2024.10.21
お互い疑心暗鬼になりがちな、経営企画と事業部の壁 組織に「分断」が生まれる要因と打開策
社員が、自分の仕事に “誇り” を取り戻す方法(全1記事)
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櫻井将氏(以下、櫻井):では、バトンを佐藤さんにお渡ししていきます。よろしくお願いします。
佐藤彰氏(以下、佐藤):みなさん、お疲れさまです。今日は台風も近づいている中、来ていただいてありがとうございます。今回のメインテーマは「仕事の意義と誇りを考える」です。これは私の話をきっかけにして、みなさんが、今の「何を(が)支えになっているのか」といったところを、今日この時間の中で考えるきっかけになったらうれしいな、と思っています。
まず先に、今までこのセミナーに私も参加者側で出ていて、どちらかと言うと(これまでの登壇者は)自分で書籍を書いていたり、そもそも名前をわかって来ている、という方が多かったんですが、今回、私を知らない方が6割~7割ぐらいいましたので、簡単に自己紹介させていただきたいと思います。
東京電力ホールディングスで、今は労務人事システムの開発を担当しています。経歴では、営業、総務、法律、今回のメインテーマである損害賠償と、つい最近は3年間、会社の働き方改革……健康経営・ダイバーシティーといった部分の全社32,000人の戦略立案だったり、制度を企画するといった仕事をしていました。
よく会社で言われるのが……こういう状況(原子力不祥事)だったんですね。不祥事のあとに入社して、そのあとの平成14年に当社が原子力発電所でデータを改ざんしたというような、当時すごく盛り上がったことがあって、まさにそのときに入社をしております。そこで、現場で対応して、戻って。
出身が新潟なので、新潟の原子力発電所に行ったら、翌年には中越沖地震が世界で初めてドーンと直下で原子力を襲ったというので、そういった部分の対応をしていました。それが落ち着いて、法律(の部署)に初めて異動して、法律知識がついた約半年~1年後くらいに、東北大震災が起きて、現場で損害賠償の対応をしていました。
そのあとは、労務人事を初めてやっているというところですね。私は高卒入社なので、年齢で言うと、本日は(私が)26歳から29歳だった頃の話になりますね。ここまでをシェアしていきたいと思っています。
「どんなことをしているんですか?」というところで、実は私を知っている方も何割かいるんですけれども、この会社(内で)のキャリアを知っているというよりも、(私は社外でも)いろんなことをやっています。
会社でできることと、できないことがあって、組織の壁であったり、どうしても(動きが)遅かったり。だったら時間外、休日に自分のやりたいことをやってしまえばいいじゃないか! と。
有志でコミュニティを作って、もっとみんなでやりたいことを実現しよう! というのでやったり。もっと言えば、会社の枠も関係ないね、というので、次のシートで説明しますが、社外を巻き込んでいって作ったり。
最近では、SDGsの公認ファシリ(テーターの資格)を取ったので、カードゲーム(SDGsの17の目標を達成するために、現在から2030年までの道のりを体験するゲーム)を通して(SDGs)の理解促進をしています。
あとはリーダーシップ開発やチームビルディングといったことをやったり、実はグロービスでMBAの勉強中だったり、社会のいろんなコミュニティに入っています。
こんな、さまざまなことをやっているというところですね。「新橋・汐留を盛り上げたいな」「サラリーマンの聖地を、もっとちゃんとしたワクワクする聖地にしようよ! だってすごい会社いっぱいあるじゃん!」と、(周りを)巻き込んで、今10社以上のコミュニティになったり。
あとは、「エリアもなにも関係ないね。産官の枠も超えてしまおう!」というところで、「会社も霞ヶ関も学生も、全部巻き込んじゃえ!」と。こちらも今、30社以上が参加する300~400人くらいのコミュニティになっております。こういったことをやっているというところですね。
最近は、会社も組織も業種も自分の思い込みという枠も……そんな枠を考えるよりも、ワクワクすることを考えたほうが良いよね、というところでやっています。そういった自己紹介をさせていただきました。今日は「幸せに働く技術」というところで、『福島原子力賠償の経験を経て感じたこと』というテーマに入っていきます。
(「福島原子力賠償の経験を経て感じたこと」というスライドの)タイトルとまったく結びつかないんですが、なんとなく今「働き方改革」「幸福学」「幸せ」となると、「今よりも良くしなきゃいけない」「良くするべき」「ポジティブであるべき」といった部分の話が多いんじゃないかなぁと思うんですね。「より良いマインドセットをしよう」「より自律的に自己実現をしよう」というように。
それは現実としてどうかと言うと、みなさんの毎日は、「良いこと」「プラスのこと」よりも、どちらかと言うと「辛い」「ちょっとやだなぁ」「なんかストレス感じるな」というような、ネガティブなことのほうが、やっぱり多いじゃないですか。
なので、そういったものをポジティブにしようとすると「しなきゃいけない」というふうになってしまって、それができなくなってしまうと、今度は自己否定に走ってしまう。「なんで自分はこんなにネガティブなんだ」「(なんで)できないんだ?」と思ってしまう。
今回はどちらかと言うと、今の平常があるとしたら、その(水面)下の部分ですね。辛いことが日々多いので、そういったところでも自分を支えてくれるものとは何なんだろう? 何が自分のやっていることの意義になるんだろう?
そういったところについて、私の社会人生活で一番厳しかった震災以降3.11というテーマ(についてお話します)。(当時は)社会から否定されて、地域からも否定されて、自分自身も自分を否定して(いました)。
そんな状況の中で、なんで自分は東電社員でありえたのか? そのときに自分を支えてくれたものとは、いったい何なのか? そういったところを1つシェアをさせていただいて、その上でみなさんの今を支えているものについて、話し合いができたらと思っております。
初めに、なぜこのテーマを選んだのか? 震災からかなり経ちまして、私は社内コミュニティを作っている中で、ふと今年の3月にパッと思いついたんですね。だいたいこんな感じで、パッと思いついてすぐ行動するんですが、「あ、3月だ」と。入社して間もない震災以降の若手ももういるので、自分の3.11の賠償(の経験)をシェアしてみようかな? というのちょっと思いついてやってみたんですよね。
そうしたら、ものすごく深い時間になって。これからお話しすることは、私にとっては当たり前の話だったんです。自分自身が経験していたので、「なんてことはない」と言うと言葉は悪いですが、自分にとっては当たり前の経験だったんです。でも、「これって当たり前じゃなかったんだな。相当なことだったんだ」と気づいて。これは自分の心の中(だけ)で止めていてはいけないんじゃないか? とマインドが変わっていったんです。
その中で、実際にプレゼンしてみて……どんどん、これから沈んでいくんですが(笑)、じゃあ、「なんでそのときに自分は(会社を)辞めなかったんだろう?」「何が自分を支えてくれたんだろう?」とふと気づいて。「こういったときにこそ見える本当の意義が、今の自分を、今時点を支えてくれているものになっているんだ!」というふうに、そのときプレゼンして思ったんです。
なので、これから先の話は相当、まったく正反対の話になっていくかなと思うんですが、最後には今回(のテーマである)「幸せに働く技術」にちゃんと結びつけるような話をしていきたいなと思いますので、聞いていただきたいなと思います。
震災当時、私は新潟にいました。新潟で全法務をやっていたんですね。震災が起きて、そのときは新潟の総務をやっていたので、すぐさま緊急対策室に入りました。よくテレビで見るアレですね。あの中で10日間くらい、ずーっとそこで24時間、後方支援で福島を新潟のほうからどうやってサポートしていくか、そんなことをやっていました。
そのあと今度、福島から新潟に避難される方たちを……隣(の県)なのでバーッと避難されている、その受け入れる対応を新潟県庁とか、そういった、(福島から)来る方を受け入れてどこで避難できるか? というようなことをここ(柏崎刈羽原子力発電所総務部総務G)でやっていました。
4月に賠償組織が立ち上がって、そちらで2年10ヶ月、担当しておりました。その当時、福島第一の状況は、私もモニター越しでずーっと見ていました。これを話すとこれだけで2~3時間かかってしまうので、今回は飛ばしますが、本当にすさまじかったですね。
戦場と言うか、本当に分刻みで。5分前に危機的状況の中をなんとか乗り越えて、1回、「あーやっと水が入ったー!」と歓喜したその10分後には、またすごく重たい空気になるということの連続でした。奮発し、なんとか上手くいったと思ったら、また何かが起きるというところが、もうずーっとぐるぐる分刻みで起きているという状況でしたね。
当時、3月末に賠償組織を立ち上げる、というような(内容が)、全社に発表がありまして、そこで私は新潟にいましたので「新潟の事務所を作れ」と命じられ、現地でそのまま、こちら(柏崎補償相談センター)へ異動になりました。当時は3月11日(に事故が起こ)って、組織ができたのは4月28日なので、この時点で1ヵ月半、経過しているんですね。
このあと説明するんですが、本当に何もない状況だったんです。とにもかくにも何もない状況の中で、何かをしなければ……というところで始めた「仮払い金を速やかにお支払いする」という動きですね。これは新潟県だけじゃなくて、他に福島とか関東でも起こったということで、こちらに対応していたという状況です。
ここから、私がありのままの経験を、ただそのままの現実をお伝えします。正直、この話の先には意図はありません。そのとき、「本当に見たものは何か?」「聞いたものは何か?」「感じたものは何か?」を、そのままお渡ししますので、おそらく人によってはいろんな捉え方があるんじゃないかと思います。ただ、このあとの話には深い意図はないということで、すべて胸の中にあるものをそのまま出したいなと思います。
最初に、当時避難所と言われていたところについてです。当時、(それは)どういったところかと言うと、新潟では18,000人の方が新潟(の避難所)に来ました。当時は、やっぱり体育館だったんですよね。町民体育館とかあんなイメージです。あの中で、床に段ボールをバーンと敷いて、そこで1ヶ月半暮らして……暮らしと言っていいのか……そういった状況でした。
最初に行ったところは、360人の方が体育館にいるという、かなり大きな規模のところだったんですけれども、組織を立ち上げて、そのときに、とにかく人手が(足りなくて)……法律の知識を持っている社員なんてそんなにいないので、「人と接している人だったら」と(いうことで)、とにかく(人を)集めていたんですね。
だけど、みんな何もわからない状態。私はたまたま法律の知識があったのですが、みんなが本当に素人の状況の中、とにかく関東から新潟に30人社員を集めて、地理も何もわからないけれど、「とにかく前に出て、説明書を持って行ってこい」というような。まったくわからず、紙を1枚持って「とにかく行く!」という状況の中で、最初の体育館まわりをしていました。
4月28日からゴールデンウィークまで、何十カ所、何千人の方々に対してという……。最初に行ったときは車で、だいたい8人から10人くらいの社員で行きました。3~4チームで、個々バラバラでというところで。業務車2、3台で行って。車で避難されている方もおられて、やっぱり駐車場にも車が停まっているんですね。どういう状況かというのは容易に想像がつきますよね。中にいる人たちがどんな気持ちで我々を待っているのか。
1ヶ月半も待たせて、このような状況の中で……。当然、私どもはそれもわかっていて、車をつけて、駐車場から降りる際のことを、本当に鮮明に覚えていますね。会場に到着して車を出るときには、立つことができないくらいの状況でした。
恐かったんですね。もう喉は、しゃべれるのかどうかもわからないし、手と膝は本当に震えて、歩ける状態ではない中で、みんなで必死に深呼吸を何度もして、その中で会場に入っていきました。そこには本当に、ただ現実がそのままある、という状況でした。
どういった状況で避難していたかと言いますと、最初は「ちょっと福島のところで避難してくださいね」と。よくある近所の……例えば体育館のところで「ちょっと避難してくださいね」「もうちょっと遠くに避難します」「隣の市に行きます」「隣の県に行きます」と言って、強制的にバスに乗せられて、家に戻ることもなく、どんどん離れていって避難していったんです。
最初は、こういう状況になるというのは誰も想像がつかないですから、軽い感じですよね。軽い感じと言うというか、要は、豪雨などのときの避難所に行く、というような状況なんです。財布も通帳も、なにもかも持っていくというような、ずーっと戻れないということは誰も想像していなかったので、本当に着の身着のままだったんです。
財布もない、キャッシュカードもないといった状況の中で、体育館で段ボールの上で暮らして、段ボールの上で休む。女性の方は想像してみてください。段ボールだけです。ここ(段ボールの高さ)までは仕切っていますが、立てばもう丸見えです。
そういった中で、日中、夜もずーっと三百何十人がさらけ出されている状態で、1ヶ月半暮らしていたということ。当然カリカリしていますから、子どもが騒げば、「うるさい!」とか、そういった状況が出てきます。そういった状況の中でした。
当然、(避難所に)入ったら、「あぁ、殺気とは、こういうことをいうんだな」と。本当に、こんな我慢を強いられたら、普通に考えて殺したいと思いますよね。人から本当に恨まれる、憎しみをもたれるというのは、こういう状況なんだなという、そのままの現実でした。あっという間に日常を奪われて、いつ帰れるのかもわからない。このような状況になるとは、正直思ってもみなかった。
福島で働いていた人はもっとわかっていたかもしれないんですが、新潟の我々は、これが何週間(続く)なのか、1ヶ月なのか、2ヶ月なのか3ヶ月なのか、そういった時間軸で考えていたんですね。まさかこんなに……5年、10年なんて、このときには本当に思っていなかったんです。
それは避難された方々も一緒で、何年戻れないと思って(避難所に)行っているわけではないですから。「いったい、何週間、何ヶ月なの?」というようなところでした。実際にいただいた声で「いったい、いつになったら帰れるのか? 苦しみはいつまで続くのか、教えてくれ!」と。「いったい、いつまで、何日我慢すればいいんだ!」というような。
「東電は『努力する、努力する』と言って、何を努力しているのか、教えてくれよ!」というようなコメントだったり。最初に避難した場所が違うと、そこから強制的にバスに乗って強制的に(避難所へ)行くので、あるバスは新潟に行ったり、あるバスは群馬に行ったり、あるバスは埼玉に行ったりという……本当にそういう状態だったんです。
だから、強制的に(家族が)バラバラになったっていうようなところも。仕事はないし、収入も止まっていて、財布もない、キャッシュカードもない。「小学校の息子がストレスで病気になった」というのは、私も今、5歳の娘がいますので、本当に辛い言葉でした。「どうしてくれるのか? 俺は我慢できるけど、なんで子どもがこんなに苦しまなきゃいけないんだ!」というのも辛かった。
「新築で、子どものために精一杯、勉強部屋を作ったんだよ。椅子も机も買って、子どもも喜んで勉強していた……なんで今、段ボールの上で勉強しなきゃいけないんだよ? なぁ、教えてくれよ!」というようなコメントであったり。
「仕事を、夢を、生きがいを失って、いったい何が残るのか?」。「人間であることを忘れないでほしい」という言葉には、「私たちが人間であることを」というところと、「あなたも人間だよね?」という2つの意味が込められていました。
こういった苦しい意見を、本当に多くいただきました。「なんで? どうして? なぜ私たちがこんな思いをしなければいけないのか?」。本当にこういった思いが、ずーっとぐるぐる、どの会場に行っても渦巻いていたということです。ただ、その中でも、こういった言葉もあったんです。
厳しい言葉が出るんですが、終わったあとには……「東電は憎いが、あなたは違う」「東電の社員が一生懸命がんばっていることは、わかっているよ、俺たち」「体を大事にして。体が資本なんだから」というようなコメントであったり、「大変な中、来てくれてありがとう」というような感謝の言葉。これは1カ所とかではなくて、本当に多くの箇所で、こういった言葉を最後にはいただきました。
これが本当に辛いんですよね。優しい言葉をかけてもらう。さっきの(厳しい)言葉は、起こした当事者、会社ですから、当然の話なんですが、その中でこういった(優しい)言葉が出てくると……思っても(みなかった)……。やっぱり最初、ビクビクして入るわけですよ。
怒っている方々は、怒りたくて怒っているわけじゃないんですよね。もともと、本当に優しい気持ちを持っているのに、そういうふうな感情にならざるをえなかった。もう抑えられない、そういうものが出てくるというような、そういったものが現実だった。それを聞いて、本当に恥ずかしくなりました。それを恐いと思ってしまっていた自分。これはもう現実なわけですね。
(みなさんの気持ちを)聞いても変わらないし、(自分が)何か言っても変わるわけではない。今あるのは現実の日々と、誰かがそこに向き合わなきゃいけない。じゃあ、その誰かとはいったい誰なんだ? というのがその当時、思っていたことです。これは私自身が、その当時「自分はこの事故を起こした犯罪者だ」と。この現実は、誰が起こしたんだ? 私が起こしました。当時はそう思わなきゃ、向き合えなかったんですね。
目の前の、本当に過酷な現実そのものに。「それは会社が」「それはあそこが」と言ったら、もう自分はとてもそこの現実には向き合うことができない。なので、責任感からというよりは、そう思わないと、自分はその現実に向き合えない状況でした。このとき、誓いました。「もう絶対に涙は流さない」と。(涙は)出ますよ。出ますが、泣いたところで、その人の明日にいったいなんの変化があるのか? と。
それはもう、ある意味自己満足だろ? ということで。これはこのとき、誓いましたね。「心はないのか!」とか、いろいろ言われましたが、それで現実(が)良くなるわけではない、と。そこは受け止めなければいけないというところをマインドセットしたというところです。
犯罪者として、目の前の苦しみなり、悲しみ、絶望、そのすべてから「自分が起こしたので、一切目を背けずに、逃げない」と決めました。それが結局、自分は現実を変えられないので、これしかできなかったんですね、その当時。このような気持ちで対応していたというところですね。
ただ、この想いだけだとつぶれてしまう。真面目に向き合う、しっかりと話を聞く。……言葉は綺麗ですが、それを思ってやって自分がつぶれてしまったら、誰がそのあと向き合うんだ? という話になるので、それでは本当の意味で責任を果たせないだろうというところで、なによりも、どんなに厳しい状況でも、前向きさを失ってはならないな、と。つぶれないために、どうやってこういうふうに思うか、こういったところをそのとき、考えていました。
実際にどのように私個人がマインドセットをしたのか。ここからは誤解を生じるような言葉もあるかもしれませんが……。(私は)当時26歳でしたが、会社の中でも26歳で、最初の土下座をするような状況からいた社員は(他に)いなかったんです。だいたい30代後半から40代、50代の社員が行ったんですが、私は法律、司法をやっていたことと、新潟もよく知っていたので、それで例外的に行ったというところで。
1万8,000人、トータル十何万人の方が避難されている、何百人に対して憎しみを持たれて、向き合う。この経験をしている人は、世界でいったい、どれだけあるんだろう? と。これだけの規模の……それを今、26歳でしているということは、すごく大きな試練だけれども、この経験が自分の人生にとってすごく糧になるのではないかな。
それを26歳で、その場にいるというところ……。これは神様がくれた、「お前、成長しろよ!」という大きな合図だったんじゃないかと。そういうふうにこのときはマインドセットをして、前向きさというのを(持って)しっかりやろうと思って取り組んでいました。
今のが、ゴールデンウィークまでの話ですね。そのときは本当に辛かったです。賠償もわからなかったんです。何が払えるのか? いつまで伸びるのか? 国が専門家を集めて、審査(して)、指針をつくる会ができて。そこから指針が出ないと我々もわからなかったんです。
なので、「いくら払えるかわかりません」と。「国が今、検討しているので、その指針を待って」としか、本当に言えなかったんですね。「指針じゃない、お前らがどうするんだ!」「すみません、国の指針を待って……」そういったことをひたすら言い続ける日々でした。
そんな中で、先ほど畜産の(風評)被害もあったりというところで、9月の中旬だったと思います。そこでやっと国の指針が8月末にできて、急いで会社の請求書とか指針に沿ったものを作って、本賠償が始まったというところ……。
正直、言葉としては語弊がありますが、このときはうれしかったです。「やっと向き合える」と。やっと目の前の損害に対して我々として示せるものができた。現実は変えられないから、やっとその現実に沿ったものを、すぐさま対応できる。
今まで、何も渡せなかったものが渡せるというところで、このときにまた福島まで行きましたし、新潟、富山、石川のほか、当時は長野などへも行って、そういったところで説明会をやりました。
個人と企業向けの賠償が始まりました。私は当初、個人の方の最初のピークのところを対応して、すぐさま……どちらかと言うと私は企業、農林畜産業、あとは地方公共団体といった、複雑な部分を対応していました。新潟と富山と石川と福井と長野県といった部分で。福島の企業というよりは、その他の県外企業の賠償をやっていたというところです。なので、そもそも賠償になるのかどうかと言うと、ならないんですよね。
福島だったら、エリアとして営業できないという(のが)、ある意味明白なんですが、新潟と長野が、なんでそこで結びつくのかというのは、法律知識で結びつかないと、基本はエリアとして払えるものではありませんでした。払えるかどうかわからない中での賠償が始まった中で……(私は)童顔と言われるんですが、当時26歳なので、今より7年前はもっと童顔だった。たぶん新入社員ぐらいに見えたんだと思います。
そんな者が、何十億、何億、何千万というような損害賠償の交渉の場に出てきてしゃべるというところで、「なにを若造が出てきてるのか?」「ふざけてるのか、東電は!」というようなスタートで、もうマイナスですよね。「舐めてんのか!」と。「こっちは会社が潰れるかどうかの中で!」というところで(話し合いを進めて)いく中で、どういうふうに信頼を構築できるのかというハードルがそもそもありました。
でも、ここもちょっと逆手にとって、異常な若手が行くということは、(これは)異常です、と。私が異常なんです、というふうに、ちょっと演じていたという感じですね。ここの場を任された異常な26歳です、と。つまり、この会社の先を背負っているから、今、私はここにいるんですというくらいな部分を、その当時、言動とかで(醸しながら)やって、あとは理路整然と話して、信頼関係を作っていく。
だから「むしろこの担当で良かったね」と言わせるような、そうした、ちゃんとした対応をしようとやっていました。ここから、いろいろ賠償も考え方が整理されていって、どんどん進んでいく。3ヶ月前に対して払っていたのが、2ヶ月前に対して払える、1ヵ月前に対して払えるというふうに進んでいって、少しずつその方の困っているものの金額の部分を、整理してやっていけていました。
「困っている。こういうことがある。すぐに来い」と言われたら、行って話を聞けて、ちゃんと手続きを進めることができた、というようなところがあったんですね。なので、「困っていたら、すぐに行きます」と。企業でも難しいことでも、私が対応して、法律系の知識があるので「こうこうこうです」というので、けっこう信頼関係も結べていて、ちゃんと向き合えていると思っていました。
そんなときに、2013年……(震災から)1年半か2年後くらいですね。けっこう経って、私自身、悪く言えば賠償に慣れていて、損害とかいろんな業種の事業形態などがわかってきて、(どんな質問にも)すぐにお答えできるというようなときに、このような話があったんです。ある意味、自信があったというところですね。
そういった中で、新潟に本社がある会社、福島にも事業所がある会社。福島の事業所はもう営業ができないので、新潟に避難されて、その新潟の事業所で働いているという方が、お一人いました。その社長から損害賠償について普通に相談を受けて、普通にお伺いして。
(スライドの)こういったことがあったこと自体は、私も1週間前か1週間半前に新聞の記事でも見ていたんです。なので、(あった)ことはわかっていた。まさかその方が新潟にいて、そこで会うということは想定していなかったんですが……どういった話かと言いますと、このときはもう(原発事故から)1~2年経ってますから、(福島に)一時帰宅ができるんですね。
1日泊まって、物の整理だったりそういったものを(するのに)2日間、実家で過ごせますよ、というようなところまで進んでいたとき、40代半ばから50代くらいのご夫婦が一時帰宅をして、家で過ごして……。
本当に数年ぶりに家で過ごせたな、というので、いつもは布団を2枚並べて寝るんだけれども、そのときは奥さんが「せっかくの家だから、一緒の布団で寝たい」と言うので、同じ布団に入って休まれたと。非常に幸せな時間を過ごして。
それで、朝起きたら奥さんの姿がないので、家の外に出たら……(家の)隣に、家と(一緒に)育ってきた、2人で育てたお気に入りの大きな木があって、その横で焼身自殺をされていた、というような話なんです。
その方も本当に、淡々とその事実を話されていて「いや~、こうこうこうで、妻と一緒に寝てたんだよ。そしたら朝いなくてさ。見たら木の横で……死んでたんだよね」というような。事実をまだ受け入れられていないというか、現実が現実のように感じられないという……こういった話を直接聞いて、このときだけは涙を抑えることができなくて、不覚にも泣いてしまったんです。
そのとき、思いました。「自分はいったい、今まで何をやった気になっていたんだ!」というところですね。現実は残酷で、もう戻ってこない、取り返しがつかない。自分は2年間、何をそんなに賠償をやった気になっていたんだ、と。
今振り返って感じると、「やっぱり、やった気になってはいないか?」と。今も、自身がこの福島に対して。私はあの厳しい現実を見ていたので、現実を知ると、もう簡単には語れない。でも、踏み出さないと、変わらない。前向きさがないと、続けていけない。こういったところが、当時の私の損害賠償の3年間の話でした。
これは、ぜんぜん仕事の意義、誇りといったことには結びつかないと思うので、東京電力全体の話を2つだけシェアしたいと思います。1つはこちらです。福島第一の、事故の対応ですね。今のは賠償というところでした。もう1つありますね。東京電力の1つのキーとなる当時の福島第一原子力発電所の現地で働いていた社員。
私は、ただただ犯した罪に対して向き合う、償う、というような対応をしていましたが、一方でその中でも、本当に厳しい状況、いつどうなるかわからない中で、現地にいた社員もいたということです。
これは公表している資料の中から抜粋したんですけれども、こういった死を覚悟しながら、対応していたという社員もいたというところですね。指輪は汚染されると、捨てなきゃいけないんです。でも、自分が死んだときにわからなくなると困るので、指輪をつけていたというような声があったり。
親に、家族に「伝えた」とか。このへんは、うちの社員がよく言っている、「あー、こういう声……そうだな」というところですね。3号機爆発の知らせで、死を覚悟した、と。交代が来てくれるのはうれしかったんだけれども、その人にその思いをさせるのが非常に心苦しかった。本当にここで代わっていいのか? というような声があったり。
電気を送るという仕事をしていたので、台風などがあると、反射神経として、みんな急いで現地に行って、とにかく(電気を)つけなきゃいけない、という風土があるんですね。自分たちがやらないとそれが止まってしまう、止まると何が起きるか? というところで、こういった対応もしていたという職場もあったと。
もう1つ忘れてはならないのが、計画停電ですね。東京電力の経営理念は「エネルギーサービスを通じて豊かな社会を作っていく、そこに貢献していく」ということで、東京電力の存在そのもの、意義なんですが、計画停電は、その理念に背く行為なんですね。
だから私も、直接対応をした社員に話を聞いたことがあるのは、電気を止めないために我々は何十年と働いてきたのに、その電気を止めるというボタンを押さなければいけない、今までを裏切るような……。そのときは、その職場では、みんな本当に泣きながら、本当に震えながら、(ボタンを)押したという話を聞いています。
こういったところが、その当時の東京電力の置かれていた、単なる現実のシェアというところです。では、このときに、我々は何が支えだったんでしょうね? というところの本題に入っていきます。1つ動画があります。これが、社員の生の声、メッセージかなと思うので、こちらをシェアさせていただきたいと思います。
これは……2015年とかそのぐらいだと思うんですが、震災から3年ぐらい経っていたときに、ある程度事故も落ち着いて、もう大きなことにはならないという状況の中で、社員が本当に闇の中にいたというところで、社長が各地を回っていたんですね。
その中のある回で、社長オープンミーティングというのをいろんなところでやっていて。その中の1つとして、事前にとったアンケートの声をまとめて、社長オープンミーティングの始まる前に流した動画になります。こちらをちょっとご覧いただけたらなと思います。
(動画視聴開始)
みなさんからいただいた事前アンケート
会社を「やめたい」と思ったことがありますか? それはどんな時に思いますか?
「将来への不安を感じた時。」「自分の会社名を周囲に言えない現状。」「テレビで自分の会社が非難されているのを目の当たりにした時。」「他の仕事に就いた妹より給料が少なくなった時。」「社外の友人に賞与の話を聞いた時。」「お客さまに『東電は嘘つきだ』と言われた時。」「同期が同僚が次々に退職していく。」「東京電力に勤めていることが自分以外の家族に迷惑をかけていると思った時。」「先輩社員や上司から過去の自慢話や怠惰な会社生活について話を聞いた時。」「仕事で失敗した時。」「仕事に対して知識が低く自分が必要ないのではと感じた時。」
仕事への誇りやりがいを感じていますか?それはどんな時に思いますか?
「お客さまから励ましのお言葉をいただいた時。」「苦労した案件が無事に解決した時。」「上司やGMに『よかった』『助かった』と声をかけられた時。」「褒めていただいて自身の成長を感じた時。」「自身が設計した設備が完成した時。」「停電の緊急対応時にお客様から『ありがとう』と言われた時。」「自身が供給に携わったコンビニで買い物をした時。」「東電への不利な報道が続くなか 安定した電気を送り続けようと一生懸命取り組む同僚がいる。」「停電地域の復旧作業で送電の際に明かりが灯る光景を見た時。」「メンバーと協力して目標達成した時。」「自分の受付したお客さまの力になることができたと実感した時。」「福島支援活動に参加し会社再生のための貢献ができていると感じた時。」「私の将来の目標は『若手の手本になる存在』。」
語りあいましょう大切な仲間と会社の再生についてそして私たちの将来について
(動画視聴終了)
本当にその当時の社員の想いだとか、(社員)全体に話をして、「そのとき支えてくれたものが何なのか?」というところが、この動画の最後に出ていたメッセージですね。正直、月並みかもしれないんですが……本当に厳しい中で、新潟県も賠償も法律も知らなくて、しかも原子力もわからなくて、なんだかわからない中で来ている社員の人たちが、何も愚痴も言わず、「いいから行ってこいっ!」というところで。
(法律や新潟の地理を)知っている私ですら、恐怖で動けないのに、地理もわからない中で、(避難所にお詫びと説明に)行ったという社員のメンバーの背中を見て、当時、涙で見えないくらいでしたし……最終的に何が支えてくれるのか? というところの1つのワードは、仲間かなと思っています。
今、辛い中で、一緒にがんばっている仲間がそこにいる。見えないところで違うことで、さっき、がんばって計画停電の中で必死にそれを短くしようとしている仲間がいる。そういったところが、ギリギリのところで支えていた、というところだったかなと思います。
施策とか、会社としてどういった方策をしていたのかというのは、けっこういろんなことがあって、ちょっと今日は時間が足りないと思うので、私からのプレゼンは、ここまでとさせていただきます。
本題である、みなさんの、今やられていることの中で、意義。必ずなにかに繋がるはずなんですよね。無駄なものなんて、絶対にないはずなんです。それを参加者のみなさんで対話をする、そんな時間になったらいいなぁと思います。ありがとうございました。
(会場拍手)
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