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スポーツは誰のもの? ジェンダーの視点を通してスポーツを見てみよう(全4記事)

2019.11.14

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スポーツの種目が「男性/女性」に分かれたのはなぜ? “気晴らし”から始まったスポーツ近代化の歴史 

提供:渋谷男女平等・ダイバーシティセンター<アイリス>

2019年9月14日・22日の両日、「渋谷からガラスの壁を壊そう! スポーツとジェンダーの平等」が渋谷区文化総合センター大和田で開催されました。オリンピック憲章にある「性別、性的指向による差別の禁止」に着目した本イベント。同性愛者の現役アスリートやジェンダー論の研究者などを講師に招き、スポーツ界におけるジェンダー課題の現状と未来像などを語りました。本記事では、「ジェンダーの視点を通してスポーツを見てみよう」と題したトークセッションから、城西大学の准教授 山口理恵子氏が語った「スポーツ近代化の歴史」の講演の模様をお送りします。

ジェンダーの視点でスポーツを見てみよう

山口理恵子氏(以下、山口):山口です。よろしくお願いいたします。今日は「ジェンダーの視点を通してスポーツを見てみよう」という話をさせていただこうと思います。

(このイベントに先んじて)DAY1があったということで、その9月14日にどんなお話があったのか。その内容とどう関連していくのかについて、みなさんに共有したいと思いますので、まずは野口さんから前回のお話をしていただこうと思います。

野口亜弥氏(以下、野口):DAY1の2講座目で講義させていただきました、野口と申します。DAY1では主に、スポーツのなかでセクシュアルマイノリティーやLGBTQなどの当事者の方々にどういうことが起きているのかをお話しさせていただきました。

これは、当日参加してくださっていた、ののさんがグラレコ(グラフィックレコーディング)をやられている方で、当日描いてくださったものです。とてもわかりやすくまとめてくださったので、使わせていただいています。

私が最初にスポーツとジェンダーという、なぜマイノリティーの当事者たちが平等にスポーツに参画しづらい状況にあるのか、という背景をお話させていただいたあとに、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーはそれぞれ別々の課題も抱えているんですよ、という話をさせていただきました。

カミングアウトは人に強制するものではない

野口:そのあと、日本の現役アスリートで唯一カミングアウトしている、女子サッカー選手の下山田さんとトークセッションさせていただきました。女子サッカーの中では「メンズ」という特殊な呼び方があって。彼女は、メンズという言葉で自分のセクシュアリティを認められたことが、カミングアウトのきっかけだったというお話でした。

彼女はドイツでもサッカーをしていたのですが、カミングアウトする前とした後の、日本とドイツの違いもお話してくれました。どちらかというと、ドイツでは同性愛は当たり前で、むしろ「どっちが好きなの?」と聞いてくれるような文化であったという話をしてもらいました。

下山田さんは今は日本のチームに所属しているんですけど、最初は彼女がLGBTのアスリートとして前に出ることに対して、フロント側、チーム側は大丈夫かなと心配をしていたそうです。今はチームの名前が前に出るんだったら歓迎だよということで、逆に日本のチームも、それをリスクではなくチャンスとして捉えてくれているというお話をしてくれました。

カミングアウトしたからといって、多くの人たちは「LGBTの人」として見るよりも先に「アスリート」「サッカー選手」として見てくれるので、別にカミングアウトはマイナスにはならないという話でした。ただ、カミングアウトしたくない人もいるし、自分のありのままを表現することで救われる人もいるので。どちらでもチョイスできるような環境を作っていくことが一番大切で、カミングアウトは強制することじゃないよねという話もしました。

「目に見えないけど存在するもの」としての空気づくりの必要性

野口:日本だと、サッカー選手にもわりと女の子らしい姿が求められることがあるんですが、ドイツでは思い思いの自分らしさで良いようです。セクシーなスタイルで写真を撮られたいと思う子もいれば、たくましくパワフルな感じで撮ってほしい子もいて。選手の自主性がより自由に許されているのがドイツだったという話でした。

最後に、まだ(外からは)可視化されていないLGBTの当事者の子どもたちに対して、スポーツ界からどんなことができるのかという話になりまして。まず最初に、当事者がいることを想定して、ガイドラインや制度、ポリシーなどをしっかりとクラブの中で整えなきゃいけないねという話になりました。

指導者が「男らしくしなさい」「女の子らしくしなさい」「女の子なんだからこんなことしちゃいけないよ」と言うのではなく、「あなたらしくいることが重要だよ」という声掛けをしたり。

それは例えば、部内の恋愛の話をするときに、女子サッカー選手に「彼氏いるの?」と聞くんじゃなくて、「彼氏とか彼女はいるの?」「パートナーいるの?」というように、当事者は可視化されていないけど、存在しているという想定で空気感を作っていくことが大切だね、という話でまとまりました。

そんなかたちで、前回はLGBTにフォーカスさせていただきましたけど、今日はもっと広げて、ジェンダーというところで女性が抱えている問題だったり、もう少し社会学的なジェンダー理論を踏まえて、山口先生にお話していただけたらなと思いますので。よろしくお願いします。

スポーツが「男性/女性」に分けられている世界での、LGBTQの立ち位置

山口:ありがとうございます。今キーワードとして「女の子らしさ」という言葉が出てきたと思いますけれども。どうして「女の子らしさ」が、とくにスポーツの中では強調されてしまうのかが、今日のお話のテーマになってくると思います。

女の子らしさというお話と、それからLGBTQ。今日は、そういうセクシュアルマイノリティーの人たちが抱えている課題とジェンダーの課題は、実はすごく繋がっているということがお話しできたらいいかなと思っています。

アウトラインです。まずイントロダクションで自己紹介をさせていただきます。それからスポーツとジェンダーを考えていくときに、どうしてスポーツの中で「男性種目」「女性種目」と分けられているのか。それからあぶれてしまうセクシュアルマイノリティーの人たちはどうすればいいか。そういう話をみなさんと共有できたらいいかなと思っています。

また、女性とスポーツが、どういう歴史をたどってきたのか。そのことも順を追って見ていかないと、今のスポーツが見えてこないのかなと思っているので、若干歴史を振り返ります。

それから、現在の女性スポーツはどういう葛藤や課題があるのかということ。今日はメディアの方がたくさんいて、カメラに囲まれていて恥ずかしいんですけども(笑)。僭越ながら、やっぱりメディアがあおっている部分や、それからメディアだからこそできることがもしかしたらあるんじゃないかと思っているので、スポーツとメディアについてもお話しできればいいなと思ってます。

最後に、会場のみなさんと一緒にディスカッションしていけたらいいなと思っています。

学校では輝くアスリートなのに、一歩街へ出ると……

山口:まず私のイントロダクションですが、私自身もジェンダーの課題にすごくぶち当たったんだと思っています。それで、「なんでこういう気持ちになるんだろう」というのを突き詰めていったら、ジェンダー論や女性学といった学問があったということで、今に至るわけです。

高校は女子校で、私は体育の先生を目指していました。その女子校にいた女性の体育教師に憧れていて。私もすばらしい体育の先生になりたいなと思って大学に入ったんですけれども、大学で非常に困惑することが多々ありました。

教育系の大学なんですけれども、まず女子学生の数が少ないところが一つ。女性の教員も少なくて、女子校から男性中心の大学に行ったので、けっこう面食らった部分がありました。

私も日本の社会ではまあまあ背は高いほうだと思うんですけども、私よりさらに背の高いバレーボール選手やバスケットボール選手の女性がいまして、そこで友だちになりました。

オリンピアン級のアスリートがたくさんいました。その方たちとお話をしていると、女性アスリートとしてものすごくかっこいいんですけれども、例えばコンビニに一緒に歩いていくと、すごくちっちゃくなって歩いていて。(私は)「もっと堂々としてればいいのに」と言うんだけど、(彼女たちは)「女性として大きい体が恥ずかしい」ということを言っていました。

体が大きいとやっぱり着る服のサイズも大きいし、そうすると日本の女性の平均値よりもオーバーサイズなわけですよ。平均値を上回るようなサイズなので、インポート物か大きいサイズのコーナーに行く。今はデパートにも大きいサイズのコーナーが増えましたけれども、私が20年前に学生だったころは、まだそこまで多くありませんでした。

靴のサイズも、日本人の女性の平均サイズが23.5センチとか24センチくらいだとすると、女性のアスリートは27センチ、28センチとか。女性の靴売り場に行っても売っていない。そういうことで、なにか引け目を感じている女性アスリートの友だちが周りにはおりました。

「心」の問題ではなく、これは「社会」の問題ではないか?

山口:ちょっとまずいなと思ったのが、摂食障害のような症状を起こしているような友だちもおりまして。自分の体をちっちゃく見せようと思って、無理に痩せようとする。だけどコートの中でバスケットをしていくには、ものすごい筋肉が必要なわけですよね。

バレーボールでも、水泳でも筋肉が必要なんだけれども。その筋肉をそぎ落としてまでも女性らしく見せるために、すごく過激なダイエットをしている友だちにも出会いました。

これは何なんだろうかと思って、私は大学時代に心理学をテーマに勉強を始めました。最初はその人たちがうまく適応できないという心の問題なのかなと思ったんですが、どうもそうじゃない。

これは社会と密接に結びついているなぁということで、アメリカで少しだけWomen's studiesとかGender studiesを勉強しました。そこで、「なるほど!」と。女性らしく生きなきゃいけないというところで、私たちは苦しんでいるとわかりました。

もちろん男性というカテゴリーにいる人たちも同じように、「こうあらねばならない」、「こうあるべきだ」というところに、居心地の悪さを感じている人たちもいるんじゃないかと思って、研究を進めてきたところがあります。

性差のパラダイムシフト

山口:もしかしたら、下山田さんがサッカーのフィールドで女性アスリートだから求められるところというのは、ジェンダーの問題が非常に大きくあるんじゃないかなと思っております。

なぜ私たちはこういった男らしさ、女らしさといった問題に直面するのか。これを考えていくには、どうも近代という時代背景と言いますか、社会構造を見ていく必要があるんじゃないかなと思っています。

近代という時代に起こったことが今の私たちが考えている「競技スポーツ」にすごく密接に結びついています。トマス・ラカーという人は、18世紀以前、つまり近代に入る前の時代には、性というものが「one sex model」で考えられていたと言っています。

男も女も同じ1つのモデルとして考えられていたんだけど、18世紀以降の社会、つまり近代社会になってくると、今のように男と女はまったく違う「two sex model」になっていったといっています。『セックスの発明』という邦題で本がありますので、興味がある方はぜひ読んでいただきたいと思います。

それからフィリップ・アリエスという人も『〈子供〉の誕生』という本の中で、昔は子どもという概念も今とはぜんぜん違っていたと言っています。

今のように愛情を持って慈しんで育む存在ではなくて、小さな大人として扱っていました。これは、スポーツとはぜんぜん関係ないかもしれないんですけど、近代がこれまでの社会とはまったく違った変化(パラダイムシフト)を起こしてきた時代だということを、ちょっとご理解いただきたいんですね。

「男性と女性が結ばれて家族となる」のが正当化された時代

山口:ミシェル・フーコーという人は、近代社会の中で権力の考え方も変わったと述べました。今までは、例えば犯罪を起こした人をすぐに処刑してしまうような社会だったけれども、近代になると、そういう人たちを殺さずに近代社会に合ったかたちで矯正し、更生し、生かしていくような社会になっていっていったということを、彼は著書の中で書いています。

またフーコーは、人々の身体を規律・訓練化していくシステムが近代において出来上がったというようなことも言っています。このあたりは今のスポーツや人間の身体を考えていく際に重要です。

つまり、近代は次世代を担っていく人的資源を確保していく必要性が生じてきたと言っているわけですね。資本主義社会が登場し、覇権争いが激化することにより、植民地が作られ、そこで暮らす人々の領土を奪って生産性を拡大していく時代に突入すると、人的資源が必要になってくるので、悪いことをした人を殺してしまうより、近代社会の要請に合った形に人間を教育したり、矯正したりして生かしておく。また、次世代を再生産するためにどうしても異性愛という1つの性愛の在り方を正当化していかなければいけなくなってきた。そこで登場するのが、同性愛は正しくないんだという性科学の言説です。

そして、男性と女性が結婚して次世代を作っていく近代家族が作られ、男性がブレッドウィナー(大黒柱)として外で稼ぎ、女性が家の中で再生産労働につくという性別役割分業も誕生したわけです。

スポーツは「気晴らし」や「遊び」を意味する言葉から生まれた

山口:性の在り方を女か男かの2つに限定して捉える考え方、見方のことを性別二元論と呼びたいと思います。本当はいろいろな性のありようがあるにもかかわらず、その2つに限定する考え方です。

よく性差や男女差と言うときに性別が男女で捉えられますけれども。その2つしかない前提で話が進むことを性別二元論と言ったりします。

まさに今のスポーツは、男性種目、女性種目というかたちで性別二元論に基づいていると言えるかもしれません。

次に、近代の社会的な変化の中で、スポーツがどうなっていったのかということです。実はスポーツもいろんな変化を起こしてきているということです。スポーツの語源はDeportare。これは気晴らしとか遊びとか、日常的なことから解放されることを意味しています。

それが中産階級の余暇となり、地位の象徴という意味合いが強かった時代から、近代になると競技を中心とする「スポーツ」へと変わりました。言葉が変わってくると同時に、やっぱりそこに組み込まれる意味合いも随分と変わってきました。日常的な気晴らしや遊びといったものから、だんだん競争的な価値が入っていく。それが今のスポーツなんですね。

スポーツ近代化の歴史

山口:アレン・グットマンというアメリカのスポーツ歴史家はスポーツも近代社会において近代化されていったということを明確に言っています。

例えば今まではsacred(神聖)なものと非常に結びついていたところが世俗化するようになってきたり、ポジションの専門性などが生み出されてくるようになるとか、対抗試合をやっていくために平等化という考え方もできたり。効率性、合理化といったものがスポーツの中にもどんどん組み込まれてくるようになった。

それによってスポーツそのものも近代化してきたわけです。もともと私たちは競争することだけがスポーツではなかったということを、立ち返ってみないといけないわけですね。スポーツが近代化していくことは、まさにスポーツが競技化していったということでもあるかと思います。

みなさんも「より速く、より高く、より強く」という言葉を聞いたことがあるかと思います。オリンピック・ムーブメントの標語ですが、「より速く、より高く、より強く」機能する身体に対して価値を置くようになってきたのが、近代社会の変化におけるスポーツの近代化です。

さらにこういったスポーツの近代化は、新興中産階級、とくにイギリスのパブリックスクールという男子のエリート学校において行われたと言われています。

近代化する前は、パブリックスクールで行われていたスポーツや身体活動は、日が暮れるまでみんなで遊んだり、野外活動のようなことをやったりとか、ルールが定まっていない身体活動をやったりしていたわけですが、そこに資本主義社会で勢力を伸ばした新興中産階級の人たちがパブリックスクールの改革に着手するようになり、スポーツが近代化していく。

パブリックスクール同士で対抗試合ができるようにルールが統一されたり、指導者を付けて練習をしたり、フィールドの大きさを統一したり、そういったことが行われていったわけです。このような変化は19世紀に起こりました。

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