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「昭和の時代から、芸能ゴシップで喜ぶ人はたくさんいた」 政治をエンタメ化したワイドショーの罪

2019年1月30日、株式会社ZEPPELIN主催によるイベント「フェイクニュース時代のメディアの生き方 〜これからメディアは何を担うのか〜」が開催されました。高度経済成長期において中央集権型で発展した日本型メディアも、個人が自由に情報発信できる時代を経て、多極分散型に移行しています。生活を著しく変えていくテクノロジーの進化は、メディアにどういった変化をもたらすのか。ジャーナリスト/作家として最前線に立ち続ける佐々木俊尚氏をゲストに招き、過去から未来までの幅広い射程から 「これからのメディアは何を担うのか」について語り合いました。本記事では、メディアのあり方が大きく変化する時代の乗り越え方について語ったパートを中心にお送りします。

情報価値の判断基準なんて昔から無かった

質問者2:私からの質問はネット炎上に関することなんですけど、若い世代は確かにマスメディアの情報をそのまま受け取るようなことはあんまりなくて、「いろんな情報があるよね」って、いい意味で俯瞰できると思うんです。だけど、一方でこれって問題もあると思っています。

具体的に言うと、ABCDのいろんなオピニオンがあると、中立のまま自分がどのスタンスに立って意見を発信していくのかという、「情報の価値判断」ができないのではないかと。自分も含めて、できない人が多いんじゃないかなって感じています。

例えば教育とかの現場で、このような若い世代に対してどうやって情報の判断をしていくのか、価値判断をしていくのか。トレーニングしていくような取り組みはあるのか。そういったことについて、佐々木さんにおうかがいしてみたいです。

佐々木俊尚氏(以下、佐々木):ないですね。

質問者2:ないんですか……(笑)。

佐々木:現状はね。今までの基準って何だったのかというと、「新聞が書いているから正しい」とか、「テレビが言っているから正しい」とか、それ以上でもそれ以下でもなかった。じゃあ1970年代の日本人がそんな判断基準を持っていたかっていうと、持っていないです。

どっちかっていうと、その時代時代の判断基準で、「国のやることは間違っている」とか、「大企業はずるい」「官僚はけしからん」とか、割と単純な判断基準になっていますよね。でも、そんな単純な判断基準ってもはや成立しなくなってきているんです。

そうすると、今どうやって判断基準を持てばいいのかということですが、これは非常に困難なわけです。ただ、別に全員が判断基準を持つ必要はないんです。

直感はだいたい間違っていることを前提に、どう正していくか

あるイシュー、例えば「介護問題どうする?」みたいな話で、高齢者の介護をどうするか。それに対して、答えはABCDの4つがありますと。最近の落合陽一さんの議論みたいに、「終末期医療の機能を減らせ」みたいな極端な意見もあれば、いわゆる「社会保障をもう少し維持しながら」みたいな意見もある。もうちょっと穏健な「絶対に社会保障は減らすな」っていう高齢者の意見もある。いろんな意見があるんです。それのどれが正しいかって基準は持ち得ない。ただ、最初の入り口として、直感ってものがあるわけですよね。

質問者2:直感……?

佐々木:直感。自分が引っかかっている、「どう考えるか」「どう感じるか」とかですね。「老人はお金をもらいすぎだろう」と思う人もいれば、「いやいや、お年寄りは大事にしなければならないから、自分たちはお金を出さなきゃ」と思う人もいるでしょう。その最初の直感は別に構わない。

でも、その直感はだいたい間違っています。間違っているのを前提に、どう正していくかが大事です。議論では、例えばAという意見の人がいて、Bという意見の人がいます。これが激突する。今の状態はAとBが石を投げ合っているに過ぎない。そうするとAの人はますますAという考え方にこり固まり、Bの人はますますBにこり固まるようなことが起きちゃうわけですよね。

それはまったく健全ではないんです。一番いいのは、こうです。A・Bの意見は、それぞれが最初に持っても構わない。例えば「間違っているかもしれない」っていう前提で、Aの人がBの人の意見を聞きました。そのときに、「あっ! こんな意見もあるんだ」と気づいて、自分の意見がちょっと修正される。

でも完全にBになるわけじゃない。すぐ染まっちゃいけない。AがA’になるんです。Bの人も、Aの意見聞いて、「俺は絶対Bだと思っていたけど、そうかAみたいな意見もあるんだ」と思って、鵜呑みにするわけではなく、ちょっと修正してBがB’になる。

そうするとAとBの対立がA’とB’に代わることによって、それぞれの意見が修正されて、もう少し良くなるんですよね。お互いの意見を取り込むことで。

「すばらしい基準」なんてものはどこにもない

民主主義の基本は、決して多数決ではない。多数決は結果に過ぎないんです。多数決に含まれない意見交換をする。相手が何を言っているか聞く。その意見を聞いて、自分の意見となぜ違うのか考える。それを繰り返すことによって、自分の意見が修正されていく。その修正されていくプロセスが民主主義になるんです。

そういう修正のプロセスを学ぶことが今一番求められていることであって、明解な基準を求めることは間違っています。そんなものは存在しない。どこかに「すばらしい基準」ってものがあるとみんな思っているんだけど、そんなものはないんです。

質問者2:そのAとBがセッションというか議論して、お互いに意見を述べ合ってA’とB’に変わっていくと思うんですけど、多くの若者が抱える課題として、間違っていてもいいからボイスアウトしてみるとか、そういったことができていないと思います。間違っていてもいいけど、誰かに伝えてみるとか、そういうアクションが必要なのではないでしょうか。

佐々木:うん。その時に、周りに石を投げないのが大事ですね。

質問者2:あー、なるほど。

佐々木:どうしてもそこで、「なんだお前、バカじゃないの?」と言ってしまうという人がいっぱいいるので、ますます萎縮する。でもそうやって、自分は介護問題に携わってないけど、とりあえず意見を言ってみるというのが大事です。

それと、現実に今介護問題に取組んでいるNPOをやっている人とか行政の人のように、自分がそういう職場にいるかとはまた別の話だよね。やっている人を、ちゃんと支えるという動きになってきている。やっている人を支えつつ、やっている人の意見をちゃんと聞いて、「現場ってそんな大変なのか」みたいなね。そういうふうに修正するんです。

答えではなく、学んでいくプロセスが重要

例えば最近よく見るんだけど、起業家とかに「今日のタクシーはクソだ!」っていう人がすごくいるわけ。タクシーの運転手のサービス悪かったみたいなね。タクシーの運転手さんに文句を言ってもしょうがないですよね。「『東大に行ってくれ』って言ったら東大の場所も知らなかった。けしからん!」とか。

そういう話をするんだったら、最初の入り口として「なんであのタクシーの運転手は東大の場所も知らないんだろうか?」って怒るのは構わないんだけど、なんでタクシーの運転手が東大の場所を知らないのかちゃんと考えてみるべきだね。

例えば、急にタクシーの台数が増えたから、運転手の募集が追いつかなくてブワーっと集めたので、道知らない人が増えちゃったとか。あるいは、もうカーナビが普及しているので、そもそもそんなに道を知らなくても運転手をできるようになったとか。

僕は知らないですけど、そこにはいろんな要素がそこにあると思う。そういうのを学んでいくっていうプロセスが大事なんです。答えがないので、プロセスを大事にするってことだと思いますよ。

質問者2:ありがとうございました。

共同体の中心が求心力を持ち、やがて同調圧力が働く

Erjon Mehmeti 氏(以下、Erjon):はい、他にはありますか?

質問者3:おっしゃっていたように、みんながゆるくつながっていきやすくなっているという話があった一方で、今ってけっこう分断化されていると思います。それで「自分の島」みたいなのができあがっていきます。

少し批判的に考えた時になんですけど、その島に対して「自分は違うから」っていうことで、両方を敬遠するような世界観ができていくんじゃないかなと個人的には思っています。それでも何かポジティブに考えられる部分とか、いろいろ感じられる部分って、どういったことが考えられるのかなとおうかがいしたいです。

佐々木:それは両方にいいところがあるんですよ。やっぱり、自分が帰属している感覚ってとても大事なので、完全にフラットではいられない。「すべての人とつながる」というのはジョン・レノンの世界ではそうかもしれないけど、現実の世界ではそんなことないわけだから、無理だよね。どうしてもやっぱり「自分は仲間が必要だ」「ゆるいつながりが大事だよね」となる。

そうすると、そこに入っていない人は仲間じゃなくなっちゃうってことが起きる。これはある程度仕方がないんです。そうなってしまうと、僕がさっきから言っているように民主主義が成立しなくなっちゃう。もうちょっと他の世界の人と議論しなきゃいけないっていうのが1つと、さっきは言わなかったんだけど、もう1つ、その共同体っていうのは常に「内へ内へ」っていう同調圧力が働くんですね。

そうすると、だんだん息苦しくなる。昔の村みたいに仲間はずれにされ、村八分が起きたりとか。今もよくあるんですよ。移住したら村八分にあったとか。あれを起こさない構造が大事で、例えば「入れかえ可能な共同体」だったらどうかって思っています。

例えばですよ。これちょっと逆の話になるんだけど、共同体っていうのを概念で考える。広場があって、その周りに人が集まっているっていう。ネットでいうと、2ちゃんねるの掲示板で、真ん中に掲示板っていう広場があって。こういった共同体なわけですよね。

それって、やっぱり中心があるがゆえにそこに求心力があって、同調圧力が働きやすい。そうすると真ん中に近い人ほど偉くて、周辺になればなるほど偉くなくなる。真ん中と外側とでヒエラルキーが生まれちゃうんですよね。それはよくないよね。飲み屋だと常連が偉くなる。あとから来た人はジロジロ見られる。「誰だあいつは?」って言われるみたいな。それはよくない。

出入り自由で中心がなく、網の目のように広がる共同体

今のSNSって、広場がある掲示板ばかりじゃないですよね。例えばTwitterとかFacebookとかって中心はある?

質問者3:うーん、中心はもしかしたら自分かもしれない。

佐々木:でしょう? 自分のタイムラインがあるんです。全員が持っているでしょう。全員が中心になるんです。俯瞰してみると、中心がどこにもなくて、単に網の目のように人間関係広がっているだけ。それぞれがそれぞれで参加している、自分にとっての中心のタイムラインがあるんだけど、俯瞰的に見ると、けっして中心はない。

それは一種の新しい共同体なんですよね。例えば、こういうところで知り合った人から友だち申請がくるじゃないですか。その人のプロフィールを見るでしょ。2、3人は共通の友人とか出るじゃないですか。そうすると「あー、こっち系か」ってわかる。

これって、広場にきっちり壁があるわけじゃないけれど、なんとなくあっち方面の人なんだとわかるんです。Webの業界の人とか、社会貢献・NPO系とかね。広告系の人とか、現場の人とか。そういうざっくりした方向性みたいなのがあって、壁をつくるような共同体ではなくて、なんとなく「このへんの人たちなんだな」みたいな。

ガーゼにインクをポトンと落とすと、滲んでどんどん広がりますよね。繊維の上にはある程度まで色が付いているけど、端の方はちょっと薄い。ああいう感じの共同体的なものができあがる。そういう内側と外側が存在しない共同体感覚っていうのは、今の時代のSNS的なテクノロジーを駆使すれば、もう1回新しく作ることが可能なんじゃないかなと思うんですよね。

そういった出入り自由で、しかも壁のない共同体によって、島宇宙化というか閉塞感みたいなものはある程度防げると期待しています。

質問者3:ありがとうございます。

正しいことを正しく知りたい人の力が弱まっている?

質問者4:今日はありがとうございました。対岸に石を投げる行為がそのうちマナー違反になっていくんじゃないかという話は、そうかもしれないなと考え直したことがあるんですけれども。もう1つわからないところがあって、それについて教えてください。

今は情報があふれているので、みんなが取捨選択して、自分が読みたいものを簡単に得られるようになっています。それで自分が知りたいもの、聞きたいものを取り込んでいくようにはなってきていると思うんですよね。かつ、1つの情報にそんなに多くの時間を使わないようになっていると思うんです。

そんななか、大坂なおみさんの発言をわざと意訳するような事件も起きている。明石市長の発言も過激に発言したような扱いをされる事件がありました。そういうのを見る人って、見たくて見ているんですよね。しかも、そこで石を投げないまでも、「けしからん!」と見下ろすような仕組みになっていて。これって「あまりに魅力的な組み合わせだな」と思っています。

それに対して、正しい答えは正しく知れた方がいいとは思うんですけど、そっちの力が今、弱そうな気がちょっとしているんですね。それについて佐々木さんはどのようにお考えになっているか、教えていただけますか?

佐々木:そんなに弱くないんじゃないですか?

質問者4:そうですか?

佐々木:見ている視野、視界によってだいぶ違うんじゃないかっていう感じはしなくもないかな。あの明石市長の話はどうなんでしょう? 知らない人もいるかもしれないですけど、『神戸新聞』だったかな?

質問者4:『神戸新聞』でしたかね。

エンタメと政治議論が融合してしまったところに問題がある

佐々木:報道では、数年前から公共事業が進んでいないことに市長が腹を立てて、上級職員を呼んで、「おまえら、なんであの土地の買収が進んでいないんだ! 火をつけてこい」とか言って「地上げ屋か!?」とか言われていたんです。

だけど、その全文をテープから起こしてみると、「事故が起こった場所で市民がこれだけ事故防止のために土地買収を待ち望んでいる。おまえらは何年間放置しているんだ! 何もしてなかったんだろう。市民のことをぜんぜん考えてなかったじゃないか」って怒っているんです。

その一部の場面で、ちょっと言葉が行き過ぎて「火をつけてこい」とか言っちゃったみたいなことで、全体では市長は意外にいいこと言っているって感じちゃう。どこを切り取るかによって、まったく印象が変わるよねって話ですね。そこで新聞とかが変なところを切り取ったんで、変な印象がばら撒かれちゃったよねっていうことです。

確かにおっしゃるとおり、そういうのだけを見て、「また腹を立てる材料ができた」って喜ぶ人がいる。地下鉄に乗っていても、そういう人が一定数いるのは確かだし、それが減ることもないと思うんだけど、僕はそこまでそういう人が増えていくとも思えないかな。絶対そうだという根拠はとくになくて、空気感というか、期待を込めた空気感でしかないんですけど。

別に、昭和のころから芸能ゴシップで喜ぶ人はいっぱいいたわけでしょ? いたからといって民主主義が損壊していったわけではなくて、それとは別にちゃんと政治の議論はしていたわけ。今の時代は、あまりにもエンターテインメントと政治議論が合体しすぎちゃっている部分に、逆に問題があるんじゃないかな。

質問者4:なるほど。

ワイドショーが政治を扱うようになって、まだ30年程度しか経っていない

佐々木:今のワイドショーって、政治とかを扱うのが当たり前だと思っていますよね。ワイドショーをつけると、朝から普通に日韓問題とか、厚生労働省の統計の問題とかガンガンやっているんだけど、あれって歴史はそんな古くないんですよ。僕が知っているところでは、1990年代のはじめくらいからなんですね。80年代のワイドショーは芸能報道しかやっていなかった。

会場:へー。

佐々木:たぶんですけど。覚えているのは93年で、衆院選があって自民党が分裂して、細川内閣ができたときです。その時に栗本慎一郎さんっていう社会学者兼タレントの人が、選挙に出馬するんですよ。

その時の出馬記者会見をワイドショーが仕切ったんです。なぜかというと、栗本さんがそのテレビ番組の担当だったから。その時、僕は記者会見の場に行っていて、「なんで選挙なのにワイドショーが仕切っているの?」ってすごく衝撃を受けた記憶があります。

あのあたりぐらいからですね。それ以前は、テレビはニュース番組、報道局の番組と、いわゆる制作局の番組との区別があった。報道局と制作局が別にあって、報道局がつくるのは報道であって、制作局がつくるのはバラエティ、ワイドショー。これが切り分けられていたわけ。

それが、90年代に「ニュースステーション」とかが出てきたりしているうちに、だんだん一体化した。社会情報番組っていう「バラエティなんだけど社会や政治も扱う」みたいなものが登場してきた。そのあたりから、だんだん融合がはじまった。

そう考えると、まだ歴史としては20年とか30年ぐらい。もう1回、それを分離してもらえないかなという個人的な期待はあります。

質問者4:ありがとうございます。

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