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起業家が語るリアル・ストーリー(全3記事)

「大事なのはバッターボックスに立ち続けること」 - はてな近藤氏×ドリコム内藤氏対談(中編)

独特なネットサービスで進化を遂げていったはてなの近藤氏と、時代の流れに沿って新しいサービスに挑戦し続けてきたドリコムの内藤氏。ネットサービス、そして企業の成長ストーリーをそれぞれの立場から語った。

成功よりも、何度も打席に立ち続けることが大事

内藤:皆さん初めまして、内藤です。それでは、なぜ会社を始めようと思ったかというところから始めたいんですけども、スタートは17歳の時で、皆さんが大学受験の時にですね、僕は子供の頃から発明家になりたいと思っていまして、発明家になるにはどうしたら良いんだろうというところで、ベンチャーというやり方があることを知りました。

ベンチャーをやるには何処の大学に行ったら良いんだろうなと考え始めまして、ノーベル賞が多いので京都大学で良いだろう、というところから僕の起業計画が始まっています。ただ、行ってはみたものの、発明家になりたいという人はいないですし、ベンチャーやりたい人もいないので、自分で始めようということで、20歳の時に事業を始めました。

始めは家庭教師の派遣センターといったまったくインターネットと関係ないところから始めまして、まったく上手く行かずにどうしようというところから20歳が始まります。その中で、やはりインターネットの可能性って凄いなと。ちょうど2000年代からインターネットバブルっていうのが来始めて、2001年がインターネットバブルが終わったところなんですけど、終わったところでインターネットの会社を立ち上げて、それがドリコムという会社のスタートになっています。

最初にどういう会社にしようかと思った時に、インターネットは世界を変えると言われていたんですが、そもそも何を変えるのかということを考えて、「探す」か「コミュニケーション」のどちらかが世の中を便利にするのではないかと考え、僕たちはコミュニケーションの方が面白いなと思って、「ドリコム」の「コム」はそういうところから来ています。

コミュニケーションのサービスを作って行こうとスタートしました。最初にやったのが、コミュニケーションといっても知らない人同士では話ができないので、インターネット上で「誰か」っていうのがわかるサービスにするのが良いと思い、2003年にマイプロフィールという、「自分はこんな人ですよ」というのを簡単にクリックしたら見えるようにするというサービスを始めました。

ここから先程近藤さんの話にもありましたが、段々ブログのサービスに変わって行って、会社としてはブログの会社のように見えて行くっていうところがあります。ただ、元々ブログの会社をつくったわけじゃなくコミュニケーションをなんか面白いことにできないかなという風にやっていました。

2003年に、自分の中でソーシャルブームというのが来まして、人と人との繋がりは面白いなと思い、2004年にリリースしたのがマイクリップというサービスです。ユーザーさんが色んなサイトをブックマークして、そういう意味では先程の近藤さんに話をして頂いた「ブックマークのサービス」を始めたんですけども、ちょっと早すぎまして、サービスとしては、はてなさんのブックマークの方がどんどん大きくなって行ったのかなあと思っています。

次に2006年に、人の繋がりで人を探して行けるんじゃないかというサービスでドリコムwantedっていうサービスを出しまして、最近同じく京大卒業生でwantedlyというサービスが出ていますが、同じコンセプトでつくったものです。一番最初に社員から「誰か内藤さんを探してください」というように、賞金をつけて初恋の人を探そうとしたら炎上しまして。直ぐにサービスを畳むという背景がございました。

小林:ちなみに見つかったんですか。

内藤:そういう意味ではすぐ、初恋の人のご家族から連絡が来ましてサービスを畳みました。次に、2007年に今度はネット上の商品とかの写真をどんどんクリックして行くというサービス、今でいうとインタレストさんと同じですね。これを2007年にPC向けに立ち上げまして、これも早すぎたなと思いまして、この3つが社内で社長が独断でやって早すぎたサービスとしてディスられる対象になる3つのサービスとなりまして、どれも流行りませんでした。

ソーシャル系のサービスとかコミュニケーションサービスをやっていた時に、今では課金というビジネスがありますが、当時は広告というビジネスモデルしかなかったので、同時に広告のテクノロジーを面白いなと思いまして、まず最初にやった広告のテクノロジーが2004年でブログクリックというサービスをやりました。

これはブログの内容を機械で解析して合った広告を出すというサービスでして、今でいうAdSenseです。これはサイバーエージェントさんが営業代理店をやって、僕たちは技術をやるということで始めまして、最初は「気持ち悪い」と。「ブログ読んでるんじゃないか」という感じで始まったのですが、今はAdSenseも出たりなんなりも含めて、サイバーエージェントさんの中では事業として拡大しました。

2007年はインターネットの中抜きこそが凄いということで、広告代理店とかは全部飛ばそうと、直接広告の枠をユーザーさんが買いに行けるというサービスを始めたんですけども、やはり中抜きされたくない人は沢山いまして、いろいろな背景から立ち上がりが難しく。

2008年は行動ターゲティングの技術です。ユーザーさんがどんなサイトを見ていたかによって、広告を出して行くというサービスを始めたんですけども、こちらも「なんでユーザーが見てるページがわかるようになっているんだ。気持ち悪い」と、いろんな所から大変有難い言葉を頂きまして、サービスを畳む背景ということになりました。

広告技術は色々やっていましたが、大体「気持ち悪い」という所からスタートして、それを耐え忍んでやって行くともしかしたらその先に光明があったかもしれないと。心が弱くて色々言われては畳むという背景がございます。

2009年には違う技術を使おうということで、広告のクリエイティブを。僕たちは沢山広告を出していたので、「かっこいい」とか「かわいい」とか「これ行けそう」みたいな形容詞で語られているのがなんかおかしいなと思い、沢山ユーザーさんにバナーをつくってもらって、実験的に配信して一番効果が出てるところに賞金を当てて出そうということでやりました。

そしたら、まったくの素人がつくる広告のほうが、知らないデザイナーの人が作る広告よりも効果が良かったりするってことが出てきまして、ここから僕たちの会社としてはデータということを重視した経理をするようになって行きました。今では、会社ではほぼ全てのサービスの色々なKPIが1時間ごとに表示されるようなところまで、会社の中ではデータ化をしていますし、データ分析だけ専門にやっている人たちが沢山いるような状況になっています。

次に2008年では第2回目のソーシャルブームが来まして、背景は当時、facebookがまだ3番手くらいのソーシャルネットワークとして海外で出て、オープン化が話題になっていました。

第1回目で失敗したのは、コミュニケーションというのはインフラに例えると、駅が「人」で線路が「繋がり」で、その上に貨物列車として何が乗っているかだと考えたんですけども、僕たちは当時線路がないところにどんどん貨物列車を乗っけて行こうとしていたので、中々モノが流通して行かないというのが理由だと考えました。

なので、その駅と線路をfacebookさんが用意してくれるというのは素晴らしいことじゃないかということで、2008年に役員を集めてそういったサービスをやって行くというプレゼンをしたら、他の役員たちに「何言ってるかさっぱりわからない」「何今更モバゲーをつくるんだ」と言われて、「全然違うんだ」ということを言って始めたのが、ソーシャルアプリになります。

最初にmixiさんに漢字のテストのアプリを出して、これが300万人くらいだったかな、一気に300万とかになって行くんで、これはすごいなということで会社としてどんどんソーシャルゲームの方に投資をして行くという風になって行きました。

最近では、ものづくりをしてる会社としては、海外にチャレンジしたいというのはずっとあって、はてなさんはそれでサンフランシスコだと思うんですけど、一ヶ月ほど前に英語圏に出したゲームはTOP30とか20に入ってきたので、TOP10とか5を狙って行きたいなと考えています。

今年はソーシャルゲームを取り巻く色んなことがありましたが、プレミアムという概念のもとにソーシャルゲームは成り立っていると思いまして、「一部の人がプレミアムを感じて多くの人が無料で使える」と。プレミアムを感じるところに社会的関心が集まりすぎまして、色々な問題が多くてゴールデンウィークとかは問題に色々振り回されましたが、僕の中で大事なのは、お金を払ってプレミアを感じる方も大事ですが、無料で多くの人が遊べているほうが重要だと思ってます。

今までサービスの対価というのはお金を払わないと使えなかったのに、一部の人が対価を払うことで何十倍の人が無料で使えると。これはゲーム以外にもきっと応用できるんじゃないかということで、世界中を見ていた時に、機会が提供されてなくて無料になれば多くの機会が提供されるものはなんだろうと考えて、僕たちが取り組んだのが「教育」だったんです。

2010年にそういうのをやろうといって今年からサービスをリリースして行ってるんですけど、ソーシャルゲームをそのまま活かして、「一部の人がお金を払うがほとんどの人が無料で使える」、教育のソーシャルラーニングという形でアプリを始めました。今はまだ10人くらいでやっているんですけども、月間1個のアプリでユーザーさんが解く回数が数千万回になっています。

塾の先生を大学生の時にやってた時に、一人の学生に問題100問解かせるのはかなり難しいんですけども、今は1ユーザー平均200問、300問くらい毎日解いていて、月間で平均1000問を1ユーザーが解いてるので、段々ノウハウはたまってきたということです。これもコンテンツ自体は出版社さんのコンテンツなので、各国の出版社さんのコンテンツを入れることによって、世界中に教育の機会を提供できるんじゃないかと考えてやっています。ターニングポイントとなった所を振り返ってみると3つあると思いまして、2006年に会社が上場したところで当時大学生でしたが、証券会社さんから「大学生が上場した試しがないから大学やめてくれ」と言われまして、大学を退学するというエポックメイキングな年になりました。

この時に、会社が上場すると何が変わるかというなかで、「ずっとやり続けないといけない」っていうことが責任として強くついたんですけども、当時そこまでそこに対して意識がなく、翌年2007年に十数億円ぐらいかけて会社を買収したんですけど、そのお金を銀行から借りたんですね。

銀行さんは貸すときは「どんどん借りてくれ」と言うんですが、ちょっと業績が良くなくなるとすぐ「返してくれ」と言うわけですね。当時28歳くらいだったんですけども、20億近い借金を個人的にも取り立てにくるという大変有難い経験をさせて頂きまして、お金って怖いし、銀行って怖いなって事を味わいました。

今はもう全部返したんですけども、やっぱりここで会社の立て直しをするという中で、僕自身、事業を立ち上げるということはそこそこやってきたんで、上手くやれているんじゃないかと思っていたんですけども、「経営」ということをまったくやっていなかったんだなあということに気づきました。

この辺から経営を始めるという。「上場してから経営をする」と言っていたら株主さんから怒られますが、上場してからは2007年に初めて「経営」ということにすごく注力をし始めました。会社が死にかけて後がないんじゃないかという所まで行ったのが2007年ですね。

2011年は6月かな。朝起きると体がまったく動かないという事態がありまして、口しか動かなくて、ギランバレー症候群という難病にかかりました。当時は心臓固まって死んじゃうかもしれないというので、いろんなものをつけて救急車で運ばれて入院したんですけど、その時に、「死なないとしても1年間は最低入院」という話をされまして、色んなことを考えたんですよね。

体が何も動かないので、考えることしかやることがなくて、「会社をどうしよう」とか、「自分のこれからをどうしよう」とか、「もし回復したら何をしよう」ということを一生懸命考えていたら奇跡的にたった2週間で退院できまして、あれだけ考えたのに2週間で退院をしました。

ただ、その時に、人間いつかは死ぬし、死ぬ覚悟を1回すると怖いものはないなと思いまして、会社も1回死にかけたし、自分も死にかけたし、もう怖いものがないなと思って会社を経営していたのが2012年です。

最後に、そういったことを通して大事だなと思っていることは、バッターボックスに何度立てるかということだと思っていまして、事業って絶対全部上手くいくわけではないですし、1回うまく行ってもそれがずっと上手く行き続けるというわけでもないんですよ。

そんな中、いかにバッターボックスに立ち続けるかと。言うなら簡単ですが、例えば今1億円のお金があって、まったくやったことのない事業に1億円をドンと投資してコケると、2回目バッターボックスに立てるチャンスってほぼ無くなってしまうんですよね。なので、どう仕組み化して再現性を出すことによって何度もバッターボックスに立ちに行けるかという事を、会社の経営の中では非常に重要視しています。その中で先程のデータの部分とかが非常に重要だなと思っています。

一方で、ちっちゃい安定したヒットを狙って行くのは「打率をどう上げるか」ということになって行くと思うんですけども、9回裏で満塁、ここで俺がホームランを打てば逆転できるという時に、大振りをしに行くかどうかってことも非常に重要だと思っています。

たまに僕たちの会社も、「ここは」って時に大振りをしに行くんですね。その時には、それでもやっぱりもう1回バッターボックスに立つために会社の現金を「振る」前は増やしておくとか、振って当たらなかった時に「カット」できるコストを整理しておいて、いかに何回振りに行けるかということを重要視して会社の経営をやっています。死にかけたときに、「死にかけると死ぬは全然違うので、死なないようにする」ということをこの2,3年、考えながらやっていってます。

失敗をどう振り返るか

小林:有難うございました。プレゼン聴いて思ったんですけど、「あったなあ」みたいなのが。僕結構業界長いので、「あったなあ。どこ行っちゃったんだろうなあ」と思うサービスが結構出てきてですね、「結構(ヒットを)外してるなあ」と思うんですよね。

お二人、同じようなサービスをやってて面白いなあと思ったんですけども、やるときは「成功するだろう」と思ってやっているじゃないですか。外しちゃった時の気分はどういう慰め方をしているのかっていうのを、自虐的なストーリーを含めてお話を頂きたいです。近藤さんから。

近藤:最初のサービスが、人力検索も大ヒットっていう感じではなかったので、そもそも「上手く行かないんだなあ」というのは一番最初に思い知ったというところがあって、そういう意味では、「打率3割くらいだよね」みたいな気持ちでやっています。なので、勿論やる時は「これは絶対上手く行く」と信じてつくるんですけども、当たらないこともあるし、むしろ当たらないことの方が多いっていうのが客観的事実だと思うので、当たらない状態をある程度想定した上で、それも含めて覚悟を決めてやりだすという感じなので、まったく想定外のことが起こったわけではないですけど、凄い残念に思ってガックリする。

小林:なるほど。ちなみに打率本当に3割くらいですか? 今みたら2割くらいなんじゃないかと思ったんですけど。ダイアリーとブックマークは成功ですよね。

近藤:確かに、何を「ヒット」というものにするかということだと思うんですけども、今続いてるっていう意味では3割くらいかなと。

小林:有難うございます。内藤さんどうですかね。

内藤:さらに打率が低いと思うんですが。基本的に、新しいことを始めたときは、「宝くじを買うようなもの」という気持ちでやっているので、当たらないと。重要なのは外した時に、どうやってもう一度バッターボックスに立ちに行けるかという話と、ちょっと当たるかもっていうときに、一気に突っ込んで行くっていうことを両方同時に考えていまして。

例えばソーシャルゲームを始めた時も、最初はうまく行っていたんですけど、途中なかなかヒットしない時期があったんですよ。いろんなものをつくったんですね。それで2年くらい前に「これは絶対に来る」というものが当たったので、全部の開発ラインを止めて、同じようなものを全部つくろうということで全部つくりかえました。

小林:その「これが来る」という感じは何だったの?

内藤:2年前に陰陽師というゲームを出したんですけども、それが月間「億」という勢いが見えてきて、ほかを全部止めて同じようなのをつくろうと。当たりそうだって時に一気にどれだけアクセル踏めるかということと、外した時に如何にもう1回立ちに行けるかという2つを並行してやっていく感じですね。

小林:なるほどね。有難うございます。近藤さん、それに何か意見とかありますか? 近藤さんは地道に出しては辞め、出しては辞めって感じで。内藤さんの場合は結構「つぎ込め!」みたいな感じと、いつの間にかどっかに譲渡されちゃったとかそういうのが結構あるじゃないですか。上手いですよ。

内藤:一番になれないなら意味がないと考えていまして、インターネットのサービスって、同じようなサービスは1個に集約されてしまいますので、一番になれないと判断したら譲渡とかも含めて撤退しますね。

近藤:僕が大事だと思うのは、上手く行かなかった時の振り返りが大事かなと思ってて、やっぱりそれなりに1個1個上手く行かなかった理由があると思うので、先程紹介したように、「たぶんこういう所がだめだったんだろうなあ」という学びを得て行く。たとえ3割でも挑戦し続けないと世の中に新しいサービスはできないので、誰かそれを職業としてやり続けないと生まれて来ないし、ネットが面白くならないので、僕はそれがやりたくてずっとこれをやるつもりです。

1つ思うのが、「ずっとやっていると、それだけ失敗する人もいなくなってくるなあ」と感じていて、「ここはすごく大事なんだよ」という勘所が段々蓄積されて行って、そうやっているうちに十何年も新サービスをずっと作り続けていたなと。

こっから世の中の人が次に便利に使うものってなんだろうかと考えた時に、つくってきたメンバーの力がだんだん相対的に力を持って行くんじゃないかと思うし、それは世界的に見てもそうで。シリコンバレーの人たちも割と飽きっぽいじゃないですか。数年で「イグジットだー!」とか言ってすぐに売り抜けて、次何にしようかとかやってたりする中で、やはりずっとやっているっていうことが、世界的に見ても力になって行くんじゃないかと思っていて。上手く活かして次のヒットをつくって行きたいなと思っています。

小林:有難うございます。「打席に立つ」「チャレンジしていきます」みたいなのが御二方とも大きいのだと思いますが、(会場に対し)この中で皆さん失敗するのにチャレンジするのは怖いと思う人っていると思います。

イチローみたいに「打席に立てばなんとかなる」みたいな議論は頭の中でわかっているけど、どれくらいいらっしゃいます? 「怖い」って人。(挙手をさせる)怖いですよね。「失敗するの怖くない」って人どれくらいいます? (挙手をさせる)じゃあ怖くない人に聞いてみましょうかね。では一番前の人に。失敗するのは怖くない。ではどういう気持ちを持っているんですか。

参加者:僕はずっと野球をやってきたのですが、やはり上を見てチャレンジして行かないと何も得られないと思っていて、競争心が気持ち良いというか、挫けた時にも立ち直って行って、上に上に挑戦して行くっていう気持ちを持ってきたので、挑戦するのが「怖い」っていう意識はあまりありません。

小林:素晴らしいですね。他に「俺は言いたい」って人います? 今回ですね、失敗談とか身近な話をしようかなという議論があったので、時間もあるので、質問をかけながら議論深めて行きたいなと思います。誰か、近藤さん、内藤さんに質問をしたい方?

参加者:内藤さんにお聞きしたいのですが、19歳の時にやった家庭教師の派遣システムはどういうことがあって辞める経緯になったのでしょうか。

小林:ちなみにこの中で、大学生で家庭教師派遣とか塾とか身近なもので起業している人ってどれくらいいらっしゃいます? いるんですね。どう? 内藤さん。そもそもどういうコンセプトの事業だったんですか?

内藤:当時Windows95というのが普及し始めていたので、パソコンの派遣教師を派遣しようみたいな。

小林:出た。アビバみたいなやつですね。

内藤:そうですね。先生は集まったんですけど、お客さんをどう集めようかなと思って、大学のコピーをできるところで、ピンク色の紙を買ってきて広告を何万枚も印刷して、それを自転車に乗ってポストインして行ったんですね。

当時は素晴らしい広告ビラだったと思っていたのですが、今思うとピンクに黒字で「パソコン教えます」と書いてあって、一人もお客さんは来ないのでスタートしないに等しかったですね。授業というレベルにはまったくなっていなくて、お客さんも得られませんでした。

小林:1万枚刷ったのですか。

内藤:数万枚配りましたね。毎日ビラ配るために京都に来たのかなと思うくらいに、毎日ビラを配った。

小林:それ一件も電話はなかったのですか。

内藤:一件も。コールセンターみたいなところを契約していたので、終わると留守電みたいなのを聞くんです。たまにおかんから「元気にしているか」とか、入っているのはそういうレベルでしたね。

小林:ということでした。それから学んだ教訓は何ですか。今に活きていることってあるんですか。

内藤:ちっちゃく実験をして、行けそうかっていうのを確かめてからやらないと行けないかなと。ビラ刷ってまず「これで行けるのかな」と。そこから始めた方がよかったんじゃないかなと思います。

小林:なぜ数万枚刷ったんですか。

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