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nana music・文原明臣氏(全2記事)

音楽SNSアプリ「nana」の誕生秘話 F1の夢を諦めた男が見たテクノロジーの光

アマテラス代表・藤岡清高氏が、社会的課題を解決する志高い起業家へインタビューをする「起業家対談」。今回は、株式会社 nanamusic・文原明臣氏のインタビューを紹介します。※このログはアマテラスの起業家対談を転載したものに、ログミー編集部で見出し等を追加して作成しています。

音楽SNSアプリ「nana」の誕生秘話

藤岡清高氏(以下、藤岡):まずは文原さんの生い立ちについて教えて下さい。文原さんの育った環境と学生時代の話をお願いいたします。

文原明臣氏(以下、文原):まず、家族構成は両親と9つ上の兄と僕の4人家族です。両親は神戸で昔ながらの喫茶店を営んでいまして、今も続けています。兄は9つも離れているので、兄弟ケンカした記憶は一切ないですね。

藤岡:そうですよね。若干親に近い感じですよね。小学校時代はどのような性格でしたか?

文原:小学生時代を振り返ると、人に対して何も言えない子でした。実家が喫茶店を営んでいてお客様商売の家庭に育ったので、両親が常にニコニコしているのを見ていました。

その姿を見ていると、例えば、嫌なことがあってもニコニコしていればとりあえず済むので、すべてにおいてあまり主張しないようになりました。ですから、いじめまではいかないけれども、からかわれたりはしましたね。ただ、そういうのがすごく悔しかった記憶はあります。

藤岡:そのような小学校時代を経て、中・高はどのような生活を送っていたのですか?

文原:スポーツは水泳やサッカーをやっていましたが、サッカーは中途半端なかたちでやめてしまいました。高校に入ってから、空手を始めました。実は父親も兄もずっとやっていまして、空手は一生懸命やれましたね。格闘技をやったおかげで、物事に対しての自信を持つ事ができるようになり、昔よりは主張ができるようになりました。

藤岡:空手を始めたのは、なにか理由があったのですか?

文原:こんな言い方すると大袈裟かも知れませんが、「嫌なことは人にしたくない」という思いがあります。でも、それはなかなか難しいことで、精神的に余裕がないと難しいと思います。

そして、精神的に強くなるには肉体も鍛えなくてはいけないと思っていて、肉体と精神含めて強い人間になりたい、人にやさしくしている自分が理想像として昔からあったので格闘技を始めたのかもしれません。

モータースポーツの世界に飛び込むきっかけ

文原:その後、モータースポーツの世界に飛び込むのですが、きっかけは教習所です。教習所に通ううちに、車を運転することがすごく楽しくなりました。それからF1を見始めたら、ちょうど佐藤琢磨さんが活躍されている時代だったので、彼のことを調べたら、その時の僕と同じ19歳でレースの世界に飛び込んで、5年でF1まで行ったことがわかりました。それを知って、「僕もいける」「僕も行きたい」と思うようになりました。

僕が一番何かを学べたのはモータースポーツだったと思います。モータースポーツに関しては本当に「F1レーサーになりたい」という目標があって、お金がないなかでアルバイトをして稼いで、走っていました。カートはメンテナンス時にいろいろな作業があるので、1人だと面倒くさいことも多いのですが、それでも関係なく自分1人で毎週メンテナンスしては朝から晩まで走って、本当にのめり込んでやれたのがモータースポーツでしたね。 精神的にもすごく成長する機会が多くありました。ある程度までタイムが伸びると突然0.5秒が詰められなくなる時がきます。詰められない、毎週なかなかタイム上がらない……。

途中ちょっと嫌になるのですが、そのままやり続けていると、気がついたら超えていたみたいなことがありました。

それからは「成長するのは、そういうことだろうな」と思い、トンネルの真っ暗闇の中でもがいていたら、実は知らぬ間に出口を出ていたりするというような体験をすることができました。

だから、僕は正しい方向に努力をしていれば、あるタイミングに報われるとは思っています。ただ、なかなか報われるタイミングはわからなくて、ある日気づいた時にいきなりできるようになるものだと思っています。

F1レーサーになる夢を断念

藤岡:F1レーサーになるためにどのような方法をとったのですか?

文原:鈴鹿サーキットが主催している「鈴鹿レーシングスクールフォーミュラ」というスクールがあります。佐藤琢磨さんもこの学校の出身です。

僕は選考を受けて、最終候補まで無事生き残って、首席で入学することができました。卒業もそのままトップだと、ホンダから奨学金が出てレースに参加できるのですが、それは叶わず、負けてしまいました。

結果的には、「やっぱり楽しんだほうが高いパフォーマンスができる」と思うようになりました。僕は根を詰め過ぎた分、自ら潰れていってしまいました。

逆に、上位で卒業した人たちは和気あいあいとしたり、練習前日にサーキット入りするのですが、夜遊びに行っていたりしていました。

でも、結局そういう人たちが実践していたのは、「楽しんで勝つ」という1つの真理だったと思います。「そういうことがすごく大事だ」ということが教訓としてあって、今でも大切にしています。

藤岡:カーレーサーとしての夢を諦めるわけですが、それはどのタイミングでしたか?

文原:卒業してすぐです。2008年に結局ホンダから奨学生として選ばれることはありませんでした。24、25歳時点でF1にいないと通用しないのですが、僕はそもそも始めたのが遅いので、最短で登って行かなければならない。

10年計画を立てて進めていたのですが、鈴鹿レーシングスクールフォーミュラの選考に受からなかった時点でどうしようもなくなってしまいました。そして、諦めざるを得なくなったのが2009年です。

テクノロジーとの出会い

藤岡:その後はどうされたのですか?

文原:何もしない時期もありましたね。2010年にTwitterをやり始めました。それもちょっとしたきっかけで、何かを考えてTwitterを始めたわけではないのですが、Twitterを使い始めて、何となくつぶやいて何となくフォローされて、フォロワーができて、「すごくおもしろい」と思い始めました。

いろんな考え方を見ていくうちに、「レースしか知らなかったけれども、けっこう世の中は広い」と思うようになりました。

また、このタイミングで「Tech Crunch」のようなITメディアに出会いました。Twitterでそのようなサイトを見ているとワクワクして、「自分自身もテクノロジーを活用しておもしろいモノを作りたい!」と思うようになりました。

それは自分の中でのターニングポイントになり、率先していろんな技術を調べたり、その間にiPhone 3GSを初めて買って「iPhoneすごい!」と勝手に感動していたりしました。ボイスメモを使って自分でコブクロの主旋律歌って、それ聞きながらハモるみたいな遊びを1人でやったりもしました。

文原:そんな中で、ハイチ沖地震後に誰かのツイッターで“We are the world for Haiti YouTube edition”という動画を見ました。それ見たときにものすごく感動しました。音楽は中学時代からスティービーワンダーの歌が好きで、歌えるようになりたいと思っていました。

もともと“We are the world”のコンセプトも好きで、世界中を1つにしようと考えている点に憧れていました。“We are the world”は実質的には“オールアメリカン”で「世界中を1つに」というコンセプトは実現できていないと考えていましたが、インターネットの力は、“We are the world for Haiti YouTube edition”は、人種、国境を超えて音楽でつながることを実現していました。

ただ、まだ甘くて、日本人がいないとか人種が限られていました。それにインスピレーションを貰って、ポケットの中に入っているスマホをパッと開いて「こいつがマイクになる。これにただ歌えば向こう側に届いて、一緒に歌い合ったり、セッションし合ったり、一緒に音楽が出来れば、本当の意味でも“世界を1つに”を実現できるのではないか」と思いました。

それから自分なりにプログラミングを勉強し始めると、「可能じゃないか!」とどんどん自信が出てきて、ワクワクしながら勉強していました。

F1の夢がダメになった瞬間にいろんなものがつまらなくなっていましたが、また目指せるものができたので、ワクワクし始めて、「絶対いける」と思って動き始めました。

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