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医療と和尚の、あうんの呼吸。(全4記事)

「死」の実感が薄れている現代社会 漫画『阿・吽』のおかざき真里氏と飛鷹和尚の「死」を巡る対話

一見、複雑で敷居が高く見える医療情報を「真面目に、やわらかく、やさしく伝えたい」。より根拠がある情報を届けて、医療を取り巻くすべてのコミュニケーション・エラーの解消を目指す、「SNS医療のカタチ」によるYouTube LIVEが開催されました。今回は、漫画家のおかざき真里氏、高野山の飛鷹全法(ひだかぜんぼう)和尚、編集者・たられば氏と病理医のヤンデル先生による「生老病死」についてのトークセッションをお届けします。おかざき氏の仏教マンガ『阿・吽』を入り口に、現代社会の中では薄れつつある「死」の実感について語りました。

古典好きの編集者・たられば氏と漫画家のおかざき真理氏

たられば氏(以下、たられば):『SNS医療のカタチTV やさしい医療の世界』をご覧のみなさま、こんにちは。編集者の「たられば」と申します。本日は(Twitterのアイコン画像にちなんで)犬の耳をつけてお送りいたします。

本日は病理医のヤンデル先生(市原真氏)と共に、司会進行を務めさせていただきます。ヤンデル先生、よろしくお願いします。

(リモートで参加している市原氏からの反応がないため)ヤンデル先生、音声入ってますか? 大丈夫? 

えー、……ヤンデル先生の声がこちらに聞こえないという、なかなかしびれる状況でございます。

では、続いておかざき先生、本日はよろしくお願いします。ちょっと緊張しておりますが、簡単に自己紹介などをお願いできますか?

おかざき真里氏(以下、おかざき):漫画家のおかざき真里と申します。(左手の包帯のことに触れながら)すみません、子どもの自転車に乗っていたら転びまして……。

たられば:(笑)。

おかざき:3日前に手術をしたばかりで、こんなかたちで失礼いたします。どうぞよろしくお願いします。

たられば:日本中の全編集者がTwitterを見て(おかざき先生の手のケガ報告を読んで)悲鳴をあげました。まだ、左手でよかったです。

おかざき:はい。右手は大丈夫です。

最澄と空海を描いた仏教マンガ『阿・吽』

たられば:よかったです。お疲れさまでございます。本日はもう1名、和歌山の高野山から飛鷹全法(ひだかぜんぼう)和尚に来ていただいております。飛鷹先生、よろしくお願いします。

(リモートで参加している飛鷹氏からの反応がないため)お? 飛鷹先生、よろしくお願いします。聞こえている?

おかざき:聞こえてないかも。

たられば:聞こえてないか。いやぁ、生放送らしいトラブルが続いておりますよ。

おかざき:じゃあ、私とたらればさんでこの場を回さないといけないことになりましたね?

たられば:続けなきゃ……。そうですね、とりあえず音声が復旧するまではこの2名でやらせていただきます。

おかざき:はい。よろしくお願いします。

たられば:ありがたいことに、最初はおかざき先生に語っていただけるお題です。

まず、先生は現在、最澄と空海という日本を代表する宗教家2人の出会いと交流、生き方を描いた『阿・吽』(あうん)という作品を『月刊! スピリッツ』にて連載中です。2020年8月現在、単行本は11巻まで発売中ですね(12巻が2020年9月11日に発売となります!!)。おかざき先生、単行本を持っていただいてありがとうございます。

阿・吽 (1) (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

おかざき:ありがとうございます。

たられば:この作品はまさに、「死の描写」から始まっております。作中にも、本当に多くの「死」が語られております。

ところで、これまでの作風から、おかざき先生と言えば恋愛や仕事を中心にした作品が多かったんですけれども、今回は非常に「死」を扱った描写が多い。

おかざき先生が連載を始めるときに、漫画として「死」を描写する際に意識していることや、そこから発見したことが何かあれば、ぜひ伺えればと思っております。いかがでしょうか?

「わかったつもり」にならずに描きたい物語

おかざき:2つの観点から話をさせていただいていいですか? まずこの『阿・吽』というタイトルなんですけれども、「阿」というのはこの世の始まりの発語、最初の言葉。「阿」が一番の始まりなんですね。それで「吽」というのが、この世の最後の言葉で終わり。「阿吽」で「始まりから終わりまで」という、「世界のすべて」という意味なんだそうです。

先ほどご紹介いただきました1巻の最初にある「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥し。」というのは弘法大師空海の言葉なんですが、要するに「生れ生れ生れ生まれて」は「阿」ですね。「死に死に死に死んで、死の終わり」が「吽」です。

要するに「阿」から「吽」、もう本当に「世界のすべてをわからないまま生まれて、わからないまま死んでいく」という意味を込めて、タイトルを『阿・吽』にしました。

私が弘法大師空海と伝教大師最澄を描くにあたって、まず絶対に自分で「わかったつもり」にならないようにしようと戒めています。もう千何百年も続いた宗派の御開祖様の偉大な方の話を描くので、私ごときが「あ、わかった!」と思って描くことがとにかく最悪だと思っております。

「人間は、最初から最後までわからないんだ」という弘法大師の言葉にならって、私もわからないほうにドラマを進めようとしています。ちょっとでも「わかる!」と思っちゃったら、それは避けようということです。できるだけ、「これはわからない」というところを掘っていこうと思って描いています。

今の40~50代の人々は「死に対する実感のない世代」

おかざき:それで、先ほどの死の話なんですけれど、たぶん1980年代終わりから1990年代ぐらいを若者として過ごした私たちの世代って、とにかく「死の匂い」がしない世代なんです。「死に対する実感のない世代」という言説がとても出ています。カルチャーの中でも「メメント・モリ(死を思え)」という言葉が流行った世代なんですよね。

ご老人と一緒に暮らしているわけでもない、核家族ももう2世代目3世代目に入ってきた世代でもあるし、本当に生老病死から遠く離れたところで日常が行われているので……私にとって遠いもの、わからないものが、この「死」であると最初に思ったんです。私も仲の良い友達を亡くしましたけれど、やはり実感がないままなんです。

2年前に私は父を亡くしているんですけれども、長野でお葬式をしたときに、なんと高野山から駆けつけてくださったのが、今回の飛鷹和尚さま(笑)。

たられば:へぇー!

おかざき:高野山の山の上から長野の山の上に、駆けつけてくださいました。

浅生鴨氏(以下、浅生):高野山の飛鷹先生とは、もう無事に音声がつながっているそうです。

おかざき:よかったです。飛鷹先生、本当にあのときはありがとうございました。

飛鷹全法氏(以下、飛鷹):とんでもない。こちらこそ、その節はお世話になりまして、ありがとうございました。

おかざき:お世話になりました。

浅生:札幌の市原先生ともつながっているそうです。

おかざき:あ、よかったです。

たられば:ヤンデル先生、大丈夫?(笑)。

社会から死を隠蔽してきた近代社会

市原真氏(以下、市原):(依然、音声がつながらない様子で、ホワイトボードに文字を書いて示しながら)「和尚につながりましたね」。

たられば:(市原氏がホワイトボードに書いた言葉を見て)いやいや、それはわかった(笑)。君の音声はつながってないじゃないか(笑)。おもしろいな。これ、(市原氏が)口だけ動かして、本当にしゃべってなかったらもっとおもしろいけどね。

市原:(再びホワイトボードに書いて)「聞こえてないの?」。

たられば:聞こえてませんね。

浅生:では先生方にも今のおかざきさんのお話を受けて、生から死に至る、「わかる」「わからない」の話をちょっと伺えたらなと思うんですけれども……。

たられば:今のお話を伺って、飛鷹先生はどうでしょう?

飛鷹:そうですね。私もおかざきさんとそんなに世代は変わらないと思うのですが、正直なところ、「日常の中に死を実感する」ということは、なかなかなかったですね。

ですから、例えば歴史の授業などで戦争の映像を見ましても、それはあくまで白黒の色がない過去の記録に過ぎないので、自分たちと直接関係があるという実感が持てませんでした。ただ考えてみると、そもそも近代とは、日常から死というものを隠蔽してしまう社会であったと言えると思うんですね。

人間にとって死というのは超えられない大きな問題の1つだと思うんですけれども、8~9世紀の宗教者たちが、その時代の切実な課題にどう向き合っていたかということを、今回おかざき先生が描いてくださっています。我々がそうした切実さを肌感覚で理解するためには、よほど想像力を逞しくしないならないんじゃないかと思います。

高野山は、日本の総菩提所と言われ、奥之院には歴史的なお墓が20~30万基もあり、年間を通じて多くの方々がお参りくださっています。お参りにお越しになる方々をお迎えすることを通じて、人の死や魂を供養するとはどういうことなのかを、考えさせられながら日々過ごしているような状況ですね。

高野山のお寺は檀家を持たず、お葬式に行くこともまれ

たられば:なるほど。すごく含蓄のある話でした。ちなみにすみません、完全に興味本位の話なんですけれども、おかざきさんのお父様がお亡くなりになって飛鷹和尚が駆けつけてくださったというのは、葬儀に来てくれたということですか?

おかざき:そうなんです。葬儀については、私の実家は曹洞宗なものですから……。

たられば:そうですよね。宗派的に大丈夫なのかと、ちょっと気になりまして。

おかざき:いきなり真言宗の飛鷹和尚様が葬儀の当日に来てくださって。

たられば:おぉ、はい。

おかざき:それで、他の方が入る前の家族だけのところで、お経をあげていただきました。

たられば:そうか、知り合いとはいえ……。飛鷹和尚、他の宗派のお坊さんが入っている知り合いの方の葬儀へ行くようなことは、よくあるんですか?

飛鷹:高野山のお寺というのは、歴史的に大名の帰依を受けた信者寺として成立してきたので、実はあまり「檀家」というものがないんですよ。

なので、高野山のお坊さんにとっては、「お葬式に行く」ことが、必ずしも日々のルーティンではないんですね。ですからどちらかというと、本当にご縁があった方やお世話になった方、まさに仏縁でつながっているような本当につながりが深い方の場合に行かせていただいているという感じですかね。

ただ若干デリケートなのは、宗派が違う場合です。こちら側は問題ないんですが、ご遺族のほうが、「やっぱり宗派が違うと困るよ」というケースもあります。もちろん、そういうことはきちんと確認してやらなきゃいけないんですけれどもね。

おかざき先生の場合は快くというか、私が駆けつけたときには、ご家族のみなさんがいる場所でお経をあげさせていただいたという感じでした。

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