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コロナ後の社会と教育の可能性 苫野一徳 (教育哲学者)X 尾原 和啓(フューチャリスト)(全5記事)

子どもの自由な時間を奪うと好奇心が育たない withコロナ時代に見直すべき大人の役割

世界的なコロナ危機によってもたらされる新たな日常 (New Normal) を生きるうえで、一人ひとりが当事者意識を持ち、多面的な視点を得ながらアイデア・作品・ソリューションを生み出していくことを目指し、一般社団法人 Learn by Creationがオンラインイベントを開催しました。本イベントは、「ポストコロナ時代の社会と教育の可能性」と題して、教育哲学者の苫野一徳氏と、テクノロジーの造詣が深いフューチャリストの尾原和啓氏が登壇。本パートでは、尾原氏がテクノロジーを駆使して働き方や学び方を変え、自由を手に入れる方法について語りました。

日本の学校教育の課題

竹村詠美氏(以下、竹村):尾原さんありがとうございます。それでは、苫野さんにもお戻りいただいて、ここから35分ほどお二人でお話ししていただく時間をとりたいと思います。

うちの子どももマインクラフトで世界中の子どもと遊んでいるので、最後の例も非常にそうだよなと思いました。

まず最初にお伺いしたいのが、尾原さんの最後のスライドで、『社会課題×教育無料革命×オープンイノベーション』という話があったと思うのですが、今の日本の学校教育の状況を見ていると、社会課題が大切だと大人が思っていても、大人も含めてかもしれないですけど、なかなかそこに関心を持つ人が少なかったり。

「いい教育を受けたいんだったらやっぱり塾に行かなきゃいけないよね」とか、「無料じゃなくてお金を払わないといい教育が受けられない」という話が、特に都会だとあったり。

あとはオープンイノベーションに関しても、今までだと学校は若干閉鎖的なところがあったかなと思うので、今この3つの要素がすべて変わっていけるチャンスにあるのかなと思うのですが。

ぜひ苫野さんと尾原さんにその3つの要素が変わっていくためにどういったことが動いていくといいのか、学校の立場でも社会の立場でも保護者の立場でもいいんですけれども、少しお話しいただいてもよろしいですか? 

尾原和啓氏(以下、尾原):そうですね。ぜひ苫野先生からお伺いしたいですね。

教育の基本は「信頼して・任せて・待って・支える」

苫野一徳氏(以下、苫野):はい。いやー尾原さんのお話、本当におもしろくて。私がずっと言っていたような、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」というビジョンに対して、尾原さんは「こんなふうに実現できるんですよ」とアイデアをごまんと出してくださる。

さて、そのための切り口という話なんですけど、これは言うまでもなく、まずはマインドセットが最大の問題です。けれども、そのマインドセットをどう耕すかなんですよね。

今は本当に1つのチャンスで、というのは、教育の基本中の基本は、いつも言っていることなんですが、「信頼して・任せて・待って・支える」なんです。けっして、言われたことを言われたとおりにさせるとか、決められたことを決められたとおりにできるようにさせるとかではなくて。

いかにその子どもたちが自分の力を発揮できるかという。そのためには、教師や大人が、信頼して、任せて、待って、支える必要がある。

でも、日本はどうしても、子どもを言うとおりにコントロールしようとする傾向が強い。これにはいろいろと理由があって。「なぜこんなに同質性の高い学校になったんですか?」というご質問もあったので、また後でお話しできたらと思うんですけれども。

一言だけ言うと、ある種の成功パラドックスがあるんですね。つまり、同質性の高い教室空間に子どもたちを入れ込み、言うとおりにコントロールするという教育モデルが、ある意味でうまくいっちゃったんですよね。

尾原:そうですね。

先生の役割は、「探究者」を支えるサポーター

苫野:だから、マインドセットを転換することが非常に難しい。でも、今回のコロナ下では、先生が常に子どもたちのコントローラーを握っていることができなくなった。

だからこの期に、例えば子どもたちが自由な時間を大いに活用して、ものすごい探究活動をしてしまったり。(先生や大人に)そういうものにたくさん出会っていただきたい。自分のコントロールのきかないところですごいことをし始めた子どもたちにもたくさん出会ってほしいし、出会えると思っているんですよ。

そうすると、「ああ、自分がコントローラーを握っているよりも、子どもたちにそれを委ねて、自分たちが頼れるサポーターになる、協同探究者になる。それが大事なことだし、すごく手応えのあることだな」と、多くの大人が気づけると思うんですね。そうしたら、もうかつてに戻ることができなくなる。

教師として、子どもたちに言われたとおりにさせる喜びって、実はそんなに大きくないはずなんです。子どもたちが、自分の想像を超えたところですごい探究者になっていくところを目の当たりにしちゃうと、もう後に戻れない。

こういった経験値がじわりじわりと広がっていくというのが、今我々が目指すべきことではないかなと思っています。

竹村:ありがとうございます。実は家庭にも同じことが言えるのかなとお話を伺って思ったんですが、どうしてもわりと不安な声として寄せられるのが、今は休校が長引いてしまって、「授業が遅れているのが大丈夫か、どうやってキャッチアップするのか」というところにどうしても目が行きがちになってしまうところがあると思うんですね。

このチャンスに、インドアでいながらもお子さんが何か夢中になれるものを見つけることに関して、尾原さん、ヒントはありますでしょうか? 

子どもがコンフォートゾーンから一歩踏み出す瞬間

尾原:何か夢中になるものって、まず大前提として、こっちが押しつけるものじゃないですよね。だから、やっぱり社会課題に、教育の無料革命、オープンイノベーションという話があったときに、最初に大事なことは社会課題だろうが、自分が何を探求したいんだろうか。探求したいことにどう出会えるかという偶発性を待つぐらいしか、僕たちって基本的にはできなくて。

例えば、さっき言ったグリーンスクールのプリスクールのミッションは「We are proud of your stepping out of your comfort zone.」なんですね。特に日本は先代の方々がものすごくがんばってくださったおかげで、僕たちはコンフォートゾーンの中で生き続けてこられるようになった。

「昨日の生活が明日も続くだろう、明後日も続くだろう」という前提条件の中で、僕たちは変わらない快適な生活を送れていた。それに対して、やはり新しいことを始めるのは何か不安だし、辛いことも多い。

そういうときに、子どもにはコンフォートゾーンから一歩出る瞬間があって。一歩出た瞬間を褒めるわけではなく、指導するわけでもなく、「proud of(誇りに思う)」なんですよね。あなたと私は一体で誇りに思うという気持ちをどうやって作るかが大事で。

ただ、もっと大事なことって、じゃあ子どもはつらい気持ちでコンフォートゾーンを出ているかというとそんなことはなくて。実は好奇心という言葉がすごく大事で、やっぱり好奇心って「奇妙なものが好きな心」ですよね。

好奇心を持ち、好きなものを見つける

尾原:新しい変化がいっぱい起きていれば、子どもってどこかで奇妙なものを追いかける生き物ですから。そうすると何か奇妙なものが心に引っかかって、蝶々を見て追いかけていたら、ふだん行かないような外に出ていたということっていっぱいあるわけですよね。

だから何か子どもが夢中になる始めたきっかけを、さっき言われたように「信じて待つ」だし。もっと言うと、子どもだとそのときに、ついついトラックが多いような道路に出ちゃうかもしれないから、そこはガードレールを作っておいてあげて。

子どもが自発的にそっち(危険な道路)に行きにくいようにすることだったり、じゃあ蝶々を追いかけるためには交通標識も学ばなければならないんだね、ということに気づけば、子どもは今度はYouTubeでいくらでも交通標識を学びますし。

大事なことは、やはり好奇心に喉を乾かすことなんですよね。大事なものができれば、大事なものを守りたいと思うから、守りたいことができたら、そこが壊れないように社会課題を解決しようというふうに変わってくる。

だから、言い方は悪いんですけど「バリ島っておいしい」んですよ。めちゃくちゃ綺麗な自然があるから、好きになっちゃうんですよ。そこにいる自然、そこにいる犬。

そうすると、その自然を守りたい、その自然を守るためには観光に依存しなきゃいけない。観光に依存しちゃうと自然を壊すかもしれないという自由のトレードオフに気づくという順番にあれば、自然と協働が発生するんですよね。

だから順番は、あくまで好きなものを作る。好きなものを作るというのは、奇妙なものが好きという(好奇心によって)、自然と自分のコンフォートゾーンを一歩出歩いてしまうことにつながる。それを信じて待つことが、僕は一番大事だと個人的には思いますけどね。

自分の時間を奪われると、好奇心がなくなってしまう

苫野:「今こそ夢中になれることや好奇心を満たせることを」というお話、私も「このコロナの時期だからこそ」という話をすると、必ず「夢中になれることがない」とか「好奇心を持てない」という言葉が返ってくるんですけど。

さっき尾原さんがおっしゃったように、子どもって好奇心旺盛なのは当然なんですよね。なぜそれがなくなるのかと言うと、他人の時間を生きるからなんですよ。自分の時間がたっぷりあれば、必ず自分の好奇心をいろんなところに結びつけていきますよね。

日本の多くの子どもたちは、今までずっと大人の時間を生きてきた。大人が決めた時間割に従い、放課後も塾に行ったり習い事に行ったり、自分の時間がほとんどなかったんですよね。

もちろん、すべての子どもの学習権の保障は大前提ですけれども、今、せっかく子どもたちが自分の時間を手にした。その時間をたっぷり子どもたちに楽しんでもらえれば、自ずと夢中になれることを見つけ出すと思いますね。

そういうことを言うと、また今度は「ゲーム三昧になってしまう」というお話も来るんですけど、それはそれで必ずしも悪いことではないと思うのと、もう一つは一緒にルールを作ればいいと思うんですよね。

尾原:うん、うん。

苫野:親とか先生に与えられたルールは、いかにしてそれを上手にいなそうかとか破ろうかとか考えるんですけど、自分で作ったルールは自分が主役ですから、自分がそれを守る責任主体になりますよね。

今のこの時期にこそ、今まで大人のルールや大人の時間を生きてきた子どもたちに、自分の時間は自分で使い、自分でルールを決め、自分のことは自分で決める経験を積んでほしい。まさに、自分の自由を自分で行使するという、そういう経験をたっぷり積んでほしいなと思っているところですね。

自立よりも自律が求められる

尾原:そうですね。だから今、「自立から自律」という話がすごく言われるようになってきていて。自分で立つといういわゆるIndependentな自立というよりは、自分を律せられる自律ですよね。

この自律の律というのはもともとは律令。令和の令、律令の律だからルールって意味なんですよね。

自分でルールを設定できる人が自律的な人だし、一方で自律的な人になりましょうと言っているけれども、自律の反対って他律で。やっぱり学校ってどうしても効率性を重視するがゆえに「他人のルールで行きましょう」というものが中心になりやすくなってしまう。

そういう意味では「そんな不安な状況で無理だよ」「しんどいよ」ということは、みなさんの生活の中でもあると思うんですけど、初めて子どもが自律を試されるこの1ヶ月があると思うので、そこを信じて待つ。そのうえで、子どもだって自分で「ダメなことはダメ」って一番気づきますから。そのときに一緒にルールを作る。

だから、ちょっと長い話になるんですけど、おもしろい話があって。リクルートってむちゃくちゃ営業が強くて、むちゃくちゃ自律的な会社と思われてるじゃないですか。でも、10年くらい前にやっぱりルールを変えたんですね。それは詰め会をやめて、読み会に変えたというエピソードがあって。

昔はリクルートってサークルのリーダーになれるような人しか採用していなかったので、最初から自律的な人しか採ってなかったんですよ。だから、むちゃくちゃ詰めるんですね。「お前、なんでできないんだ!」「もっとこうやればいいじゃないか!」と怒って。

そうやれば、「なにくそ!」と思ってがんばるというのが、10年前のリクルートなんですけど。だんだん時代と共に詰めると(人が)辞めるというふうに変わっていって(笑)。

リクルートの「詰め会から読み会」への変化

尾原:これはどうすればいいんだとリクルートがいろいろ考えた結果、生まれたのが詰め会から読み会の変化。これは何かと言うと、自分を詰めるのは自分にさせればいいというふうに変えたんですよ。

つまり毎朝行くと自分の机の上に、全員の営業の行動を、自分で計画したものに対して進捗が何パーセント進んでいるのか。それに対して結果がどれくらいうまくいっているのか、いっていないのかという、表とランキングが全員の机の上にポンと置いてあって。

自分のところに黄色い線が引いてあるんですね。そうすると、朝机の上を見ると、自分がうまくいってるのかうまくいっていないのかが明らかにわかるから。自分で自分を責めるわけですよ。それと、じゃあミーティングで何をやるかというと、読み会で。

「お前は今足りないところをどうやって埋めていこうとしているんだい? その読みを聞かせてくれないかい?」「その読みを先輩がサポートするよ」というふうに切り替えていったんですね。

そうするとやっぱりリクルートは劇的に良くなっていって。結局、他人に言われると「えー、そんなの俺だってやってるよ」と思ってつらくなるけど、数字やデータというものがオープンな社会になっていくと、自分を叱るのは自分で十分なんですよ。

だとしたら他の人は自分が自分を叱った後に、「どうやって自分を律するための自分ルールを作っていくんですか」というのを周りが助けてあげましょうというふうに切り替えていければ、僕はいいと思うんですよね。

テクノロジーの力で自律を後押しする

竹村:今の尾原さんの話で思ったんですけど、モンテッソーリ教育って、特に幼稚園などでは先生の役目は環境を整えることなので。子どもが何か教具で学んでいる中で間違ったことをしたと気づいたら、先生に言われなくてもそれを自分で修正できるんです。遊びの中に、自律性を育む環境が整えられているんですよね。

だから今、尾原さんがおっしゃられたことって、そういうことがテクノロジーの力などによって、どんな世代の方でもさらに自分で自分を律しやすくなる。そういった環境が整っているということですかね。

尾原:そうですね。さっき言ったようにデータを可視化することによって、圧倒的に「今うまくいってないのか、うまくいっているのか」を自分で振り返れるようになってきているので。

ただ、自分を律すること、自分のルール作りにはまだ慣れていないから、そこを周りの人間がどう手伝ってあげるかということだと個人的には思うんですよね。もちろんこれを教育現場のみなさん、大変な中でそんなの新しく足せないよということは理解しているんですけれども。あの体育会系主義のリクルートですら変われたわけですから(笑)。一つひとつの学校でも変われるんじゃないかな。

大人の言うことを聞く子どもは、本当に“いい子”なのか?

苫野:竹村さんがおっしゃったモンテッソーリなんて、100年前にそれを言ってるわけですよね。

モンテッソーリのとても素敵な言葉があって。大人って、子どもが大人の言うとおりにできるようになるとよくできる子になった、いい子になったと思うんだけれども。言うとおりにしつけを守ればいい子になったというんだけど、実はそれって子どもを無力にしているだけなんだよという言葉があってですね。

要は大人が決めたルールにしか従えない、大人が決めたことにしか従えない。自分で何かを考え、自分でやるということをできなくしちゃってるんだよと言っていて。

モンテッソーリは100年前、ルソーなんて250年前ですから。250年前にルソーが初めてそういったことを徹底的に言ったんですよね。250年経ったんだから、もういい加減、子どもたち自身の好奇心や探究心を最大限に発揮できるような環境作りを、公教育がシステムとして整備していく時期に来ているはずで。

私はよく言うんですけど、新教育というのがデューイやモンテッソーリなどの時代に始まって、世界中に児童中心主義といわれる考え方や、経験主義や探究というものを中核にする教育が広がりました。つまり、100年くらいの理論と実践の蓄積があるんですね。

もう私からすると、「良い教育の原理はもうわかった。自由と自由の相互承認の実質化だ。そして、それを具体化するための良い教育実践のあり方も世界中で出そろった。ならばあとはシステムに実装するだけだ」と。そういうフェーズに入っているんだということを、みんなで認識していきたいなと思います。

竹村:ありがとうございます。

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