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社会的共通資本の現在と実践(全2記事)

「みんなのため」に作られるシステムは弱者が犠牲になる 資本主義と戦った宇沢弘文氏が追い求めた「ゆたかさ」の本質

「人間はゴリラに学ぶべきだ」と説く霊長類学者の山極壽一氏と、経済学者・宇沢弘文氏を父親にもち、社会的共通資本の提唱と社会実装に向けて活動する占部まり氏が登壇したイベントが開催されました。本記事では、占部氏の基調講演の模様をお届けします。宇沢弘文氏が問い続けた「ゆたかさ」とは何だったのか。経済学の観点から、人々がよりゆたかに生きるための道筋を探ります。

経済学者・宇沢弘文氏が問い続けた「ゆたかさ」

占部まり氏:今日はこのような機会をいただき、ありがとうございます。山極先生のお話はいつ聞いても、何回聞いても、新たな発見があって非常におもしろいんですが、本日は私の父、宇沢弘文という経済学者の話をさせていただきます。

私自身は、経済学は1ミリも勉強したことがなく、父のことを伝えを始めた最初の頃は、外部不経済について質問が飛んだ時に「外部不経済って何ですか?」と聞いて、そのあとに経済学をされてた方が、「宇沢先生の話をするのに、外部不経済を知らないでできるってうらやましいですね」と言われたのが今も記憶に残っています。

宇沢はこの髭面の男ですけれども、「経済学という学問を通じて、人々がゆたかに幸福に暮らせるような社会はどのようにしたらできるか」ということを突き詰めていた男です。

そもそもゆたかさとは何か。これは最近京都でお会いした松波龍源さんというお坊さんからうかがったお話なんですが、「余剰である」とおっしゃっていました。余剰とは何かというと、見返りを求めずに与えられるものであると。

これはたぶん、お金だけでなく、知識、時間といったものも、何かのリターンがなくても提供できるというのが、ゆたかさなのではないかということだと理解しており、父が考えていた「ゆたかさ」は、そういったものなのではと思っています。

「社会的共通資本」の解釈とは

ゆたかな社会を経済学的に支えようとしたのが、社会的共通資本という考え方です。社会的共通資本は、1つの国、ないしは特定の地域に住むすべての人々がゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置のことです。

ゆたかな社会には必要なものがたくさんあります。それらの必要なものを社会的共通資本と考えようということです。水・空気・食料、道路・電気・水道、教育・医療・金融といったシステム。現代社会ではインターネット等のICT(情報通信技術)が含まれると思います。

これらを国や地域で守っていこうとしています。市場だけに任せると、必要なものばかりなので、いくら値段を高くしても買わなくてはいけないので、何か調整がない限りは必ず価格が上がってしまうわけです。

じゃあ、これらのものを市場ではなく、国家だけで守っていく社会主義はうまくいくのかというと、理論的にはうまくいきそうなんですが、多くの社会主義の国が崩壊しているようになかなか実際の管理が難しいのです。

「人間の特性にあった資本主義は活用しよう」というのが社会的共通資本なのではないかなと、私は解釈しています。

資本主義について「労働力の搾取は社会主義よりマシ」

資本主義の恩恵はかなりいろいろありまして、例えば公衆衛生の向上です。ご紹介を忘れていましたが、私は日頃は内科医として活動しています。

そして、イノベーションが起こりやすい。コロナワクチンは、資本主義国であるアメリカから信じられないぐらいのスピードで生まれました。市場におけるインセンティブに対する人々の気持ちはかなり大きなものがあり、資本主義でなければ、コロナワクチンがこのようなスピード感で開発されなかったと感じています。

父は資本主義について、「労働力の搾取は社会主義よりマシ」と言っておりました。なぜなら、資本主義は市場というリミッターがかかるからです。「児童労働のカカオは買わない」と決めてしまったら、児童労働以外の労働力で製品を作らなくてはなりません。

このように、自然に市場のリミットがかかるのですが、社会主義は労働力の搾取に対し、リミットがかけづらいことが大きな問題だと言っていました。

それぞれの特性を生かした社会を作ることが重要で、企業の特性は利益を求めることです。これを当たり前のこととして捉える。その上で、企業の活動が社会にどのような影響を及ぼすかを考えていくのが、大事だと言っていたわけです。そういったことの積み重ねが、ゆたかな社会につながっていくのだと思います。

経済とは、人間の心があるからこそ動くもの

そもそも経済は、人間の心があって初めて動き出します。現在は、経済によって人間の心が翻弄されているような気がしますが、経済は人間の心があるからこそ動くものなんです。

これは、父が文化功労者に顕彰された時に、天皇陛下から「君。君は経済経済というけれど、人間の心が大事だと言いたいのだね」とまとめていただいたところから発生しているのですが、まさに心が重要であるわけなんです。

「ゆたかな社会」とは。父はもともと数学が基盤にあったので、定義することがとても大切だと考えていました。どの本にも出ているのでご参照いただきたいのです。

ここでおもしろいデータをご紹介したいと思います。住民1人あたりの生活保護費をみんなはいくら負担しているか。

これは生活保護の良し悪しではなく、データのご紹介です。大阪市は、年間で1人あたりおよそ12万円を生活保護費に供出していますが、新潟県小千谷市は、なんと5,800円です。お金以外の資源も豊富なので、生活に困りにくいんじゃないかと、これを分析した藻谷浩介さんはおっしゃっていました。

このように、実は、お金に換算されないものの価値、むしろお金に換算できないものの価値のほうが重要なのではないかという示唆なのではないかと、私は思っています。

価格のつかないものは経済学では軽視されがち

でも、価格がつかないものは経済学では扱いにくいのです。自然や子どもといったものは、基本的には市場では取引されません。そのため経済学では軽視されることになってしまい、それらを守るのが社会的共通資本という考え方です。

定義を再掲しますが、ここに持続的・安定的に維持するという、いわゆるSDGsにつながる考え方が出てきます。

このカラフルなポスターは非常に印象的なのですが、このポスターが採択された時のディスカッションで「17のゴールがバラバラに見えやしないか」と。この17のゴールが有機的につながることによって、誰1人取り残さない社会を作ることができる。そういったメッセージ性が薄いのではないかというディスカッションがされました。まさに社会的共通資本が、このSDGsを有機的につなぐ考え方だと思っています。

これははったりでもなくて、1981年に父がローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世に社会的共通資本のお話をさせていただいた会場にジェフリー・サックス国連事務総長特別顧問がいらっしゃいました。ご存じのように、このSDGsはサックスさんが中心となって構築しています。

さらにサックスさんは、父の愛弟子であるジョセフ・スティグリッツ教授とも非常に仲が良く、彼からの影響もSDGsにつながっているのではないかと思います。そしてSDGsは2030年の目標ですが、さらにその先を考える上で、社会的共通資本という考え方が大きく役に立つのではないかなと思っています。

宇沢氏の目指した経済学は“人々がよく生きるための学問”

経済学の歴史を振り返ってみますと、アダム・スミスの『国富論』が有名です。しかし彼はその前に『道徳感情論』を書いておりまして、「社会は共感からなる」としているんですね。

さらに、『国富論』の国は「Nation」であって「State」ではない。Nation=国民や文化がいかにゆたかになるか」であり、決してState=国家や政治がゆたかになることを指していたわけではないんです。

その流れを汲んだジョン・ステュアート・ミルという経済学者が「定常状態」を唱えます。定常状態というのは、経済指数が右肩上がりでなくても成立するゆたかな社会です。

経済成長率などの数字は一定だけれども、ひとたび人々の生活に入り込むと、ゆたかな生活、文化が営まれている。そういった環境を作ることを助けるのが経済学であるとしていて、父はこの流れの中で、経済理論を構築しています。

人間の精神の自由と尊厳を守る、どんな人でもできる、よく生きるための学問を目指していたのではないかと思います。

最近注目されているマルクスに関しては「人間が不在である」と。労働者と管理者、資本家という階級が存在するんだけれども、そこに人間がいないのが問題であると言っていました。

「みんなのため」の犠牲になるのは弱者

ミルトン・フリードマンとは、シカゴ大学にいた時に論争を繰り返していました。ミルトン・フリードマンは、ご存じのように新自由主義の権化であり、『選択の自由』という本を書いています。彼の市場に任せた自由は、「買うか・買わないか」の自由だけなんです。

父が、大好きでよく話していた話があります。フリードマンが大学の授業の際に、「黒人の学生が大学に少ないのは、高校時代に遊ぶことと勉強することを天秤にかけて、遊んだんだから仕方がない、自己責任である」と言ったのですが、その時に黒人の学生が手を挙げて「先生、そうは言うけれども、私が生まれる時に両親を選ぶ自由はなかった」と指摘されてしまい、絶句したという逸話が残っています。

私たちは自分が自由意思で何かをしているように思っていても、実は環境から選択させられていることが非常に多いのです。

「みんなのため」というと、だいたいは弱者が犠牲になる。そういった社会システムになっています。

父がよく話していた自動車問題に関して、例えば道路を作る時に、地価が高いところ、お金持ちが住んでいる地域に幹線道路を通そうという案はほぼ立ち上がらず、安いところから道路となる土地を買収して道路を通します。犠牲になるのは弱者なんです。

人間は、ゆたかな想像力があるのですが、その想像力を超えた先にも人がいることを忘れがちになってしまいます。そして、シカゴ大学のうちの近所に住んでいたレオン・フェスティンガーという心理学者が提唱した「認知的不協和」は、簡単にまとめると、自分に不都合なことは忘れてしまう、人間のとても良い脳のシステムです。

だから生きていけるのですが、そのシステムにより、弱者といった人々が忘れられてしまうことに対して父は危惧を覚えていました。

機会の平等が担保されなくなった日本の公教育

ベーシックインカムが取り沙汰されていますが、父は否定的でした。去年の生活費と今年の生活費、明らかに変わっているのを感じておられると思います。

ウクライナ危機で様々なものの値段が上がっていますが、一番生活に必要なものから上がっていってしまいます。ですから、お金で交付されただけでは、同じ生活レベルを継続できないのです。

それに加えて、私が一番問題と考えているのが教育です。教育というものに対して価値を感じない、もしくは価値を感じても提供できない家庭もたくさんあるわけです。そういった家庭に生まれてしまった子どもに対する教育の機会が、ベーシックインカムの場合は失われてしまいます。

公的な教育が充実していれば問題はないのですが、数年前の調査で、東京大学に進学した学生の7割の家庭の収入が1,000万円を超えていたというデータがあります。これは一般の平均のほぼ倍です。

その家庭のすべてが教育に対して投資をしていたとは限りませんが、日本の公教育はいろいろ問題を抱えており、機会の平等が担保されなくなってきているのです。

父は教育というものを、「子どもたちに多様な人々と出会い、その能力を伸ばせる場所を提供することだ」と言っていました。魚に泳ぎを教えるのではなく、「自由に泳げる場所を」ということです。さらに教育は、我々がどういう社会を共有したいのかを伝えていく手段でもあるとも分析していました。

こういったことを考えながら、大切なものをお金に変えないで済む、命をお金に換算せず、生涯賃金といったものではなく考えられる経済学を提示したのが、『自動車の社会的費用』です。

1974年の出版ですが、今年読むべき100冊等々にも選ばれていますので、ぜひ手に取っていただきたいなと思います。

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