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アジアで15年、1万人以上の命を救った小児外科医の魂の記録(全3記事)

「死ぬのがわかっている子どもを、なぜ治療するのか?」 問い続けた医師の、”心を救う”という答え(中編)

15年間で1万人以上の子どもたちを治療し続けた日本人医師、吉岡秀人氏。日々目の前で死んでいく子どもたちを救う意味とは? 自分はいったいなんのために働いているのか? 人生の意味、命の意味を問い続けたある小児外科医がたどり着いた答えに、会場中がスタンディングオベーションを送ったという名スピーチ。

5年しか生きられない子供を救う理由

それから、何年も何年も医者をやってきまして。ですけど、今みたいに助けられる子どもと助けられない子どもといるんですね。そのうち、たくさんの人に手術してきましたけど、助けられない子どもたちにどういうふうに僕は向かい合っていったらいいのかというのが、すごく大きなテーマになったんです、いつの日か。

僕もみなさんもそうですね、いつか死なないといけない。例えば5歳で死ぬ子がいても、僕らが70、80で死んだとしても、いったら時間が長いか短いかだけの話なんですけど、絶対決まっていることはみんな死なないといけない。みんな死なないといけないんだけど、じゃあ、どういうふうな死に方がいいのか。

僕はいつもいつもたくさん死を見送ってきましたから、自分の生きている「生」を「死」ということから逆算していつも考えるんですね。この死というものに対する哲学がなければ、生というものに対する哲学は本質的には生まれないと僕は思っています。だから、この死というものをどのように僕の中で位置づけるかというのが非常に大切だったんです。

みんな死なないといけない、人間は。その時に、どうやったら幸せに死んでいけるんだろうと考えた時に、僕は先ほどのテレビの中で言ったように、生きていてよかったなと、生まれてきてよかったなって、そう思ってもらえる医療を生み出すしかないと思ったんですね。

5歳で閉じないといけない命でも、本人はわからないかもしれないけど、それを見送る人たちが、その周りの親たちが「この子が生まれてきてくれてよかった」と。「幸せな最期を迎えてくれてよかった」と思ってもらえるような医療を生み出さないと、あらゆる人たちがただ病気を治すだけで幸せにはなれないんだというふうに思ったんです。

ましてや、すべての人たちの病気が僕には治せるわけではないから、尚更ですね。それで、僕の目指す医療はこうなんだというふうに決めたことがあって、それは医者と患者って一期一会でしょ。だから、とにかくどんな患者が来てもどんな病気の人が来ても、全力を尽くしてまず迎える。そしてその後に、この人たちに満足して死んでいってもらう。満足して生をまっとうしてもらうような医療を実現しなければならない。

たとえ死んでも心が救われる医療とは?

それは一言で言うと「たとえ死んでも心が救われる医療」というのを、僕なりに作り出さなければならないというふうに思ったんですね。例えば具体的に、僕は「心救われる医療というのはこういうものだ」というのをみなさんに示すことは難しいんですけど、でも何人かの子どもたちのストーリーをみなさんに今からお話しますね。これは、生後28日の赤ちゃんなんですよ。

この赤ちゃんが、生まれてからすぐに口の中に塊ができてきて、だんだんミルクが飲めなくなるんですね、口から飛び出してきたから。それで親が「ミルク飲めません」と言ってやって来たんです。僕は子どもの専門家なので、これを見た瞬間にどういう病気なのか朧気ながら察しがつくんですね。

生まれつきこの子の口の中には癌があって、そしてそれが大きくなってきたと。今の国際医療とか海外協力のコンセプトは「より効率的に」です。だから、少ないお金でよりたくさんの人たちが助けられる、そういうものを目指すわけです。ですから、当然こんなもの、言ったら近い将来に死ぬことがわかっている子どもにお金を投入するなんていうのは、普通は基本的にはないんです。

ですけど僕は医者だし、先ほど言ったように一期一会が医者と患者の間にはあるので。でもこの子の為に、あるいはこれからこの子は多分近い将来に死ぬと思うんですけど、残されていく、10ヵ月以上も子どもがお腹の中にいて生んできた、その家族の為に、母親の為に何ができるだろうと考えたんですね。

この赤ちゃんは生まれて28日ですけど、ミルク飲めてないんで、お腹空かせてチュッチュチュッチュやってるんですよ、口を。母親はおっぱいがどんどんたまってきますから、おっぱいが張って痛くなってくるんですね。でももう、こういう国では癌はほとんど全滅しますから、ほとんど死にますから。もう何もせずに家に帰すかどうかだったんです。

だけど、僕はあることを決心するんですね。それは何かというと、人間というのはですね、恐らくいい記憶しか自分の中に選択的に残さない癖があるんですね。本当に辛い記憶というのは自分の中から消し去るんですよ。だから例えば、トラウマの記憶というのは、本当に自分が例えば親にすごい虐待を受けたと。すごい虐待を受けた記憶というのは、その人の中では消し去られるんですね。脳の深いところに沈むんです。脳幹の深いところに沈んでいってわからなくなるんです。まったく思い出せなくなる。

だけど何か、例えばお父さんに非常に虐待を受けた人だったら、男の人と2人でいたら非常に心臓がドキドキするとか、息苦しくなるとか、めまいがするとか、汗がどんどん出てくるとか、そういうふうな症状になって表れるんですけど、本人には原因がよくわからないんですよね。

それと同じように、もしこの子が家族にとって、本当にこの子の死というものが辛い記憶だった場合はですね、家族からこの子は、悪くなった時点から死ぬまでの記憶がなくなっちゃうんです。せっかく頑張って3ヵ月長く生きた、6ヵ月長く生きたといったってなくなるんですね。思い出してもらえないんです、辛いから。

ですけど、その中にたとえ一時でもいいから、例えば1日でも2日でもいいから、本当にいい記憶が、楽しい記憶が張り付いていると、この子が亡くなった後も、親というのはそこだけ取り出して思い出すことができるんです。それはすなわち、この子がその時間をちゃんと生きていましたよと、兄弟とか親に思い出してもらえるということですね。それはこの子がこの世に生きた証になりますよね。

だから僕は、この家族に、この母親に、この子の生きた記憶を張り付けておきたかった。それで何をしたかというとですね、どうせ再発するとわかっていたんですけど手術をしたんです。この口の中にできた腫瘍をかじり取ったんです、麻酔して。そうすると、翌々日くらいの写真ですけど、子どもは再びミルクを飲み始めました。

お母さんはおっぱいを子どもに与えることができるようになっています。だけどどうせ近い将来同じようになって、多分亡くなると思う。だけど、母親はきっとこう思ってくれるだろうと。「この子は悪くなった。でも日本の医者が来ていて、その医者が手術をしてくれた。そして1回だけよくなっておっぱいを思いっきり吸ってくれて、そしてお腹がいっぱいになってスヤスヤと眠ってくれた」と。

その時の赤ちゃんの表情とか、だっこしている時の感覚とか、それが母親の中に残っていくんですよ。そしたら、5年後だって10年後だって、この母親は満足して子どもがおっぱいをいっぱい飲んでスヤスヤと眠ってくれる表情とか、手の感覚を思い出してくれる。だから、子どもには気の毒だったんですけど、僕は手術をしたんですよね。

死ぬのがわかっている癌の子どもを治療したのは、一枚の家族写真を撮るため

ちょっと、これ言っておきます。さっき火傷の子どもいましたですね。この火傷の子ども、現地では医者に見せると足、全部切断されるんです。もうこういうふうな重傷な火傷の時は、バンって足を切られて義足をはめられるんですよ。だから、みんなそれがわかっているのでやって来るんですね、何日もかけて。僕もこれあまりにひどいから、これ足の裏が見えて、脛とひっついているんですけど。次、お願いします。これが、四角い線を引いているのが膝の裏ですよね。

だからもう、足の裏がベタッとくっついていてかなりひどいので、「ちょっと無理かな」と思って、足を切る気はないですけど義足をどういうふうに付けるかを考えていたんですけど。僕の同級生がたまたま整形外科医を日本でやっていて連絡したらですね、「子どもだと引っぱったら1年に2センチずつくらい伸びるぞ」って言われたんですよ。

ギプスでずっと引っ張り続けるんですよ。まあ、手術をやってみてどうなるかということで、6ヵ月くらいかかったんです、何回か繰り返して。一応ミャンマーの中で、今僕がやっている病院だけが唯一子どもがタダで治療を受けられる病院なんですね。ですから集まってくるんですけど。で、入院費も治療費も全部タダなんです。交通費もこっちが持って払うので、安心してかかってもらえるんですけど。

だけど6ヵ月くらい入院してやってきたんですね。この子は生まれて6ヵ月くらいの時に大火傷ですから、手も足もこんなに曲がっているので動けないんですね。本当に田舎の小さな村の周りだけがこの子のすべての世界だったんです。親にだっこしてもらう。あるいはお兄ちゃん、お姉ちゃんにだっこしてもらって周りを歩く時だけがすべての世界だったんです。

ですからこの子の夢は何かというと、学校へ行くことだったんですよね。それがこの子の夢だったんですね。田舎に行きまして、手術を何回かして、この前看護婦さんに映像を撮ってきてもらったんです。

今、歩けるようになったんですよ。予想以上によくなりました。予想と一つだけ違うことがあって、それは何かというと、今学校に行っているんですけどまったく勉強しないっていう予想外のことが起こりまして。あれほど行きたかったのにっていう話で。だけど、こうやって歩けるようになって、これでまた人生変わっていくんですね。もう1人ですね。

この子は、生まれつき顔に腫瘍があった子で、この子が初めて病院に来た時の話は忘れないんですけど、現地人の医療スタッフが、日本人の看護師さんに「ねえねえ、バケモノが来た」って言ったんですよ、現地の人たちが。この子は、多分生まれてから現地の人たちに「バケモノ」と呼ばれてきたんですね。その子がやって来たんです。

最初に手術をしましてね、その時にもう既に癌が出たんです。癌が出たらアウトですね、この国では。もう治療がこれ以上できないです。これ、神経から出た腫瘍なんですけど、この神経から出た腫瘍で癌が出てしまって、でもだんだんだんだん腫瘍が大きくなってくるに従って、痛いんですよ、中で。

田舎の方の子なんですけど、親がこの子を僕がいる病院に連れて行くのに、日本円で交通費が5、600円かかるんですね。そうすると、朝から40何度のところに出て働くんですよ、お母さんが。1日働くと100円くらいもらい、2日働くと200円もらい、そして500円貯まったら病院に行こうといってお母さんが一生懸命働く。

そして500円が貯まったら、船と満員のバスを乗り継いで僕の病院まで来るんです。それを繰り返してずっといくんですね。ですけど癌は治るわけじゃないので、日に日にひどくなっていくわけですね。で、とうとう段々ひどくなってこんなふうになってしまう。

これはちょっとボケてますけど、この家族からもらった写真ですけど、真ん中のちょっとほっぺた膨らんだ子が、子どもの時のこの子です。

3人兄弟の長男なんですけど。この時には癌になってないんですよね、小さい時は。だから結局、もうちょっと早く治療を受けたらこの子は死なずに済んだかもしれないんです。例えばこの6歳、7歳の頃に。もう今13歳だったですから、死ななければならなかったんですけど。

医療が受けたい時に受けられるとは、このように幸せなことなんだということを、もう何度も身につまされています。そしてこの子は、結局癌だからダメになったんですけど、僕は果敢にもこの子にも手術を敢行したんですね、死ぬのをわかっていて。それは何故かというと、この母親もそうなんですけど、この子自身も普通の顔になりたくて生きてきたみたいなものですね。

母親もずっとこの子が「バケモノ」と呼ばれて不憫で仕方なかったから、一生懸命働いたんです、治す為に。だけど治らなかった。だから僕はですね、だんだんだんだんこの子が死に向かって落下していっている時に、もう一度手術を敢行してまったく普通の顔にしたかったんですよ。

どうせ崩れていきますよ、癌だからまた出てきて。ですけど、一度だけ普通の顔にして、その時に家族で1枚写真を撮りたかったんです、1枚の写真を。そうすると、普通の顔になって誇らしげに写っているこの子が真ん中にいて、お爺ちゃんお婆ちゃんですね。お父さんはもう死んでいないですけど、お母さんがいて、そしてこの子の下の兄弟が、あ、3人いるんですね、弟妹が。

その子たちもみんな、この子が嬉しいからみんな喜んだ写真が1枚残りますね。そしたらこの子が死んだ後にね、この子が死んだ後にその写真がいつも、この子の家に飾られているんですよ。そうしたら、家族も「亡くなっちゃったけど、この時一時良くなったよね」と。その時の写真が1枚あれば、その時の感情とか、この子の表情とか、あるいは兄弟たちの嬉しい雰囲気とか全部甦ってくるじゃないですか。

だからこの写真を1枚撮りたかったんです。この子の「普通の顔になりたい、一瞬でもなりたい」という希望もあったんですけど。それで手術したんですけど、実はもう腫瘍が非常に激しく顔の中に浸潤していてですね、はまり込んでいて、手術を始めて30分で1,500ccくらい出血したんですよ。

1,500ccというのは、この子の血液量の1/3ですから、わずか30分で出て、もうちょっとこれは、これ以上やったら死ぬと思ってですね、血液の輸血も追いつかないので死ぬと思って、途中で撤退せざるを得なくなったんですよ。じゃあ、この子とこの家族にどうやって満足して死んでもらえるんだろうというふうに考えて僕がしたことは、日本人の看護師を1人、この子に付けることだったんですね。

ミャンマーという国は、外国人が一般のミャンマー人の家に泊まることが禁止されてるんです。ですから、毎日看護師は、片道2時間半くらい通いました、この子の家に。すごい雨季で、道が行けない時もあったそうです。ですけど、船と車を乗り継いで、行ける日は毎日通いました。

そうしたらこの子も、本当に最後の方は何も食べないらしいんですよ。もうしんどくなってきて。だけど、この日本の看護師さんが行った時だけは、がばっと起きあがって物を食べたそうなんです。いつも日本の看護師さんが来るのを待っていた。それで、帰る時に見送ってくれるらしいんですよ。この状態で立って。

だけど、絶対にその看護師さんには体重なんかかけなかったって言ってました。ぐっと我慢して立って、そして見送ってくれた。そして「マンゴーが好きですか?」と訊いてくる。「好きだ」と言うと、自分で取って看護師さんの口に運んでくれたり、最後まで優しかったって言っていました。

結局、でもわずか13歳で亡くならなければならなかった。でも、亡くなった後に、この親も、そしてこの子も死ぬまで、ずっと日本の看護師さんに「うれしい、うれしい」って言っていたそうですね。そして親も、「本当に最後までありがとう」と。たとえ外国人でも、最後まで一生懸命、この子の為に、この家族の為にやりつくして、それを非常に喜んでくれました。だからせめてその記憶が、この家族に残ったら、それは素晴らしいことですね、そういうふうに思いました。

12歳でエイズになって死んでいく女の子たち

もう一つだけみなさんに伝えたいことがあります。それは何かというと、ミャンマーというのは実はタイと国境を接していまして、非常に人身売買の盛んな地域なんですね。子どもたちが売られていくんですね。ブローカーがやって来て、1人3万円で買っていくんです。

買っていくといったら語弊がありますけど。とにかく貧しくて子どもが多いものですから、昔の日本でいう「口減らし」ですね。食べていけないので、たくさんの子どもを抱えて。親は預かってくれるところを探すわけです。そこにブローカーたちがやって来て、「ご飯を食べさせます」「家でお手伝いをさせます」と言ってやって来るんですね。そして連れて行く。

そうしたら、8歳9歳のうちは、家でお手伝いをさせて、12、3歳になったら売春宿に立たされるんです。そして数年以内にエイズになります。HIVに感染してエイズになります。でも、国籍が違うんです、国境を越えているから。そして捨てられるわけです。捨てられると、国境の辺をウロウロするわけです。そこには兄弟姉妹もたくさんいるそうです。

そうしたら警備隊につかまって、ミャンマー側の国境警備隊に引き渡される。そして、このHIVの施設がありまして、そこで最後は亡くなる。わずか十数年の人生です。僕はこの事実を知って、僕に何かできないかと。ブローカーとかブラックネットワークに入っていって、そこから奪い返して来ることは僕にはできないですね。

ですから僕がしたことは何かというと、こういう貧しい人たち、あるいは食べていけない人たち、あるいは親をHIVで、エイズで亡くしている非常に貧しい家庭の子どもたちもたくさんいますので、この子たちを預かる施設を、この地域から1,000キロ離れたところに作りました。

とにかく離さないと、昔の日本と一緒で、自分の家族が貧しいと自ら体を売りに行く十何歳の子どもたちも多いんですよ、家族の為にね。弟が飢えているからという理由で。だから、ぐっと離したところに、お腹いっぱいご飯が食べられて、教育を好きなだけ受けられて、そして職業訓練までして、自分でお金が稼げるようになるまで面倒を見ますという施設を作りました。

これは5人兄弟だったんですけど、一番上の13歳の女の子は、預かってあげるからと言われて3万円払って連れて行かれて、今はどこへ行っているかわからないみたいです。

親はだいぶ探したみたいですけど。「会いたくなったらここへ来てくださいよ」と言って渡された住所があったんですけど、行ってみると、もうそれはまったくの出鱈目で、どこへ消えたかわからない。タイにいるのか、はたまたマレーシアまで行っているのか、シンガポールに行っているのかまったくわからないって言っていました。

で、作り始めました。これを作りました。

今はこういうかたちで、子どもたちをたくさん預かっています。

最初は28人で、2011年の11月の終わりくらいにスタートしました。こうやってご飯を食べさせる、お腹いっぱいに食べさせて、食べさせすぎて肥満系になっているという話もあるくらいなんですけど。だけどお腹いっぱい食べられないと、現地の人たちが預けてくれないので、自ら預けてくれるようにしたいと思ったんですね。自ら「私の子どもを預かってください」と言ってきてくれるような施設にしようと思いまして、それを作りました。

最初スタートしたのは、この28人の子どもたちを国境の方から連れてきましてスタートしました。

2011年の11月の終わりです。そして今、増築しました。子どもたちをもっとたくさん受け入れる為です。

それで、今はこんな感じです。

こうやって子どもたちが遊ぶ場所ですね。

今は、150人くらいの子どもたちを預かるようになっています。

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