は大丈夫ですか? あと1つ、2つぐらいいけそうなんですが。

稲田:実は、もうちょっとだけスライドがあるんですよね。

司会者:知ってます(笑)。

稲田:良かった(笑)。

司会者:では、スライドへいきましょうか。

稲田:そうですね。今の話ともけっこうつながるなと思ってて。

司会者:そうなんですよ。事前にご質問をたくさんいただいていたので確認していたんですが、その必要はなく、みなさん自身から自分の言葉でご質問を言っていただいてたので。

稲田:トピックスにあったので、これを最後に答えようかなと思います。あんまりビジョンもないままフリーランスになったんですが、さっきも言ったみたいに、なぜか「メタバースをやりませんか?」「煩悩をキャラクターにしませんか?」という話が来たり。実は僕は映画の脚本家になりたかったんですが、今、漫画の原作の仕事が入ってきていて。

司会者:ええ、漫画の原作ですか!? それはすごい!

稲田:自然と自分のやりたいことが舞い込んできてるという、不思議な状況でして。僕、自分であんまり営業しないんですね。SNSでやったことをただ発信してるだけで、なぜかそういうループに入ってるんです。もちろんいろんな要因はあると思うんですが、さっき言った「ビジョンを持つか・持たないか」とすごく関係する気がするので、ちょっとその話をさせてください。

「ビジョン主義」の現代社会

稲田:僕自身の人生のコツは、人生をあんまり語りすぎないことです。吉田拓郎というフォークシンガーの『人生を語らず』という曲があるんですが、僕の就活の時のテーマは「人生を語らず」です(笑)。「こういう人生にしたい」とはあまり言わずに、「こういうことが好きで、こういうことを今までやってきた」という、好きと得意だけをずっと語る。

「こういう未来を望んでる」というビジョンをあんまり言わない人生ですね。ちょっと逆説的ですが、(人生を)思い描かないがゆえに自分の人生を何度でも語り直せる。

語りすぎてないから、「もしかしたら、俺の人生はこういうことだったのかも」「物語を作る人生だったのかもしれないし、『自分自身とは何だったのか』を考え続ける人生だったのかもしれない」とか、いろんな意味で語り直すことができる。ゆえに「稲田さんだったらこういうことできそう」という依頼や企画が来てるのかなと、根源的な部分を考えてます。

というのも、今はビジョン主義というか、ビジョンがすごく大事だと言われるじゃないですか。特に会社には、当たり前のように必要ですよね。そうじゃないとお金が集まってこないというか。未来に投資していくのが資本主義の考え方だと思うので、なかなか人も集まらないし、お金も信用も集まらないと思うんです。

とはいえ、コロナがあってみんな痛感してると思うんですが、未来は思うようにいかないんですね。ハプニングは100パーセント起こるし、どうしようもないことが絶対に起こってしまう。そういう時にビジョンはけっこうもろいです。

「こういう人生にしたい」と思っていても、突然家族が病気になって介護しないといけないかもしれないし、突然自分が病気になるかもしれない。ちょっと僧侶っぽいことを言ってますけどね。「人生は無常である」という前提がある限り、自分の言葉によって構成された自分のビジョンや未来はけっこうもろいんですよ。もちろん、メリットもあるんですけどね。

一長一短で、良いところもあるし悪いところもあると思うんですが、僕はあんまり言語化しないようにしてます。そっちのほうが自分には向いてると思うし、柔軟にいろんなことができて楽しいですし、打たれ強い。

仏教の観点から読み解く「一生」と「永遠」

稲田:今回の資料を作りながら、僕にとって幸せとはどういうことなのかを考えていて、それがこれだなと思ったんですよ。「自分はこのために生まれてきたんだと思える瞬間に出会えること」ですね。これを言い換えるならば、「一瞬の出来事が自分の全人生を肯定するというような経験に出会えるか」。これが僕にとっては何よりも大事。

自分の人生を「こういう人生だ」と決めつけていると、この感性が錆びてくるような気がするんですよね。俺はそっちの人生を歩んだことないからわかんないけど、「俺はこのために生まれてきたんだ」「この一瞬をずっと俺の人生は忘れない気がする」という経験をずっと味わいたいので。かつ、それがすごく幸せなんですよね。

今のわかりづらい説明にポップカルチャーを添えさせてください。俺も世代じゃないんですが、小沢健二の『さよならなんて云えないよ』という曲があるんですが、これは名歌詞なんですよね。Cメロに「左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる 僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」という(歌詞があるんです)。

これは有名な話で、『いいとも』に小沢健二が出た時にタモさんが「『道を行くと、向こうに海が見えて、きれいな風景がある』。そこまでは普通なんだけどね、それが『永遠に続くと思う』というところがすごいんだ。あれはつまり、生命の最大の肯定ですね。このフレーズは、本が1冊書けるくらい内容のあることなんだから」と言っていて。

まさに僕もそういうことだなと思うんですね。自分の一瞬の出来事の経験が、自分の人生に意味を与えてくれるような経験にたくさん出会いたい。……ごめんなさいね、僧侶だからどうしても引用しちゃうんですが、それを仏教では「一即多 他即一」と言ったりします。一瞬は永遠であって、永遠は一瞬である。

仏教は一部と全部を分けないんですよね。一部は全部だし、全部は1つ。難しいけど、山を登ろうと思って踏み出したその1歩は、山を登り降りした経験と一緒だと言うんですよ。よく言われるのが、順序や部分がなくて、全部が全体であり、全部が部分である。だから、1も永遠も一緒であると言うんです。

不安定な現代社会で、人々は「拠りどころ」を求めている

稲田:まさにこういうことだなと。具体例でいうと、自分はアイドルが好きなんですが、モーニング娘。の加護ちゃんに出会えた瞬間は、「俺はずっとこの瞬間を忘れない気がするし、この瞬間のために自分は生きてきたし、これからも生きていくんだろうな」って思いました。過去も未来も越えていく出会いがすごくうれしいんですね。それが「一即多 他即一」です。

よりややこしく言うと、仏教の禅の言葉の中の「一粒の粟、ちっちゃいちっちゃい粟の中に、でっかい世界というものを包蔵して、ちっちゃい鍋で山も河も大地も煮てしまえるんだ」。僕はこの言葉が大好きなんですが、まじまじと見ると意味不明だと思います。

規模みたいなものは、実は存在してないということですね。人生というでっかい長い時間を想像するかもしれないが、それはもう目の前の出来事に尽きるんだよ、今しか存在してないんだよ、というふうに解釈できるかもしれないです。

だから僕は、人生という長い時間をあんまり語りすぎない。都度都度、何度でも人生を語り直そうというのがテーマなのかなと思っています。

とはいえ、不安じゃないですか。なぜ今ビジネス書では「言語化」や「ビジョンを持ちましょう」ということが語られるのかというと、やっぱり不安定だからなんですよね。不安だから、拠りどころが欲しいんだと思っていて。

僕はよく「拠りどころになる言葉ってありますか?」って聞かれるんですが、「言葉を置く代わりに、生き物や自分の好きなものに人生を例えましょう」ということを法話でもよくしてます。それを僕は「トーテム」だと言ってるんですよ。

トーテムポールってあるじゃないですか。どこの民族だったかちょっと忘れちゃったけど、「鷹の家」「鷲の家」「亀の家」とか、自分の家系ごとに動物が決められているんです。家ごとに決められた動物やキャラクターのことをトーテムと言うんですって。これ、すごくいいなと思ったんですよ。

人の苦しみの根本にあるのは「言葉」

例えば『死ぬこと以外かすり傷』という有名なビジネス書の言葉がありますが、人はかすり傷が多すぎて死ぬこともある。そうではなくて、例えば自分は雑誌が好きなので、「人生は雑誌のようである」というふうに、自分の好きなもので人生を置き換えるんですよ。

雑誌を編集していく中で「これは人生っぽいな」とか、コンテンツは並べ方によってすごく見え方が変わるから、これは人生も同じことが言えるかもしれない。人生の出来事をどう認識するか、その順番によって自分の人生が変わるかもしれないな、とか。そういうふうに、言葉の代わりに自分の好きな事象や趣味、概念を置くのがいいんじゃないですかとよく言ってます。

この間、一緒に「浄土開発機構」をやってるたかくらさんと言ってたんですが、ポケモンの一番昔のやつ(御三家)で「ヒトカゲ」「ゼニガメ」「フシギダネ」の誰を選ぶのか、実はここで自分の人生が決まってるよねという話をしていて。

水属性を選んだ人はずっと水に対して愛着を持ってるだろうし、フシギダネを選んだ人は草に対して自分が投影されたような、草からも自分がフィードバックしてくる経験があるよねという話をしていて、これもすごくトーテム的だなと思います。

言葉によって自分の人生を送ってビジョンを立てるのも、もちろんすごくメリットもあるんですが、やっぱりデメリットがあるし、どうしてもその言葉に縛られることがあると思っていて。なので、言葉以外の生き物や多義的な概念を置いてみることが、新しい拠りどころになるんじゃないのかなと思ってます。

仏教は「言葉は苦しみを生む原因だ」と説くんですよね。言葉は固定観念を生むから人の苦しみの根源的な原因なんだと釈迦は説いていて、そのビジョンによって苦しめられるんですよね。自分自身に課した言葉によって苦しめられることがあるんで。

そうではなくて、言葉よりももう少し複雑で、かつ有機的な概念を据えて拠りどころにするといいんじゃないのかなと思います。とりあえず、いったん僕のスライドは以上にさせてもらおうかしらと思います。

司会者:ズイキさん、本日はご講演をありがとうございました!