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SDGs LIVE #1 持続可能な社会のための教育を考える(全5記事)

「発達障害」という名づけがもたらした功罪と、ラベリングに囚われないための道筋

2019年5月16日、EARTH JOURNALが主催するイベント「SDGs LIVE #1」が開催されました。国連が推奨しているSDGsをより多くの方に広めるために、 それぞれのジャンルの専門家を招き、 現状の問題点や実現に向けての課題について語り合います。第1回となる今回のイベントは、社会学者の宮台真司氏とエッセイストの小島慶子氏をゲストに招き、子育ての経験や専門分野の知見から、SDGsの目標4にあたる「質の高い教育」をベースに、これからの社会を支えるための教育についてディスカッションを開催しました。本パートでは、会場の参加者から寄せられたさまざまな質問に答えました。

与えられた定義にとらわれずにコンテクストに配慮する

司会者:ここで質疑応答に移らせていただければと思います。

谷崎テトラ氏(以下、谷崎):会場でご質問のある方はいらっしゃいますか?

(会場挙手)

あ、だいぶ手が挙がりましたね。よかったらマイクをどうぞ。

質問者1:今日はSDGsのなかの教育についてお話ししていたと思うんですけれども。御三方に聞きたいのが、持続可能な教育というのは、SDGsの指標だと、例えば病気に気づくとか、貧困をどうやって解決するか。

社会全体が持続可能な状態を目指そうというときに、宮台先生のおっしゃるようなクズじゃない人を増やすための最低限の教養の定義を教えてほしいな、という感じです。

谷崎:どうでしょうか? 宮台さん?

宮台真司氏(以下、宮台):ちょっと答えにくいことだけど、定義を求めるという時点で、言葉の奴隷になっている可能性がある。さっき申し上げたように、テクストを見たらコンテクストとつながる、ということが非常に重要だよね。

17の基準があったら、その基準を立てた人はどういう目的で何を感じながら作ったのかと考えなければ、それぞれのインデックスをクリアする意味がない。単に80点だったのが95点になりました、という自己満足でしかない。僕は、そういう生き方をやめることがとても大事だと思っているので、それを冒頭にお話ししたのね。

とりわけ日本人は、本当に浅ましい空っぽな人間たちが多いので、三島由紀夫的に言うと、周りの流れに染まりながら自分の頭で考えず、「与えられた基準をクリアした、やったー」となりがち。「これがもっとも人間の生き方として醜い」というのが、三島が言ったことなんだよね。

醜くないのはどういうやり方だろうというと、彼(三島)の言い方では「全体性とつながる」。何が全体性なのかということは、三島が「天皇」と言うから天皇なんだ、と考えた時点で敗北ですね。何が全体性なのか。だって、全体ってありとあらゆる全体なんだから、未規定に決まってるじゃない? もともと「全体はこれだ」なんて言うことができるはずがない。

基本的にいつもコンテクストを配慮する。その理由は、より大きなコンテクストを配慮する中で、いま自分に提示されていることや、提示されて行おうとしていることを絶えず再解釈して、その解釈を1つのドグマのように使わないことだと思います。

谷崎:ありがとうございます。じゃあ小島さん。

内なるクズを駆逐するのではなく、共存を目指す

小島慶子氏(以下、小島):クズにならないためにはどんなことが必要か? というふうに平たく理解していいですか?

質問者1:というよりは、クズにならない人を増やすために必要な教育ということです。

小島:オッケー、オッケー。(それは)自分の中にクズがいることに気が付くことですね。ここは私、宮台さんとはちょっと違うかもしれない。でも、私の中にクズがいるんですよ。めっちゃいるの。なんでいるんだろう? そのクズとどう付き合っていけばいいんだろう? たぶん、クズを駆逐することは無理です。だから、内なるクズとの共存を目指す。

それができたら、目の前にいる他者としてのクズとの共存。自分とうんと違う人とでも平和的に共存していかないと、サステイナブルではないというふうに私は考えています。

宮台:ちょっとおもしろいのが、僕は11年間くらい、本当にクズなナンパ師だったんですね。小島さんと同じように、自分でクズだということがわかっていました。でも、クズじゃなくなる、あるいはクズ要素を減らすことができなくて。それなりに努力してるつもりだったんだけど、だんだん絶望していって、最後はほぼ廃人状態になっていたんです。

だけど、ちょっとした奇跡がいくつか重なったことによって、感情を取り戻すことができたんです。自分もそういう体験があるので、「『クズ』って言われたら腹が立つじゃん。だったら、クズじゃなくなれよ。なんとかできるんだよ。俺がなんとかできたんだから」って、やっぱりそう言いたいよね。

小島:優しい!

(会場笑)

心や感情をどう育てていくかが教育の領域

谷崎:宮台さんのお話の中でよく出てくる、感情の劣化という問題がありますよね。僕もそれにすごく共感していて。クズとかそういう言い方をすると、ちょっときついし強いので、僕はあまりそういう言い方はしないんですけども、言わんとすることにはすごく共感しています。

クズという要素というよりも、感情の劣化ですよね。たぶん、僕たちが「なにかに対しての感受性が劣化していることに気付けよ」と言ってるんだと思うんですけれども、それに気付くのはなかなか難しい。

なぜならば、今日もこうやって僕たちがなんらかの情報を与えている場に来て、情報や知識を得て帰ろうというマインドセットが働くんですが、本当に大切なのは、その情報を聞いて自分がどう思うか。

宮台さんが「クズ」と言ったときに、自分の中で「そうは思わない」とムカっとしたら、それは自分の中の感情が目覚めた瞬間なんですね。小島さんが言ってらっしゃることに「私もそう思う」と激しく共感したら、自分が共感していることで、自分は生きているそのものになるわけです。

目覚めはじめた心、感情というものを、自分が大切に育てていることがセンス・オブ・ワンダーということです。それを通じてしか、世界とつながることはできないんですよね。貧困を救おうと思ったときに、数値的に目標を達成するというSDGsじゃなく、そのことを通じて自分はどう思い、どう感情を育ててきたかということのほうが、本当は重要かなと思っています。それが教育という領域なんじゃないかなと思います。

じゃあほかに?

(会場挙手)

資本主義そのものは善でも悪でもない

質問者2:とてもすばらしい内容だったと思います。ありがとうございます。お話をお聞きしながら、やっぱり僕が学校で習わなかったのは、金融資本主義についてだったなと感じたんですけれど。今後、SDGs自体も金融資本主義の中で成り立っていくものだと思うのですが。

御三方はたぶん、学校教育の中で教えるべき金融資本主義を飛ばしてきた中で、感情の劣化や不安障害が起こりやすい土壌を作ってきたんじゃないかなと僕は思うんですけど。その点について、もしご意見があったらお聞かせください。

谷崎:どうでしょうか? 金融ですね。

宮台:信用創造をベースにして回っている資本主義ということだよね。信用創造は、現実に存在する貨幣よりも多くの貨幣の量、つまりマネタリーベース、お金の在庫を作り出すための手段だと言えますよね。実はただの信用なので、信用がなくなってしまえば貨幣だと思っていたものがただのクズになってしまうということが起こる。うんぬんかんぬん……ということなんだけどね。

まず、僕たちの社会的な知恵の範囲内では、今後も資本主義をやめることはできないです。ただ、昔アダム・スミスが、あるいはジャン=ジャック・ルソーが言ったように、アダム・スミスは『国富論』『諸国民の富』という本で「神の見えざる手」……本当は「神の」とは言ってないんだよね。市場に働く「見えざる手」というふうなことを言っています。

それは、人々が人の苦しみを自分の苦しみとし、人の悲しみを自分の悲しみとする場合にだけ働いて、市場が自動的に良い社会をもたらすと。つまり実はアダム・スミスの『道徳感情論』の第2部なんです。

間を飛ばして言いますけど、例えばスローフード運動も80年代前半から生まれたけど、これは「規則が禁じていて罰せられたくないので、毒を入れない、有害物を入れない」ということじゃなくて、「自分の大切な人間、知り合いが食べるから、いいものを食べさせてあげたい」という感情の働きをベースにして、製造・生産、あるいは流通・消費をカバーしていこうという動きだったんですね。つまり感情の働きだったんです。

ところが、それが95年にWalmartが(マーケット戦略として始めた)LOHAS(ロハス:lifestyles of health and sustainability)になったら、急に規格になっちゃったんだよ。クズ化ですよね。(スローフード運動では)感情の働きだったものが、損得のゲームに変わってしまった。

つまり、感情的な能力を豊富に持った人間が市場に関わるならば、それなりのことが実現できる。感情的に劣化した人間が市場に関わるのであれば、生産者であれ消費者であれ、やっぱりろくなことが起こらない。だから、資本主義が善か悪かではなく、資本主義やそういったゲームのプレーヤーがクズかクズじゃないか。最終的には、その問題なんですよね。

人間の不安は生まれた時から備わってしまっているもの

谷崎:小島さんはどうですか?

小島:ごめんなさい、私は金融資本主義について学校で習わなかったことと、自分の発達障害が関係しているというところはまったくわからないです。だけど、自分の不安障害に関して一番端的な答えは、不安がどこからやってくるかはわからない。たぶん生まれた瞬間に不安と一緒に生まれてきたんだろうと。

私が脳みそを持っている限り……、人間は無駄にでかい脳みそを持ってきてしまったでしょ(笑)? 人類は、歩けない状態で生まれてこなくちゃいけないくらい頭が大きくなってしまった。そんな脳みそを持って生まれた時点で、不安はデフォルトだなと思ったんです。それが1つ。

あともう1つは、さっきもお話ししましたけれども。私自身が「あなたが曖昧で不完全で矛盾を抱えた存在のまま、そこにいていいんだ」というメッセージを受け取ることが少なかったので。自分の子どもが最初に生まれたときに、そういう自分で処理しきれないくらいの曖昧さ、矛盾、不完全さと直面したわけですけど、それらと向き合ったときに、私はやっぱり壊れたんですね。

お答えにはなってないんですけれども、自分の不安障害というものをあえて分析するならば、そういうことだと思います。

人々は不安や恐怖に駆られてお金や富を追い続けている

谷崎:たぶん、SDGsに直結するテーマでもあるんですけれども、今回の直接のテーマじゃないので金融経済についてはあまり長く話しませんが、1点だけ。今世紀中に、お金と言われているシステムは違うものになると言われています。

僕たちが子どものころから使っていたお金に関しての価値観は、今世紀中に大きく変わってしまう。お金という概念がなくなるかもしれない。世界がサービスとシェアというものに変わっていくかもしれない。

なぜならば、いま僕たち地球の75億人全員が満腹するだけの食べ物は、もうすでに生産されているし、捨ててしまっても捨てきれないほどの物質が作られてるわけですよ。本当はお金をたくさん持って、それをいかに享受するかというような昭和の時代に起きているマインドセットというのは、関係なくなっちゃっているんですね。

それにも関わらず、みんながお金や富を追い続けるのは、たぶん、おっしゃっているような恐怖や不安に裏付けられて奪い合っていることが続いている。でも、これは変化することがありますし、そのための仕組みが、実はSDGsのほかの項目の中にもたくさんあります。2回目、3回目と、今後もそういうテーマについて深掘りする会があるんじゃないかと思いますので、ぜひまた来てください(笑)。ということで、ご質問ありがとうございます。

発達障害の子どもにとって、学校は居づらい場所になったのか?

谷崎:じゃあ前の方。

質問者3:大変興味深いお話をありがとうございました。私は3月まで小学校で教員をやっていたんですけれども、発達障害に関してちょっとお伺いしたいです。学校でも、多様性やユニバーサルデザインを考えた授業をしましょう、という掛け声はすごくあるんですけれども。

僕が教員になった10年前と比べて圧倒的に押さえつけるというか、「とにかく学級の秩序をなんとかしなさい」という感じで。逆に発達障害のお子さんがすごく居づらい場所になっちゃってるような感じがして。それはそうなのかということと、文部科学省など、なにか原因があるようでしたら、ちょっとお教え願いたいんですけれども。

宮台:どこの国でも、昔は発達障害の概念はもっと狭いものだったんですね。アスペルガーやADHDとか、特定不可能な広汎性発達障害などというカテゴリーはなかった。ところが、社会が法の奴隷だらけ、言葉の自動機械だらけになると、予想不可能なもの、あるいはローコストで対処できるフォーマットにはまらないものが、神経症的に気になるようになるんですよね。

教員が気にならなくたって、そういうものが神経症的に気になるモンスターペアレンツというクズ親が出てきて、「この子がいるおかげでうちの子が学べないじゃない!」と言い出すわけだよね。あるいは教育委員会にクレームをつけて、人事的な考課査定に影響を与えようとするケースも、本当に頻繁にあります。

教員はもちろん、自分にも家族がいたりするし、自己防衛のためにモンスターペアレンツというラウドマイノリティ(声が大きい少数者)の言うことを聞くようになっていきますよね。それが日本の平成に起きたことです。

荒野化していく社会の中で、志のある者たちがどう仲間を守っていくか

宮台:資本主義どうのこうのよりも、それを運営している人間が……僕の言うクズは、言葉の自動機械で、法の奴隷で、損得以外の動機付けが働かない人間。はっきり言うと、魅力のない人間なんですね。

さっき言った過剰さは、名前や診断が付けられてないとしても、みなさんの中にもそういう方はいらっしゃると思うよ。僕なんかはやっぱり、授業参観とかあるといい格好をしたいから、当てられてなくても、先生がなにか質問すると全部黒板に答えを書いちゃったり。それで、親が「何やってんのー!」とか後ろで怒鳴ってるという構図。

それでも僕は学級委員に選ばれていたし、問題視しているやつはいたかもしれないけど、僕はとくに問題視されたという経験はありません。

それに比べたら、今は標準から外れるものにラベルを貼って、ラベルを貼られたスペシャルなものに対して、まさにスペシャライズド インした対処をしなければいけない。

本当に窮屈だよね。そんなの適当でいいじゃん。神経質に気にするなよ、時間に遅れるやつだっていいじゃん。空気が読めないやつだっていいじゃん。世の中いろんなやつがいるよ、それでいいじゃん。と思いませんか?

本当はそれだけのことなんですが、社会があまりにも広範にクズな方向に動いているので、マクロにはもう抗えないと思う。社会がどんどん荒野化していく中で、志のある者たちが、どうやってちゃんと仲間を守っていくのかと考えていくべきだと思う。

“発達障害のある人”というラベリングがもたらす不幸

小島:ごめんなさい、さっきご質問の途中で……発達障害という言葉が出てきたことによって、却って発達障害の人たちが生きづらくなってないか、ということでしたっけ?

質問者3:そういうわけでもなくて。昔よりも、秩序というようなものをすごく重んじるようになってきてしまっている気がしているんです。発達障害という言葉は10年前からあったんですけれども、世の中のせいなのか、教育委員会のせいなのかわからないですけど、なんだかギスギスしたような、「とにかく教室でおとなしく座ってろ」という圧力が、昔より強くなったような気がしたんですね。

小島:そうなんですね。ふんふん。

質問者3:私の気のせいかもしれないですし、「そうでもない、気のせいだよ」というのか、「そうなってたらまずいよね」ということでもいいんですけど。

小島:きっと、昔から問題児はいたんだと思うんですけど。私も問題児だったんですけれども(笑)。もしかしたらお答えになってないかもしれないんですけど。

私がADHDであるということを、別にカミングアウトというほど大げさなことじゃなくて「そうなんですよ~」と『日経DUAL』に書いたら、NHKが取材に来たり。そのあと自分でも、もう1回Yahoo! で書いたりもしたんですけれど、なんだかずいぶん反応があるなぁと思って。

そのときに印象的だったのが、話していても「ああ、こういうところが発達障害なんですね~」って言われること。このあいだ、母のところへ行ったんです。たまたま母の日に帰ったのがまたよくなかったんですけど、父が亡くなったので、いろんな事務処理などがあって。

そうしたら、82歳の母が手に発達障害の本を持ってて、なんだか勉強してるらしいのよ。それで、私としゃべるたびに「あ、これね。この過剰さってこれでしょ?」って。

(会場笑)

またしばらく経ったら、「あ、待って待って。ほらほら書いてある。反抗。やっぱりそれね」とか言うの。めっちゃ腹が立って。母にとったら、私は小島慶子という人間じゃなくて、自分の娘でもなくて、発達障害って妖怪になっちゃってるわけですよ。

名前が付いて、それを自分で公表すると、私を発達障害という妖怪だと認識してしまって。この間までは、小島慶子が好きか嫌いかに関わらず、こんな人間かなと思っていたのに、急にそのラベルが妖怪枠に入るわけです(笑)。そうすると、私の一挙手一投足すべてが、「やっぱりね。ADHDだからか」みたいになるんです。それは不幸だなと思っていて。

ラベリングをやめて、適切な場所を用意することが必要

小島:学校の現場でも、私の友人は不登校支援などをしているので、発達障害のお子さんをケアすることが多くて、その彼女も言ってたんですけれど、名前が付くことによって支援に結びつくことは確かです。だから、名前がないよりはあったほうがいいです。ただ、名前が付いたことによってラベリングされて、腫れ物に触るように排斥されていく、排除されていくことも確かで。

特別支援学級に行った子たちが何をしているかと言ったら、ただ放っておかれているだけ。ぜんぜん適切なケアも受けられていない。名前が付くのも良し悪しだね、というのは本当によくわかるんです。

名前が付くことがどういうことかを、都度丁寧に出していくことが必要です。私の知人でも、学校現場には適応できないけど、非常にユニークな才能を持った人たちを社会の中で、企業と一緒になって伸ばしていこうという取り組みをやろうとしている人もいるんですけど。

すべてを学校の中で包摂しなくても、その人たちが、学校以外のサードプレイスで伸びていけるようにすればいいと思うんですね。だから、ラベリングをやめることと、適切な場所を用意すること。学校が変わることにあまり期待しても、ここまで形ができあがっちゃってるとすぐには難しいんじゃないかなと私は思っています。

「知恵遅れ」と言われていた少年の人生を変えた、一人の先生との出会い

谷崎:もう時間なんですけれども、僕もちょっと言いたいことが出てきて。僕は前に別れた彼女に、別れるときに「あなたは自分のことをちゃんと知って」と言われて、発達障害の本を渡されたんですよ。

(会場笑)

「あなたは自分のことがわかってない」と言われて渡されたので、そういう自覚なんですけれども。親にされるのと……まあ、彼女に言われるのもショックだったんですけど(笑)。

僕が子どものころは発達障害という言葉はなかったんですけれども、実は中学1年生のときから、僕は知恵遅れと言われていました。僕は晴れた日になると、中学校の教室を抜けて屋上に行ってしまう子どもだったので、知恵遅れと言われていたんです。

中学1年から2年になる途中に、うちの親と先生が面談をして、「特殊学級・特別学級に行きますか? それとも今の普通学級で育てますか?」と言われたんですね。ところが、そのあとの中学2年の担任が、僕と話をしてみたいと言ってくれて。実は、その中学2年の担任がいたから今の僕がいると思ってるんです。

発達障害という言葉がなかったときに、「何が本当はしたいんだ?」ということを僕に聞いてくれた。「授業は何を言ってるかわからない」と。ただ、僕は物語を作るのが好きなので、独りで物語を書いていた。先生が「それを好きなだけやっていいよ」と許可を与えてくれて、僕は最初の小説を中学2年のときに書くんですね。

それが自分の中での自信になって、「僕はものを書いて仕事をしていく人になる」となった。たぶん、それが特殊学級というか、ADHDという言葉がなかった時代だからそうなったんですけれども。でも1つは、1人の先生との出会いで人生が変わるということも言えるので、ぜひがんばってください。それだけちょっと言いたかったので。

まだ質問はたくさんあるようなんですけれども、時間になってしまったので。今日は長時間にわたり、どうもありがとうございました。宮台さんと小島さんに大きな拍手をお願いします。

(会場拍手)

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