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藤原和博氏、トライセクター・リーダーを語る(全6記事)

「提案だけでは何も起こらない」 リクルートを退社し、中学校の校長となった藤原和博氏

金野索一氏による日経ビジネス・カンパネラ連載『トライセクター・リーダーの時代』との連動企画として、リクルートで数々の新規事業を手がけた後に、杉並区立和田中学校の校長に就任したキャリアを持つ藤原和博氏をゲストに招いたトークイベント「藤原和博氏、トライセクター・リーダーを語る」が開催されました。このパートではキャリアチェンジの転機となったエピソードについて語ります。

自分のテーマを持って仕事をしたいと考えた

金野索一氏(以下、金野)先ほどの3つの三角形クレジットを積み重ねて、100万人のうちの1人になるという。実はこの本(『藤原先生、これからの働き方について教えてください。』)を出されていることを知らないで依頼をしたんです。この本を12月に出されていて、もうそのものズバリだよという話だったので、本当にありがたい話なんですけれども。

それでは対談に移りたいと思います。ずっとリクルートで、まさにバリバリのビジネス戦士というか、企業社会でやられていたところ、先ほどチラッと話されましたけども、お子さんの学校ボランティアを始められたことがきっかけで和田中の校長に就かれたということでした。

きっかけはそこだと思うんですが、とにかくリクルートから和田中というキャリアチェンジというか、まさに1つ目のセクターを越えていった、そこのところの思いをぜひ詳しくお伺いできればと思います。

藤原和博氏(以下、藤原):僕はもともとリクルートに入った時に、ずっとリクルートでやるとは思いませんで、最初の役員面接の時に「僕は20代で辞めて、コンサルタントをやるんで」と言って、当時まだ20人~30人しかいなかったボストン・コンサルティング・グループというコンサルティング・ファームに入ろうとしてたんです。

マッキンゼーはまだ大前さんは活躍してたけど、新卒は採用していなかった時期で、今でこそコンサルというのはものすごいエリート集団になってるけど、当時はまだ本当にわけのわかんない馬の骨だった。それでも、そういう気でいたわけです。それが間違ってリクルートに入りました。

その後、30代で辞めるタイミングをずっと失っちゃったんです。まず最初に辞めようとした時、リクルート事件が起こり、守るべきものみたいなのができてしまった。僕もさんざん若いのを騙してリクルートに入れてるんで、これは責任取らなきゃまずいだろう、自分が先に辞めちゃったらまずいだろう、と。彼らの居場所を守らねば、と思いました。

要するに「リクルート事件が起こったから辞めた」みたいなのはカッコ悪いじゃないですか。だからこれは守り切ってやろうと思って、そういう防戦ゲームが始まっちゃったんで、おもしろくなり、残りました。

その後、92年から93年に「ダイエーショック」と言ってたんですが、ダイエーグループに吸収されるということがありまして。「リクルート事件も一応収まったし、そろそろいいかな」と思ってたらダイエーに食われちゃって、もう中内さんに荒らされたらたまんないというんで、また守るべきものが出てきました。またまた自衛ゲームの世界です。

ただずっと思ってたのは、メディアファクトリーという会社を創業してからなんですが、40代では、江副さんに雇われてるという状態じゃなくしたいと。つまり、自分のテーマを持って仕事をしたいと考えたわけです。

思い切ってはっきり言っちゃいますけど、『リクルートという奇跡』という本に書いてるんでいいと思うんですが、リクルート事件からダイエーショックを通じて、役員の人とか社長を含めて、たいしたことないと思っちゃったの。なんか、ぜんぜんたいしたことないな、と。

もしリクルートで社長になっても、所詮オーナーじゃないし、たいしたことないなと思っちゃったんです。まったくカッコよくないんだな、雇われ社長では。だとすると、もっとカッコいい姿というのは、テーマを追っていく姿じゃないのかと。

37歳でヨーロッパへ移住

恥ずかしい話なんですが、30代の前半まで読書も足りない人でしたし、自分自身の人生のテーマを見つけられなかった。社会的にどう貢献するのかというテーマを見つけられなかったんです。

それを探しに行ったのが、ヨーロッパ移住。ある意味、逃避行というか、37歳で子連れでヨーロッパへ行ったというのがそれなんです。

37歳から2年半ヨーロッパに住み、「成熟社会とは何か」ということが、イギリスとフランスでよく理解できた。途中、駐在員と一切付き合わずに、現地の人だけと付き合うことができたのはラッキーだった。

それができたのは、うちのかみさんが臨月でロンドンへ入り、行ってすぐに次男が自宅で生まれましたし、そのあとは予定外だったんですけれども、パリに行ってもまたお腹が大きくなりまして、長女が誕生したというおかげです。

例えば肉屋へ行っても、旅行者嫌いで目を合わせないみたいなパリジャンも、お腹の大きい人がいるとすごく気を遣ってくれるんですよ。それが非常に有利だった。要するに、現地での生活を本気でやったために、普通の人だったら10年かかることを2年ぐらいで学べたと思う。

日本がこれから成熟社会になるのに、何がいちばん大事なのか。今の日本の社会システムでは絶対ダメというのは何なのかというのが、はっきりした。4つのテーマをさっき言いましたけども、教育と、介護を中心とした医療、それから住宅の問題。それと、会社や組織の壁を越えた個人と個人のネットワークという話につながるわけです。

その4つのテーマのうちどれが自分に合っているかというのを、40代から僕がフェローという働き方で6年間、調べるわけです。フェローという働き方は、年収がゼロから4500万円ぐらいの間でブレるという、非常に危険な働き方をやりました。

でも、企業の中にいて市場調査をやるとか、経営企画部や調査部にいて会社の金で調査をするということじゃなくて、人生をかけて自分自身でやってたので、そういう意味では非常に身になった。

実は一時期、介護の分野で『とらばーゆ』みたいな情報誌を出してやろうかという企画が立ち上がって、編集長をやった松永真理さんと組んで準備室を作ってたこともあるんです。ところが準備室を作ってしばらくしたら、松永真理がドコモのiモードに抜かれちゃったんで、その情報誌事業はやめようと、そういうことになりました。

評論家として、教育問題を評論しても何も変わらない

僕が日本に帰ってきた時に、長男が6歳で、その下が2歳、0歳だったんです。多分、これから10年間ぐらいは義務教育のお世話になるなということで。自分の息子たちを見ているのが一番マーケティングになるしね。

リクルートの多くの情報誌の編集長をやった倉田学さんが「自分マーケティング」と呼んでいたんですが、それが生身でやれるんじゃないかということで、教育の分野に入るんです。

教育の分野に入ってみてわかったのは、僕はフェローになりテレビにもけっこう引っ張りだされていたんだけど、評論家として、教育問題を評論してても何も変わらない。さらに、文科省の委員になったところで、審議会の委員になったところで何も変えられない。それじゃダメだと。

やっぱり、実際現場へ入って、自分でやって見せなきゃダメだと。やって見せて、ガンガンマスコミを入れて公開して、「ほら、できるじゃない」というのを見せないとダメということに気づいたことが大きかった。おそらくリクルートが現場主義の会社で、評論ばかりしてるやつは相手にされなかったしね。売れてなんぼの会社でしたので。

僕が校長をやってる最中に杉並区でいちばん小さい169名の学校が、450名の杉並区で最大の学校になり、最後は公立なのに、抽選になりました。それから学力も中学校23校中21位ぐらいだったのが、僕の時に英語がトップに立って、その後に10歳若いやはりリクルート出身の民間校長に任せたんですけど、それで8年で英数国ともトップに立ちました。

「校長が変われば、できるじゃない!」とやって見せる。たいていの先生方は、「教育というのは長期的なものなので、そんなにすぐに結果は出ません」と言い訳するじゃないですか。学力については、絶対そんなことないんですよ。やれば上がる。それをやって見せて、全国にいくつかのノウハウを波及させたわけです。

和田中が始めた「学校支援地域本部」というのは、3万校の義務教育学校のうちもう1万校以上に広がっています。「よのなか科」という授業スタイルも認められ、文科省がアクティブ・ラーニングの見本として、これからは生徒が主体的に学び、自ら思考する学習方法じゃなきゃダメだという国の方針になっています。

こういう仕掛けをするためには、ただ校長であればいいわけではなくて、文科省のどこにキーパーソンがいて、誰が本当に仕事できるのかということを見極めながら、だいたい150人ぐらいの仲間と一緒にチームで仕事してるような感覚があるんです。予算をつける財務省も含めて。

もちろん、向こうからすれば僕のことは1人のコマだと思ってるかもしれません。逆に、僕からすれば「チーム藤原」の1人という感じ。政治の分野では、例えば和田中の学校地域支援本部を全国に広めるにつけては、文部科学大臣が和田中に3人続けて視察に来ましたよ。

中山さん、河村さんと来て、伊吹さんが文部科学大臣の時に50億円の予算がついて「これを全国へ広めてくれ」という話になるんですけれど、そういう政治力も社会起業家には欠かせませんね。社会起業をやるためには、トライセクターどころか、利用できるやつは全部利用する根性が大事です。

つまり目の前の子供のわからないことをわかるように、できないことをできるように、よりよい教育をするためには、すべての資源を注ぎこむという覚悟を持たなければできない。照れていたら、みんなも付いてきませんからね。

万年塀をアートする企画を実施

金野:なるほど。そういう意味では、きっかけはイギリスとフランスに留学されたということです。じゃあ教育をやろうと思った時に、そもそも当時は民間人に校長をという世の中ではないし、その発想がなかったと思うんです。当時の杉並区長は山田宏さんですかね?

そういう関係もあったのかもしれないですが、そもそもどういう経緯で和田中の校長になられたのでしょうか。

藤原:民間校長という制度については、もう2000年からあったんですよ。いちばん最初は、広島でマツダの業績が悪くなっちゃった時にリストラがあり、1つの受け先として小学校の校長というのがおもしろいんじゃないの、みたいなことから始まるんです。

石原さんが知事になった時に、東京都の都立高の校長がなんで教員出身の必要があるのか、全員民間にしちゃえみたいな、乱暴な議論があったらしいんですよ。

それがなぜか教育委員の人を1人鳥海さんという丸紅出身の方にして、東京商工会議所を通じて4人紹介してくれみたいな感じで、高校に民間校長が出始めて、三菱商事とか日立とか、そういう会社です。そういう下地はあったんです。

もう1つ、山田宏というのは非常にやる気があり、実は僕はあんまり今は付き合いがないんですけど、当時彼は(議員)浪人してまして、石原伸晃さんとぶつかっちゃったために国会議員は受からない、どこへ行くかということになって。

これからは地方の創生でしょうか、みたいなことで、杉並区の区長という話があったので、僕はその前から聞いてましたので(区長に)なったら僕は応援しますよ、という話をしていたんです。

実際彼がなったあとに「21世紀ビジョン審議会」というのに、僕が公募で……区長が僕を指名するといやらしいので、公募で論文を出してそれで通りました。

基礎委員にまでなり、ある意味潜り込んで、それで「教育立区」というのを書き、そこから教育委員会と親しくなりました。僕は自分の息子が通っている小学校の手伝いから初めたんですけど、変わった夏休みのイベントをやったんです。

小学校の万年塀ってあるじゃないですか、本当に無表情な、4分割ぐらいされてる塀。それが無表情なのがよくないんじゃないのというので、40メートルぐらいにわたりアートにするという。

リクルート出身で、フランスへ留学してフランスでそのままアーティストをやってる女の子を知っていて、パリの時に仲がよかったので、それを呼び寄せて、アートイベントをやるというところからどんどん入り込んでいきました。

「提案だけじゃダメだ」と気付き校長に

どうもこの人は「ああいうのやったらいいんじゃないの」「こういうのやったらいいんじゃないの」と提案だけして逃げる人でもないし、それからこれは語弊があるかもしれないけれども、尾木直樹みたいに何でも「先生が悪い」「学校が悪い」と言うような評論家とは違うし、ということで、この人は使えるなみたいなことが教育委員会に広がっていき。

ボスが山田宏だったということもあり、それじゃあ杉並区なら条件がそろうということで。教育長もその当時頭の柔らかい人だったので。こういう改革をやるのに、市区町村長、それから教育長が両方頭柔らかくないとできないんですよ。それで杉並区からやりましょうかと。

僕が杉並区でアクションプランというのを作るんです、もっと教育をよくするためには、義務教育をよくするためにはどうしたらいいか、それで20から30施策を杉並区が作るんですが、それの施策の発表会の時に校長会というのがあって、校長が70人ぐらい集まるわけですけど。

そのアクションプランを教育委員会が発表している場で、僕は後ろにいたんです。それで、後ろの方の校長がつぶやいたことがあったんです。何かというと、「これは教育委員会が勝手に決めたもので、風がすぎればこんなのはやらなくていいんだみたいな」ことを言ったやつがいるんです。誰とは言わないんですが。

そういう人ばっかりじゃないと思うんだけど、こういうのが校長やってる状態だと、どんなにいい案を作ってもまず「起こらない」なと。要するにインプルメンテーションですよね。現実化しないなと思ったんです。提案だけじゃダメだと。

それですかさずその日の夜に「俺にやらせろ」と言ったら、教育委員会がびっくりしちゃった。「だって藤原さん、給料こんなもんですよ」と。実際に俺は年収的には3分の1ぐらいになりましたけど。割にあわないですよと。

でもやらなかったら、誰もこんなアイデア出しても全部やんないよと。そしたら教育改革なんて、教育委員会が言ったって起こらないよと。そういうことで、杉並区教委の中でまず協議が行われて。

今日も実は、当時僕を民間校長にした人に会ってきたんだけど、比留間さんという人で、去年の今頃まで都教委の教育長をやった人、この人が杉並区に縁のある人だったので呼んで、作戦会議をやるんですが、都教委には当時義務教育に民間人を入れる発想はまったくなかったんです。

それを2年かけて、比留間さんと、杉並区の教育長をやってる井出さんという2人が杉並に縁があったもんだから、しかも片方が非常に指導的な課長で、片方が人事の副部長という要職にあったもんだから、そういう根回しができて、「5年間の期限付きで雇いましょう」と。こういう話かな。

金野:なるほど。やはりいろんな経緯があるんです。

藤原:経緯もあり、偶然もある。例えば校長になる2年前まで、僕は校長をやるなんてコの字も考えてなかったですから。

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