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メディアの「水平分離フェーズ」は終わりに近づいている チャネルから空間へ移行する、次代のメディア観

2019年1月30日、株式会社ZEPPELIN主催によるイベント「フェイクニュース時代のメディアの生き方 〜これからメディアは何を担うのか〜」が開催されました。高度経済成長期において中央集権型で発展した日本型メディアも、個人が自由に情報発信できる時代を経て、多極分散型に移行しています。生活を著しく変えていくテクノロジーの進化は、メディアにどういった変化をもたらすのか。ジャーナリスト/作家として最前線に立ち続ける佐々木俊尚氏をゲストに招き、過去から未来までの幅広い射程から 「これからのメディアは何を担うのか」について語り合いました。本記事では、揺らいでいる「メディアとはそもそも何なのか」という定義について語ったパートを中心にお送りします。

メディアはチャネルではなく、今や1つの空間である

山口幸穂氏(以下、山口):今、日本企業の話が出てきましたけれども、今日お越しいただいたオーディエンスのみなさんの中には、出版社などから来た編集者の方も多いと思います。

みなさんも今後、従来のメディアを形成していた出版社や新聞社などが今後どういうふうに変化していくか、この時代の流れに適応していけばいいのかを漠然と考えていらっしゃると思います。それに対する佐々木さんの見解はありますか?

佐々木俊尚氏(以下、佐々木):そうですね。フェイクニュースの話と直接は繋がらないんだけど、「メディアとはそもそも何なのか」という定義自体がすごく揺らいでいますよね。

メディアは日本語で「媒体」と訳します。なのでCDやレコードもメディアですし、テレビ・出版社・ラジオもメディアです。じゃあテレビ・出版社と、CD・レコード盤はどうして同じなのか。それは単純に「情報を送り届ける手段」だから同じになるんです。つまり、旧来の定義で言う「メディア」は情報を送る装置である。つまりチャネルなわけですね。

ところがそのチャネルという発想はもう意味がなくなっていて、メディアというのはチャネルではなく、今や1つの空間であると思うんです。球体、先ほどのパブリック・スフィアという言葉の「スフィア」ですよね。

例えば発信者としての僕がいて、僕が情報を送り届けたい人たちがそこにいるとします。今までは本で届ける・ネットで届ける・ラジオで喋って届けるなど、いろんな方法があったんだけど、これからはありとあらゆる方法でいいんじゃないかなと思います。

だからネットか紙か、電波かYouTubeかとかじゃなくて、電波で届けられるなら電波でいいし、YouTubeで届けられるならYouTubeでもいい。紙で届けるのも構わないし、ネットでも構いません。

更に言えば、別にこういうイベントでも構わないし、あるいはフェスでも構わない。「一緒に音楽のフェス行きましょうよ」みたいなね。あとフリーペーパーとかもある。

雑誌とは、その向こう側にいる人と自分を接続する装置

だから、自分と相手がいて、その全体を包む1つの文化空間みたいなものをイメージしたほうがいいんじゃないかと思います。その文化空間の中でいろんな情報をいろんな方法でやりとりする。

そこでやりとりされるのは、必ずしも発信者と読者であるみなさんの1:Nの関係ではなくて、Nの間でもそれぞれやりとりをする。いろんな人がたくさんいて、その人たちの間でいろんなものがぐるぐる回っている状態が1つの文化なんですね。

その文化を支えるプラットフォームとしてメディアがあるんじゃないか。あるいは文化そのものをメディアと呼んでもいいんじゃないか。単純に印象として読み手が変わってきているがゆえに、その文化空間をどうやって維持して守っていくのかを考えたほうがいいんじゃないかと思っているんです。

ここではよく引き合いとして、70年代、80年代くらいのマガジンハウスの雑誌を例に挙げるんですよ。例えば、今はないけれど『Olive』という雑誌がありました。『Olive』は都会の少女の読む雑誌、イメージ的にはボサノバとカフェオレボウルとバゲットみたいな(笑)。

ちょっとステレオタイプだけど、そういうイメージがあるわけです。その空間は今では別に珍しくもなんともない。でも80年代前半くらいの日本の空気の中では、そんなものは表参道くらいにしかなかったわけです。

でもその雑誌を読むと、表参道くらいにしかなさそうな素敵なボサノバが流れて、Olive少女たちがいる空間に触れられる。それを例えば大阪南部の、なんと言うかヤンキーしかいないような地域で女の子が読んで、「周りはヤンキーばかりだけど、私はこの本を読んでいる間だけあのボサノバの空間にいるんだ」と思える。

つまり、雑誌を読むという行為はその雑誌に載っている情報を受け取るだけではなくて、その雑誌の向こう側にいる人たち、Olive少女たちと自分を接続をするための1つの装置になっていたんです。

水平分離されたメディアがもう一度統合される「空間の時代」

僕は70年代に中学生だったんですけど、その頃『POPEYE(ポパイ)』がすごく流行ったんですよ。当時マガジンハウスは平凡出版社という名前でした。その『POPEYE』を高校生くらいの時に読んですごく感動したんです。

それまで日本の若者の文化は、もうちょっと乱暴で汚らしいランクのはずだったんですよ。その中で「この雑誌はどうしてこんなにかっこいいんだ」「サーフィンをやってバスケットシューズを履いているんだ」「VANジャケットとかを着ているんだ」みたいなね。衝撃的でした。

「この文化に触れること自体、自分の中ですごく嬉しい」みたいな。それはもうカタログ雑誌という役割ではなくて、その文化の中に自分がいる実感を持てるものとして『POPEYE』という雑誌があったんですよね。

かつての雑誌はそういうものだったんです。マニア向けの雑誌がありますよね。釣り雑誌とか、鉄道雑誌とか。それは単に情報だけじゃなく、例えば「鉄道ファン」というマニアの文化空間を維持する、守るための装置として鉄道マニアの雑誌があったわけです。

ネットになってから、そういう感覚はすごく薄れてしまいました。そもそもネットは本質的にマイクロ化するというか、単体でどんどん読まれていくので、メディア全体で読まれることがなかなかないんですね。

SNSでシェアされた記事を読んでも、トップページにいかないじゃないですか。トップページにいかないで分断されて読んでいるんだけど、そこにもう一度現れる1つの空間感覚が、たぶん次の時代のメディアの感覚なんじゃないかなと個人的には思うんです。新しい垂直統合ですね。

従来の紙や電波みたいな垂直統合が一旦途絶えて、ネット時代のYahoo!やFacebookのようなプラットフォームが出てくる。それでメディアは水平分離されていると言われてきたんだけど、水平分離のフェーズはそろそろ終わりつつあるんです。この次は、もう1回文化として統合される空間の時代がくるんじゃないかという感じがしていますね。

農村共同体の解体により、代替物として生み出された会社組織

Erjon Mehmeti 氏(以下、Erjon):パブリックスペースでは、人間の関係はどうなりますか?

佐々木:共感できる文化的な価値観を持っている人同士が集まる感じというのは、僕はかなり大事だと思っています。

今、共同体というものが、ものすごい勢いで崩壊していますよね。日本の共同体といえば、江戸時代以降から日本の太平洋戦争前ぐらいまでは、農村共同体が世界の中心であり、社会の中心でした。それが、戦争が終わって高度成長が始まってから農村共同体が解体されて、みんなが都会に出ていった。当時はみんな、共同体から引き離されて、すごく寂しかったんですよ。

そこに、代替物として用意されたものが会社だった。会社に所属することで共同体感覚を疑似的に味わうというのが、日本の高度経済成長以降の共同体感覚なんですね。それは、社宅の独身寮に住んで、社員食堂でご飯を食べて、週末は同僚と野球でもやって、社内結婚をして、最後は会社の信用組合でお金を借りて家を建てるというものです。

高野山などに行くと、大きなお墓なのですが、墓地がある。それは従業員の墓なんですよ。上島珈琲の墓に行くと、コーヒーカップの形をしていたり……。

山口:そうなんですね!

佐々木:あるんですよ、そういうものが。もちろん、それぞれ個人の墓もあるんです。それとは別に、会社として、亡くなった従業員を一堂に祀る。日産の墓もあって、日産の墓は車かと思えばそうではなくて、日産の工場の制服を着た従業員がこうやって(右手を掲げて)いる銅像がある。

(会場笑)

佐々木:だから、企業というのは、日本人にとってはすごく重要な共同体だったんですね。これが非正規雇用4割の時代になり、会社を信用できなくなり、ブラック労働も増えて、会社が共同体にならなくなってきている。その中でどうやって自分が社会に繋がっていくのかということを、もう一度問われ直しているんですね。問われ直した結果、最初に出てきたのが、もう一人で生きていくしかないということなんです。

自己啓発ブームの先にある、ゆるくつながる新しい共同体

ですから、みんな自己啓発本を読んでいて、もう「オンリーワンになれ」なんて、散々言われているんですね。ジャングルで生き抜くように、弱肉強食の世界での生存をかけるんだというようなことをやって、自己啓発セミナーに行ったり、よくわからないオンラインサロンに入ったりもしたんだけど。

山口:流行っていますね。

佐々木:でも、それもいい加減限界だよねと。僕は自己啓発ブームは2018年ぐらいで終わりになったんじゃないかと思っています。2019年からの自己啓発のかたちは、ジャングルじゃ生き抜けないような普通の人が、みんなと仲良く新しい共同体をゆるく作っていける時代として作り直すのがいいんじゃないかと思うのです。

そうした気運は今年あたりから盛り上がり始めるんじゃないでしょうか。その時に大事なのが、みんなが一丸となって金を儲けるとか、みんなで一丸となってスピリチュアルに邁進するとか、そういったものじゃない。どちらかというと、同じような文化的価値観を共有できるような、そうしたゆるい価値観のつながりのような共同体、という感覚が大事なのではないかと。

Erjon:党派的な課題ですね。ファクションという意味での。そう言えば、今のヨーロッパはナショナリズムが強くて、それがちょっと危ないと思います。

佐々木:そこはすごく難しくて、パトリオティズムとナショナリズムを一緒にすべきじゃないという議論もありますよね? 言い過ぎると右翼化してしまうので説明がしにくいのですが、国家に対する帰属意識ではなくて、郷土愛というのは別にいいんじゃないかという話なんです。

要するに、「私は日本国のために命を捧げます」という話ではなくて、「日本の神社、いいよね! 山も綺麗だよね!」といった、そのぐらいの郷土愛についてなら、僕は健全なものとしてあっていいと思います。そういうところから始まる共有感というか、繋がり感というのはOKなんじゃないかと思いますね。

愛国心という一言で表現すると、ナチズムのようなものから、「神社がいいよね、薔薇もすごく綺麗だよね!」といったものまで、全部一緒になっちゃうので。わけて考えたほうがいいんじゃないかな。

Erjon・山口:うんうん。

明日が今日より良くなる保証のない時代、愛おしく感じるのは自由よりつながり

佐々木:そもそも日本人はそんなに統一国家感を持っていなかったんです。でも、世界中がそうなんですよね。フランスが初めて統一国家の感覚を持ち込んだ。ナポレオンやフランス革命の時代にね。それまでは国という感覚はどこもなかった。自分の住んでいる村や地域といった、そのぐらいです。

例えば江戸時代の山口県に住んでいる人に、「あなたは日本人ですか?」と聞いても、「いえいえ私は長州の者です」というような違いなんですね。せいぜい藩ぐらいのもので、藩以上になると国家意識はもうなかったと思います。だから「おらが村の山がやっぱりええよね、瀬戸内海は綺麗だよね」というような、それぐらいなら別にOKですね。

山口:昔はいわゆる中央集権型だったと思います。それが今、多極分散型と言いますか。ゆるくつながるとおっしゃっていましたが、いろんなコミュニティが今後できるというような希望的観測もありました。その良い面と悪い面については、どんなものがあるのでしょうか?

佐々木:良い面は帰属感ですね。前に日本で『白熱教室』が話題になったマイケル・サンデル先生。あのマイケル・サンデル先生はどういった性質の人かというと、コミュニタリズム、共同体主義です。リベラリズムという、いわゆる自由主義の限界をずっと言っていて、もう少し自分が所属している感じ……つまり共同体を持つことによって、みんながみんなを包摂できるというようなものがいいんじゃないかなと。そちらに少しシフトしてきている。

今のような自由主義というのは、そもそもが近代の経済成長があったからです。明日は今日よりよくなる、というようなものがあったからこそ、自由ですばらしかったわけです。でも明日は今日より良くなる保証はもうないのに、自由な選択なんてまったくうれしくない。

山口:そうですね。

佐々木:お金が千円しかないのに、「ルイ・ヴィトンやエルメス、何を買ってもいいですよ」と言われてもね。「これじゃ買えない」で終わってしまう。お金があるからこそ、選択が楽しいのです。今のように、段階の成長が難しくなってきている時代においては、自由主義よりも共同体などにつながっている感覚のほうが、より愛おしく感じるということがどうしても起きてくる。そこにうまく適合できるような新しい共同体のあり方を考えてもいいんじゃないかなと。

分散していく共同体と、中央集権的な国家をどうやって両立させるか

ただ、問題としては、そう言いながらもやっぱり日本は日本国だし、アメリカはアメリカ合衆国だし、EUは欧州連合があるわけです。国としての役割があって、きちんと政策を決めたり、統合しての共通理念を作っていかなければいけない。

一応国は防衛しなきゃいけないし、外交もしなきゃいけないし、治安を守らなきゃいけないし、国家はやらなければいけないことがたくさんある。国家の中にやらなければいけないことがたくさんあるにも関わらず、どんどん共同体に分散していってしまうと、先ほど言ったがなくなってしまう。だから、みんなで話し合うんです。

中央集権的なメディア機能も相変わらず必要だよね。そうすると分散していく共同体のようなものと、統合を守んなきゃいけない中央集権的なものをどうやって両立させるかということが困難だというところはありますね。

山口:そうですね。確かに。

佐々木:中世のように別に国なんてなくて、みんな遠く離れた孤島で生きているのなら、昔の共同体でもいいかもしれない。今のようにグローバリゼーションが進んで、いつでもどこでも誰もが全部つながっている状態の中で、国家が存在しないというのは、それはそれで大変だよね。

Erjon:そうですね。今のところはEUの中には国境がない……しかしフェイクニュースもあるし、たくさんの反対派もいる……。

佐々木:2つの引力のようなものが働いていると思います。1つはやっぱり、どんどん多極化が進んで、移動が自由になってきているということ。ヨーロッパの報道を見ていると、難民が押し寄せてきていて大変だというような話ばかりなんだけど、押し寄せるのは難民だけじゃなくて、移民も多いわけですよ。今ほど世界中で移動が増えている時代はない。なぜそうなったかというと、テクノロジーの進歩です。

グローバリゼーションが進んだ結果、時間が巻き戻り始めている

1つはLCCのような格安航空会社が出現して、ものすごく安い金額であちこちに行けるようになったこと。もうひとつはSNSですね。母国と遠く離れていても、常に家族と連絡がとれますから。そんなに遠くには離れていなくなり、心理的なハードルが低くなった。この2つとテクノロジーの影響で、みんなが移動するようになったということが大きい。

同時に、かつてのアメリカ一国の超大国のような90年代の状況はだんだん薄れてきていて、アメリカの存在も少し薄れ、中国は少し台頭し、いろんな国が今度は出てくる。これからは国だけじゃなくて、NGOや企業など、さまざまな小さなパワーが総合的に立つという時代になりつつあるということが、間違いなくあるわけです。

その一方で、グローバリゼーションが働きすぎた結果、みんな極度に警戒するようになっていて、その結果、国境の存在がますます以前よりも大きくなった。EUなんかでも、国境はなくなるはずだったのに、なぜかEU関連諸国の国境警備が前より厳しくなっていることは大きいですね。

アメリカなんかでは、貿易関税で商益を高めるという、まるで19世紀末のようなことを始める。そうすると第一次世界大戦前のヨーロッパのように、みんなが関税を高くして、グループ経済をやって、国ごとに争うというような、時間の巻き戻りのようなことが起きてくる。その2つの引力はぜんぜん正反対です。どう着地するのかよくわかりません、正直。混乱していることは間違いない。

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