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困難は新しい自分に出会えるチャンス NYヤンキースGM特別アドバイザー/Matsui 55 Baseball Foundation代表理事 松井秀喜氏(全3記事)

松井秀喜氏が、メジャー挑戦時に「一切捨てた」と語るもの 過去の経験をもとに始める“新たな試行錯誤”への心構え

乗り越える。「Climbers(クライマーズ) 2020 」 は、さまざまな壁を乗り越えてきた各界のトップランナーによる、人生の特別講義を提供するイベントです。Climber(= 挑戦者)は、何を目指し、何を糧にいくつもの壁に挑戦し続けることができたのか? 単なるビジネスの成功事例やTipsではなく、彼らを突き動かすマインドや感情を探り、進み続ける力を本質から思考します。本記事では、NYヤンキースGM特別アドバイザー/Matsui 55 Baseball Foundation代表理事 松井秀喜氏が登壇されたセッションの模様を公開します。

開幕の直前の怪我と、再び贈られた父からの言葉

司会者3:巨人に入ったのが93年ですけれども。その後、98年の春のキャンプで、左の膝を怪我されます。これは本当に開幕の直前でしたよね。

松井秀喜氏(以下、松井):そうですね。キャンプ中くらいから痛めて、自分の中ではだいぶ楽観的だったんですけどね。すぐに良くなるだろうなと思っていたんですけど、なかなか良くならずに。もう開幕が目の前に来て、開幕してもやっぱり治らなくて。「これはちょっとまずいな」って思いまして。

当時、開幕しても成績もぜんぜん上がらなかったので。もうなんというかね、怪我というのは野球のプレー以前の問題なので。自分の体のことを心配しながらプレーしたというのは、その時が初めてでしたけどね。

司会者3:そんな時も、お父さまからまた励ましの言葉が贈られたそうですね。

松井:父がよく言っていたのは「人間万事塞翁が馬だ」と。「何が良くて何が悪いかはわからない。この怪我をまた次へのエネルギーへ、怪我をしたことによってまた新たな気づきがあるかもしれない」と言って励ましてくれましたけどね。

母も「竹には節があるからこそ、次へまた強くまっすぐ伸びていくんだ」ということを、当時はFAXで。ほとんどFAXで勝手に送られてくるんですよ。ガンガン、ガンガンね(笑)。

司会者3:メッセージが。

松井:こっちからほとんど返事なんてしなかったですけど。テレビを見ながら、私の表情やプレーを見ながら、よくそうやってFAXで励ましの言葉を送ってくれてました。

司会者3:それが自分が前向きになるといいますか、そうだなって思える励みになったわけですか?

松井:やっぱり両親なんでね。もっと軽く。「あ、両親はこういうふうに見てんだな」みたいな(笑)。そのくらいでしたけどね。でもやっぱり両親だからこそ、逆に心のどこかに残るというかね。そういうのはあったと思いますね。幸いそのあと膝も良くなったので。

「巨人の4番バッターが、FAでメジャーに行くこと」への葛藤

司会者3:そしていよいよヤンキースにやってくるわけですけれども。2003年メジャーへの決断、海を渡る。これは自分の中では大きな変化ですよね。

松井:当時、ジャイアンツの4番バッターを打ってましたので「ジャイアンツの4番バッターがフリーエージェントを取って、それを行使して違うチームに行っていいのか?」っていう。その葛藤はすごくありました。私自身、もちろんジャイアンツが好きだったし。

でもやはりメジャーリーグというか、私はヤンキースへの憧れがあったので。1999年にね、プレーオフに1人でニューヨークに見に来たんですよ。その時のヤンキーススタジアムの光景が、ずっと頭から離れなくて。「もし自分が行くんだったら、ヤンキースに行きたい」っていう気持ちが心の中であったんですよね。

もちろん、ジャイアンツでプレーしている時はそういうことを一切出さずに、自分の中では蓋をしながらプレーしていましたけど。いざFAの権利を取って「じゃあどうする?」って時に、やはり蓋をしていたものが一気に飛び出してきて(笑)。

そこでやっぱり「ジャイアンツの4番バッター」っていうね。最後、選ばなくちゃいけないっていうのが、非常に自分の中では重い決断でしたね。

司会者3:そうですよね。でもやっぱり夢を追いかけて、ヤンキースに来て。

松井:やはりあの日のヤンキーススタジアムの光景っていうのがね、自分もあそこに飛び込みたいっていうのが、最後まで消えなかったので。ということは、やはり行くっていうことだろうって。最後は自分に言い聞かせて、決断をしました。

「こういう成績を残した」は、一切捨ててきた

司会者3:安定を、4番バッターを……言い方が悪いですけど、置いて、捨ててまで飛び込んだ1年目。かなりクセ球に苦労したんですよね?

松井:当時のメジャーリーグのピッチャーのボールというものは、日本のプロ野球でプレーしていた頃に見ていないボールがたくさんあったので。それに慣れるまでは、やはり手こずりましたよね。自分の中で打席での戦略というか、アプローチ、考え方というものを少しずつ変化させないと、うまく対応できないなっていうのに気づきましたね。

司会者3:でも「もうダメだ」とか「やっぱり来なきゃよかった」みたいなのはなかったんですか?

松井:それはなかったですね。これもやはり挑戦の一部だし、野球でこういうこともあるっていう、十分それは予想できたことですから。うまくいくことばかりじゃないですからね。もちろんジャイアンツ時代も、うまくいくことばかりじゃなかったですから。

新たなところに来たわけですからね。それは自分の実力だと受け入れて、その中で「じゃあ次何をする?」「何をすれば自分は打てるようになるか?」ということを、それは日々考えていたつもりですけどね。

司会者3:日本ではホームランバッターで大活躍だった自分が、今打てないということがマイナスにはならなかったんですね。「一歩踏み出そう」というお気持ちでいらっしゃったんですね。

松井:そうですね。ジャイアンツ時代の自分の中での「こうだったのに!」みたいなものは、(ヤンキースに)入ってきた時からもう捨てたつもりです。自分の中での新たな挑戦だし。もちろんジャイアンツで経験したものをもとに、新たな試行錯誤を始めるんですけど。「自分はこういう成績を残したんだ」っていうものは、一切捨ててきたつもりです。

司会者3:初心に帰るわけですね。

松井:そうですね。やっぱり新たなスタートっていうかね。そういう気持ちでやりました。

経験したことのない痛みと、プレーのできない数ヶ月間

司会者3:そしてシーズンが2年目、3年目といって、2006年のシーズンは大変なことがありました。5月に左手首を骨折。これは私たち見ているほうも……小雨が降るレッドソックス戦でしたよね。「痛い!」って思わず声が出てしまいそうなくらいな、相当な痛みがありましたか? どんな状況だったんですか? 

松井:ちょうどバッターの打球がレフトとショートの間くらいにフラフラって上がってきたんですけど、自分としては「捕れる」と思って突っ込んでいって、スライディングキャッチを試みたんですけど。

(ボールは)グラブの中に入ったんですけども、たまたまそれがぬかるんだ芝生にガッと入ってしまって。でも自分はスライディングしているので、自分の体は前に行くけどグラブだけ下がっていくみたいな感じで。完全に反対向きになっちゃったんですよね。まあ自分が下手くそだと言えば、それまでなんですけど(笑)。

司会者3:いやいや。

松井:まあでも、あの痛さというのは経験したことがなかったですね。完全に骨が……レントゲン写真見たらグチャグチャになってましたので

司会者3:そうだったんですね。その後、数ヶ月はプレーができずに。

松井:そうですね。(完治まで)4ヶ月かかりましたかね。

司会者3:家でヤンキーススタジアムの試合を見るっていうのは、どんなお気持ちだったんですか?

松井:自分がプレーできずに自分のチームの試合を見るっていうのは、経験がなかったことなので。これはやっぱり、ある意味、苦痛ですよね。でもやっぱり自分が戻った時には、いいチーム状態であってほしいと思う気持ちと。

でも自分がいないところでどんどん試合が消化されていって、自分の居場所がなくなるんじゃないかっていう、そういう不安も正直ありました。さまざまな感情を抱きながら、見たり、見ない時もありましたね。あんまり見たいという気持ちにならなかった時もありましたけど。

司会者3:そんな時、どうやって自分を奮い立たせたんですか? 何をされていたんですか?

松井:自分が戻った時にね、自分の中で決めていたのは「怪我する前よりもいいバッターになって戻ってきたんじゃないか?」っていうくらいのね。周りがそう思うくらいになって戻ろうっていう。それが気持ちの中にあっただけです。

でもやはり、リハビリから一歩一歩進んで行かなくちゃいけないので。その道のりは長かったですけど。その気持ちだけは常に持ってましたね。

決して道が断たれるわけじゃない

司会者3:その後、2006年2007年2008年と右膝の手術でしたり、左膝の手術だったりと大きな壁が立ちはだかるわけですけれども。松井さんの中で壁にぶち当たった時、困難に直面した時、こうしようと決めているルールなどはありますか?

松井:ルールはないですけど。それは現実なので、それから目を背けることはできないですから。まず受け入れることですよね。自分の状況、状態。そこから何ができるか、っていうことをベースに考えなくちゃいけないかなと思いますね。

まずしっかり治す。治して、自分の中でどれくらい不安があるか? とかね。どのくらいプレーできるかとか、どのくらい走れるかっていうのは、基本は一歩一歩なんですよね。最初はまず、現状を受け入れることじゃないですかね。そこからやっぱり逃げられないかなっていうふうには思いますね。

司会者3:ガクーンと感情が落ちてしまうとか、落ち込んでしまうということもあるんですか?

松井:それはないですかね。決して道が断たれるわけじゃないですから。プレーできない時は確かに残念ですけど、でも自分が戻ればちゃんとプレーできる「いいプレーができる」っていう、その気持ちだけをなくさないようにしながら。あとは現実的にね。どうやってやるかっていう。それだけですかね。

司会者3:コツコツと、っていうことですね。

松井:なかなかガッといけないですから。自分の性格的にも、少しずつやっていったほうがいいかなというのは、いつも思っていました。

ワールドチャンピオンシリーズを制覇し、日本人初のMVPに

司会者3:その結果、2009年にヤンキースとしても9年ぶりにワールドチャンピオンシリーズを制覇して、松井さんは日本人初のMVPに輝いたわけですけれども。その時はどんな思いだったんですか? どんな感情でした? いろんなことを振り返って。

松井:まずなんでヤンキースに来たかっていうことを思うと、やはりワールドシリーズで勝ちたかった。メジャーリーグで世界一という経験をしたい。ヤンキースだったらそれができるんじゃないか、という気持ちで来ましたので。「このために自分はヤンキースに来たんだ」という気持ちが一番ですね。

MVPに関しては、本当に運がよかっただけです。「自分がなぜあれだけ打てたか?」っていうことを自分で冷静に振り返っても、はっきりした説明はできないです。もちろん状態がよかったこともあったし、ああいうことがあっても不思議ではないんですけど。でも、あまりにもうまくいきすぎたなっていうか(笑)。そういう気持ちはありますよね。

司会者3:努力は才能なんですね。そこが開花した感じがします。

松井:まあ、運がよかったと思います。本当に。結果的にあれが、ヤンキースで自分の最後の試合だったので。最初の試合が満塁ホームランだったんですよね。これはもう説明できないですよね。そういうことっていうのは。自分の中では本当に「ご褒美をもらったな」という気持ちです。

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