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中西進氏×中野信子氏 対談(全4記事)

「自責する人」と「他責的な人」の思考は、どこが違うのか? 脳科学者・中野信子氏が語る、「言いがかり」を付ける人の深層心理

ロシアのウクライナへの軍事侵攻が続く中、戦争という非常事態において、人間の脳の中はいったいどのような状態になっているのか。そして、争いのない平和な世界は実現可能なのでしょうか。富山市にある高志の国文学館で、同館の館長である国文学者の中西進氏と、脳科学者の中野信子氏が対談しました。本記事では、「自分」と「他者」の区別が曖昧になっている現代社会の問題点や、他責思考になってしまう理由を語っています。

「集団性」と「個別性」がイコールになっている現代社会

中野信子氏(以下、中野):今の人類の様相は、(「みんなのようでなくてはならない」という)認知の上での圧力が非常に強まっているように見えますよね。生物学的な基盤と認知の基盤が、とっても乖離している状態にある。これは速やかに是正する必要があると思います。

中西進氏(以下、中西):中野さんの今のお話を聞いていて、集団の中に自分が紛れることと、自分と他者との区別がつかないことは違う話だと、素人の私は思うんですよね。「生殖が単体でできるんだ」というところまで、集団性と個別性がイコールになっていますよね。

極端に言うと、2人でできたものが1人で(できる)というのは、他者が一人ひとりでということでしょう。そういう方向なのか、それとも自己というものがあまりなくなってしまうのか。集団に紛れ込んでしまうということと、自他の区別がないということでは、別の人間としての必然性みたいなものがあると思うの。それは、心理学とか脳科学の中では区別しないのかしら。

中野:そうですね。実は自他の境界ってすごく曖昧なのです。脳にはその境界を決めている部分があるんですね。その部分がうまく働いていないと、例えば「なんで私のベッドの上に、先生はずっと手を置いているんですか」というような認知が起きるんです。

これは半側空間無視の患者さんの例です。ベッドの上にあるのはご自分の手なんです。でも、「先生、なんで私のベッドの上に手を置いているの?」となる。自分の手なのですが、自分の手だと思えないということが起きる。自他の境界って、ある部分の機能が働かないだけであいまいになってしまう。それほど脆くて壊れやすいものといってもいいかもしれません。

心理状態だったら、なおさらそうかもしれません。自分が持っているやましい感情を、相手のものだと捉えちゃうというのはよく見られる現象です。

目の手術を受けたのに、書かれた病名は「せん妄」

中西:そっちの話をしていいですか? 

中野:もちろん、もちろん。

中西:僕は実際に被害者としてあったんですよ。

中野:えっ。そうですか。

中西:この間、入院しなくてもいい入院をしたんです。外来でできるぐらいに安全なものだけど、大事をとって1泊した。そういう状況の中で起こったことなんですけどね、相手が非常に理不尽というのかな。普通に考えれば考えられないようなことをした。

僕は目の手術をしたので、片方の目は塞いでいる。だけど目は両方連動しますから、どうせ入院をするならもう片方の目も塞いでいようということで、「手術後はずっと目を開けてはいけないよ」と言われてベッドに連れて帰ってもらった。

「さあ、これから俺は一晩寝るんだ。ずっと目を開けないよ」と思ったとたんに看護師が入ってきて、「この書類に自分の名前をサインしてくれ」って言うんですよ。「了解しました」というサインです。大事をとって目を開けないで済むようなところに来たにもかかわらず、目を開けてサインをするのは、今しなくても数時間経てばできるわけですよ。

中野:それはそうですね。

中西:でも「今しろ」って言うんですよ。だから男の看護師に「あなた、それはちょっと不適切なんじゃないですか。今じゃなくたってできるでしょう」と言ったら、「確かにそうです。不適切です」と言うんです。

だから「いつまでにしたらいいですか?」と返したら「明日の朝」と言うから、「じゃあ明日の朝にしましょう」と言ったら、「わかりました。明日の朝にしてください」と書類を置いていった。さて、退院して私の入院にかかった費用の書類を見ると、せん妄症だったかな。「たわ言の症状に対して治療しました」と書いてある。

中野:えぇ~! 

中西:たわ言を言ったのは、あの看護師じゃないかと。

中野:さすがに、それをせん妄というのはひどいのでは。

中西:ね。それで、僕がたわ言を言ったことになっちゃった。

無差別殺人の根幹にある「自分が死にたい」という心理

中西:だからぜんぜん逆なんですよ。こっちは被害者で向こうが加害者なのに、(僕に)せん妄の症状があったことになる。自分がそういう症状だと言われた腹いせに、相手をたわ言者だと言ったということでしょう。

これに文句を言うのは当然なんだけれど、それはそれとして、点数が100点で、1点10円だから1,000円払えば済むことです。だからそんなに大げさではないけど、これはちょっとおもしろいテーマじゃないかと。

中野:まぁ確かにそうですよね。なんでそんなことをする……。

中西:相手がせん妄症なのに、こっちがせん妄症になっている。だから。朝に言ったんですよ。そうしたら、「確かにそういう治療はしましたけれど」と言うから「どういう治療をしたんですか?」と言ったら、それはそのまま終わった。

その後に女性の人が来て「昨晩はよく寝られましたか」と言うから、「えぇ、よく寝ました」と言ったんですよ。それが治療ですって。

中野:大きな病院ではいろいろと聞きますね……。

中西:その時に考えたのは、男の看護師であるということだよね。看護婦だった時代は、とにかく看護婦になったことを輝かしい栄誉の証として、あの帽子を卒業の時にかぶった。あるいは例の学生がやったように、卒業の時にポンと放り投げる。シンボリックにかぶったのが、看護婦の帽子なんですよね。

それをなしにして男性も一緒だから、看護婦じゃなくて看護師だというところにつけ込んじゃった。勝手に自分の症状を相手に押しつけるというね。徳冨蘆花のエッセイに『みみずのたはこと』というのがある。それが看護師のたわ言ですよ。彼はみみずだというエッセイを書こうと思ったぐらいにね。

そこで僕がつくづく考えたのは、例えば電車に乗って無差別に人を殺したり、火をつけるような犯罪が起こるでしょ。なんで起こるのかといったら、自分が死にたい時に相手を殺すということとそれ(せん妄の話)は同じことだから。

自分がせん妄に苦しんでいる時に、相手をせん妄だと片付けることによって、自分が救われるということと同じことじゃないかと考えた。それを脳科学者として尊敬しているあなたに判断してもらいたいと思った。

現代は「個人の責任」がどんどん排除されている時代

中野:そうですね。その看護師の方がどんな人かがわからないのですが、あまりまともな感じはしない人だなという感じは……。

中西:めちゃくちゃな人。特殊でしょ、異常でしょ。

中野:それで1,000円というのはちょっとなぁとは、思いますねぇ。

中西:それは個人の問題としてみたら仕方ないでしょ。だからやっぱり一般論として言えば、自他の区別というものを限りなく失う。今、個人の責任が極めて軽いでしょ。

どんな悪いことをしても、「病人だからこんなことをした」「これは病気が悪いのであって、あなたの責任じゃありません」「それははっきりしなかった医者が悪いんです」とか、個人の責任がどんどん排除されているわけです。昔だったら全部自分の責任だった。そういう時代の傾向から、限りなく軽い存在というのは『存在の耐えられない軽さ』という……。

中野:ミラン・クンデラですね。

中西:そうそう。あれは限りなく、軽い存在を現在の戦争としている。これがシンボリックを生んだ、病気が相手をせん妄病に仕立て上げるということなんじゃないか。

中野:ロシアの大統領が、ウクライナを非ナチス化すると言って特別軍事作戦をしていると主張していますよね。

中西:ネオナチズムでしょ。

中野:ウクライナ側は「そんなことはない。言いがかりだ」と言う。第三者として比較してみましょう。どちらかと言うと国民に言論の自由があると考えられていて、SNSも比較的自由に使えるとされている、西側の状況に近いウクライナ。

それから、言論統制がかなり厳しいと考えられていて、使える通信手段もやや制限されている、ジャーナリストで不可解な死に方をしている人が何人もいると報じられてきたロシア。どちらがナチス的かというのは、第三者である我々から見て、どうでしょうか。

「自責」とは、変わり続けるための“エンジン”でもある

中野:一方から「お前たちはナチスである」と言われるのは、先ほどの投影という現象なんじゃないか。一種の防衛機制ですが、自分がやましい気持ちを持っていることに自分で耐えられないので、相手が持っていることにしちゃうという心の働きが指摘されているんですね。

そういうことが実際に起きているように見せかけられていても、「あ、これは言いがかりをつけているように見える側が、無意識では自分たちをそう認識している証拠じゃないのか」と見なすことができてしまう。

極東の島の1人の女の勝手な感想ですが、そういう無意識の声に、裁量権を持つ政治的リーダー自身も悩まされているんじゃないんだろうかと思うことがしばしばあります。

中西:違う、違う。優れた脳科学者ですよ。それには僕はすぐにイエス、賛成って言えます。世の中には「被害妄想狂」という言葉がずっと昔からある。だから新しい症状じゃなくて、確固として病人と認定されて、パターンとしてあるわけです。口にする単語を全部調べてみると、すべての責任は他者にある。自分はことごとく全部被害者。

中野:そういう人は、非常に他責的な人間ですよね。自責と他責という言葉が対比的にありますけど、自責をする人は、自分がどこか悪かったんじゃないかなといつも考える。これは意外なほど勇気の要ることだと思います。

そういう視点へのこだわりの強い人は、ちょっと苦しくて大変かもしれませんけど、前進の芽がそこにあるとも言える。変わり続けるための“エンジン”でもあるんです。

逆に他責的な人は、そのエネルギーを自分のために活かせないですよね。もったいないことですが、自分のエネルギーを自分のために使うことができず、変われない。ただ、状況が変わることを他者の裁量の中に求めるので、自分は変わらずにいてしまう。みすみすチャンスを逃しているとも言えますが、その分脳がズルして楽しているとも言える。

現代社会に欠けている「モラル」という係数

中西:それはわかるね。脳の問題だという発言は非常に大きくて、脳は本当に見えないものだし。

中野:そうですね。

中西:私たちがうれしいとか楽しいとか言っているレベルは、生活者のレベル。それを脳の働きとして認定する職業的な人たちがいるし、それに根拠を与えている学者がいるわけ。新しく開拓された分野の脳科学などできちんと区別がつくようになって、その結果として症状が明らかになった。

ところが一般人はそうじゃない。医師でも患者でもなくて、正常な生活者としての仮面や仮装をしているわけです。実は非常に病人なんですよね。それが無限にある。ちょっと長生きをしている人間には、それがどこから出てきているのかがよくわかります。

昔は病気にすらならなかったような病気がいっぱいある。それはみんな自己の責任の中に入っていたんですよ。その箱がひっくり返ってばらまかれてしまった。

中野:あぁ、確かに。パンドラの箱みたいな。

中西:だから、限りなく楽になったのが人間の存在。そういうものが昔と違っているだけで、人間の様子上と生活者としての状態はぜんぜん変わっていないと僕には感じられる。じゃあ、方程式のXやYに何を入れるかと言ったらモラルなんですよ。

中野:あぁ、なるほど。

中西:今まではモラルというものがあって、その方程式が成り立っていたわけ。ところが、今はモラルという係数がないんです。

中野:確かに、ユニバーサルなものとしては存在しないですね。

中西:それを物質的な因子に還元して、XもYもZもみんな病状として加算されている。それだけの話だ。

「モラルの処理」を行っている脳の機能

中西:昔は病状じゃなくて、自分のモラルとして内在し、自己処理可能なものとして育てられたんです。それが今はなくなって、「すべて病気なんだから治すのは医者ですよ」「自分じゃないんですよ」という時代になった。

そこに曖昧模糊として、アイデンティティもない、あるいは将来を見通しているものを失っている。漫然としたコロナウイルスと共存している現代人がいるんじゃないかという気がするの。

中野:なるほどなぁ。

中西:これはみみずのたわ言ですかね。

中野:いやいや。難しいし、おもしろい。どうやって切ろうかな。モラルからいきましょうか。モラルの処理をやっている場所が額の奥のほうにあります。計算の領域とまた違うんですね。

中西:モラルが。

中野:そうですね。

中西:じゃあ僕、余分なことを言うと危ないじゃん。

中野:そんなことないですよ。

中西:ここ、打ったから。

中野:ええっ。

中西:今は何もなくなったけれど、昨日あたりまでずっとあざがあって。

中野:外側が傷ついたぐらいでは大丈夫だと思いますが。

中西:よかった。打ったからモラルがプチーンと壊れたんだけど。

中野:いやいや。ちゃんと検査してOKなんでしたら大丈夫です。

中西:大丈夫? anyway。

中野:anyway。モラルの領域というのがあって、自分の行動を自分で観察して、間違ったことをしちゃったなと感じたり、後悔の念が生じるような行動をしたのか。それとも、自分は正しいことをしたなと感じたり、喜びの念が生じるか。そういう行動をフィードバックして判断するような領域です。第3の目みたいなものかもしれませんが、自分を見つめる目があるんです。

中西:それはわかるわ。三つ目とか、四つ目とか。優れた人としてあるわけです。仏教で白毫(びゃくごう)と言うでしょう。

中野:あー! はい。はい。

中西:ヒンドゥー教では目なんですよ。

中野:白毫相って言いますよねぇ。

「美の認知」と「モラルの認知」は同じように処理されている

中西:三つ目なんておかしいというので、白毫に変えちゃったの。だから本来人間は二つ目。だけどヒンドゥー教では三つ目が聖者で、四つ目もあるんですよ。

中野:おもしろいですね。

中西:蒼頡(そうけつ)という人は文字を発明したという。だから四つ目だと言われている。

中野:おもしろい。へぇ~。

中西:目というものが優れているんだという考え方が、象徴的な言い方であって。前頭葉の中心に第三の目があるという脳科学の到達点は、ヒンドゥー教にすでに存在した。仏教ではそれを怪しき者として、必要以外の不必要なものとして抹消したという。そういう宗教の歴史と脳科学の発達がパラレルに一致しますね。

中野:第三の目というか、自分を見つめる目の領域がモラルの領域ですけれど、脳のおもしろいところは美しいと美しくないを同時に処理する点ですね。

良い・悪いと同時に、我々は良い行いをしている人を美しい人といいますよね。一方で、例えば非常に利己的な振る舞いをしたり、悪いことを行う者のことを汚い人と言います。私たちが美の認知とモラルの認知を同じように処理しているということが、言葉の上ではすでに現れているんですよね。

中西:美醜と善悪ね。これが一緒になっている。

中野:はい。第三の目で一緒に処理しているわけです。だけど、言葉だけが上滑りするようなネット社会では、私たちの実感として持っている美しい感じとか、「こういうことをやってはいけないよね」という感覚は、どうしてもすり抜けてしまう。

ネットの言葉の空間では誰彼かまわず攻撃するような人とか、とても美しいとは思えないんだけれども、お金をパーッと儲けたような人をすごく崇め奉ったりするような。非常にキッチュなパラダイムが生じている。身体性を失った時に第三の目は曇らされるのかなと思うことがあるんですよね。

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