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ウェズリアン大学 卒業式 2013 ジョス・ウィードン(全1記事)

「何かを得たければ、その対極を知れ」 悩めるすべての人に知ってほしい、“二元論”のハナシ

映画『アベンジャーズ』の監督Joss Whedon(ジョス・ウィードン)氏が、ウェズリアン大学で行った卒業スピーチです。「生と死」「善と悪」、相反するものは同じ概念の両端であると語る同氏が、物事を理解するうえで欠かせない“二元論”の考え方を紹介しました。

「皆さんは、いつか死にます」

ジョス・ウィードン氏:「森の中、道は二手に分かれている(注:ロバート・フロストの詩)」

詩をまるまる引用するほど僕はスピーチをサボるつもりはないですよ。僕はこれまで、たくさんの卒業式に出席してきました。今皆さんが座っている場所に僕がいた頃、スピーチをしたのはビル・コスビーでした。面白い人であり、短いスピーチに僕は感謝したものです。

(会場笑)

しかし彼が与えてくれたメッセージは、僕に強い印象を残し、おそらく他の皆も忘れられないようなものでした。彼は、世界を変えることについて話しました。

「諸君は、世界を変えることはできない。だから、頑張らなくていい」

それだけでした。どんでんがえしも何も無しです。それから彼は、娘さんに買ってあげた車についてぼやき、僕たちは卒業しました。僕は、「いや、自分ならもっとましなスピーチをするよ。もう少し心に残ることを言えそうだ」と思ったことを覚えています。というわけで僕は皆さんに、このような話をしたいと思います。

皆さんは、いつか死にます。

(会場笑)

良い学位授与式スピーチだと思いませんか? 僕はそう思っています。これから内容がどんどん好転します。良くなる一方ではないですか。これより悪くなるということはありえないでしょう。それに皆さんが、すでに死に向かいつつあるのは、事実ですよね?

皆さんは充分健康そうです。誤解しないでください。若く、美しく、肉体的にもピークです。皆さんの肉体は成長とポテンシャルの頂上から、今まさにスキーで滑り降りようとしているのです。上級者コースの急坂を、モーグルで墓場まで一直線です。

肉体と意志の矛盾

不思議なことに、皆さんの肉体には死にたいという欲求があります。細胞レベルでそういう欲求があるのです。皆さん自身は、死にたいなんて思っていないはずです。僕は今、学生の皆さんの肉体から立ちのぼる、数々の大いなる立派な野心と対面しています。

皆さん自身は、政治家になりたい、ソーシャルワーカーになりたい、アーティストになりたい、と思っていますよね? 肉体の野心とは、何でしょうか? それは、「植物の根覆いマルチ材になりたい」という野心です。皆さんの肉体は、子孫を残した後地面に潜り、堆肥になりたくて仕方ないのです。そうでしょう?

矛盾しているとは思いませんか? 皆さんにとって、フェアなことだとは思えません。僕たちから、「世界に羽ばたけ!」と発破をかけられ、もう一方で肉体から、「もういいから脇道に入ろうぜ!」と言われています。矛盾していますよね。

僕がお話ししたいのは、まさにこの矛盾についてです。肉体と意志、意志と意志の間に横たわる矛盾です。これらの矛盾と張力は、実はすばらしい贈り物なのです。皆さんに、これをうまくお伝えできることを願います。

内在する二元性を受け入れる

まず僕がここで言う矛盾とは、皆さんの人生・アイデンティティに常に付きまとうものです。肉体に内在するだけでありません。それは皆さんの意志の中に潜み、時に自覚することが可能であり、時に不可能です。

仮に森の中で道が二手に分かれていて、皆さんは人が足を踏み入れない道を選んだとしましょう。

自分の中の一部は、「向こうの道を見ろ! あっちのほうが良いぞ! 皆あっちの道を行くし、きちんと舗装されている。50ヤードごとにスターバックスまであるぞ! こっちの道は、間違っている。イラクサが茂っているし、ロバート・フロストの遺体まで転がっている! 何で片づけないのだろう。どうも様子がおかしいなあ」と言うでしょう。

皆さんの意志がそう言っているだけではありません。実際に皆さんのある一部分にとっては、向こうの道が正解なのです。皆さんの一部は、向こうの道が正解であるとして振る舞い、皆さんの行動とは真逆のことをします。

生きている間に多かれ少なかれ、皆さんの取る行動だけでなく、皆さんが自分はこうである、と思う像とは逆のことをし続けるでしょう。これはずっと続きます。

皆さんは、それに対して、敬意を払い、理解し、明るみに出してあげる必要があります。自分の中のもう1つの声に、耳を澄ませましょう。極めて稀なことですが、皆さんには内なる自分が唱える異議に耳を傾ける能力と責任があります。少なくとも、声に発言権を与えてください。声を自覚できるだけでなく、真の成長への鍵となります。

二元性を受け入れることは、アイデンティティの獲得に繋がります。アイデンティティとは、常に新しく獲得し続けるものです。アイデンティティとは、単なる「自分は何者か」という定義ではなく、プロセスです。皆さんはそれに対して常に、アクティブであり続けなくてはなりません。

両親や恩師の考え方を真似ることではありません。真の自分になるために、自らを理解することなのです。

内なる矛盾を認め、なだめる

矛盾と張力について私がお話ししたいことは、2つあります。

1つ、それから逃れることはできません。何かを成し遂げれば、解決すれば、仕事に就けば、人間関係がうまくいけば、声を静めることができるのでしょうか? いいえ、それは不可能です。

「幸福とは、完全なる心の平穏だ」と、皆さんが考えているとしたら、そんな幸福は決して訪れません。心の平穏は、皆さんの中の決して安らぐことのない一部分を認めてあげることによって、ようやく訪れます。その一部分は絶えることなくせめぎ合っていて、そのせめぎ合いを認めてあげることができれば、いろいろなことが好転します。

もう1つは、皆さんは自らのアイデンティティや信念を確立させるため、内なる声を説得してなだめる必要があります。なぜなら、今度は他人があなたに異議を唱えるからです。誰かが皆さんに対して、反対意見を持ち出します。

皆さんの信念、アイデア、野心に対し、他人が疑問を突き付けます。皆さん自身が自分に1番自信を持っていないと、そんな相手に反論できず、自分の本分を守るこができません。僕の言うことが信じられないとしたら、試しに片足で立って見てください。ぐらぐらして左右をきょろきょろと見てしまうでしょう。

近道は議論をなくすこと?

それはつまり、皆さんは世界を変える必要があるということなのでしょうか? 追ってその話題に触れますので、しばしご静聴ください。この点について僕が言えるのは、「世界は少しくらい変化したほうが、良い場所になるのかもしれない」ということです。

皆さんのご両親が皆さんに、この世界についてどのように教えてくださったかは、わかりませんが、僕たち若い世代がこの世の中を悪くしてしまった、ということになるのでしょうか? だとしたら、ごめんなさい。

確かに世の中は、めちゃくちゃになってしまっているようにも感じられます。こんな世の中ですから、皆さんがこれから出て行くには、苦労の多い時代なのかもしれません。そしてこの国に関しても、どうも様子がおかしい時代になって来たように思います。

何が問題かといいますと……いや、とてもいい国だと思っていますよ? 大好きです。でもこの国は、矛盾やあいまいさについて熟考することが足りないように思います。何でもシンプルにしたがります。何でも分類しようとします。善か悪か。黒か白か。青か赤か。

しかし僕たちは、そんなことはしません。僕たちはそれよりも、遥かにおもしろ味のある人材です。僕たちが世の中に出て行く時、他人を理解するにはまず、このような矛盾を自分の中に内包しつつ、その上で他人の中にもそれを認めてあげることでしょう。矛盾を理由として、他人を断じるようなことはしません。

議論が忘れ去られ、相手を大声で恫喝し、弱い者いじめが大手を振って横行しているこの世の中において、これを理解するための1番の近道は―率直な議論も勿論大切ですが―議論そのものを失くしてしまうことかもしれません。なぜならそれは皆さんが、「何かを学び取って自分の考えを変え得た」ということを意味するからです。

繋がりを絶とうとしてはならない

実は、自分の考えとその価値を理解する唯一の道とは、その反対の物事を理解してあげることなのです。ラジオでヘイト・スピーチを巻き散らしてる、頭のおかしい連中に耳を傾けよ、という意味ではありません。そのような連中にも耳を傾けようとするような人々が持つ、人としての真摯な誠実さを意味します。

皆さんは、そのような誠実な人々と繋がっています。更にその人々は、ヘイト・スピーチの発信者にも繋がっています。そして皆さんは、その繋がりから逃れることはできないのです。

この繋がりは、矛盾の一部分を構成しています。これが僕の言う、張力です。張力とは、2つの相反する点を意味するのではありません。2つの点の間にぴんと張られた、線を指すのです。僕たちはその張力と、張力をその一部とする連結点とを認識し、尊重する必要があります。

僕たちの持つ連結点とは、僕たちが愛する人々だけではなく、大嫌いで我慢のできない人々をも含みます。僕たちの持つ連結点とは、基本的な次元において僕たち自身を定義づける物の一部です。

自由とは、連結点からの解放ではありません。連続殺人は、連結点からの解放を意味します。いくつかの大きなインベストメント・ファームは、連結点からの解放を確立してしまいました。

(会場笑)

僕たち人間は、そんなことをしてはいけません。するべきではありません。したいという欲求を持つべきでもありません。僕たちは人間であり、より高みにあるべきことは明らかです。

世界は変えるべきもの

「世界を変えるべきかどうか」という命題に戻ります。これは疑う余地もありません。皆さんには選択肢すらありません。皆さんは世界を変えるべきです。なぜなら、世界は変えるべきものだからです。

皆さんが人生を過ごすのではありません。皆さんの中を人生が流れるのです。皆さんは経験し、理解し、行動します。すると変化が起きます。そして変化は絶え間なく起こります。皆さんが世界を変えるのです。皆さんはこれまで、いつだってそうして来たのです。

今、以前には起こりえなかった次元で、それが実現されつつあります。僕はそれゆえに、皆さんと皆さんが内包する張力についてのみ、お話しをしました。皆さん自身が固定された意味ではなく、全く文字通りまさに未来なのです。

皆さんがここまで登り、また降りることによって、現在にいたるのです。皆さん自身が破壊された世界と同化し、今まで実行したことの無い方法によって、世界を変えるのです。

これから皆さんは、多様な変化をします。1つだけ、私が知っておきたかったと思うこと、そして言いたいことがあります。

「自分自身だけになるな。他者すべてになれ。単に生きるだけではなく、死に繋がった他の物になれ。命そのものになれ。自分の人生すべてを生きろ。理解し、見て、享受し、楽しむのだ」

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