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伊達公子氏(全3記事)

伊達公子氏が「無理だった」と語る、世界でのプレッシャー 伝説のテニスプレイヤーが「25歳で引退」の決断を下したワケ

各業界のトップランナーたちが、困難や壁を「どう乗り越えてきたか?」を語るイベント「Climbers 2021 」 。Climber(= 挑戦者)は、何を目指し、何を糧にいくつもの壁に挑戦し続けることができたのか。単なるビジネスの成功事例やTipsではなく、彼らを突き動かすマインドや感情を探り、進み続ける力を本質から思考します。本記事では、伝説のテニスプレイヤー・伊達公子氏の登壇セッションをお届け。自身を「劣等生」と呼ぶ幼少期や、25才で決断した一度目の引退などについて語られました。

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伝説のテニスプレイヤー・伊達公子氏

司会者:続いてのセッションは、テニス界のレジェンド。テニスプレイヤーの伊達公子さんです。世界を舞台に圧倒的な強さを見せた、伝説のテニスプレイヤー。その活躍の裏には、激しい葛藤がありました。紆余曲折を経て彼女が見つけた、明日につながる決断のヒントとは?

伊藤力氏(以下、伊藤):伊達公子さんです。どうぞよろしくお願いいたします。

伊達公子氏(以下、伊達):よろしくお願いします。

伊藤:どうぞおかけください。

伊達:ありがとうございます。

伊藤:本セッションのモデレーターは、セールスフォース・ドットコムの伊藤力が務めさせていただきます。私は現在、セールスフォースの新卒採用チーム、そしてパラテコンドーの日本代表として活動しております。本日は、世界を舞台に活躍された伊達さんとのセッションということで、私自身も非常に楽しみにしております。伊達さん、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

伊達:よろしくお願いします。

伊藤:まず私から、簡単に伊達さんのご紹介をさせていただきます。すでにみなさまもご存知かと思いますが、伊達さんは全豪・全仏・全英でベスト4入り。さらにアジア女子選手として初めて、WTA世界ランキングトップ10入りをされました。1996年に一度現役を引退されましたが、2008年に新たなる挑戦として現役復帰され、その年に全日本選手権シングルス・ダブルス制覇など、さまざまな最年長記録を塗り替え、2017年、二度目の引退をされました。

本日は現役時代のお話はもちろん、今まさにチャレンジされている内容をどんどん伺っていきたいと思います。本日はよろしくお願いいたします。

伊達:お願いします。

幼少期はぜんぜん目立つ選手ではなく「劣等生」だった?

伊藤:ではさっそくなんですけども、ここまで偉大な記録を打ち立てている伊達さん。実はご自身のことを「劣等生」と表現されていて、少し意外だなという印象があるんですが、そちらはどういう感じでしょうか。

伊達:私は世界でナンバー4までいったということで「幼少期から期待されていて、才能があったんじゃないか」とよく言われるんですけれども、実はですね、幼少期はぜんぜん目立つ選手ではなく、そして優勝経験もない、テニス好きな少女だったんですよ。

本当にいろんな出会いがあって、テニスをずっとやってきてはいたんですけれども、負けず嫌いであることは、子どもの時から間違いなかったんですけれど(笑)。なんですが、初めて優勝したのが、たぶんイメージつかないと思うんですけど、高校1年。もう高校2年生になる前だったんですよ。子どもの時の小さな大会から入れても、初優勝が高校1年生だったっていう。それぐらい劣等生な感じでしたね。

伊藤:本当に意外なイメージがありますね。ちなみになんですけど、どのタイミングで才能が開花したといいますか。僕らがイメージしている「勝てる選手」としての伊達さんになったのか? だったり。あとは実際に「プロでがんばろう」ってなったのは、どういったタイミングだったんですか?

伊達:高校1年生の時に、高校の新人戦だったんですけれども、初めて優勝して。高校1年の夏のインターハイ、高校総体なんです。私は兵庫県の予選で負けていて、全国大会には行けてないんですよ。

なんですけど、1年生の時には県予選負けだった私が、高校2年生の時にはインターハイ本戦でベスト4に入ったことで、一般のジュニアとか学生とかそういうレベルではなく、いわゆるプロが出る全日本選手権に「日本テニス協会主催の推薦枠」というので予選に出たんですね。

あれよあれよという間に本戦に勝ち上がって、ベスト4に入ったんですよ。今まで会ったプロの選手たちっていうのは、本当に雲の上の存在の人たちであって。自分が子どもの時に、両親に連れて行ってもらってそのプロの大会を見ることはあっても「自分が同じコートに立って戦う」っていうことはイメージもしたことがなかったのに、ベスト4に入ったことで、プロっていうものを身近に意識できるようになって。それが高校2年生の秋だったので、高3の春にはもうプロになることを決断してました。

なんかもうトントン拍子で。高校1年の県予選負けから、もう本当に1年半ぐらいで大きく世界が変わっていったっていう時がありました。

常に持っておくべき、2つの目標

伊藤:ありがとうございます。そういった経緯から、プロの道に進まれたと思うんですけども。その後、怒涛の勢いで輝かしい成績を残されていますが、実際にプロの世界は伊達さんにとってどのような場所でしたか?

伊達:「プロになる」っていう強い意志でプロの世界に入ってみたんですけれども。右も左もわからなかった私が、実際にただプレーをすればいいという。やっぱりテニスは個人スポーツなので「ただボールを打って、試合に勝つ・負ける」っていうことではない要素がたくさんあるんだな、っていうことに気付かされたと同時に、今まで日本で戦っていた日本人とは違う、欧米の選手たちのパワーに圧倒されて。常に自分が「どうやってその力のある選手たちと向き合って、それに向き合うためには何が必要なんだろう?」っていうことの模索の連続な日々でしたね。

伊藤:国内は「伊達さんが圧勝」と、僕もイメージしてるんですけども。実際に国外の選手と戦って、もちろん優勝されたり勝ったりっていう部分はあったと思うんですけど、そういった時の心境だったり。あと、試合も1日で終わるわけではないと思うので、1週間なら1週間なりの「モチベーションの保ち方」なんていうのも教えていただけますか?

伊達:私がプロを意識した時にコーチから教わったことというのが、これは自分の失敗から学んだことだったんですけれども。身近な目標と、その先にしっかりと「身近な目標を乗り越えた先の目標」っていう、常に2つの目標を持つことの大切さを教わって。

厳しい世界に身を置いていただけに、その目標を見失ったりしてしまうと、どうしても時間にロスができてしまうので。その目標を持ち続けることで自分のモチベーション……常に自分が満たされることがなかったので。1つ目標をクリアしたら、その先に立てていた目標が身近な目標になり、身近な目標を立てたら、またさらにその先の目標というものを常に作ることによって、モチベーションを維持させていたところがあったというのが1つ。

あとはやっぱり、自分が世界のプロになった時に、目指していたトップ10により近づいていきたいという、強い思いですかね。そこが曲がることがなかったので、そこの2つでモチベーションをキープしていたと思います。

世界で感じた、孤独とプレッシャー

伊藤:私たちのテコンドーの中でも、世界ランキングというのがありまして。やっぱりトップ10っていうのは、1つの区切りかなと思っていまして。伊達さんも、最高ランクが4位といったところで、プレッシャーは感じなかったですか?

伊達:とにかく、世界の中で揉まれてもがいていくことで、まず自分の存在価値っていうものを。当時、アジア人選手がそれほどテニス界にも、スポーツ界においても、世界で戦う選手が少なかっただけに、自分の存在価値っていうものをしっかりと確立させるために何ができるんだろう? ということで。自分の主張だったりとか決断をする力とか、そういうものを身につけていかないと、その世界では生きていけないっていうことをすごく痛感しました。

当時は、今みたいにインターネットがあったり、日本とのつながりを持っていたりできる時代ではなかったので。世界で戦っている中で、孤独感というものを常に感じていただけに、その孤独と向き合いながら受けるプレッシャーとどう向き合っていくか? っていうことは、自分の中でコントロールするのはとても難しくて。

自分がコートに立って「ボールを打って勝ち負け」っていうこと以上に苦しんでいたことっていうのは、すごくありました。

常に頭に浮かぶ「何のためにテニスをやっているんだろう?」

伊藤:そのような過酷な環境で勝負をしていたわけですけども。それでも世界ランクをトップ10だったり、トップ10以内を維持されるっていうのは並大抵のことではなかったのかな、と思っております。そして、当時のアジア圏の選手として最高ランクとなる4位というところで、第三者、ファンや関係者からすれば「これから伊達公子選手、グランドスラム獲ってくるんじゃないか?」とか。そういった期待だったり、希望だったりがあったとは思うんですけど。

ですが、引退を発表されるんですよね。多くの人は「まさか!」「なんで?」「これからでしょ!?」って思ってたと思うんですけども。当時、若干25歳という年齢でしたが、引退という決断に至った背景はいったい何なんだったんでしょうか?

伊達:うーん……いろんな要因があるんですけれども。とにかく疲れ果てていた、っていうことが1つ。そこの背景には、勝負にはこだわっていたんですけれども、自分が思っている以上にランキングも……夢を持って目標を持って「トップ10」っていうものを目指していたものの、やっぱりそれをクリアした時から「それ以上に上に行くことの恐怖感」というものを、その当時の私は感じてしまって。

でも成績は出てしまうっていう、ちょっと複雑な思いで戦っていたんですけれども。後半になってくればなるほど、ボールを追いかけてボールを打っていることが大好きだった幼少期の頃の私と比べて、もうテニスが楽しくなくなってきてしまって。「何のためにテニスをやっているんだろう?」っていう疑問が、常に頭の中にあって。

その中でも、テニスというのは毎週毎週試合に追われてしまって、ランキングも毎週発表されてしまうので。そこに身を置いている以上は、戦うしかなかった。そこに答えを見出すことができず、あの時の「25歳の伊達公子」という1人の女性は、その決断しかできなくて。

そこからもう解放されたいという思いが、どうしてもそっちのほうが強かったですね。あの時代、アスリートっていうのが世界で戦うって……野茂(英雄)さんがメジャーリーグで戦っていらっしゃった、っていうことがあったぐらいで。今やサッカーにもメジャーリーグにも多くの日本人アスリートが、世界を戦いの場としている選手が多いんですけども。当時は本当に少なかった分、のしかかってくるプレッシャーということに、あの当時の私は「無理だった」っていうところが大きな要因です。

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