2024.10.10
将来は卵1パックの価格が2倍に? 多くの日本人が知らない世界の新潮流、「動物福祉」とは
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宮城治男氏(以下、宮城):本セッションのテーマは、「社会をデザインし、世界に貢献する仕事とは」。まずは4名のパネリストの皆さまから、それに向けて走り出したのはいつだったのかを伺いたい。
「これをやりたい」という問題意識と、ご自身の仕事がシンクロしてその方向に走り出したのはどんなときだったのだろう。「なぜそのときがやってきたのか」を含めて、自己紹介も兼ねてお話を聞きたいと思う。
それを受けて、次は会場の皆さんに手を挙げていただいてインタラクティブな時間にしよう。ただ、その際に1つ心得を持って欲しい。単純な質問でなく、やりたいことをお話しいただいたうえで、「そういう自分になって夢を実現するためにどうしたらいいか」と、自分に引き付けた形で質問して欲しい。なので、やろうとしていることを簡単にお話しいただいても構わない。
夢自体は漠然としていて構わない。それで今は具体的に何かを見つけようと頑張っているというのが正直な気持ちなら、そのまま言って欲しい。
そんなことを踏まえつつパネリストの皆さまにお話を伺おう。では、大変お忙しい状況で駆けつけてくださった細野さんから。
(会場笑)
本来、今日はここに来ることができなかった筈だ。ご自分のことだけ考えていればいいお立場ではないので。
細野豪志氏(以下、細野):高く売らなくて大丈夫です(笑)。ついつい「衆議院議員の」と言ってしまうけれど、解散すると違う。その意味では無職だけれど、
(会場笑)
細野:アドバイザリーボードの1人だし、「渡世の義理だけは果たさなきゃいかん」と。ただ、今日はこれからどうしても新潟に行かなければいけないので、45分後ぐらいに失礼させていただくことになる。ご容赦いただきたい。まず、1つ聞きたい。皆さんのなかで政治家になりたいと思っている人はいるのかな?
(会場複数挙手)
細野:…あ、結構いるね。話し甲斐があるな。その他の方を無視するわけじゃないけど。
(会場笑)
細野:では簡単な自己紹介から。私が政治家になりたいと思ったのは学生のときだ。親戚に政治家がいたとか、誰かに薦められたとか、そういうことはなかった。
当時の私は思うところがあって大学に行ったものの、正直、座学にまったく馴染めない日々を過ごしていた。
勉強して偉くなるとか、「こういう仕事をしたい」というイメージが湧かなかった。ただ、当時付き合っていた女性が、障害を持つ方々のお手伝いをしていた。
で、正直、当時の自分はそれにまったく関心がなかったんだけれど、彼女が風邪を引いてお手伝いにいけない日があり、「代わりにあんたが行って」と言われたことがある。それで、「断ってフラレたらまずい」と思って行ってみた。
それで実際に行ってみて、細かくは言わないけれどもいろいろな面で目覚めたというか、「こういう人々にもっとチャンスを掴んでもらうような社会をつくりたい」と思った。
ショックを受けたことがある。ある障害を持つ方と1人の女性が一緒にいたんだけれど、女性のほうは健常者の方だった。
それを見た僕は、「この人はきっとボランティアで介助か何かしている人だ」と思ったんだけど、夫婦だったんだよね。そのとき、「俺は障害を持つ人に大きな偏見を持っている」と気が付いた。それから彼と関わるようになって、そのなかで政治に感心を持ち始めたというのが最初だ。
当時はいろいろなことが重なった時代だった。その数年後、まだ学生だったときに阪神淡路大震災があり、当時関西に住んでいた私は2ヶ月間、現地でボランティアに行った。皆が生まれた頃かもしれない。その経験を通して政治家になりたいという思いが大変強くなっていった。
タイミングが良かったなと思うのは、あの前後にちょうど細川政権が誕生して、いわゆる「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」がない人でも政治家になれる実例が出てきたことだ。
そのタイミングがばっちり合ったので、「俺もやってみよう」と思ったのが学生時代になる。そして15年前、28歳で初出馬した。それで運に恵まれ当選させていただき、以来、5回選挙に勝って今に至る。
政治の世界には多くの浮き沈みがある。私個人も党も、いろいろ浮いたり沈んだりしている。そこで政治家になりたいという人に1つだけ言っておきたい。
やりたいことが明確にある人が、続く。ブームもあったのでいろいろな人が地方や国政で選挙に出ていたけれど、途中で辞めてしまった人も多い。もちろん、それも人生だ。
でも、せっかくなら続けたほうが成果は出る。だから、「これとこれがやりたい」と明確になってから政治にチャレンジする人が出てくると、もっともっと若い人が政治の世界に入ってくると思う。あとはご質問をいただければできる限りお答えしたい。
(会場拍手)
宮城:大学を卒業して就職するときはすでに志を決めていた感じだろうか。
細野:決めていた。「そのために何をやろうか」と。「公務員試験を受けようかな? でも勉強してないし」とか。政策秘書の資格を取って秘書になることも考えたけど、「この札束を持ってあそこへ行け」とか言われて末に逮捕されたらいかんとか(笑)。
で、結局は民間のシンクタンクに5年間務め、そのあと政治の世界に挑戦した。やることだけは決めていて、それにどう向かっていくかを必死に模索していた感じだ。
宮城:シンクタンク時代にご縁があってお会いしたのだけれど、なんというか、政治家になられてからのオーラがすごいというか、もう別人のように…。
細野:そんなにしょぼいサラリーマンでした(笑)?
宮城:いやいや(笑)。「シンクタンクにお勤めの、普通の方」という印象がそのときはあって。要するに、まっとうで優秀な方だった。
(会場笑)
宮城:それが今はこれほどの大活躍をなさっている。踏み出してから進化していくこともあるのだと思う。
細野:それはある。たしかに理屈とか、自分のなかの思いというのもあるけれど、やっぱり人との出会いによって変わっていく。選挙でも国会でも出会いが多いし、最近ではやっぱり311があった。被災者の方々と出会うなかで使命感も新たになるし。それが人間を変えるんだと思う。
そこは政治もビジネスも同じじゃないかな。出会いをどれほど大切に出来るか。僕は、「あ、この人とは間違いなくずっと付き合っていこう」という人に何人も出会うことができたし、それが自分を変えたのかもしれない。
為末大氏(以下、為末):自分が「ピンと来た」瞬間という話だと思う。志というか。あ、為末と申します。昔、ハードルを跳んでいた。
(会場笑)
為末:たぶん皆さんと違って、僕の人生には2つキャリアがある。ここ2年は引退後のキャリアで、その前の25年間は陸上をやっていた。ただ、多くのスポーツ選手は、人々が思うほど「オリンピックに出るんだ」と決めて競技をしているわけじゃないと、最近はインタビューをして分かっている。
もちろん本田圭佑さんのように「俺はいつかワールドカップに出るんだ」という人もいる。ただ、目の前のことをやっていって、結果としてオリンピックが見えてきて、それを頑張るという人も多い。僕はどちらかというとその中間ぐらいだったと思う。
で、「自分はこれをやるべきだ」と思った瞬間はあまり覚えていないけれど、僕自身は異常に勝ちたかった。それこそ中学でクラスが決まったら、その瞬間に「クラスで1番速いやつは誰だ」というのが頭のなかにある。
(会場笑)
為末:電車に乗っていても、「車両で1番速いやつは誰だ?」って。そういうことをずっと考えていて、全国で1番になったあと、初めて世界に行ったのが高校3年のときになる。
そこで衝撃を受けた。何が衝撃だったかというと、ジャマイカ人を初めて見た。これは絶対に勝てないと。
(会場笑)
為末:「シャレになんない」と思った。でも、一方では日本人が…、そういう括りでいいのかどうか分からないけど、日本人がどうすれば1番になれるのかと、猛烈に考えもした。僕はどうすれば世界一になれるのか。そこで彼らを、どこにひきずり込めばいいのかなと考えた。
で、それはたまたま世界ジュニアという大会だったんだけど、そのときに初めて見たのが400mハードルだ。そこで、100mではあれほどいきいき走っているのに、苦しそうにハードルを跳ぶ彼らを見た瞬間に、「この世界にひきずり込もう」と考えた。しかも400mハードルは最後の直線に入るとすごく苦しくなる。酸素負債といって体が、なにかこう、固まってきちゃう。
その状態でハードルを跳ぶのは本当にしんどくて、諦めちゃったりする選手もぽつぽついる。だから、この世界に引き摺り込めば能力や瞬発力じゃない要素が戦いのなかに入ってくると思ってハードルを始めた。
ただ、やっぱり100mはオリンピックの花型で格好良かったし、カール・ルイスを見て育った僕らは「100mっていいな」と思っていた。
それでもハードルを選んだ理由は、やっぱり1番になりたいから。「1番ならマイナーでもなんでもいい。とにかく世界一になれそうなものでやろう」と考えて、ハードルを選んだ。それが僕にとっては、「これだ」と思った瞬間になる。
ただ、100mをやっている人たちはきらきらしている。野球選手やサッカー選手もそうだけど、ハードルのほうは寂しい世界で(笑)。テレビでやっていても観てもらえず、しかも陸上競技にはヒエラルキーがあって、人気種目であればあるほど大会の最後に行われるから僕らの決勝は最初に行われていた。
そうなると放送時間にも入らない。それで当時、自分の心にあったのは、あの花道を歩いているきらきらした人間をどうやって引き摺り降ろすか。「あそこは俺が歩くんだ」と。人生ずっとそんな感じだ。なぜかはよく分からないけど、一言で表現すると勝ちたかった。
ただ、人生にはいろいろな制限がある。僕の身長だって制限があるし、たぶん皆にも、「これまでのバックグラウンドがあるから今さらネイティブみたいに英語を喋れない」とか、いろいろな制限がかかってくると思う。
でも、そのなかで自分が最も勝ちやすい方法は何かと考える。「だから1番高いところに行けるものをやろう」というのが、高校3年ぐらいから大学のときにバシッと思ったことだ。
それで最後の最後は3番までいったけど、1番にはなれなかった。だからそこは少し心残りだ。でも、僕の競技人生ってなんだったのかと振り返ってみると、社会的意義は見えてくる。
野茂英雄さんがMLBで三振を獲った瞬間から、「日本人も活躍できる」となって日本人メジャーリーガーがすごく増えた。我々のような職業の役割は、そんな風に何かを打破して人に勇気を与えること。僕は1番になってみたかった。
そうすれば他の競技をやっている人だって、「自分たちもチャレンジできる」って思うんじゃないかと。僕は野茂英雄にはなれなかったけど、僕のなかには勝利に対する強い執着と、もう少し社会的意義があったとすればそんな思いがあったのだと思う。
で、引退後は皆さんと似ている。僕もいまだに探している感じだから。ただ、1つのヒントになったのは、「俺はなんで25年もこんなものに執着していたんだろう」という話になる。選手は現役時代の最期にだいたいそれを考えるけど、「1番が欲しくて欲しくて仕方がなかった」っていう、あの思いはなんだったのか。
今、僕は小学生に「夢の授業」というのをやっている。それでいろいろ聞いてみると、皆、「野球選手になりたい」とか、「ケーキ屋さんになりたい」とか言う。「そうか、それが夢か」と。
でも、ふと僕のなかで疑問が湧いてきた。「いや、それは夢じゃなくて、それを通じて何をしたいんだ?」と。で、そう考えた瞬間、はっと気が付いた。「俺にとって陸上は手段だったんだ」と。陸上を通じて何をしたかったかというと、僕は世の中の意識を変えたかった。あるいは世の中へインパクトを与えたかった。
自分の人生もそれで衝撃を受けた思いがあって、「あ、これがやりたかったんだ」と。だから引退後は、1番になれなかったという心残りとインパクトを与え切れなかったということと…、その2つはセットかもしれないけど、もう1度何かでその2つをやるというのが今の夢になる。
小林りん氏(以下、小林):私からは、教育に興味を持ったきっかけ、そして、学校を今年8月にオープンしたばかりだけれども、なぜ学校づくりに辿り着いたのかということをお話ししたい。また、そこに辿り着くまでのきっかけとして何が1番大事だと思ったのかという、その3つを簡単にお話ししたい。
私は高校1年まで日本の公立学校に行っていた。それで高校に入ってすぐに数学で赤点を取って、先生に「このままでは君は大学に行けない。特に国公立は難しい」と言われた。で、いろいろと葛藤はあったんだけれど、端折って話すと、学校を辞めた。
(会場笑)
小林:ただ、そのあとたまたま経団連に全額奨学金をもらうことができて、それで親も「タダならいいよ」ということで、カナダの全寮制学校に1人で行った。で、そこは学校自体もすごく違っていたけれど、全員が全額奨学金で来ているから友達のバックグラウンドがすごく幅広かった。
で、スペイン語も履修していた私は、たまたま隣の部屋にいる英語が私と同じぐらいにぜんぜんできないメキシコ人の子と仲良くなって、当時は2人で傷を舐め合う日々を過ごしていた(笑)。
すると、その彼女が「メキシコシティの実家に1ヶ月来ていいよ」と誘ってくれたので行ってみた。ただ、「友達を家に1ヶ月も住まわせるなんて、結構な客間があるのかな」とか思いながら行ってみると、10~15畳ぐらいのバラックのようなところに家族全員で住んでいる。
しかも、お兄さんもお姉さんも学校に行っておらず、彼女だけが奨学金で学校に行っていた。私が育ったのは多摩ニュータウンというところにある、「ザ・中流階級」みたいな家だけど、自分が恵まれてるなんて思ったことはなかった。
そのとき、学校に行けて、家があって、そして親がいて当たり前ということが、世界の多くの国々で当たり前じゃないことを強烈に感じた。そこから教育、特に格差の是正ということを考えるようになった。
私は、能力ややる気の違いによって差がつくのは健全な競争社会だと思う。「でも、生まれた場所で機会に不均等が生まれるのはすごくおかしい」と。そんな憤りを覚えたのが、17歳の夏の出来事だ。
ただ、私の場合はそこから紆余曲折があって、それが2つ目の話になる。私はこれまで5回転職をしている。当初の私はそれこそ国家公務員を目指したりして、「公のためにやろう」とか「途上国のために働くぞ」みたいな感じだった。でもOB/OG訪問で「あなたは国家公務員に向かないんじゃない?」って。
(会場笑)
小林:すごく仲の良い公務員の先輩に、「君、キャラ違うと思うよ?」と言われたりしていた(笑)。それで、「あれ? そのために大学入ったんですけど」と思いつつ、いきなり方向修正をする。
それで、20代の最初はモルガン・スタンレーという投資銀行で社会勉強をして、そのあとITのスタートアップで3年働いた。そして29ぐらいになって、「私は何をやりたかったんだけ?」と思って、そこから大学院に行き直すと。
それでアメリカの大学院で教育学部を卒業したあと、国連職員としてフィリピンのユニセフで働いたりした。そのあいだに国際協力銀行でも働いたりと、本当にいろいろやっていたけれど、そういう紆余曲折のなかでこのプロジェクトに辿り着いたのが33歳のときになる。
そのきっかけをくれたのが、今、別会場でモデレータをしている岩瀬大輔(ライフネット生命保険株式会社 代表取締役社長兼COO)君。大学の同級生で、彼も私とほぼ同じようなタイミングで転職をしていた。
それで、私が「あーでもないこーでもない」と悩んでいたとき、「このプロジェクトを一緒にやろう」と言ってくれた谷家衛(あすかアセットマネジメント株式会社代表取締役会長)さんという方を彼が紹介してくれた。
そんな風に、7年かけてこのプロジェクトに行き着くまで、そしてようやく今年開校するまで、本当にたくさんの苦労があった。家族に迷惑をかけたりもした。それでもここまで来ることができたのは、私にとってこの仕事が生まれて初めて、「私はこのために生まれてきたんだろうな」って思えるプロジェクトだったからだと思う。
そして、そこまで辿り着いたのは、岩瀬君のように自分と同様の価値観や匂いがする人とは、まったく違うフィールドにいても常につながっていたからだと思う。相談もしていたし、自分の考えや悩みを常に打ち明けていた。いろいろな人に自分の考えを発信し続けていたことが、最終的にこのプロジェクトをもたらしてくれたのかなと思う。
(会場拍手)
國領二郎氏(以下、國領):私が言いたいのは、問題意識を持ってアンテナを張っているといろいろとチャンスを掴むことができるということ。掴むやつと逃すやつがいるんだよね。そのときに「チャンスが来た」と思って掴めるかどうかが、たぶん大きいのだと思う。そのためには問題意識を持って掴む準備をしていないとダメだと。
で、問題意識自体は皆それぞれ違っていていいけれど、僕の場合、今考えてみるとその原点のようなものは小学校の終わりから中学校ぐらいのときにあった。僕は当時イギリスにいて、今はもう廃校になった小さなボーディングスクールに通っていた。
その学校にはどんな人が多かったかというと、同部屋で仲良くしていたのは、たとえばイラン人。イランでは今もいろいろなことがあるけれど、その頃から革命やクーデターが起きていた。それで、国から追い出されたような人たちが流れてくるところだった面もある。
ほかにもパキスタン人がいたり、あちこちの植民地から来ている人がいたり。だから当時の素朴な印象は、「やっぱり世界は厳しいよね」と。日本に住んでいると分からない。僕も小学生のときは日本にいたからまったく感じなかった。それで、「じゃあ、そういう世界のなかでどうすればいいの?」という問題意識を持ち始めていた。
で、そのあと日本に帰ってきた僕は、大学時代にAIESECという、今でもやっている団体で一生懸命活動していた。今はそういう感じがしないけれど、当時は東西対立があった時代だ。ソ連という国があり、資本主義対社会主義ということで米ソが激しく対立していた。
それで、たとえば今は東ヨーロッパにも簡単に行けるけど、その頃はなかなか行けないという状況下、「政府間だとダメだから、むしろ民間、しかも経済レベルでインターンシップの学生を交換しよう」と。そんなことをAIESECは元々はヨーロッパでやっていた。そこで一生懸命活動していた経験が相当大きかった気がする。
そのときに僕自身もアメリカで少し間インターンシップを経験したのだけれど、そこで巡り会ったのがITになる。インターネットが登場するずっと前だけれど、そのとき、「あ、コンピュータと通信で世の中が変わるな」と感じた。それが2つ目の問題意識みたいなところがあるかな。
そんな風に、巡り会うものを掴みながらやっていて、そして大学卒業後はNTTに務めることとなった。で、そこから海外に留学させてくれるというので留学して、それなりに一生懸命勉強していたら「博士課程まで残れ」」と言われたから残る、みたいなことをしていた。
そういった巡り会いを計画していたのかというと、そうでもない。そのときどきに、「これは面白いな」と。まあ、半分は意思で半分は運命みたいなところがある。ただ、自分がそちらを志向していなければ絶対にチャンスとは巡り会わなかったと思う。
また、巡り会ったときにそのハードルを超えるぐらいの力をとりあえずは持っていたから、超えることができたのかなと思う。今の自分がすごい人間とも思えないからあまり人に偉そうなことを言う気もないけれど、振り返ってみるとそういう流れだったと思う。
そして今は何を懸命にやっているかというと、大学で国際留学の担当をしている。大学に入ってからいろいろなところに留学できるような仕組みを慶應のなかでつくる担当になっていて、今は百数十の大学との交換留学スキームをつくって動かしている。
そこで皆さんへのメッセージがある。今回のイベントもそうだけど、よく調べてみると先ほどの奨学金や今の交換留学等々、世の中には本当においしい話がたくさんある。
僕も今はそれを皆さんに用意することを仕事として行っている。逆にお金をもらいながら勉強できるような機会もあって、とにかく漫然と過ごしていると見過ごしてしまうような、すごくおいしい話が世の中には転がっている。
それを掴むか掴まないかは自分の問題意識次第だ。だから、アンテナを張って、「なんか風が来たな」と思ったらぱっと掴めるようにしておいていただきたいと思っている。
(会場拍手)
宮城:國領先生は、いわゆる「先生」でいらっしゃるイメージがあまりなく、イノベーターという感じがする。大学教授でありながら行動や変化を起こすということは、ご自身としてはどのような認識なのだろう。
國領:先生も真面目にやっているけど(笑)。ただ、次々変化する世の中で一箇所に留まっていてはダメだと思う。今はSFCという、誇りを持ってへんてこりんでいる学校にいるけれど、他の大学に行けないことはなかった。
でも、大学は単に既存のものを次に引き継ぐのでなく新しいものをつくる存在であるべきという思いがある。そんな問題意識を持っていたときにチャンスが巡ってきたから掴んだという感じかな。
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