河野太郎氏の生い立ちから、これまで

河野太郎氏:こんにちは、河野太郎です。みなさま聞こえていますでしょうか。

こうやって誰もいない場所でカメラに向かってしゃべるというのは、自分の声が相手に届いているのかわかりませんね。レンズの向こうのみなさんが、起きてるのか寝てるかもよくわかりません。「実はみんな寝ていたらどうしよう……」と思いつつ、緊張しています。本日はどうぞよろしくお願いします。

私は昭和38年1月10日に生まれました。慶應義塾大学を作った福沢諭吉さんと同じ誕生日なもんですから、私が慶應にいた時は「俺の誕生日だからみんな休みなんだぜ」と言っていたりもしました。

そして神奈川県の平塚で育ちました。箱根駅伝の3区〜4区の中継点が平塚にあるものですから、子どもの頃から箱根駅伝を毎年見に行って「いつか自分も箱根駅伝を走る」と思って、ずっと陸上競技をやっておりました。

慶應義塾大学の在籍中は、部内で上位10選手中に入れるかな……と思っていましたが、そもそも箱根駅伝に出場できる15校の枠に入れるかどうかわからない。そこで箱根駅伝を断念をして、アメリカに留学することを決めました。

アメリカから帰国すると、小林陽太郎さんという名経営者が率いていた富士ゼロックスに入社をしました。日本初のサテライトオフィスの実験を埼玉県の志木ニュータウンでやりましたが、その現場責任者をやったりしました。

その後、富士ゼロックスでシンガポールに2年間駐在をしました。その後、富士ゼロックスを辞めまして、地元の自動車部品を作る会社に転職をしました。「1個何銭」という部品を月に何億個も作って、自動車メーカーに納める。あるいは家電メーカーに納める。そういう仕事をしばらくやっていました。

そして33歳の時に、初めて選挙に出て当選をしました。それからもう24年になります。

「未だに乗り越えられない」と語る、自身の病気

そんな自分ですが「壁にぶち当たってそれを乗り越えた話をしろ」と言われまして、この場に立っています。

おそらく、僕が生まれて初めてぶち当たった壁に対しては、正直に言うと未だに乗り越えられておりません。私は子どもの頃からアトピーが酷くて、小児科の先生から「太郎ちゃん心配するな、大人になったらアトピーは治るんだから」と言われたのですが、まだ治っていません。まだ大人になりきれていないのかなぁ、と思っています。

僕はもし自分がアトピーでなかったら、たぶん人生が随分こう……変わってただろうなと思うこともありますが、今更そんなことを言ってもしょうがない。

「ステロイドをやめよう」とか「あのお水がいい」などの民間療法に惑わされずに、標準療法とステロイドを正しく使っていけば生活も仕事もきちんとできる。アトピーはそういう病気だと思っています。

もし、この動画を見ている人の中でアトピーの人がいたら「標準療法できちんとアトピーをコントロールしていこうよ。対応できる病気なんだから」と思います。

なので僕は、安倍(晋三)さんがご自身の病気で総理を辞めなきゃならなかった時「本当に無念だろうなぁ」と思って、会見を見ていました。

健康な状態であれば、多少気合いを入れれば、いろんなものは乗り越えることができます。ですが健康でなければ、がんばろうという時の最後の踏ん張りが効かなくなってしまう。だから何をおいても、健康管理は大事ですよね。それが50年以上アトピーと付き合ってきた、私の想いです。

ぜひ健康な状態を維持していただいて「ここさえがんばれば、あとは大丈夫だ。突破できる!」というつもりで、日々を過ごしていただければと思います。

やらずに後悔するより、やって反省したほうがいい

さて、自分の人生を振り返ってみると、いくつか分かれ道がありました。たぶんその分かれ道の一つひとつが“壁”だったんだろうなと思うんですけれども。分かれ道に来る度に、私は立ち止まりました。その度にどうしようかと考えますけども、結局は一歩を踏み出してきました。

たぶん、やらずに後悔するより、やって反省したほうがいいんだろうと思いましたし、次につながるんだと思うんです。だから「迷ったらやってみる」が大事だと思います。

私の人生の最初の大きな節目は、ずっと箱根駅伝出場を目指して中学高校と陸上の長距離を走っていましたが、箱根駅伝の夢を諦めてアメリカへ留学しようと決断したことです。

当時はまだ冷戦時代で、米ソが対立をしていた頃ですけれども、世界的には英語が完全に主流になっていました。外国に出ていくなら、英語がしゃべれないと使い物にならない。そう考えて英語を身につけようと考えたら、早いうちにアメリカへ行って英語の勉強をしっかりする。それをやらなきゃダメだと思って、一生懸命、親父を説得しました。

「なんでこんな時期にアメリカに行かなきゃいけないんだ。大学を卒業して、自分で稼いで自分で大学院に行けばいいだろう」、親父はそう言いましたが「いやいや、学部で行くから英語がうまくなるんだ。だから学部で行かしてくれ」と言ったんですけど、親父はぜんぜん聞いてくれませんでした。

ある時に「東京のアメリカ大使館でパーティーがある。お前の英語がどれぐらい通じないものか、連れて行ってやるから体験してみろ。そうしたらアメリカに行きたいなんて言わなくなるだろう」と親父に言われまして、アメリカ大使館のパーティーに行ったことがありました。

そこにいるアメリカの人に「俺はアメリカで勉強したいんだ。だけど親父がダメだと言っているから、ぜひ親父を説得してくれ」と言いました。いろんな人と話をしたら「お前、慶應大学なんだろう。いい大学だから、そこを卒業してからアメリカへ来い」とみんなに言われました。

すると帰りの車の中で親父が、ぼそっとこんなことを言いました。「みんなお前のアメリカ行きには反対だな。でもみんな反対って言うなら、おもしろいから行ってみろ」っと言われまして。親父の中のなにかが逆転して、アメリカへ行けることになりました。

「こんなはずじゃなかった」

これは自慢ですけども、私は中学高校と英語で「A」しか取ったことがありません。それでもいきなり大学に行って、英語が通用するとは思っていませんでした。ですから、とりあえずアメリカの全寮制の高校に編入させてもらって、1年英語を勉強してから大学へ行く。アメリカの大学は3年で単位を取って卒業できますから、留学は全部で4年間。そういうプランでした。

そして意気揚々とアメリカへ行ったんですが、初日から英語がまったく通用しなくて「こんなはずじゃなかった」と感じました。とにかくサマースクールに行った高校の敷地があまりに巨大だったものですから、どこに食堂があるのかわからない。

「どこで飯が食えるんですか」と聞いても、私の英語が相手に伝わらない。ようやく伝わって「食堂はあそこを上がって、左に行ってなんとかかんとかで……」って、また聞き取れない。結局、初日はご飯が食べれないという有様でした。

次の日、テキサスからルームメイトが来たので「ご飯を食べたい」というジェスチャーをしたんですけど、1980年代のテキサスでは、箸でお米を食べる習慣はなかったんだと思います。

ルームメイトはじっと私を見ていて、何をやっているかわからなかったんだと思います。しばらくして「Are you hungry?」と言われて「そうそう!」と。ようやくジェスチャーが伝わってうれしかったことを、本当に昨日のように覚えています。

英語が得意じゃないのは「That’s your problem」

そんな高校生活で英語の特訓を1年間続けまして、ワシントンにあるジョージタウン大学に入ることができました。大学では、後に国務長官になった(マデレーン・)オルブライトさんという、女性教授のセミナーに入りました。

十数人のアメリカ人が座っていきなり議論をする。そんな内容でしたので、私は聞いているだけで精一杯。いろんな人がいろんなことを言っているのを、じっと聞いていた。それが最初の授業でした。

そうしましたら、授業が終わった時にオルブライト先生に「ちょっとお前、残れ」と言われまして。「お前はやる気がないな。やる気がないんだったら、次からくるな」と言われました。

「いやいや。私は日本から来た留学生で、英語もそんなに得意じゃなくて……」と一生懸命に弁解を始めたら、彼女は一言「That’s your problem」つまり「それはお前の問題だろ」と言いました。

このままだと授業に参加できなくなると思って、とにかく次の時間からまずしゃべる。アメリカ人同士が議論している中に割って入るなんて到底できませんから、とりあえず授業が始まるか否かの時にしゃべりだす。

そのうち、他のアメリカ人に話題を持っていかれちゃいますけども「とりあえず今日の分のノルマを果たしたぜ」という感じで、なんとか大学を卒業できました。

国務長官マイク・ポンペオ氏との出会い

私が外務大臣になった時、私のカウンターパートだった(マイク・)ポンペオさんという国務長官がいました。このポンペオさんは、本当に政治家らしい人でした。

昔、日本にはよく「ニコポン」と言われる政治家がいました。ニコニコって笑って、肩をポンと叩く。非常に親しみを感じさせる、という意味の言葉なんですけども。このマイク・ポンペオという人も、ニコニコっとして「いや、会いたかったよ〜!」と、本当に親しげに話しかけてくれるんですが、会談になると大事なことは何一つ言わない。

ヨーロッパの外務大臣たちとしゃべっていると「ポンペオという国務長官は、愛想はいいけど重要なことを何一つ言わない」と。みんなそう思っているんだなと思いました。

それがある時、2人で朝ごはんを食べながら北朝鮮問題の話をしている時でした。彼が「はぁ〜」ってため息をついたんです。よっぽど北朝鮮との交渉が大変だったんだと思うんですね。

「いや、マイク。北朝鮮との交渉が大変なのは、日本人はみんなわかっている。あんたが苦労しているのは、我々はよくわかっているから気にするな。我々でサポートすることは何でもするから」と言うと、いきなり「交渉はこうなんだ」という話を始めました。

それ以来、いろんな本音の話ができるようになりました。またある時朝飯を2人で食べていると、今度は彼のほうから「おい、太郎。お前のちょっと個人的なことを聞いてもいいか」と言われたことがありました。

「なぜお前はいつも、直截的なしゃべり方をするんだ?」と言われて、私もちょっと驚きました。「俺の英語は、アメリカの高校大学で勉強した英語だから学生英語なんだ。外交官みたいに、持って回った言い方はわからないんだ」と伝えました。

すると彼はゲラゲラ笑いだして「それはお前の個性だから、それでいいんじゃない?」と言いました。それ以来、随分仲良くなったと思いますが、これからの21世紀は若いみなさんに世界へ出ていってもらいたいと思っています。

若いうちに恥をかいておくこと

世界へ出ていくためには、やはり英語ができないと勝負になりません。ぜひ外へ出ていって、少なくとも英語で議論ができる。英語でビジネスの話ができるようになってほしいと思います。

AKB48はなかなか海外へ行きませんけども、BTSは一気に世界のヒットチャートでトップに立った。その違いは、本当に大きいと僕は思っています。

日本で世界に通用するコンテンツやサービスやプロダクトは、本当にいろんなものがあると思いますが、結局、1億2,000万人のマーケットしか相手にしてない。70億のマーケットを相手にできない。これは本当にもったいないと思っています。

僕は初当選した時に「いずれは外務大臣をやりたい。いずれは総理大臣をやって、外交をやりたい」と思っていました。だから、とにかく外へ出て英語のやり取りができなかったら、通用しないだろうと。その時に何が大事かを考えて行動するようにしていました。

例えば本日の講演ですが、40分のうち30分をしゃべって、10分間は質疑応答。そういう時間割になっています。ですが海外に出ると「1時間の講演をやってください」と言われた場合「10分〜15分だけしゃべって、残りの45~50分で質疑応答をやってください」というのが、当たり前なんです。

日本みたいに「50分しゃべって10分質疑応答」ではないんですね。なので、それに慣れるために武者修行だと思って、海外から講演オファーがあったら行きました。たぶん、相当に頓珍漢だった時もあったと思います。

ですが若いうちに恥をかいておけば、いずれ閣僚や首相になった時に、海外での講演はすでに練習済みの状態になっています。「総理が外国で恥をかいたら国の恥ですけども、新米議員の恥は自分の恥だ」と思ってどんどん出ていきました。なので、ぜひみなさんには若いうちから世界へ出ていっていただきたい。日本国内で満足せず、世界へ出て行っていただきたいと思っています。