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経営危機を乗り越えた企業の復活劇(全2記事)

リブ肉専門店を出したら狂牛病、ヒルズ出店でリーマンショック 雇用を維持して都度立て直した、グローバル外食企業の「再建力」

世界情勢の不安定化、そして今も続くコロナ禍によって、多くの企業が経営危機に直面し、厳しい舵取りを迫られています。このような急な外的ショックに対応し、逆境を切り抜ける能力として注目されているのがレジリエンスです。 本記事では、国内外で約130の飲食店を展開する株式会社ワンダーテーブルの代表・秋元巳智雄氏に、狂牛病騒動やリーマン・ショック時に経験した強烈な逆風や、危機的な局面を打開する際の考え方や実際の施策をお聞きしました。

20歳で飲食店を「天職」と感じた、秋元氏の原点

ーー本日は「レジリエンス」をテーマに、株式会社ワンダーテーブルの秋元社長にお話を伺います。まずは、御社の会社概要からお聞かせいただけますか。

秋元巳智雄氏(以下、秋元):驚きの「ワンダー」と、レストランにつきものの「テーブル」を合わせて、ワンダーテーブル。「ワクワクが溢れるテーブル」という想いから作った社名のようなブランド戦略をとっているのが弊社の特徴です。

国内外で約130店を展開し、売上はコロナで下がりましたが、コロナ前は、国内の年商が130億円ぐらい、海外の店舗を入れると200億円ぐらいのビジネスをしていました。国内で12ブランドあり、我々が作ったものが「モーモーパラダイス」「鍋ぞう」「よなよなビアワークス」などですね。

さらに海外からライセンスを取得して、「バルバッコア(Barbacoa)」「ロウリーズ・ザ・プライムリブ(Lawry’s the Prime Rib)」「ジャン・ジョルジュ(Jean-Georges)」といった世界のすばらしいレストランを日本で展開してます。最近では、「ピーター・ルーガー・ステーキハウス(PETER LUGER STEAK HOUSE)」というレストランを去年の10月にオープンし、大きな話題となりました。

また、我々が作ったブランドの海外展開もしており、一般的には「グローバルなレストランの会社」と認識いただいているようです。

ーー秋元社長の「個のレジリエンス」のお話をお聞きする前に、飲食業界に入られた経緯や、社長就任までのご経歴をお聞かせください。

秋元:僕は埼玉県草加市の地主の次男坊として生まれ育ちました。草加市は東京に面した住宅地ですが、地主だったので、祖父母に両親、そして兄姉もいる大家族の中で、野菜を作ったりお米を作ったりと、今で言う地産地消やスローフードのようなライフスタイルを送っていました。都心に近いわりにはちょっと珍しい食生活を送っていたというのが前提にあります。

また古い家だったので、子どもの頃から「兄貴が家を継ぎ、お前は出ていく身だ」みたいなことをずっと言われていました。人気があるかどうか知りませんが(笑)、僕は小っちゃい頃けっこう人気者で、地主で無駄に敷地も広いので、仲間がしょっちゅう僕ん家に集まって、庭で遊んだり一緒に食事をするといった生活環境もありました。

その頃から「巳智雄はなんか商売が向いてんじゃないの?」みたいなことを言われていましたが、大学に入り、真剣に飲食店でアルバイトするようになって、「食と商売」がピンと結びついたんですね。なので、20歳の時には「これは僕の天職なんじゃないか」「飲食店で食べていこう」と決めたわけです。

海運業の上場企業を「飲食」の企業へと立て直す

ーー20歳で飲食業界で生きることを決められた。

秋元:そして大学の4年間、いろんな飲食店や会社でアルバイトして、スーパーバイザーの仕事なんかもしていたんですね。そのご縁があって、たまたまサントリーグループに飲食店のコンサル会社ができて、大学3年生ぐらいからお手伝いに行き、卒業と同時にその会社に入社をしたという経緯があります。ミュープランニングという会社です。

ミュープランニングで学びながら、「いつか自分でお店をやりたい」「一国一城の主になりたい」という夢があって、実は20代の時に仲間と会社を作って店を3、4軒やったんですが、まだまだ若く、力も足りずでその事業から外れました。

ミュープランニング時代はけっこう取引先の方からお誘いを受けることが多く、その中に当時東証2部に上場していた富士汽船という会社があり、1996年に入社することになりました。それが今のワンダーテーブルです。今の会長の林(祥隆)と私が中心となって、ブランドを作ったり会社の仕組みを作ったりと海運業の上場企業を飲食の企業へと立て直していきました。

上場企業で、27、28歳の訳のわからない若い男をいきなり役員にするような会社ではなかったので、ぜんぜん給料も高くなく(笑)。役職もアシスタントマネージャーというものでした。そこから、翌年マネージャーになり、次の年に副部長、その次の年に営業部長になりました。その後、僕と一緒に部長をやっていたメンバーが何人か辞めることになり、購入や商品の部長も兼任するようになりました。。

2000年に海運業を完全にやめて飲食専門の会社になるということで、定款の変更と社名の変更をしました。ワンダーテーブルという今の社名ですね。苦難を乗り越えながら少し成果が上がってきた2002年に、今の会長の林がようやく社長になり、僕が取締役になりました。それまでも実態としては役員の林と僕が中心となってやっていたんですが、表立って会社の顔になる体制になったのが2002年になります。

2012年には林が会長となって、僕が社長になりました。そこからは部長や役員を中心として、僕がある程度舵取りをするという体制になっています。

既存店の売上が一気に3〜4割まで落ちた「狂牛病」騒動

ーー1996年に入社され、2002年に取締役、2012年に社長に就任された。先ほど「苦難を乗り越えながら」という言葉がありましたが、困難な局面も多く経験されたのでしょうか。

秋元:1996年に僕や他のメンバーが入社し、1999年にかけていろんなブランドを作り店をオープンさせ、会社がどんどん活性化しました。ただ、2000年になると僕たちの手法をコピーして、安く展開する会社が出てきて、そこから2年くらいは厳しかったですね。

また2001年にLAから誘致して立ち上げた「ロウリーズ・ザ・プライムリブ(Lawry's the Prime Rib)」というレストランが話題となり、「よし、これから予約を全開に取るぞ」と考えた矢先に「狂牛病(BSE)」が出たんですね。本当にこれからというタイミングで日本人が牛肉をほとんど食べなくなって、ぜんぜんお客さんが入らない。

しかも、450坪くらいの大型のレストランだったので、損益分岐点が1店舗で5,500万円くらいあって、4,000万円売っても1,000万円以上の赤字になるわけです。今もやっていますが、僕たちはしゃぶしゃぶやすき焼きのブランドもやっていて、その時は既存店の売上が一気に3〜4割まで落ちました。

ちょっと前に焼肉のブランドも1個作っていて、そちらも大きな打撃を受けました。狂牛病の時は全国でたくさんの焼肉店が潰れましたが、非常に苦しかったですね。

六本木ヒルズの100坪新店オープンを襲った「リーマンショック」

ーー2002年の取締役就任前後にBSE騒動があったわけですね。多くの食肉業者や焼肉店が倒産したのを記憶しています。

秋元:本当に大変でした。でも、そこからなんとか立て直して、2007年に117億円と当時の最高売上を記録しました。利益も6億円ぐらい出して、上場企業だったので配当もして、2008年には10軒以上の店を開きました。その中には六本木ヒルズの店もありました。

森ビルさんから「六本木ヒルズの100坪の物件を、ぜひワンダーさんで借りてほしい」と声が掛かり、当時、六本木ヒルズにはリーマン・ブラザース(証券)が入っていて、ヒルズ内の高級店ではリーマン・ブラザースの社員を中心に外資系の人たちがシャンパンや高級ワインをバンバン開けていて、大型店は5,000〜6,000万円とすごい売上を上げていました。

森ビルさんからも「素晴らしいブランドを世界から持ってきてくれ」と言われ、100坪の区画でオービカ(Obica Mozzarella Bar)というモッツァレラチーズのブランドと、テール・ド・トリュフ(Terres de Truffes, Tokyo)の2つの店をやりました。そこで起きたのがリーマンショックです。リーマンショック前に契約をし、工事を終えて店ができたのがリーマンショック後でした。

何度もヨーロッパの店を視察して、ワクワクしながら店を作ったら、誰も来ないという悲惨な状況です。六本木ヒルズ以外の他の新店も立ち上がらない。既存店の売上も全部落ちる。我々は基本的に面積の大きな高単価のお店をやっていたのでモロに打撃を受けました。お金持ちの方々が一気にお金を使わなくなってしまったので。

飲食店は「人」なので、「人を切るリストラは一切しない」

ーーBSEを乗り越えて最高売上を記録したら、今度は株価暴落や企業の派遣切りが社会問題化したリーマンショックに遭遇した。これらの強烈な逆風に対して、どのように対処されたのでしょうか。

秋元:リストラってリストラクチャーだから、本来は「構造を変える」ということですが、いわゆる「人切り」を想像する人が多いと思います。でも、飲食店は「人」なので、「人を切るリストラは一切しない」というのが僕の信念です。逆に言うと、飲食店は人が活きないと売上を作れません。

とは言え、このままだと大赤字で会社が危ないので構造改革をしました。具体的には、当時75店舗あった中から3年で30店舗くらい閉めました。ただ人は1人も切らず、残った既存店に回して一気に再建する。閉められるところは全部閉めて、人を活かして既存店の売上を上げ、利益を出す。そしてまた新規の投資をできるようにして、会社を成長させるという改革です。

でも、それだけではまだ足りません。当時は上場企業に内部統制が義務付けられ始めた頃で「上場コスト」が高かったんですね。そこで、本社の構造改革として非上場化をして、管理部門を全部親会社に持っていき、コストのダウンサイズをしました。

モチベーションの「スイッチ」を入れるための、社員への語りかけ

秋元:構造改革に着手する前には幹部を100人くらい集めて、「疾風に勁草(けいそう)を知る」という言葉を掲げ、「これからもっと厳しい風が吹いてくるけど、地に足を付けて踏ん張ろう。人は一切解雇しないから、みんなで一緒に乗り切って、またいい会社を作ろう。絶対みんなに還元できるような会社になるから」と話しました。

75店舗が45店舗になるということはその分ポストが減り、支配人だった人が主任になるわけです。非上場化するというのも刺激的なことです。なので、社員の士気が落ちないよう「一時的にポストは下がるけど、基本的には給料は大きく下げたりしないし、雇用は維持するからみんなでこの会社を立て直そう」と伝えました。

僕は「一人ひとりがポジティブに仕事をするためにはどうすればいいか」ということをとても大事に考えています。

ーー危機の際に、あらためて「人を切るリストラは一切しない」という信念を示して、従業員のモチベーションを高めたということでしょうか。

秋元:それで与えられるのは「安心感」ですね。でもそれだけでなく、上場企業だったので大企業病というか「(会社は大変だけど)何とかなるだろう」みたいなところもあったのを、あらためて人の大切さを言った上で「一緒に戦おう」「一緒にやろう」という気持ちを示し、「自分たちでこの会社を立て直すんだ」というモチベーションを喚起した。そういうスイッチを入れることが、危機の時には大事だと思います。

飲食店は、現場で働く人が「売上を作るぞ。利益を出すぞ」と思わない限り、絶対にそうなりません。危機を乗り切れたのは、「みんなで一緒に乗り越えよう」という気持ちになってくれたことが大きかったと思います。

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