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町工場のバウンスバック - ストーリーと人づくり - (全3記事)

父の死を受けて後を継いだ町工場が、もらい火で全焼 絶望から取引先6,500社まで再建した2代目社長に、再出発を決意させた言葉

中小企業のクラウドサービスのビジネス活用を支援する、一般社団法人クラウドサービス推進機構が主催するイベント「ものづくりDXトークライブ」。同イベントの第3弾に、本社兼工場が全焼し倒産危機に追い込まれるも、⽕災の6年後には顧客100倍・売上⾼10倍を実現するまでに復活した東京都墨⽥区の町⼯場・浜野製作所の浜野慶一社⻑が登壇。工場火災で経験した窮地や、火災の3年後に明文化した企業理念について語っています。

東京都第2位の工場集積地域・墨田区の特徴

小松靖直氏(以下、小松):これより、ものづくりDXトークライブを開始いたします。私は進行を務めます、商工会議所福利研修センター・カリアックの小松と申します。どうぞよろしくお願いします。このセミナーは日本商工会議所の後援を得て、一般社団法人クラウドサービス推進機構が主催し、商工会議所福利研修センター・カリアック、および株式会社アントレプレナーファクトリーの共催により配信します。

本日はご案内のとおり、浜野製作所代表取締役の浜野慶一様をお招きし、「町工場のバウンスバック・ストーリーと人づくり」と題してお送りします。バウンスバックについては、全英女子オープンゴルフで優勝された渋野日向子選手の粘り強さを浜野社長になぞらえて、ネーミングさせていただきました。実際には本社兼工場が全焼するという危機からのバウンスバックであり、相当なご苦労があったのではないかと思います。

ここ数年では、Garage Sumida(ガレージスミダ)を拠点とするベンチャーとの連携で、特許庁からデザイン経営の代表企業として取り上げられるなど、評価をいただいています。それではお待たせしました。浜野社長、どうぞよろしくお願いします。

浜野慶一氏(以下、浜野):浜野製作所の浜野でございます。「ものづくりDXトークライブ」ということで、僭越ですが冒頭20分程度、弊社の会社紹介をさせていただきます。どうぞよろしくお願いします。

私ども浜野製作所は、東京の墨田区に小さな工場がございます。これは東京の地図ですが、上が埼玉、右が千葉、下が東京湾。墨田区は赤い矢印のところに位置する地域です。東京の右、つまり東に位置しています。人口は29万人弱くらい。東西5キロ、南北6キロで端から端まで歩いても、2時間半程度で行けるような小さな地域です。

これは、東京都の工場分布の割合を示した円グラフです。東京で「ものづくり」と言うと大田区が有名で、実質的な工場数も大田区が1番ですが、実は墨田区は大田区に次ぎ都内で2番目に工場が集積する地域になります。

これは墨田区の業種別工場構成比で、右上に結論が出ていますが、墨田区の産業集積の特徴は、多種多様な業種がバランスよく集積をしていることです。大田区は全体の4分の3、75パーセントぐらいが金属加工系、機械加工系ですので、同じ東京のものづくりの集積地域でも、ちょっと場所が変わるだけで、こんなにも業種別の工場構成比が変わります。

もう1つの墨田区の産業集積の特徴は、工場全体の8割が従業員5人以下、半分の50パーセントが従業員3人以下で、中小企業というより家族経営規模の小規模零細企業が集積しています。

浜野製作所の方針は「経営理念にそぐわないものは一切やらない」

浜野:前置きが長くなりましたが、これが弊社の企業概要です。あらためまして、社名は浜野製作所と申します。所在地が東京の墨田区。創立が昭和53年9月で、今期で45期目を迎える、平たく言うと金属の部品加工をしている町工場です。創業者は私の父で、私は2代目の経営者になります。

現在従業員は、パートさん、アルバイトさんも含めて60名。業務内容は基本的には金属の部品加工ですが、諸事情があり、最近はロボット開発、装置開発、設計開発を含む、ものづくり周辺のサービスも展開しています。比較的多種多様な業界業種の会社さま、組織、団体様にお付き合いをいただいています。

これが弊社の工場の外観ですが、真ん中の菱形の部分が、本社工場の1階にある板金の工場で、その周りに5つの生産工場があります。右下が、先ほど小松さんからもご紹介いただいた、本社工場の2階にあるGarage Sumidaという施設です。インキュベーション(新しいビジネスを支援する施設)とは若干異なりますが、ベンチャー企業だけでなく、大学の研究や大企業の新規事業などの支援をさせていただいています。

「『おもてなしの心』を常に持って」から始まる、こちらが弊社の経営理念になります。この中の「お客様・スタッフ・地域」の3つが弊社のキーワードになります。また「感謝・還元し」の内容は下の小さい3行に謳っています。こういう会社を目指す中で、社長を筆頭に従業員、スタッフが、日頃の仕事で心がけているのが、右側の5つの行動指針です。

我々は基本的にこの経営理念にそぐわないものは一切やらないという考え方であり、方向性であります。新しいことを始めたり、今までやってきたことを方向転換したり、場合によっては中止する。そういう時は、経営理念にそぐうかどうかをパートさん、アルバイトさんも含めて全社員に説明をしてから行動することを心がけています。

父の死を受け、仕事や経営を教わらぬまま工場を継ぐ

浜野:沿革は、私の父が昭和53年9月に金型屋を始めたことに端を発します。父は福井県出身で、親戚・知り合いを頼って東京に出てきて、大田区の工場で量産向けの金型を作る職人をしていました。縁があって墨田区出身の母と一緒になり、母の実家のすぐ近くに、昭和の時代によく見られた住工一体の土間付き一軒家の貸し工場を見つけ、そこに中古の機械を入れて始めた金型屋が浜野製作所のスタートです。

創業当初は金型屋でしたが、高度経済成長期でしたので、金型だけでなく「部品の加工をしてよ」とお客様から依頼をいただいて、量産向けの小物金属の部品加工と、それを作るための金型を作っておりました。

しかし、時代や環境、背景が大きく変わり、量産の部品加工はどんどん海外へ流出していきました。コストも厳しくなり、2000年を過ぎたあたりから、あえて金型を戦略的に残しながら、金型レスの少量多品種向けの金属製品、我々の業界では精密板金と言いますが主にシートメタルなどの板ものの加工などを始めました。

これもやり始めた当初はよかったんですが、やはり先ほどと同じで、我々を取り巻く環境や時代背景が大きく変わり、国中にITインフラがどんどん整備され、デリバリーインフラもどんどん網羅され、目に見えない競合がたくさん出てきました。なかなか金属の部品加工だけではご飯を食べられない状況になってきまして、最近はロボット開発や装置開発などを手掛けています。

1993年に父が病気で亡くなりまして、当時私は外で働いていましたが、戻って引き継いだのが私の社長業のスタートになります。今も小さな町工場ですが、当時は父が社長で母が経理をやりながら現場を手伝い、職人さんは時期によって1人か2人でした。自宅と工場が一緒になったような工場を引き継いだんですが、父が亡くなってから戻ったので、父から仕事や経営のことを教わる機会はありませんでした。

母の死、そして隣家からのもらい火による工場全焼

浜野:幸いにも工場と経理の仕事をしていた母がおりましたので、ある意味母を師匠代わりに、いろいろ教えてもらいながら仕事をしておりましたが、父が亡くなった2年後に、母も病気で亡くなります。父が52歳、母が54歳の時のことでした。

その後、高齢だった職人さんがリタイアされて、私1人で仕事をしている時もありましたが、母が亡くなった4年後、今から21年前の2000年6月30日に、こういうことが起きました。

自社からの出火ではなく、隣家からのもらい火で、工場が全焼してしまいました。結果から先に申し上げますと、この火事の影響で会社は大きく傾きます。当時、浜野製作所は私の他に従業員が1人しかいませんでした。

お客様も4社しかなく、4社のうちの3社は従業員数が5、6人の規模の会社さんで、末端中の末端の5次下請け、6次下請けの町工場でした。今は、大手企業さんも含む6,500社程度のお客様とお取引をさせていただいていますが、当時はそういう状況でした。

たった1人しかいない従業員にお給料が払えなくなり、30万円の中古(部品)が買えなかったり、ガラの悪い取り立て屋が入ってきたりと、本当に明日、明後日潰れてもおかしくない状況のところに、朗報が舞い込んできたんですね。

この火事は、建て替えのための解体で隣の民家の鉄骨柱をガスバーナーで焼き切っていた時に、バーナーの火が引火して燃え広がってしまったというもので、解体業者の方の作業ミスが原因ですが、大元の元請けが東証一部上場の住宅メーカーで、補償をしてくれるということになったんです。

補償をもらえる日まで何とかしようと、土日祝日まったく関係なく、夜中の2時半、3時半まで、錆びたり、煤だらけになった金型を磨き、その磨いた金型を使って、次の日の朝から仕事をしました。ところが、「補償してくれる」と言った東証一部上場の住宅メーカーが支払いの前日に倒産したんです。これで、本当に窮地に追い込まれました。

頼みの綱が切れた夜に決めた、社長としての覚悟

浜野:当時1人しかいなかった金岡という従業員に、お給料も払えなくなったので、「もう辞めていい。もうこの会社の後始末は俺1人でやるから。今までありがとうな」という話をしたんです。もう夜中の12時半ぐらいでしたかね。そしたら金岡が、「社長、俺はね、金が欲しいからここに残っているんじゃない。俺はあんたと仕事がしたいからここにいるんだ。浜野製作所は、まだ潰れていませんよ」と言ってくれたんですね。

体も心も限界を超えていて、最後の頼みの綱だった住宅メーカーが潰れた日の夜中に、金岡が私にそういう声を掛けてくれたんですね。明日や明後日には、この世に存在しない会社になっているかもしれないというのに。

もしもこの会社が何とかなって、金岡のような思いで働いてくれる従業員が1人でもいてくれる会社になれるなら、従業員、スタッフにしっかりと還元ができる会社にしよう。そして夢と希望と誇りを持った活力ある企業にしよう。

それがそういう思いで一緒に働いてくれる従業員に対する、最大の恩返しであり、浜野製作所の目指すべき姿であり、社長がやらなきゃいけない大切な仕事だという覚悟を、その時決めました。

今日は時間の関係で、お客様・スタッフ・地域の3つのキーワードのうちスタッフの紹介しかできませんが、私たちが本当に大変になった時、お客様や地域の方々、墨田だけでなく東京のいろんな方々に背中を押していただき、励ましをいただいて、今の浜野製作所があると痛感し、感謝しています。

大変だった時の原体験をもとに、火事の3年後の2003年に明文化したのが弊社の経営理念になります。この経営理念にそぐわないことは一切やらないと覚悟を決めています。その後、何とか持ち直し、外部から少し評価をいただけるような状況にもなり、今こうしてみなさんの前でお話もさせていただいています。

2014年には、江戸っ子1号という産学連携プロジェクトで、内閣総理大臣賞、中小企業長官賞、日本産業技術大賞等をいただいたり、2018年には、今日本で最も権威ある賞である経済産業省のものづくり日本大賞の日本第1位をいただきました。ちなみに、第2位は京セラさん、第3位はトヨタ自動織機さんでした。

2018年6月15日には、現上皇陛下、当時の天皇陛下の最後の民間企業視察で弊社に行幸いただいて、2時間ほど私からご案内をさせていただくという、大変光栄な機会をいただくことができました。

そして2019年6月27日、浜野製作所の活動内容が、世界の中小企業の中でも先端的で、興味深いモデルということで、ニューヨークの国連本部から事例報告をしてほしいとご招待いただき、国連でお話をする機会もいただきました。

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