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老荘思想でザッソウ第2回 天才期、謙虚期、チョットデキル期(全3記事)

「会社にゴミが落ちていても拾わない人」は、なぜ生まれるのか 大人数の組織ほど欠けがちな「身体性」が大切なワケ

ソニックガーデンの代表・倉貫義人氏と仲山考材の仲山進也氏が、毎月さまざまなゲストを迎えて「雑な相談」をするポッドキャスト「ザッソウラジオ」。 今回のテーマは、「老荘思想」。クラシコムの青木耕平氏をゲストに迎え、本記事では、組織において「身体性」が重要な理由を語ります。 ■音声コンテンツはこちら

お客さんを大事にしている会社は「顧客第一」と謳わない

仲山進也氏(以下、仲山):「仁義礼智」みたいな話でいつも思うのは、お客さんを大事にしている会社の壁に「顧客第一」とは書いていないじゃないですか。品質トラブルが起こらない工場には「品質第一」と書いていない。

倉貫義人氏(以下、倉貫)・青木耕平氏(以下、青木):(笑)。

仲山:要するに、それがちゃんとできなくなると、「そういうのは大事だぞ」というのが壁に貼られるようになる。なので、分業して「自分がやっている作業の意味がなんなのかがわからない」ということをずっとやっていると、おそらくそれは人間にとって自然な状態ではないですよね。

だから、上の人が徳を問われるというか。「あの人のためにがんばろう」と思える人にならないと、誰も細切れにされた分業をちゃんとやり続けてくれない。すごく平たく言うと、そういうことだなと思っています。

青木:そうですね。最初に言った「身体性」にすごく近いと思うんですが、例えば(従業員数が)5人の会社で、オフィスにゴミが落ちていたら普通は気がつくから、拾ってゴミ箱に入れない人っていないじゃないですか。

だけど100人の会社になっちゃうと、そういうことは普通に起きます。それって、個々が場や取り組みに身体性を持ちにくくなっている状態だと思うんですよ。

倉貫:なるほど。

少人数の組織・大人数の組織の行動の違い

青木:なぜ5人の時には(ゴミを)拾うかと言うと、「いいことだから」じゃなくて、「気持ち悪いから」だと思うんですよ。これこそが、まさに身体性から行動が立ち上がっていることだと思うんです。

例えば、100人とか1,000人の会社だと、「これは正しいことだから」「これは私の愛する会社だから」とか、概念的な理由が急に必要になることがあります。

実は、先ほどの「70歳か(七十にして矩を踰えず)」という話に近いんですが、人間は原初においては、身体的にかなり道的なことが見えていると感じていて。

それが、「身体的な気持ち悪さ」や「やりたいという喜び」のとおりに動いていれば、その道に沿った行動になる。だけど、一度でも身体性を失われる環境下に置かれると、身体的に道が感じられなくなる。

倉貫:頭で理解しなきゃいけなくなる。

青木:「急に頭が必要になる」みたいな。

倉貫:身体性というのは、つまり自然な感覚や感情のことですよね。

青木:そうですね。でも、身体性としか言えないというか。

自転車の設計はできても、自転車に乗れるとは限らない

青木:身体性や身体知について言う時って、自転車の乗り方の話をよくするじゃないですか。例えば、自転車をめちゃくちゃ設計できる能力があっても、自転車の構造をどんなに知っていたとしても、自転車に乗れないことはあり得るじゃないですか。

倉貫:練習しないと乗れないですね。

青木;身体知なので、「(自転車の)乗り方」という本を100冊読んでも、実際に乗れる瞬間までは乗れないんですよね。自転車という限られた分野において、まさに「道とつながる瞬間」が自転車に乗れる瞬間だと思うんですよ。

倉貫:自転車だけにね。

青木:少なくとも自転車に乗るという分野においては、その瞬間に道とつながって、「自転車に乗る」というごく小さい部分においての徳の表現ができると思うんですよね。

仲山:うんうん。

倉貫:いや、難しくなってきたよ。

(一同笑)

青木:難しくなってきたか。

「自然と徳のある行動ができる環境」をどう作るか

青木:先ほどの(従業員数が少ない会社では)ゴミを捨てるということも、「ゴミを捨てたら自然とスッキリする」という感覚に根差している状態だと、自然と徳のある行動ができる。

倉貫:自然と徳のある行動ができる環境をどう作るのか。

青木:そうなんですよね。だからそれは、先ほど倉貫さんが言っていた採用(の話)です。例えば、徳のある人ばかりの組織にしたら自然とそうなるじゃないですか。

倉貫:そうですよね。

青木:「割れ窓理論」だっけ? 

倉貫:そうですね。

青木:本当なのかどうかは知らないけど、ああいうことにもちょっと近いです。

仲山:先ほどのゴミを拾う話で言うと、三木谷(浩史)さんが「会社のゴミが落ちていた時に拾わないヤツはダメだ」という話を、20年以上前からずっとしています。

それはどういうことかと言うと、「自分の家にゴミが落ちていたら拾って捨てるよね。会社にゴミが落ちていても拾って捨てないのは、ここを自分の場所だとは思っていない。他人の物だと思っているということだよね」と。

“やって当たり前”な環境になると、他人への感謝が生まれない

仲山:ということは、例えば会社のお金を使う時も、他人のお金を使っていると思っているから、自分のお金だとしないような使い方をしちゃう。そういうことにつながっていたりします。要するに、すべてを自分事として捉えようねということです。

倉貫:そうです。でも、それを言っている時点で孔子っぽさを感じる。

仲山:(笑)。

倉貫:要は、「仁」なのか「義」なのかを説いている。たぶん「仁」や「義」でもダメだったら、「全員、廊下でゴミを見つけたら拾うこと」というルールを作らなきゃいけなくなる。

仲山・青木:(笑)。

青木:「礼」になる。

倉貫:僕も会社がだんだん大きくなってきている中で、昔は会社のイベントの運営を全員でやっていたけど今はもう無理なので、いろんな機能ごとに役割を分けています。

運営メンバーがいて、(イベントの運営を)やってくれることになるんですけど、放っておくと感謝が生まれなくなっちゃうんですよね。人数が多くなってくると、「やってくれて当たり前」みたいな感じが出ちゃう。

少人数なほど「身体性」は生まれやすい?

倉貫:僕も(三木谷さんと)似たような例えをしています。5人でバーベキューに行ったら、肉を焼く人がいたり、魚を焼く人がいたり、野菜を切る人がいたり、料理ができない人は片付けをしたりと、みんな自然とやる。

だけど50人でバーベキューに行ったら、バーベキューを運営する人たちがいないとできなくなってくる。そうしたら、「この肉、硬いんだけど」「魚が焼けていないんだけど」とか、文句を言うヤツが絶対に出てくる。

仲山:(笑)。

倉貫:5人の時は肉が焼けていなくても笑って済ますのに、文句を言うヤツが出てきちゃうのは人数の問題があるなと思います。人数を小さくするほうが、自然と身体性を感じられやすい環境が作れるというのは感じましたね。

青木:やっぱり、(身体性を)感じられる規模・やり方はどういうことなのかを、あらためて考え直していくのはありますよね。

人間にとっての「自然な状態」とはどういうことか

仲山:倉貫さんの「がんばらなくてもいいんだっけ?」みたいな話で言うと……。

倉貫:そうなんですよ。無為自然はがんばらなくてもいいのか? という。

仲山:人間にとっての幸せって、つまるところ他の人との関係性がよいことじゃないですか。そういう意味で言うと、僕がよく使う言葉で「自己中心的利他」という表現があります。

自分がやりたくて得意なことをやっていると、周りの人が喜んでくれて、ありがとうと言ってもらえるという活動が、たぶん自然な状態だと思っています。それと「がんばる・がんばらない」は、また違う話なのかもしれないですが。

本当はビジネスも、「自分がやりたくて得意なことやるとお客さんが喜んでくれる」というところから立ち上がっていくはずなんだけど、いつの間にか売上の数字を上げるアクティビティに変わったりする。

「お客さんにいらない広告を売り付けたヤツが社内で表彰される」みたいなことがありますよね(笑)。

「会社にゴミが落ちていても拾わない人」はなぜ生まれるか

倉貫:孔子の「70歳で自由になれる」という話と、今の「自己中心的利他」の話は、段階があるんじゃないかなという感じがしています。

利他のことができる能力や強みがない状態においては、「利他です」と言っても説得力がないというか、ただの自己中心的になる。

生まれた時から無為自然なままで、自己中心的利他になるためには、一定の方向性というか、「進む」みたいな話があってもよいのか。道が見つかるまでは、何かしらの中において立身出世や成長を志向するのか。

逆に言うと、その方向性のまま生き続けたから、会社にゴミが落ちていても拾わない人が出てくる。ずっとそっちに行っちゃうと、そこでなんとかしようとなっちゃう。

でも、最初から荘子を目指している人って……わからないけど、(例えば)大学2年生くらいの人が来て「僕は荘子を目指しているんです」と言ったら、僕は「まずがんばろうか」とアドバイスをしそうになると思っています。

仲山・青木:(笑)。

倉貫:「倉貫さん、何を言っているんですか。これからは無為自然ですよ。働いたら負けですよ」みたいな。

仲山・青木:(笑)。

倉貫:それは僕の時代錯誤感なのか、そのへんってどうなんでしょうね?

仲山:でも、就職している時点で荘子と違うじゃんという感じがしますけどね(笑)。

青木:そうだよね。

学校教育で学んだことをアンラーンする必要性

青木:普通の学校教育の中で大学に行っているくらいだったら、ある程度やってきたからそこにいるわけじゃないですか。道とつながっている状態だったものをいったん切り離して、人間をコントロールしやすくするのが、現代の学校教育っぽい感じがしているんですよ。

倉貫:なるほど。

青木:自分の不快感とか、好きという気持ちを克服することが、子どもの頃にかなり求められるじゃないですか。

例えば、「これでずっと遊んでいたいんだよね」というのを克服して、やりたくないことをできるようにするとか。逆に「これは将来メリットがある」とか。

いろんなことで「やりたくない」という気持ちを克服して、やりたくないことを自分にやらせることを覚える期間だと思うんです。一回そうなっちゃった人に、最初から無為自然というのはけっこう難しいと思うんですよね。

仲山:アンラーンしないといけないですよね。

青木:アンラーンしなきゃいけないから、そこからある程度階段を上ることが必要になっちゃう。

学校教育の1個の目的は「身体性を壊すこと」

青木:だけど、もしも「ナチュラルボーン道家」みたいな育ち方をしたらどうなるのかなというのは、見たことがない分興味があるんですよね。

倉貫:なるほど。

青木:身体性を壊すことが、学校教育の1個の目的かなという気がしています。

少なくとも過去の時代においては、身体性に溢れていると、集団で成果を出すパーツとしてそんなによくないパーツになっちゃう。

そういう意味では、僕らも儒家的な教育をくぐり抜けて大人になって、しばらくしてから「なんかこうじゃないんだよな」と思って老子とかに出会って、「これなんじゃね?」と、今頃思っているくらいの世代だと思うんです。

でも、最初から道家的な教育、世の常識が「ナチュラルボーンはこれだ」という中で育つ子どもはどうなるのか。

ただの困った勘違い野郎の集団になるのか、まさに徳を体現する小国寡民みたいな美しい国になるのか、どっちなんだろうなというのは興味がありますよね。

倉貫:そうね。なんとなくわかってきた気がします。

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