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宮台真司と読み解く「孤独死と自己責任論」——特殊清掃の現場で起きていること(全5記事)

男性は離婚・パワハラ、女性は失恋が引き金 「孤独死」を防ぐ生前サポートの実状

2019年4月18日、withnewsが主催するイベント、「宮台真司と読み解く『孤独死と自己責任論』——特殊清掃の現場で起きていること」が開催されました。社会学者の宮台真司氏と、『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』を著した菅野久美子氏が、年間3万人が孤独死する日本の現状について語ります。特殊清掃の現場から見える、孤独死の背景とそれにまつわるさまざまな課題とは。本パートでは、孤独死を防ぐためのサポートや、最近新たに登場している“孤独死ビジネス”の現状について語りました。(写真提供:withnews

男性は離婚やパワハラ、女性は恋愛の挫折が引き金になる

奥山晶二郎氏(以下、奥山):このテーマとは違いますが、おーちゃんのエピソードでいうと、恋愛ということがありますよね。ちょっとおーちゃんの説明を。

菅野久美子氏(以下、菅野):はい。この本の核となるエピソードに、50歳でゴミ屋敷になって失踪したおーちゃんという女性がいるんです。おーちゃんは失恋をきっかけに、部屋の壁に生理用ナプキンの山を築いて、ゴミの中で何年も生活をしていた。家族についにそれがバレて、突然部屋からも職場からもいなくなったという。

超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる

おーちゃんは病院で介護のお仕事をしていました。孤独死される方の特徴として、男性は、離婚やパワハラ、女性はおーちゃんのように恋愛関係の挫折で引きこもってしまう方がけっこう多いんです。

今回のおーちゃんの例だと宗教や自己啓発セミナーに救いを求めた時期もありました。おーちゃんのエピソードについては、ぜひ宮台先生にお聞きしたいと思っていました。映画、『嫌われ松子の一生』についての評を、以前にされていたと思います。「悲しい人生は果たして不幸なのか?」というような内容だったと思います。

宮台真司氏(以下、宮台):名前がとてもいい映画でした。あの映画の批評を中島哲也監督に気に入ってもらえて、その後、監督とのトークイベントに出る機会もありました。

菅野:『嫌われ松子の一生』を観られた方はいますか?

(会場挙手)

菅野:あ、けっこう。

宮台:まあ、とても有名な映画ですよね。

菅野:(笑)。まだおーちゃんは失踪中なので、松子のように最後亡くなってしまったかどうかはわからないですけれど、おーちゃんの人生はリアル嫌われ松子だったんです。

不幸は本当に不幸なのか?

宮台:『嫌われ松子の一生』は映画表現なので、それを通じて中島哲也監督が訴えたいことがはっきりしています。それは「不幸は本当に不幸なのか?」という問いです。人の感じ方にもいろいろあるという話ではありません。「不幸を経験することも幸いの一部なんだ」という強い主張です。

松子の人生の対極には、喜怒哀楽のフラットな、山のない、オチのない、意味のない、終わりなき日常みたいな人生もあります。何も期待せず、生きることも死ぬことも大差ないな、という気持ちで生きる人生です。

自殺した漫画家のねこぢるさんが、死ぬ直前の『ぢるぢるインド旅行記〜ネパール編』で描いています。それとは別に、たくさん期待をするからこそ、期待が外れて地獄のどん底に落ちて、かろうじて這い上がったらまた落ちて……という人生もあります。『嫌われ松子の一生』は、そうした人たちの人生に祝福あれ! みたいな映画です。

菅野:そうですね。

宮台:おーちゃんって、そういう感じじゃないですか? いまどきの50歳の人にしては珍しい命懸けの大恋愛をして、ものすごく残酷な形で裏切られてしまいます。病院に勤めている方で、宗教を通じて知りあった病院の同僚と、家族ぐるみで奥さん同然に付き合っていたのに、相手の男が突然その病院内の別の女と結婚してしまい、職場を移ることもできずその病院にずっとい続ける、という永遠に続く地獄を経験する。

イニシャル(初発)の状態がロマンチックな極楽だったからこそ、その崩壊が地獄として経験されて、それがきっかけになって崩れていったんじゃないかと想像されるんです。映画の価値観に則して言えば、それほどの大恋愛をしたという記憶があることこそ幸いなり、ということになります。そこから先は少し難しい問題になるので、みなさん、慎重に聞いてください。

かつての日本人が持っていた「別れた人もそこにいる」感覚

僕は2年くらい前から、菅野久美子さんの旦那さんである真鍋厚さんと映画トークをしてきていますが、そこで繰り返し話題にしてきたように、日本だったら100年前までは、僕たちは今のような時間感覚を持っていなかったんです。「過去は過ぎ去っていく。死んだ人は永遠の不在になる」という観念は、実はなかったんですね。

死んだ人は、天に昇ったり地獄に落ちたりと垂直方向に移動するのではなくて、山の向こうに行くとか、海の向こうの島に行くとか、水平に移動するんです。だから、お盆の時に、火祭りをしていると、火を囲んでいる人の輪の中に(死んだ人が)いつのまにか入ってくる。もともとのハロウィンもそういうケルトの風習でした。

そういう伝統的な観念とともにあると、死者は失われずに、少し遠くに行くだけです。同じように、過去も過ぎゆかないんです。過去にあったことは、もちろん過去に過ぎないけれど、今も思い出せる限りで、「別れた人もそこにいる」わけです。実は僕もそういうふうに生きています。

それは生き霊という概念にも関係します。物理的には遠くに離れて生きている人の怨念が、いまそこにあるように感じられる。近代社会になるまでは、共同体の暮らしの中で、「失われたように見えて、実は失われていない」というタイプの時間感覚や、それに支えられた死生観が、広く共有されていました。それをいまの僕たちは失ってしまったので、別れを過剰に悲しんだり、失われた関係を過剰にリグレットしたりしているわけです。

僕たちがついこの間まで持っていた、人類が長く生きてきた時間感覚や死生観を、できれば自分のものとしたほうがいいだろうと思います。そうすれば、とてもすてきな恋愛経験があったことが、不幸の原因になる代わりに、生き延びさせる力にもなると思うんです。そんなことは無理だと思わないでください。現に僕はそうやって生きてきています。

こう言いながらも、今ここにいらっしゃる若い方々が、そういう死生観や時間観念を取り戻す可能性がほとんどないとも思うので、言いながら「残念だなあ」というふうに感じています。その意味で、嫌われ松子は処方箋にならないかもしれません。僕がいま言ったことも、みなさんにとっては処方箋にならないかもしれない。僕のゼミに4年くらいいると処方箋になるんですが……。

失恋でセルフネグレクトに陥るかどうかは紙一重

奥山:おーちゃんと、今の先生の話を聞いていると、すぐには吸収しにくいかもしれないですけれど、すごく揺さぶられる気持ちは当然あります。おーちゃんが恋愛を経験する機会がすごく少なかったが故に、1回の失敗ですべてを自分でシャットダウンしてしまったような、そうした決めつけのようなもったいなさを感じました。菅野さんはおーちゃんの取材をされて、ご家族のお話なども聞いていて、どうでしたか?

菅野:自分も恋愛関係になると、立ち直れないほどダメージを受ける傾向があるので、おーちゃんのことは他人事じゃないなって……。

宮台:恋愛ってそういうものかもしれません。多かれ少なかれ、自分で勝手に決め付けている関係じゃないですか?

菅野:そうですね。

宮台:恋愛は、ほとんど妄想に近いものですよね。

菅野:おーちゃんのように恋愛であそこまで傷ついてしまったら、私も同じようにゴミ屋敷に陥ってしまうかもしれない、私と紙一重だなと思ったんです。

そういう意味でおーちゃんには、取材を重ねるうちに共感が深まっていったので、気が付いたらあそこまでページを割いて一章丸々取り上げていたんですよね。

先輩や友人が恋愛にアドバイスをくれることが救いになる

宮台:それは大事なことで、恋愛は妄想だから、みんなが妄想を支援してくれないとリアルじゃなくなっちゃう。昔はみんなが支援してくれました。女も男も学校時代はサークルに今よりもっとコミットしていて、サークルの先輩後輩同輩関係が小学校・中学校・高校・大学と続くんですよね。その中では中心的な話題は恋愛でした。高校や大学だったら、実際に恋愛に乗り出したら振られたとか。振られた場合は、元気がないからすぐにわかる。

「おい宮台、どうしたんだよ~? あ、もしかして振られた? お前~!」みたいな、必ずおせっかいな介入が起こるんですね。そのときに必ずあるのが、先輩の「俺もさ、昔はこんなことがあったんだよね。俺もいろいろあって立ち直ってこうなったわけ」といった話。それに触発されて、別の人たちも次々にそういう話をしてくれるんですね。

「失恋した俺の気持ちなんて誰にもわからない!」と思い込んでいたのが、解きほぐされたりもするし、ときには残酷なアドバイスもあったりする。「お前さ、話を聞いていて思ったけど、決定的な失敗が1つあるぞ!」とか言われてね。「どこが失敗だったかわかってる?」「わかりません」「お前、あのとき彼女に電話しなかったでしょ。それがお前の一生の不覚だよ。もう取り返せないけどさ」。

残酷だけれど、そうしたアドバイスが救いになったりもします。「そういうことだったのか!」と、なにが起こったのかが分かるからですね。受け入れるのは最初はつらくても、「自分は同じ間違いをもう二度としないだろう」と信じられるようになるので、回復できるんです。おーちゃんにはそういう回路がありませんでした。やっぱり残念です。

僕がそう思うのは、おーちゃんとの世代の違いもあるかもしれない。10年ほど違います。僕は60歳だけれど、今50歳の人との決定的な違いは、そういう先輩後輩同輩関係を、どれだけ経験できたかということです。今の50歳の人って、僕の世代に比べて、そうした経験が数分の一になっていると思うんです。

孤独死を迎えない、迎えさせないためにどうすべきか

奥山:その流れでいうと、ビジネスという表現をしましたけれども、受け皿というか、今のような経験値を自分では得られないのであれば、強制的というか、受身な状態でもそういう耐性をつけることも含めて、孤独死サービスというかビジネスも必要になってくると思います。あえてかもしれないですが、本(『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』)の最後の方には割とそういうものが書いてあって。

コンパクトにポンポンっと並んでいて、読みやすく読んだ一方で「じゃあ、これがどこまで使えるサービスに育つのかどうか?」とか思いながら……。

宮台:思うに、見守り系テクノロジーや見守り系NPO的なサービスのことを「孤独死ビジネス」と呼ぶのなら、他の国々ならばその場所に宗教が入って来るはずなんです。カルトのことじゃなく、キリスト教やイスラム教のことですね。これらの既成宗教は、長い歴史の中で、社会的な妥当性を承認されてきています。孤独死ビジネスの最大の問題は、それによる支援が適切なものなのかどうか?」が、本人にはわからないということです。

だから、今どうなっているかというと、カルトにはまることもあるし、ナンパ講座みたいなものも巷にあふれています。この本にもあるように、そうしたものの9割以上がクズです。一瞬でクズだと分かるクズぶりです。

なのに、追い詰められた本人たちには分からない。「成長できるんじゃないか?」と思って入ってみると、もちろんビジネスなので「成長した」と思わせるてくれるんですが、実際は「未熟なままの依存」なんですね。

当たり前のことだけれど、孤独死ビジネスの営みは、昔からの営みとは違って、歴史の中で検証されてきていません。始まったばかりだし、分断されて個別化された人たちを相手にしている限り、今後の社会的な淘汰も難しいでしょう。不適切なものが淘汰される可能性が実はないということですね。

ちなみに、不適切なサポートシステムを淘汰する力は、昔ながらの共同体の力です。周囲の仲間たちが、「それはやっぱり人間関係としておかしいだろう」「人間の生き方としておかしいだろう」と、時間の蓄積の中で確かめられてきたオーソドックスな基準によって否定してくれたわけですよ。今はそんな共同体はどこにもないので、適切化がもうできないのです。

なので、この本が出ること自体がとても大事なことなのです。昔のやり方を知っている年長世代の人間が、目立たないながらも生き残っているところに、本当に最後のチャンスがあるのだろうと思わざるを得ないので、ラストチャンスに出版された最初で最後の本になるかもしれません。

徐々に広まりつつある終活サポートやレンタル家族

奥山:菅野さんが調べられているいろんなサービスで、テクノロジー系ではない見守り系の中で「これはもしかしたら大丈夫そうだ」というか、ビジネスとしても伸びそうだとか、安心して任せられるみたいな部分で……。

宮台:単に見守りだったら、死ななければいいわけだからね。

菅野:そうですね。AIが見つける。

宮台:だけど、それを人がやったとしてね。

菅野:なるほど、はい。

宮台:永続的自暴自棄みたいな心の状態から回復させるような、NPOのような組織的な営みが、あり得るかどうかということですよね。

奥山:どうですか?

菅野:NPOはちょっと難しいかもしれないですね。今流行っているのは、やはり営利目的の終活サポート団体です。孤立した当事者よりも、その周りの人が困っちゃうんですよね。「認知症になって何年も連絡をとっていなかったのに、突然家で引き取ってください」とか病院や警察から連絡がくる。

そういう人を終活サポートとして、お金をもらってエンディングまで会社が面倒を見るというサービスはもう出始めています。これもまさに、今の日本の現状を現すような時代のニーズに合った孤立ビジネスだなとすごく興味深く思うんです。

宮台:要は、孤独死するかもしれない本人を助けるのではなく、困ってしまう周りの人を助けるNPOならありうると。だとしても、この終活サポートはすごくおもしろい。みなさんが「自分ももしかすると一人寂しく死ぬかもしれないな」と思った時、自ら生前になにかできないかをサポートしてくれる。

あるいはそれよりもずっと頻繁なケースとして菅野さんが紹介しておられるのは、離れて暮らす自分の親族が、孤独死しそうだなと思ったら、孤独死に先立って必要なことの手はずをすべて整えてくれるという。それが、便利屋でしたっけ?(笑)。

菅野:レンタル家族ですね。サポートを受ける本人はピンピンしているんだけれど、親族は本人の生き死にはどうでもよくて、死後のことまで引き受けたくない。だから、海洋散骨にするとか事前に決めておいて、海洋散骨だったら骨が残らないから迷惑がかからないからいいとかを業者に委託して、その面倒くさい生前や死後事務の諸々をお金で解決する。そういうビジネスがもう始まっている状況ですね(笑)。

孤独死の後始末は、家が1軒建つほどの経費がかかるケースもある

宮台:そうした事前サポートのシステムとは別に、孤独死件数があまりに多く、また件数の増加率も大きいので、大家さんや不動産業者は、多くが孤独死保険に入っています。孤独死をすると、場合によっては家が1軒建つくらいの経費をかけて後始末をしなきゃいけないこともあると、菅野さんの本に書いてあります。

奥山:そこがリアルなところですよね。

菅野:心理的瑕疵と呼ばれる事故物件にもなりますし。最近では、孤独死でも告知するケースが多くなっている。特に賃貸住宅と違って分譲マンションや戸建てだともうほぼ周りの人も孤独死の事実を知っているので告知しなければいけない。

大島てると呼ばれる事故物件を公示するサイトも活況を呈しています。もともと、私は事故物件の取材から入ったのですが、孤独死が起きたことで0円で取引される物件もありました。0円でなくとも、例えば築1年で通常であれば2,000万円~3,000万円くらいで取引されている物件が、先住者が孤独死したというだけで100万円とか50万円まで価格破壊が起きてしまうという現状がありますね。

あとは孤独死する人は生前から親族と疎遠になっている方が多いので、お金のトラブルがすごく多いです。私が取材した中では、ゴミ屋敷で、カビまみれのため、部屋を全部フルリフォームしなくてはいけないという例も少なくありません。

大手ハウスメーカーだと全部、その仕様に沿ったものに変えなくてはいけないケースもあり、その費用で700万円かかったり、下の階の方に体液が垂れちゃって、数週間ホテル住まいを余儀なくされたとか。孤独死した物件を巡っては、無視できないくらいのさまざまな事態が現場では起こっていますね。

階段や踊り場を通じて、1棟丸々、臭いがいってしまうこともあります。また、ドアの隙間を通じて、お隣の方にも体液の臭いがきてしまうと、もう服とか家財全部死臭を吸い込んじゃうんですよね。なので、近隣の方は引っ越しを余儀なくされるなど、もう現実で起こっていることではあります。

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