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コロナ後の社会と教育の可能性 苫野一徳 (教育哲学者)X 尾原 和啓(フューチャリスト)(全5記事)

人類の「暴力の歴史」を変えてきたのは哲学と教育 苫野一徳氏が語る、歴史の転換点

世界的なコロナ危機によってもたらされる新たな日常 (New Normal) を生きるうえで、一人ひとりが当事者意識を持ち、多面的な視点を得ながらアイデア・作品・ソリューションを生み出していくことを目指し、一般社団法人 Learn by Creationがオンラインイベントを開催しました。本イベントは、「ポストコロナ時代の社会と教育の可能性」と題して、教育哲学者の苫野一徳氏と、テクノロジーの造詣が深いフューチャリストの尾原和啓氏が登壇。苫野氏が、人類の考え方を大きく変えた重要な原理について語りました。

哲学は物事の本質をとらえ、さまざまな問題を解き明かす

苫野一徳氏(以下、苫野):みなさん、どうもこんにちは。苫野と申します。今日はどうぞよろしくお願いいたします。

こどもの日ですので、ここにたくさんのお子さんがいらしてくれたらうれしいなとも思っておりますけれども。気軽にご家庭のお子さんたちも……。ちょっと難しいお話もしますけれども、気軽にご一緒できたらなと思っております。

私からは20分ほどお話をしたいと思います。なんとか20分でがんばります。

いただきましたテーマは『コロナ後の社会と教育の可能性』ということで、副題を『~「よい社会/教育」の本質と構造転換~』としてお話をさせていただきたいと思います。

少しだけ自己紹介をさせていただきますと、私は哲学者、そして教育学者をやっております。哲学というのは、一言で言うと『本質洞察に基づく原理の提示である』という言い方をしています。

物事の本質、一番の根本の根本、根っこの部分を徹底的に捉えて解明し、そしてそれにまつわるさまざまな問題を根っこから解き明かしてしまう。それが哲学の最大の本質だと考えています。

ですので、今日のテーマでもある、そもそも教育とはいったいなんなのか、なんのためにあるのか、あるいはよい社会とはいったいなんなのかといった、一番の根本の部分を解き明かす。

そうすると、どういうふうに教育を作っていけばいいのか、社会を作っていけばいいのかがわかるようになります。逆に言うと、その一番の本質の部分がぶれてしまうと、我々はどこへ向かっていけばいいのかがわからなくなってしまう。とくに教育の世界は、それぞれの信念や主義・主張、もっと言えば、ほとんど趣味の次元で対立を繰り返してしまうような世界です。

ですので、コロナ後の社会と教育の可能性を考えるにあたっても、そもそも「よい社会ってなんなのか」「よい教育ってなんなのか」という一番の根っこを考えなければとんちんかんな方向に議論が進んでしまいますので、今日はまずはそこをしっかりと押さえておきたいと思います。

哲学を土台にして「よい教育」を考えていく

今ここに挙げましたように、そういった物事の本質を洞察するような著作をいくつか書いております。

それから教育に関しても、哲学を土台にして、そもそもよい教育とはいったいなんなのか、それをどういうふうにこの時代に展開していけばいいのか、構想を実践していけばいいのかということをいくつかの著作で提言しています。

あと、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、この4月に創設・開校して、早々にコロナでこんなことになってしまいましたが、軽井沢風越学園にも共同発起人として関わっています。

手前味噌ですけど、スタッフのみなさんが本当に素晴らしく、子どもたちがとにかく幸せな子ども時代を過ごせるように、豊かな学びの環境を、どんな状況でも必ずみんなで一緒に作っていくんだという思いで、今、オンラインで取り組んでいます。本当は、この4月から、子どもたちもみんなで一緒に学校を作っていく予定だったんですけれども。

この後少しお話しますが、これから15〜20年で、「公教育の構造転換」が必ず起こります。その1つのモデルになるような、そして構造転換のためのネットワークの1つのハブになるような、そんな学校にしていきたいと考えています。

さて、まずよい教育を考えるにあたっては、よい社会というのはいったいなんなのかということをまずは徹底的に明らかにしないといけません。このテーマをやるとそれだけで2時間ぐらいかかってしまいますので、本当にごくごく簡単に、ポイントだけお話ししたいと思います。

何万年もの争いの歴史を経て、人が手にしたルール

まず、「自由の相互承認」の原理といいますけれども、これは近代の市民社会の根本原理ですね。「自由の相互承認」とは何かと言いますと、すべての人が対等に自由な存在であるということをお互いに認めあうことを根本ルールとした社会。これが市民社会、民主主義の根本原理になります。

このことを論証したいんですけれども、時間がありませんので、少しだけ言うと、人類は何万年もの間、自由をめがけて命の奪い合いを繰り返してきたんですね。狩猟・採集時代から定住・農耕・蓄財が始まり、そして大きな戦争共同体ができて、人々はずっと殺し合いをしてきました。

なぜかというと、人間はみんな「自由に生きたい」と思うからです。生きたいように生きたい。そこがちょっと動物と違うところですね。生きたいように生きたいので、奴隷にされるぐらいだったら命を賭してでも戦う。こういうことが起こるんですね。

こうやって、ずっと殺し合いを続けてきた。そうした何万年にもわたる命の奪い合いの歴史を通して、人々はついに気づいたわけですね。もし本当に自由になりたいのであれば、その自由を求めて殺しあうのではなく、お互いの自由をまずは認めあって、その認めあうということをルールにした社会を作っていくほかに方法はないんだと。

長い思想のリレーを通して、ルソーやヘーゲルといった人たちがこのことに辿り着きました。わずか250年ぐらい前に、この「自由の相互承認」という原理が見いだされたのです。お互いがお互いに対等に自由な存在であるということを認めあう。それをルールとした社会が、現代の民主主義社会の根本原理ですね。改めて優れた原理だと思います。

国家・政府・法律はどうあるべきか

この自由の相互承認の原理を実際に実現するための国家、政府、あるいは法というものはどうあればよいかということも、ちゃんと哲学で答えが出されています。

それが、ルソーの言った有名な『一般意志』。これまでおびただしい数の誤解にさらされてきた概念ではあるんですけれども。

簡単に言いますと、一般意志というのは、ある一部の人の意志、特殊意志や個別意志というふうな言い方をしますが、例えば王侯貴族や一部のお金持ちの意志でこの国家が運営されるのではなくて、すべての人の意志を持ちよって、すべての人の利益になる合意を見いだしあおうと。

このこと以外に、国家や政府や法の正当性の根拠はどこにもないんだということをルソーが言った。今では当たり前なんですけど、当時としては驚くべき革命的な考えでした。今の当たり前をルソーなどが作っていったわけなんですね。

もちろん、一般意志を絶対的に見出すということは極めて困難です。それでも、ここにしか正当性の根拠はないんですね。

本当にすべての人の意志がしっかりと反映されて、そして、みんなの利益になる合意を目指しているかどうか。ここにしか、我々の国家というものの正当性の根拠はない。これもまた非常に優れた原理ですね。

すべての人の「良き生」と「自由」を目指す

もう一つ、『普遍福祉』。あるいは、一般意志と並べて『一般福祉』というような言い方もいいんじゃないかなと思いますが、翻訳の問題ですので。

これはヘーゲルの言葉ですが、平たく言うと、ちょっと私なりにデフォルメもしていますが、社会政策の正当性の原理です。いわば、一般意志は一般福祉を必然的にめがける、と。つまり、すべての人の福祉、良き生、あるいは自由。すべての人の「良き生」をめがけた政策でない限り、そこに正当性はないのです。

これも言われてみれば当たり前の話ですね。教育政策は、ある一部の子どもたちだけの自由を実質化したり、ある一部の人たちの良き生だけを実質化するものであってはならず、すべての人の良き生、自由を実質化するところに正当性があるのです。

自由の相互承認、一般意志、そして一般福祉。言われてみれば当たり前なんですけど、言われてみなければここを土台に考えようという発想ができない、非常に重要な原理です。

例えば、いやな言葉ですが、よく、できる子だけに教育投資をして、国を富ませてもらえばいいんだみたいな話を聞きます。でも、それは教育政策の正当性に反するんです。

本当はもっとそのことを論証したいんですけど、時間がありませんのでぐっとこらえますね。

一般福祉にかなった社会政策でない限りダメなんだということを、改めて教育や社会を考えるときの根本原理として、物事を考えるときのファーストステップ、思考の始発点として、改めて共有したいと思います。

数世紀の間に戦争や暴力が激減した背景

もう少しだけ、この「自由の相互承認」という原理が見いだされてから、この2~3世紀の間に戦争が激減したんだということも、お話ししておきたいと思います。

現代の我々は、20世紀、21世紀の2つの大戦やテロの時代を見ていますので、ついつい、戦争や暴力というものが非常に増加した時代だと思ってしまいがちなんですけれども、これは例えばスティーブン・ピンカーという人の『暴力の人類史』という本が、非常に優れた論証をしていますが、この数世紀で、戦争や暴力というものは激減したんです。

暴力の人類史 上

確かに考えてみれば、人類の歴史というのはずっと暴力の歴史だったわけです。しかも特筆すべきは、この右上の絵はローマの剣闘士ですね。左上は奴隷、そして下は火刑と拷問ですけれども、こういったことが、民衆にとっての1つの娯楽でもあったんですね。我々人類は、人が殺しあうのを見て楽しむような感受性を持っていた。でも、今の我々はまったくそんなことを思いませんよね。これは実をいうと、人類の精神の大革命が起こったということなんです。

この2~3世紀の間に、言葉は知らなくても、我々は「自由の相互承認」の原理というものを知り、これに基づいた民主主義社会というものが、じわりじわりと社会に広がっていった。

そして教育の力を忘れちゃいけませんね。教育によって、「我々はどんな生まれだろうが、どんな人種だろうが、どんな宗教だろうが、みんな同じ対等な人間なんだ」という感覚をみんなが持つようになった。これは本当にすごいことなんです。

このわずか200~300年の間に、あるいはせいぜい100年ぐらいの間に、人類の精神の大革命が起こった。改めて、この「自由の相互承認」の原理というもののすごさといいますか、意義を思います。そして教育、公教育の意義を改めて理解したいなと思います。

哲学というのは、よくなんの意味もない、役に立たないことをぐちゃぐちゃダラダラ考えるものだと誤解されちゃうんですけれども、まったくそんなことはない。

このよい社会とか、戦争をなくすためにはどうすればいいのかという本質をぐっと捉えて、それを実現させてきた。もちろん時間はかかるんですね。100年、200年かかるんだけれども、じわりじわりとこの社会を良くしてきた。それが哲学の意義だというふうにぜひご理解いただきたいなと思います。

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