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意志あれば道あり 日本の未来のための静かな激闘(全2記事)

「決断をする時に迷ったら、必ず前に進んだほうがいい」 菅義偉氏が「三バン」を持たずに政界へ進んだ理由

さまざまな壁を乗り越えてきた各界のトップランナーによる、人生の特別講義を提供するイベント「Climbers(クライマーズ)2022 春」。本記事では、第99代内閣総理大臣・菅義偉氏が登壇したセッションをお届けします。イチゴ農家の長男として生まれた菅氏の政治家としての歩みについて語られました。

「叩き上げ」でトップに上り詰めた菅氏の素顔に迫る

狩野恵里氏(以下、狩野):本日最初のゲストは、第99代内閣総理大臣の菅義偉さんです。

菅義偉氏(以下、菅):どうぞよろしくお願いします。

狩野:はじめまして、よろしくお願いいたします。いろんな方から「菅さんはとにかくいろんな情報を持っている」という話を聞くのですが、テレビはふだんご覧になりますか?

:あまり見ないですね。

狩野:やはり、お時間がないから?

:どうしてもニュースになってしまいますかね。

狩野:テレビ東京の番組はいかがですか? 『Newsモーニングサテライト』ですとか、『WBS(ワールドビジネスサテライト)』ですとか。

:時間帯によって、なかなか見られない時もありますね。

狩野:そうですか。ぜひこれからよろしくお願いいたします(笑)。あらためまして、簡単ではありますが菅さんのご紹介をさせていただきます。

菅義偉さんは秋田県のご出身で、法政大学卒業後に議員秘書、横浜市議などを経て、国会議員になられました。2012年には、第二次安倍内閣の官房長官に就任。歴代最長の7年8ヶ月間務められました。

そして、2020年9月には第99代内閣総理大臣に就任され、新型コロナ対策のほか、デジタル庁創設、不妊治療の保険適用など、重要政策を次々と打ち出しました。その実行力には非常に定評があり、いわゆる「三バン」と言われている、ジバン(地盤)・カンバン(看板)・カバン(鞄)を持たずしてトップへと上り詰めた、「叩き上げ」でいらっしゃいます。今日はそんな菅さんの素顔に迫っていきたいと思います。

イチゴ農家の長男として生まれる

狩野:まず70年ほど遡るのですが、少年時代の菅さんはどんな少年だったんですか?

:私はちょうど秋田県の大山脈の麓の、非常に雪深いところで生まれ育ちました。小さい頃といえば川に魚釣りに行ったり、田んぼの収穫の終わったところで野球をやったりといった感じでした(笑)。

狩野:のどかな、自然豊かのところで育てられたんですね。その時からずっと秋田で、「このまま生まれ育ったところで生きていくんだ」とお考えだったんですか?

:私は1948年の昭和23年生まれで、当時の私どもの世代は、長男が家の跡を継ぐんです。私の家は農家でした。

狩野:イチゴ農家ですね。

:跡を継がない人は、中学を卒業すると東京へ就職に行くことが圧倒的に多かったんです。そんな時代でしたよね。

狩野:では菅さんも「東京に出たい」という思いがおありだったんですか?

:そうですね。私は長男ですから、いずれにせよ「出てもまた帰って来なきゃダメだ」というのが、脈々と流れていましたね(笑)。

狩野:「そういうものだ」という無言の圧力ですね。ただ菅さんは東京に出て……。

:ええ。東京に出たくて、そのまま農業を継ぐのが嫌で、親父とケンカするようなかたちで東京へ出てきたんです。ですが、そんなに簡単じゃないというのがそこで初めてわかるわけです。それから彷徨って、「やはり大学に入らなきゃダメなのかな?」と思い、2年間遅れて法政大学に入るんです。ですが、卒業したあとも田舎に帰る・帰らないでフラフラしていたんです。

「人生は1回だから、悔いのない人生を送るべきだ」

狩野:大学時代のお写真がこちらにあります。菅さんは一番右ですね?

:たぶんそうだと思います。

狩野:これは部活動でしょうか?

:空手部でした。一番練習の厳しいところだったんです。

狩野:凛々しいですね。相当厳しい部活だったんですか?

:上下関係はものすごく厳しかったです。あえてそこで挑戦してみようと思ったり、終わったあとにアルバイトをやったり、いろんなことをやっていました。一番思い出したくない青春です(笑)。

狩野:(笑)。だいぶ辛い時期だったんですね。その時からすでに政治家を志していらしたんですか?

:それはまったくなかったです。ただ、私自身はやはり基本的に、なんとなく小さい頃からおぼろげに「人生は1回だから、悔いのない人生を送るべきだ」ということを大事にしてきていました。

ただ長男ですから「帰らなきゃまずいんだろうな」と思っている中で、そのまま帰るのも嫌で、いったん就職をして働いたんです。

狩野:どういったところで?

:民間の電気工事会社です。そういうところでいろんな人と会うにつれて、「もしかしたら世の中は政治が動かしているんじゃないか」と思ったんです。気になるとかそういうことじゃなくて、「悔いのない人生を考えた時に、その道も1つかな」と思ったという程度でした。

ジバン・カンバン・カバンがない中で政治の世界へ

狩野:ただ、政治家は3つの「バン」があると有利とされています。ジバン(地盤)・カンバン(看板)・カバン(鞄)といったものは、菅さんはお持ちだったんですか?

:いや、まったくないんです。政治家になろうとも、なれるとも思っていなかった。

狩野:どうやってなるんでしょう?(笑)。

:私もよくわからないですけど(笑)。ただ、「政治の世界でがんばってみたい」と思ったんです。政治家の知り合いなんて誰もいませんから、大学の学生部にある就職課に相談に行ったんです。サラリーマンになってから、「大学の先輩を紹介してください」と(笑)。

狩野:えー! 「大学の先輩で政治家の方を教えてください」と?

:ええ。そこからOB会の事務局長の清水さんという方をご紹介いただいて、そこからいろんな縁があって、法政大学出身ではないのですが横浜の小此木彦三郎さんという方を紹介してもらい、初めて秘書になったのが26歳の時です。そこから一生懸命やりました。それまではいい加減でしたけど(笑)。

狩野:それまでには秋田で生まれ育って、大学に出て空手をしながら、段ボール工場とうかがいましたけれども、働きながら(そういった活動をしていたんですね)。

:地元の高校で紹介してもらって就職したんですよね。思い出したくないんですが(笑)。そこでいかに現実が厳しいかを知るところからスタートしましたね。

市議会議員選挙での、涙が出るぐらい大変な経験

狩野:「人生1度きりだから挑戦したい」ということで政治家を目指されて、秘書を経て、駆け足になりますが……この写真は菅さんが初めて当選された時ですね?

:私は38歳の時に横浜の市会議員に挑戦をして、当選をするんですけど……。

狩野:簡単に「当選をするんですけど」とおっしゃいましたけれども、秋田ご出身の菅さんが神奈川で戦うというのは、当時非常に難しかったのではないでしょうか?

:今でも涙が出るぐらい大変な経験でした。大きい選挙はあまり地域性質を問われないんですけど、市会議員の選挙だと、「地元じゃない」というのはかなりありますからね。

狩野:そうですよね。

:ただ私は秘書を11年やっていましたので、秘書時代に築いた人脈などの中で応援をしていただいたんです。「世の中の人はがんばれば見てくれている人がいっぱいいるんだな」と思いました。

名刺配りのタイミングは「箱根駅伝」

狩野:相当、周りに挨拶に行ったりしましたか?

:もう行くところがないですから、無差別に回っていた感じですよね(笑)。

狩野:えー! じゃあ「初めまして、菅義偉です」と……。

:本当にそうです。私の選挙区は横浜市の西区というところでしたので、1月の2日、3日は、箱根駅伝の応援でみんな道路脇へ出てきますよね。そこをずっと行ったり来たりしていました。名刺をどのぐらい撒いたかわからないです(笑)。

狩野:お正月を返上して(笑)。

:もちろんそうです。

狩野:箱根駅伝で自分の顔を売るためにということですか?

:ええ。(箱根駅伝が始まる)1〜2時間前から人が集まりますから、そこでずっと顔付きの名刺をブワーッと撒いていました。思い出ですよね。

狩野:そういった市議時代を経て、国政に47歳の頃に進出されるんですね。

「決断をする時に迷ったら、必ず前に進んだほうがいい」

狩野:それまでの間もかなりの努力があったと思いますが、そこまで突き動かしていた原動力は何なのでしょうか? 菅さんが「絶対に政治家になるんだ」「絶対に国を変えるんだ」と思えた背景には、どんな思いがあったんでしょうか。

:いや、そこまで政治家になりたいとは思っていなかったんですけど、周辺も含めて政治の世界で働いてみたいと思っていました。私はやはり、運に恵まれていたんですかね。

市会議員に出る時も、通常では出られないような状況だったんです。ですが、突然出るべき人が出なくなったり、私が出られる環境が整ったりということがありました。

それと衆議院も、小選挙区制が始まって初めての選挙でしたから、こうならなければ出られなかったのかなとも思います。私はそういう意味で、運命とか出会いとか、そういうものは非常に信じているほうです。

狩野:もちろん運もおありかもしれません。ただ、誰でもなれるわけではもちろんないですし、その時のためにかなり準備をされていたと思います。どのようなことを考えながら日々を過ごされていたんですか?

:私は若い人たちに「決断をする時に迷ったら、必ず前に進んだほうがいい」と言っているんです。ダメでも、また違う世界が開けてきますよね。現状で見るよりも、いったん乗り越えると違う道がまた出てくる可能性が極めて高いと思います。

狩野:乗り越えた先にまた見える景色があると知ってから、どんどんどんどん、壁があったとしても前に行けるようになったんですね。

「ふるさと納税」の制度を作った理由

:市会議員になってからは、そういう意味でも非常に自分自身に自信がついてきました。市議会で働く中で「国会に行くのは俺しかいないだろう」と思い、国会に挑戦したんです。でも、それまでは大変でした。

狩野:そうですか。壁を乗り越える度に自信もついてきて、国会議員になられて、そのあとに総務大臣、そして歴代最長の官房長官を務められました。その時は、もうさまざまな壁が立ちはだかっていたと思います。例えば省庁がそれぞれ既得権益で話をしなかったり、いろんな壁があったと思いますが。

:ですから私は総務大臣になった時に、「せっかく大臣になったし、たぶんこれで終わりだろうから、思い切ったことやってやろう」と思って、自分で「ふるさと納税」という制度を作ったんです。

地方で生まれ育った人にとって、地元は両親もお世話になっているし、自分を育ててくれた故郷なんですよね。その中で、何らかのかたちでつながりを持ちたいとみんなが思っているに違いないと思って、その制度をやろうと温めていたんです。

そして当時の安倍総理から総務大臣に任命されましたので、「思い切ってやってやろう」ということで作ったんです。

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