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スタンフォード大学 卒業式 2008 オプラ・ウィンフリー(全2記事)

オプラ・ウィンフリーが卒業式で語った人生の教訓

アメリカのトーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」で25年間司会を務めた、Oprah Winfrey(オプラ・ウィンフリー)氏がスタンフォード大学の2008年度卒業式でスピーチを行いました。19歳の頃からニュースキャスターとしてテレビ業界で活躍してきたウィンフリー氏は、上司から名前や容姿について辛辣な言葉を浴びせられるなど、辛い思いもたくさん経験してきました。どんな悲惨な現場でも感情を出してはいけないニュースリポートの仕事に疑問を抱いた彼女は、後にトーク番組の司会者に転身。自分らしく活躍できる場で見事に成功を収めます。ウィンフリー氏はキャリアチェンジが成功した理由について、常に自分の心の声に耳を傾けてきたからだと語りました。

スタンフォード大学卒業生の名付け子とのエピソード

オプラ・ウィンフリー氏:ヘネシー学長、理事の皆様ならびに教職員の皆様。ご両親、祖父母の皆様。そしてスタンフォード大学卒業生の皆様。ありがとうございます。この良き日を、皆さんと共に喜びあえることへの感謝の念に堪えません。

ここで、ささやかな秘密を打ち明けます。2008年卒業生の1人、カービィ・バンパスは、私の名付け子なのです。ですから、ヘネシー学長から学位授与式スピーチのお話をいただいた時には、大喜びしました。カービィがスタンフォードに入学して以来、このキャンパスに来ることを許されたのは、これが初めてになるからです。

カービィはとても聡明な娘で、「知り合いを介してではない、先入観なしの自分自身を皆に知ってもらいたいのだ」と言っていました。それで彼女は、初対面の人に、私と彼女が知り合いだと知られることを望みませんでした。

彼女がお母さんと共にスタンフォード大学新入生オリエンテーションに出席した時、他の学生から大歓待を受けました。近くにいた人には、「ゲイル・キングがいる!」と言われました。ゲイル・キングが私の大親友だと知っている人は大勢います。

「この人は本当にゲイル・キングさんなの?」と聞かれてカービィは「そうよ。私の母なの」と答えました。すると「ということは、オプラ・ウィンフリーさんとあなたはお知り合いなのね?」と尋ねられ、彼女は「そうかもしれないわね」と答えました。

私は「何ですって? あなたは私と知り合い『かもしれない』ですって?」と言いました。

私の手元には、皆さんにも添付メールで送信できる、証拠写真がちゃんとあります。カービィが、お馬さんごっこで四つん這いになっている私の背中に乗っています。つまり、私はカービィ・バンパスを知っている「かもしれない」どころではないのです。

4年の歳月を経て、ようやくカービィの居室を見せてもらえることになり、私は大変喜んでいます。そして、他でもない、この場に来ることができたことに、喜びを感じています。今日この日、人間科学と心理学の2つの学位を手に卒業するカービィを誇りに思うからです。

カービィ、かわいい子。大好きよ! ほらこの通り、私はカービィを「かわいい子(ケーキちゃん)」と呼ぶほど、よく知っているんですよ。そして学業を支えた彼女の父母、弟のウィルを誇りに思います。

卒業単位が1単位足りず、学位を取得できなかった

彼女がスタンフォードを卒業するにあたり、私は何も貢献できませんでしたが、この2週間、人に近況を尋ねられるたびに、私は「スタンフォード大学に行くのよ」と答えていました。

「スタンフォードへ行く」と人に言うのは、とても楽しかったです。なぜなら、私はスタンフォードの学位は持たず、テネシー州立大学へ行っていたからです。

本来は1975年に卒業するはずだった所ですが、卒業単位が1単位足りなかったため、学位を取得できませんでした。同級生と足並みを揃えることは無理なので、学位取得はあきらめることにしました。

その時点で、私は既にテレビに出ていたからです。大学2年生の19歳の時から、私はテレビ業界に入っていました。

当然のことですが、10時のニュースアンカーで、門限が11時なのは私ひとりだけでした。父が、「ニュースは10時半には終わる。11時までには帰宅するように」と言う人だったからです。でも、私はまったく気にしませんでした。すでに自分の食いぶちを稼ぎ、自立していたからです。

そこで大学の学業はあきらめることにしたのですが、実の所、足りないのは1単位だけでした。

しかしその後、何年間も、父は私が卒業できなかったことにこだわり続けました。父は言うのです。「オプラ・ゲイルや、学位を持っていないなんて、一体どういうつもりだね?」。「ゲイル」というのは、私のミドル・ネームです。私は言うのでした。「お父さん、私はもう自分のテレビ番組を持っているのよ」。

すると父は言うのでした。「それにしたって、学位がないなんて、困ったものだ」私が、「そんなこと言ったって父さん、私は今ではトークショーのホストなのよ」と言うと、父は「でも学位がなかったら、次の仕事が見つからないかもしれないじゃないか」と言います。

さて1987年に、私はテネシー大学から学位授与式スピーチの依頼を頂きました。その頃には、私は全国放送の自分の番組を持ち、映画を制作し、オスカー賞のノミネートを受け、自分の会社「ハーポ」を設立していました。

そこでテネシー大学に、「卒業単位を1単位頂けるのであれば、スピーチをさせていただきます。父が、学位が無いことで、私の身の振り方を大変心配するものですから」とお答えしました。

こうして、履修科目の課題を無事修了し、最終課題レポートを提出して、晴れて学位をいただくことができたのです。父は大喜びでした。ですから、もし何か予期せぬできごとが起こっても、この1単位が、私を救ってくれることでしょう。

父が学位記にこだわった気持ちも、よくわかります。B.B.キングは言いました。「学ぶことがすばらしいのは、学んだことを誰も奪い取ることができないからだ」。

世界は学校であり、人生は教室である

今日は、広義の「学び」について、お話ししたいと思います。なぜなら、皆さんの学問は当然ですが、ここで終わりはしないからです。いろいろな意味で、まさに始まったばかりなのです。

この世界には、学ぶべきことがたくさんあります。世界は学校であり、人生は教室です。この地球という学び舎では時に、その教えが回り道や通行止めの姿として、時に最大の難関として、立ち現れるかもしれません。

私が学んだ、世の中の先頭に立つ秘訣とは、もっとも偉大な大学である所の宇宙から授かることです。これらの教えを、胸襟を開いて受け入れることです。熱意を持って人生を歩み、向上心を持つことができ、皆さんの進歩を大いに支援してくれます。

なぜなら、人として進歩すること、それが、私たちが生まれて来た理由だからです。より豊かな自己へ、より高みへの理解へ、より深い思いやりとや成長へと進み続けるのです。

私がこれまでに受けた最大の賛辞があります。駆け出しのシカゴ時代、私はとあるリポーターと共にインタビュー取材をしていました。数年後、そのリポーターに再会すると、彼女は言いました。「まあ、あなたは全然変わっていないわね。ますますあなたらしくなったわ」。

私たちが目指しているのは、まさにそれなのです。つまり、より自分らしくあることなのです。皆さんのすべての行動、すべての経験からは学ぶべきものがあり、その学びが前進に繋がり、精神を豊かにします。そのような内なる叡智は富よりも貴く、使えば使うほど、より豊かになれるのです。

人生に影響を与えた3つの教え

今日は、これまでの私の旅路で学んだ3つの教えを、皆さんとシェアしたいと思います。

どうです、皆さん。ほっとしたでしょう? 「少々お話しします」と言われて、蓋を開けてみたら、10もの項目を聞かされるはめになれば、「勘弁してよ、これは私の卒業式で、あなた話を聞きに来たのではないわ」と文句を言いたくもなるでしょう。だから3つだけです。

私の人生に影響を与えた3つの教えとは、感覚、失敗、そして幸福の追求です。

大学を去って1年後、私にはボルティモアで6時のニュースの共同司会をする機会がありました。当時のメディア関係者に期待されていた一般的なゴールとは、より広範囲のエリアでの放送に携わることでした。ボルティモアは、ナッシュヴィルよりはるかに大きなマーケットです。ですから、弱冠22歳で6時のニュースの共同司会を務めることは、大変名誉なことでした。

当時の私にはセンセーショナルな出来事で、大変誇らしく思いました。テレビ業界に入って以来、かねてから憧れていたバーバラ・ウォルターズのようになれるチャンスが、ようやく到来したからです。

私は、弱冠22歳にして、年俸2万2千ドルを稼いでいて、その頃に、同じテレビ局のインターンをしていた親友のゲイルに巡り合ったのです。

仲良くなるとすぐに私たちは「まあ、信じられない! あなたはまだ弱冠22歳なのに、すでに2万2千ドルの年収があるのね。じゃあ、40歳になったら、きっと4万ドル稼ぐわよ!」などと語り合いました。実際に40歳になってみると、実現しなかったのでほっとしましたが。

上司から「君の見た目が気に食わない」と言われた

さて、22歳にして2万2千ドルの年収があった私ですが、何かがおかしいと感じていました。違和感があったのです。最初の兆候は、ヘネシー学長の紹介にもあったように、会社から「改名しろ」と言われたことでした。

ニュースディレクターは私に、「オプラなんて名前は覚えにくいから、変えなさい。視聴者に覚えてもらいやすくて、好感度が上がるような名前の候補を考えた。親しみやすい名前だ。『スージー』なんてどうだね」と言いました。

「ハーイ、スージー!」とてもフレンドリーです。誰もスージーに腹を立てることなんてできません。覚えてくださいね、スージーですよ。

でも、私の名前はスージーではありません。私は小さい頃から自分の名前が好きではありませんでした。名前入り弁当箱やナンバープレートを探しても、オプラなどという名前は見つからないからです。

私は自分の名前を嫌って育ちましたが、変えろと言われると話は別です。「私の名前は『オプラ』よ。それに私は『スージー』に見える? 違和感を感じるわ。名前は変えない。覚えてもらえなくても構わないわ!」

すると今度は、「容姿が気に食わない」と言われました。1976年には、上司が部下を呼びつけて「君の見た目が気に食わない」と言うことができたのです。今だったら訴訟沙汰ですよね。

でも当時は、「容姿が気に食わない」と言えました。この場合は、バーバラ・ウォルターズとは似ても似つかない、という意味でしょう。

そこで私は美容院でパーマをかけられましたが、数日経つと頭髪が全部抜け落ちてしまい、髪を剃り落とす羽目に陥りました。すると、ますます見た目が悪くなりました。黒人である上に、ハゲている者がテレビ出演をしているわけですから、画としても美しくありませんよね。

ハゲでいることよりもなおつらく、心の底からいやでいやでたまらなかったのが、日々の業務として、人の悲劇を取材しなくてはいけないことでした。

私に期待されているのは、ただ傍観することだけであるのはわかってはいましたが、本能のすべてが、相手に何かをしてあげたい、手助けしてあげたい、と告げるのです。

ヘネシー学長の紹介にあったように、私は火事の取材の後に現場に戻り、焼け出された人達に毛布を渡しました。日中の取材のことが頭にちらつき、夜は眠ることができませんでした。

「感情的でキャラクターが濃すぎる」という理由でトーク番組に左遷された

その間、私はバーバラ・ウォルターズのように優雅に腰掛け、バーバラのように話すよう努力していました。しかし私は思いました。「どう見ても、バーバラの偽物だわ! もし、私が私らしくできれば、とても上等なオプラになれるはずなのに!」。

バーバラのようにエレガントに話そうと努力するあまり、台本を読まないこともありました。私の中の声が「自然態でいろ」と言うからです。

そこで私は、視聴者にニュースを「語りかけるように」届けようと努力しました。そこで、試しに台本を使わずに報道してみました。「州間高速道路40号線の玉突き事故で、犠牲者が6人発生ですって? まあ大事故だわ!」などといった調子です。

自然体でいようと、台本を読まないこともありました。知らない単語が出てきて、発音を間違えたこともありました。台本を読んで、「カナダ」を「かなあだ」と発音してしまったこともあります。

そしてとうとう決意しました。「バーバラの真似事はもう止めだ。私らしくあろう」と。

その頃、父は言いました。「オプラ・ゲイル。これは人生にまたとないチャンスだ。この仕事は、しっかり掴んで離さないようにするのだよ」。

上司はこう言いました。「これは夜のニュースで、君はアンカーだ。ソーシャルワーカーではない。ひたすら自分の仕事に専念しろ」。

私は、このような期待と義務の言葉の間を右往左往し、大変みじめな気持でいました。帰宅しては15歳の時から続けている日記をつけました。今では日記は何冊にもなっています。

日記には、みじめな自分の近況と、うっ屈した気持ちを綴り、不安を噛みしめていました。こうして日記をつける習慣がつきました。

8カ月後、私はその仕事から外されました。感情的でキャラクターが濃すぎる、とのことでした。しかし会社は契約違約金を支払いたくなかったので、私をボルティモアのトークショーに左遷しました。

何をすべきかは「人生のGPSシステム」が教えてくれる

私は、ショーの席に座ったまさにその瞬間、まるで家に帰ったような安寧を感じました。そしてテレビが、娯楽の場だけではなく、他者への貢献、つまり人が人生に前向きになる手助けができる場になり得る可能性に気がつきました。

トークショーは、呼吸のように自然で、しっくりとなじみました。正しいと感じたのです。その後の私を形作る、全てがそこから始まったのです。

私は学びました。天職に巡り会えた時には、「これが正解だ」と感じます。そして、給料の額面に関わらず、毎日がボーナスをもらったように楽しくなります。これは事実です。

では、正しい道を進んでいるか否かを、どのように判断すれば、どうすれば知ることができるのでしょうか? それを感じ取ればよいのです。

その感覚は、まさに「人生のGPSシステム」とも言えるものです。何をやるべきか、やらざるべきかを、皆さんの心のガイダンス・システムが教えてくれるのです。

コツは、入り口に潜むエゴではなく、自分の本質を認識することです。これまで私が下した正しい決断は、全て私の本質から来ています。そして、間違った決断は全て、自分の中の大いなる声に耳を傾けない結果、起こりました。

もし「間違っている」と感じれば、やらなければよいのです。それが教訓です。この教訓が、多くの災難から皆さんを救います。疑念を持っただけでも、やるべきではありません。

お金をたくさん持っているからといって、成功するとは限らない

私が学んだ教訓です。判断に迷う機会は、たくさん訪れると思います。迷った時はじっとしていればいいのです。動かずにじっとしているのです。そのうち道が見えてきます。

じっと動かずにいて、皆さんのやる気がうながすままにあれば、皆さん個人の人生が向上するだけでなく、仕事の世界でも、競合に勝てる強みを持てます。

ダニエル・ピンクがベストセラー『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』で書いているように、私たちはまったく新たな時代に突入しようとしています。ピンク氏は、これを「コンセプチュアルな時代」と呼んでいます。

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

彼は「近年、人を差別化できる特性は頭脳だけでなく、右脳、つまり私たちの心から生じる」とし、「大切なのは、もはや論理的・直線的・法則に則った考察だけではない」と説きます。「思いやりや喜び、目的意識といった内なる特性が、卓越した価値を持つのだ」と。

これらの資質は、私たちが大好きなことをやっている時、知識と情緒の双方を用いて、全身全霊で仕事に打ち込んでいる時に花開きます。

ですから皆さん、追い越し車線でスピードアップするのではなく、本当の意味で飛翔したければ、情熱に力を注いでください。自分の生まれてきた使命を尊んでください。誰しもがこの使命を持っています。自分の心を信じれば、成功が皆さんの元を訪れます。

では成功とは、どのように定義されるのでしょうか? よく聞いてください。お金はとても素敵です。「お金は大切ではない」などと言うつもりはありません。お金は本当に素敵だからです。私はお金が大好きです。お買い物に便利ですしね。

しかし、お金をたくさん持っているからといって、成功するとは限りません。必要なのはお金、そして生きる理由です。仕事をするにも、それをやる意義がなくてはいけません。生きる意義が人生を豊かにします。

信頼する人々や、大事な人々、皆さんを大事にしてくれる人々に囲まれていたいと、誰しもが心から願っています。豊かさとは、そういうことなのです。

つまりレッスンその1は、「自分の気持ちに素直になること」です。正しい道だと感じるのであれば、前に進めばよいのです。間違っていると感じるのであれば、やめればよいのです。

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