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中西進氏×中野信子氏 対談(全4記事)

地方出身者の学生が、東京で「気後れ」するのはなぜ? 「都会のほうが上で、田舎は下」というバイアスが生まれた背景

ロシアのウクライナへの軍事侵攻が続く中、戦争という非常事態において、人間の脳の中はいったいどのような状態になっているのか。そして、争いのない平和な世界は実現可能なのでしょうか。富山市にある高志の国文学館で、同館の館長である国文学者の中西進氏と、脳科学者の中野信子氏が対談しました。本記事では、社会学で用いられる尺度である「一般的信頼」が低い人の特徴を語っています。

「善悪」は客観で、「美醜」は主観で決まるもの

中西進氏(以下、中西):言葉を換えて言いたいと思うんだけど、美醜というのは客観的なものなんですよね。善悪は自分で決めるんです。だから、自分を基準にした時は善で(悪で)あり、他者を基準にした時には美で醜であると。

中野信子氏(以下、中野):ああ。それもとてもおもしろい。

中西:善悪であっても、美醜と言った時には自己責任を免れようとする働きがあるんでしょうね。「いや、お前は悪いことをしているじゃないか」と言われるよりは、「いや、それは醜いね」と言われたほうが穏やかな言い方ですから。

中野:確かに。

中西:そういうことにも区別されているんですよね。昔はみんな善悪で判断した。またそれが求められているということを含めて、ずいぶん長い話をし始めてしまうんですけど。日本の歴史をずっと見ると、日本人は最初は「法」を基準として行動し始めた。その基本が十七条の憲法で、聖徳太子の時代。6世紀ぐらいになりますかね。

その次になると、今度は「力」によって生じてくる。これが武士の出発点です。1192年から武力で制圧する時代が始まって、強いものが善である、弱いものが悪であると。それが解放されたのが明治の1868年。要するにその間の700年というのが、12世紀から言うと5世紀なんです。

中野:そんな感じですね。

中西:河内王朝の時代、仁徳天皇の時代。その流れとして聖徳太子がいる。聖徳太子が日本を統一した力は法という力で、700年経ったところで日本人が持ち出したのは力だった。それからは言ったとおり、近代が始まった。

中野:これは今、すごい話を聞いているなぁ。

中西:力や法に対して近代は何なのかといったら、これがモラル。善悪とかルール・法、武力は政権のトップとしてのあり方ですよね。

中野:そうですね。

中西:モラルは違う。個々人のものだと。

中野:非常におもしろい問題ですよね。

個を尊重する時代には、法や力に代わるものが「モラル」

中西:だから、個を尊重しようという時代になると、ここではモラルが法や力に代わるものとしてい続けなければならないというのが、中西の整理の仕方なんですよ。

我々は、力よりも法だということが明治から始まっているかのごとく考えると、「ちょっと待ってよ。確かに将軍はいなくなったけど、総理大臣がいるじゃない。どういう人が総理大臣になったの?」と言ったら、武人のほうが多いんです。軍人以外で、文人以上に陸軍大将や海軍大将が総理大臣になった。

中野:この考察は大変興味深いところですね。

中西:それがいつまで続くかといったら1945年までなんですよ。45年以降は、文人になったからモラル。それまではエピゴーネン(思想・文学・芸術などにおいて、独創性のない模倣者のこと)としての何十年かがあって、実質的にはそこまでは力のルールによって日本は治められていた。今はアフガニスタンとかミャンマーとか、民主主義のところが力に戻っているじゃないですか。

まだまだ揺り戻しがあるのが発展途上国とか後進国であって、先進国はそういうことはなくなった。なかんずくトップの先進国は武力を放棄したどっかの国ですよね。これが世界のトップを走っているわけです。

中野:(笑)。

中西:そこで見事に「大丈夫なの?」と言われたのが、ウクライナ事件。

中野:その見方をできる人はなかなかいませんね。

中西:「ロシアなんていう、まだ近代以前のところがあるじゃん」とか言われているのに。

中野:西欧的な目線からは、そう見られている節がありますよね。

ロシア国内は「90年代に戻ってしまった」のか?

中野:小話ですけど、しばらく前にロシアで日本車が売れていたらしくて。

中西:あ、日本車が売れているの。

中野:今もなのかな。あるジャーナリストの話だったんですけれど、なぜかと言うと値崩れしないからだと言うんです。要するに、ルーブルがどんどん下がるので資産をなんらかのかたちで取っておかないといけない。けれども、(ロシアから見て)外国の銀行はロシアのルーブルを扱えなくなる。なので、日本車にしてなんとか財産を守ろうというわけなのだと。

中西:なるほど。

中野:日本車がそれに使われるというのが、まずちょっとおもしろいと思ったのと、実は90年代もそうだったというんです。

中西:1990年? 

中野:ですね。ロシアではそういう現象が90年代にあったために、「我々は90年代に戻ったんだ」という声が聞こえるそうなんです。でも、90年代どころか言論統制のような状況も始まってしまって、「80年代に戻っているんじゃないか?」と言う人もいるとか。

80年代というのはもう、旧ソ連の時代です。その時代が始まったのが、おおよそ100年と少し前ですかね。1905年が血の日曜日事件ですから、ボリシェヴィキ革命が起こった頃です。

中西:第1次世界大戦ぐらいまでだな。

中野:そうですよ。そのパラダイムにまで戻るような、いわば時代の逆行がロシアで起こっているんだという実感を、ロシア人が持っているのがすごいと思いました。

中西:時代が戻るんじゃなくて、ロシアは決して正確に2022年までの歴史を歩んでいないんだと思う。

中野:あぁー。それは炯眼ですね!

中西:そこでストップしていて、仮面をかぶった2022年を行っているかに見えたんだけど、その仮面を剥いでしまったら100年前だったということじゃないですか。

中野:100年前のままか。なるほど、そう見るほうが自然かもしれません。

中西:ロシア人の心には、荷負としてずーっと持っているマイナスの財産があるんですよ。ヨーロッパの田舎で、脈もない。パリはパリで、都としての近代的な装いに包まれれば包まれるほど、反対に田舎が存在しないとアイデンティティがないわけでしょ。それがロシア。もう幸せになっているわけです。

ヨーロッパの歴史が輝かしくなるほど、ロシアの貧困が目立つ

中西:どこかに田舎を作っておかなきゃいけない。事実、そこは田舎であると。エルミタージュなんか作ったって、あれは借り物のヨーロッパ、パリ風じゃないか。

中野:(レフ・)トルストイも、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの多くの部分をフランス語で執筆していますね。19世紀のロシアでは、貴族の間ではフランス語を話すこと、その文化を享有することがステータスとされていたそうですね。

中西:シャガールが仰いだような、ロシア正教の貧しい信者たちのいたあの時代なんじゃないかということが本当のロシア観。ロシアに行ったって、デパートには何にもないですもん。今とまったく同じ。

僕は20年前から30年前に、樺太からモスクワまでロシアを旅行させられたことがあるんですよ。最後はウクライナだったから、今度のはあれですけどね。本当に何もないんです。ホテルに泊まって朝食を持たされて、ちょっと遅く行ったら何もないです。もう(店も)終わってしまっている。

そういうことで言うと、ヨーロッパの歴史が輝かしくなればなるほど、ロシアの貧困が目立っていくんじゃないですか。追い越そうとしたって追いきれないから、ずっとあとをくっついているわけですよ。だいたいプーチンだって、あれはもう非常に田舎的な風景ですよ。文明の先端では、無差別な殺人とか、ああいうことは起こらないでしょう。

中野:無差別な殺人というのは、少なくとも現代の価値観では、文明の先端にあってはならないものでしょうね。

中西:他国が越境していくなんていうのは、日本で言ったら朝鮮の合併とかがウクライナをロシア化するということでしょう。あの戦争にはトルストイも出てるんですから。クリミア戦争はトルストイの時代。100年前の時代ですよ。今ある地図では、クリミアはもうロシアになってる。

中野:そう。ミンスク合意では。

中西:一時、満州まで日本だったのと同じ世界地図ですよ。

中野:ロシアが20世紀をちゃんと歩んで来ていないというのは、すごくおもしろい視点ですよね。

中西:僕はそうだと思いますね。

ウクライナ・ロシア間で起きている「価値観の衝突」

中野:ウクライナ対ロシアというのは、ただ名称が違う2つの国というのではなくて、価値観の衝突みたいなところもあるわけですよね。ゼレンスキー大統領は、西側の力を頼ることによって自分の政治基盤を作ろうとした人だという指摘も聞かれました。バイデン大統領がそれを利用しようとしたのだ、という見立てもあります。またそのことが、プーチン大統領を刺激する要因になったのかもしれません。

政治学的なことはさておき、国内の雰囲気としてはとても西寄りだという話を先のジャーナリストから聞きました。西側の価値観対、人によっては「80年代に戻ったかのようだ」と言う声が漏れ聞こえるようなロシアのパラダイムとのぶつかり合い。もしそうなのだとしたら、どちらのほうが勝った・負けた……というのはちょっと語弊がありますが、その対比がどうなるのかはすごく気になってしまうんですよね。

中西:まさに中野さんは、その歴史を「歴史的な必然性」として理解しようと発言してらっしゃるから、そこに曖昧さが残ってしまうので。とにかくもう、一歩も進んでないんです。見せかけとか、仮の手段なんかはまねてはいたけれども、本質はもう足踏みをして止まっているんだと考えたほうがわかりやすいと思いますね。

中野:旧ソ連では、およそ利用できると見做されたほとんどの領域で、活動に国威発揚という目的を持たされてしまうという事情がありました。旧ソ連で行われてきたことは、西欧の価値観とは異質で、独特ですよね。科学も文化も芸術も、すべて国威発揚という動機付けを与えられましたし、もちろん科学者や文化人たちの中にもそれを名誉に思っていた人も少なからずいましたよね。

中西:そうそう。ガガーリンとかもね。

中野:そうですね。これは、それが良いことなのか・悪いことなのかというのを問題にしたいのではなく、そういう思考の枠組みを作ったという特殊性を考えたいなと思ったのです。スポーツ選手や、音楽家、バレエなどのダンサーでも優れた人が輩出されました。

中西:今はアフリカの国々が、オリンピックでメダルを持って帰るとやたらに豪邸ができるというね。

中野:(笑)。なるほど。

中西:だから、そっちに国籍を移したいでしょう。ちょっとでもお金になるんだから。

中野:そういうインセンティブはあり得ますね。

「都市の民は位が上、田舎の民は位が下」という構造はなぜ生まれたか

中西:だから、「ヨーロッパの田舎」という、その必然性を捨てないとね。どこでもそうじゃないですかね。みんな都市化してしまって。「富山は富山らしくしようよ」なんていう言葉の裏側には、文化や文明とか遅れているものをよしとしようとか、変なことにへばりついているとしたらこれはだめで、矛盾ですよ。論理矛盾をしてますよね。

相手にローカリズムを押しつけておいて、自分だけが良くなってるんだと。それを鑑賞の対象として見るっていう価値観ですから。そうじゃなくて、富山の田舎というものは、非常にローカリズムを温存したかたちで近代化が行われているんだと。

しかし都市は機能を必要とするから、いみじくも「長」は市長さんでしょ。市場の長さんじゃないですか。マーケットの長がリーダーのところが市だとすれば、生活の長じゃないんですよ。村長さんや区長さんとか、生活の中の長が「長」でしょう。町長さんもそうだと思う。だけどマーケットの長は、田舎の長じゃない。都市の長ですよね。

それぞれに完全な近代の中に存在しなければいけない。そういう共同体を夢見ないと、全部一律になってしまうということは、やっぱりありえない。

中野:鮮やかです。興味深いなと思ったのは、私たちは都市の民のほうが位が上で、田舎の民のほうは位が下だというふうに、多くの人が無自覚に思っているように見えるんです。なんでそんなことが起きるんだろう? という問題提起もおもしろいなと思うんですね。たぶんこれって、情報の上流にあるほうが偉いとされてるんだと思うんですよね。

中西:情報ね。

中野:たぶん、都市にいるほうが情報(を入手できる場所)としては早い。もし、豊かになりやすいということが重要なのでしたら、都市の民よりも平均的には例えば十勝の農家さんのほうが、単純に経済的な指標だけで見てもリッチで、食や余暇の過ごし方などを含めた生活水準を見ても豊かですよね。

中西:貯金とか。

中野:そうそう。

「田舎の人のほうが位が下」という現象は、日本だけではない

中野:もう(十勝の人は)家にサウナ付きの立派な一軒家が悠々と持てる、みたいな。広々としてね。農家を営んでいるみなさんも、いわば「農業貴族」とでもいうか、そういう人もいっぱいいる。都市の民のほうが貧しいという見方の方が自然に感じられます。

都市部では未だに、ブラック企業だなんだとずっと指摘されていますが、状況は劇的に改善されたとは言えないようですし、いまだに「社畜」という言葉も一般的に聞かれるようです。にも関わらず、なんとなく都市の民のほうが位が上のように思われている。田舎とされる地域に住んでいる人たちのほうが下に見られるという現象が、なんで起きるんだろうというのは、考えてみる価値のある命題だと思うんですね。

これはヨーロッパでも無縁ではなくて。やっぱりパリジャン・パリジェンヌがかっこよくて、「えー、モスクワ?」みたいに、住んでいる当の本人たちこそが思ってきたわけでしょう。宮廷でフランス語を公用語のように使うなんて。貴族どころか、皇帝の一族まで自国の言語よりもフランス語を格上だと思っているなんて。また、モスクワと比べたらキーウ(キエフ)のほうが、文化的には古いし歴史のある都であるという事情もあったり……。

中西:中野さんね、日本でもおもしろい話があるの。8世紀ぐらいの古跡があって、その中に家族が刻銘に記録されていて、中には大和女という女が記録されているの。農村ですから、大和には関係ないんですよ。何かと言ったら、田舎に生まれながら大和女という名前をつけるということが価値なんだ。

中野:そういうことがあったんですか。うわあ。

中西:武蔵国の古跡の中で、今でいう葛飾あたりの古跡なんですよ。そういうのはもう8世紀頃からずーっとやってる。

中野:そんな時代に。すでに。

中西:そうそう。あの中にもきらびやかな女がいるんですよ。それはパリから下がってきた人間だと。パリジェンヌなんです。どこでもみんなそうなの。

中野:すごいなぁ。どうしてそうなるのかなぁ。おもしろいな。

中西:だからそういう意味では、「何がいいか」という価値観ですよね。

中野:おもしろいですよね。

都市部で価値を持つのは、伝統や文化よりも「利便性」

中西:小ぎれいという「小」がくっついたね。きれいとは言わず、小ぎれい。小ぎれいの価値というものは、手を汚さないこと。大根をゴシゴシ洗うなんてことはしないで、パックに入っているものをそのままスーパーから買ってきて、ちょちょっとやればもう何もごしごしなんかやらなくたっていいということで。

中野:なるほどなぁ。小賢しいの「小」と一緒ですよね。

中西:そう。「小」というのはくせ者ですからね。絶妙な「小」。

中野:絶妙だな。都市の平均的な民のよしとするものかもしれないですね。

中西:小がついてるよね。「本ぎれい」という言葉はないけれど。

中野:(笑)。

中西:(田舎には)「うちにはこんな、昔からの伝世品があります」といって、鎧だとか刀だとか、昔のお茶呑み茶碗とかあるじゃないですか。そんなもの、都市にはぜんぜんないでしょ。

中野:ないですよね。それこそ土着性から切り離されて、「縁」を持たない「無縁」の人たち。

中西:だから(都市の人は)便利だということが価値だと。「伝わることが価値」と「生活をする上で便利」ということ、今(の時代は)どっちが好きかと言ったら、便利なほうがいいというだけの話ですよね。

中野:とてもクリアですね。情報の上流にあるものが上だとする考え方に説明がつきます。本当は合理的に考えたら、たったそれだけのことなんですよね。

地方で優秀だった学生が、上京して自殺してしまう理由

中野:でも、例えばこんなことはありませんでしたか? 大学に入学した頃なんかのことを思い出すと、○○県の県立高校の1番の学生さんがいらして。でも東京の名門校の人は、みんなうわーっと集団で群れで入ってくるわけですね。その人たちを前にした時に、県立高校で1番のような人は緊張してものが言えなくなったりするんです。

中西:どっちが? 都市の人が? 

中野:(地方の人が)都市の人に対して気後れして。

中西:ほう、1番が。

中野:そう、1番だった人なのに。自分が地方出身だということで、気後れする現象がある。

中西:それと同じような例になるかしら。私の学生時代の経験で言うとね、屋上から飛び降りて自殺をする人間がいるんですよ。それは、決まって地方の最優秀な(学生)。

中野:えー、なぜそんな。もったいない……。

中西:東京へ出てくると、成績が中くらいの人間じゃないですか。今まではもう神童かと言われていたので、(東京へ出てきたことで)がたがたと自信が崩れていくんだと。

中野:ああ……。

中西:僕は東京の出身者ですからね。東京では中くらいの人間で、成績も別になんとも思わないで大学を受けると、東大でもなんでも受かってしまう。だから、1番だ2番だなんていうようなことは関係ない人間です。

中野:確かに、あまり気負うことはないかもしれませんね。

中西:(ずっと1番で来ると)これがまたね、そのプレッシャーも持つでしょ。かわいそうに。

中野:そう、一身に期待を背負わされるんですよね。

中西:そうそう。村の期待を持って来るわけ。(東京へ出てきたことで)悩んで、死ぬという(選択肢)しかない。

中野:「おらが村の期待」っていうのがあるんですよ。

中西:そうそう。そういう意味では、僕は非常に楽な学生時代を過ごしてね。

中野:東京人は、期待されていないぶんだけ楽ですよ。

中西:だから(僕のことを)ぼーっとしてると思うでしょ? いや、中野さんは別でしょ。すごくエリートで。

中野:エリートということはまったくないです。先生も私も、期待とは別のところにいる、ちょっと違う世界の者だから(笑)。そもそも東京の人は、あんまり背負ってるものがないんです。

司会者:やっぱり、地方からは覚悟して来ますからね。

中野:そうなんですよね。親御さんの期待も尋常ではないでしょうし、やっぱり「故郷に錦を」という考え方があるんですよね。でも逆説的に、もっと自由に羽ばたけるはずだったものを、その人の足を引っ張ってしまうというところがある。自由さと、絆が足を引っ張るということのせめぎ合いの中で潰れてしまう人がいる……。

中西:あれはかわいそうですよ。

中野:見えにくい重さです。本人は言い出しづらいでしょうし、苦しいと思います。何とかしてあげたいものですが。

中西:僕の学生時代で考えてもそうですね。

「一般的信頼度」の低い日本では、よそ者を警戒する傾向がある

中野:そういうのは、ロシアやウクライナの人にはあるのかな。例えば、社会学でいうところの「一般的信頼」という尺度があるんですね。一般的信頼というのは、いわゆる「原始的信頼」とはずいぶん違っていて。

この原始的信頼というのは、村の中で「あの人は顔見知りだから信用しよう」「家族だから信頼しよう」「友人だから信用しよう」とか、そういうきわめて自然に湧いてくるようなプリミティブな信頼のことです。一般的信頼はこれとは別で、見知らぬ人のことをどれだけ信用できるか、よそ者を、理性でもって警戒心を抑え、適切に遇することができるかというのが一般的信頼という尺度といっていいでしょう。

意外にも日本は(一般的信頼が)低いんですね。やっぱり、よそ者をちょっと警戒する。お財布は(落としても)戻ってくるけど、これはもしかしたら信頼や善意ではないかもしれない。着服したことで得られる利益よりも、着服によってリスクを負う可能性が小さくない、つまり身近な相手も含めての人目が気になったり、あとあと行動がトレースされてダメージを受ける可能性が無視できないから、警察などに届け出るのかもしれない。

やっぱり実際のところ、よその人はあんまり信用されていない。なにかあれば、日本語が話せない人や、日本独特のコンテクスト=空気を読めない人、そのコミュニティの様相を鑑みて自分の状況を弁明するスキルを持っていない人に嫌疑の目が向けられたり、そういう人をスケープゴート(生贄)にして共同体を守るということは、今もずっと行われています。端的に言えば、「オレの村」以外の人のことは「あいつ、ちょっとおかしいんじゃないか?」と思う人たち。

一般性信頼の高い北欧の事例

中野:実はロシアも一般的信頼が低いんですよ。あんまり無条件の信用をベースにしたコミュニケーションを取らないみたいですね。一方で、一般的信頼が高いとされる国で代表的なのは、北欧なんですね。例えば典型的な例でいうと、日本ではレジの前と後ろにたまたま並んだ人が結婚するということはなかなかないですよね。

中西:ええ!? 結婚すんの?

中野:そう。北欧ではそこそこの割合であるんだって(笑)。

中西:(アプローチするのが)どっちが女性、男性とか決まってんの?

中野:いや、性別関係なくです。たまたまその近くにいて、気軽に話をしたことがきっかけで仲良くなって、結婚までいくと。

中西:レジ結婚か、聞いたことないな。

中野:レジ結婚(笑)。こういう関係の築き方って、日本だと考えにくいじゃないですか。そういう、たまたまレジで一緒になったような人とサッと仲良くなって結婚までいっちゃうようなのが、一般的信頼が高い国では起こりえる特徴的な現象と言えます。

この感覚からすると、ロシアはずいぶん日本寄りというか。比較的、ヨーロッパの感覚よりはアジアに近いところがあるのではないかと思います。実は東アジアは、遺伝子プールとしてはやや特殊な地域です。平均的には、あまり新奇探索性も高くない。しかもどちらかと言えば、自分の考えで動くよりは人の言うことを聞くことを優先するタイプの人がいっぱい生き残ってる地域なんですよね。

ロシアは一般的信頼が低いところを見ると、ヨーロッパよりずっと東アジア寄りなのかもしれない。人の言うことをよく聞く人がいっぱい生き残っている環境とは、どういうことかというと、要因として大きいのは強大なダイナスティですよね。王朝が長く続くとか、専制君主がいたとか、水平方向・垂直方向ともに流動性が低いとか。日本は専制君主というよりは、流動性の低さ(が一般的信頼の低さの原因)ではなかったかと思います。

日本の政治が変わらないのは、流動性の低い「アジア型」だから

中野:中国は王朝の力が比較的強い時代が長くありましたね。ロシアにもそういう要素があったのではないでしょうか。そうした環境では、時には「物言わぬ人」のほうが長く生き延びたんじゃないんだろうか。すると、西欧の価値観で皮相的にあれこれいうのは、そもそも馴染まないんだと思うんです。

中西:そうそう。(ロシアは)やっぱり田舎なんですよ。

中野:おっしゃるとおり、多分にそれは”田舎的”な地域の特徴とも言える。どちらが良い・悪いというつもりはないので、そこは多くの人にはわかってほしいところですが、日本の政治がいつまで経っても変わるような感じがしないのは、西欧式の勉強で自分自身をコントロールし、自分自身を変えることを可能にしてきたエリートたちは西欧寄りの民主主義を実現できるように思っていると思うんですが……。

能力を持った人たちだけが力を尽くしても、その体制を支える民衆そのものの内実が、こうした流動性の低い東アジア型であって、この根本的な構造が変わることは極めて困難だからかもしれません。変わってほしくない、変わらないはずだ、という現状維持バイアスを持つことが、生存適応的に有効に機能してしまう条件の場所なんだという説明を考えると、いろいろと辻褄が合います。

中西:その話はわかりますね。ロシアの場合は北にあるということもそうでしょうけど、大国でありすぎるということもあるんじゃないですかね。

中野:それはあると思いますね。

中西:統治というより人為的なネット(網)と、領土という自然的な条件とはまったく違いますよね。どんなにネットをかけようとしたって、広いところはかかりませんからね。それはもう、シベリアやモスクワなんかとは違うでしょうし。

中野:そもそも時差がありますしね。時差があることによって生じるデメリットの一つは、情報の伝達に齟齬を来すという点でしょう。リアルタイムでのやり取りがやや難しくなり「あっちは何時かな?」という思考がその都度、割り込んで来ざるを得ないのは、伝達の迅速性を阻害します。

それが1つの国に複数あるというのは、負担の大きいことでしょう。もちろんアメリカだって同じ条件ですから、これ以外の要因も大いにあるでしょうし、それだけの国を統べなければならない、プーチン大統領の人格そのものにかかってくるような圧もあったでしょうしね。

中西:プーチンの後進性みたいなものは、もろに今のようなロシアのロケーション、いろんな条件、浮動的、歴史的ロケーションから来ていることですよね。だから、通用しないようなものがそれなりに残存してるということでしょうね。

中野:そうでしょうね。ヨーロッパの感覚からはちょっと理解し難い、というふうに思われても仕方ない点は多々あると思います。

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