2024.10.01
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南カリフォルニア大学 卒業式 2016 ラリー・エリソン(全1記事)
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ラリー・エリソン氏:おはよう、2016年卒業生のみなさん。
(会場歓声)
今日ここに招待してくれたことを感謝します。みなさんの南カリフォルニア大学の卒業にご一緒できることを光栄に思います。今日は、私に大切な教訓を教えてくれ、夢を知ることを助けてくれたいくつかのエピソードについて、みなさんにお話したいと思います。
私がみなさんの年齢だった1960年代に遡ります。当時、私はシカゴに住んでいて、そこにある学校へ通っていましたが、この南カリフォルニア大学をよく夢見ていたものです。その頃、私の夢は南カリフォルニア大学の医学部に行くことでした。これは全部本当の話ですよ。そして結婚し、家族を養い、ロサンゼルスで医業を営むのが夢だったのです。
シカゴ南部にある下流中産階級では、医者は高潔で人間味がある最高峰の職業と考えられていました。事実、私の家族、私の先生、そして私のガールフレンドといった私の人生で大事な人はすべて、私に医者になってほしいと思っていました。
そのうちに、彼らの夢は私の夢になりました。彼らは私に「自分は医者になるべきだ」と確信させたのです。ところがどんなにがんばっても、私にそれはできませんでした。
医学部進学課程の学生として辛く不幸な数年を過ごした後、自分が取っているコースが好きではないということが明確にわかりました。私が取っていた比較解剖学の授業は、本当に無意味な精神的拷問だと思いました。
(会場笑)
とくに解剖実験はひどいものでした。私は興味のないものを勉強することができなかったのです。
当時、私はおそらく自己中心的だったのでしょう。根本的な原因はなんであれ、自分自身を“自分がなるべきだと思っていた人物”に作り替えることはできなかったのです。
だから私はがんばるのをやめようと決心しました。大学を中退したとき、私は21歳でした。私は持っていたものすべて、ジーンズ、Tシャツ、革のジャケット、ギターを車に詰め込み、シカゴからカリフォルニアのバークレーまで行きました。
(会場歓声)
「南カリフォルニア大学」という夢の小さな一部がついに私のものとなったのだ、と思いました。「カリフォルニア」の部分です。
1960年代のバークレーは反戦運動、言論の自由運動、人権運動など、あらゆることの発祥の地でした。自制心のないわがままな20歳そこそこの男が、自分のためにもっともな目標と愛する仕事を探し始めるには完ぺきな場所です。
1960年代にバークレーに住んでいた人はみな、ベトナム戦争に反対していました。私も彼らとそれほど変わりはありませんでした。ただ、ヒッピーの時代でしたが、私は一度も長髪にしなかったし、ラブビーズも身につけませんでした。有名な反戦歌をギターで弾けるようにはなりましたが、真剣に反戦を叫んだことは一度もありませんでした。
しかしながら、私は目標を見つけたのです。私が今でも情熱を感じることができる目標を。
バークレーから数時間ほど東へ行ったところにシエラネバダ山脈があります。私はそれらの山々に恋をしてしまいました。そして、ヨセミテ渓谷の言葉で言い表せない美しさにも。私は原生自然に興味を持ち、それを保護するのに役立ちたいと思ったのです。私はシエラクラブ(アメリカに本部を置く自然保護団体)に加わり、環境保護主義者になりました。
(会場歓声)
カリフォルニアにいた頃、春と夏は、探検ガイドおよびロッククライミングのインストラクターとして働きながら、ほとんどの時間をシエラの山々とヨセミテ渓谷で過ごしました。私はその仕事を愛していました。しかしあいにく賃金はあまりよくありませんでした。
そこで私は週に2~3日バークレーに戻って、コンピュータプログラマーとして働く仕事も得ました。私は大学でプログラミングを学んだことがあったのです。私はプログラミングを愛してはいませんでしたが、楽しかったし、得意でした。コンピュータプログラミングは、チェスをやっているときと同種の満足感を私に与えてくれました。
いずれも私が頭の回らないティーンエイジャーになる前に楽しんでいたことです。人生のこの時点では、私は自分を見つける旅が進展していると思っていました。目標を見つけたのです。私には愛する仕事と、おもしろくて生活費を稼げる仕事がありました。私は自分の人生にかなり満足していました。
しかし、私の妻はそうではありませんでした。彼女の目に映っていたのは、ばかげたことをしてあまりにも長い時間を山で過ごす大学中退者だったのです。彼女は私に、コンピュータプログラマーとしてフルタイムで働くか、あるいは大学に戻って学位を取ってほしいと思っていました。
私はいくぶんか歩み寄り、UCバークレーで授業を受け始めることになりました。しかし、いくつかの授業を受けましたが、唯一思い出すことができるのは、バークレーマリーナについて教えていた航海の授業だけ。そこで私はもう一度恋に落ち、無限で全能の太平洋との生涯続く恋愛を始めたのです。
その授業が終わる頃には、「ヨットを買いたい」と思うようになっていました。
しかし、私の妻はこれについて「これまでの人生で聞いた話のなかで一番ばかげている」と言い、私の無責任さを責め、私には野心が欠けているとなじりました。結局、私は彼女に追い出され、その後、私たちは離婚しました。
これは私の人生において枢要な瞬間でした。
(会場笑)
私の家族はまだ私が医学部に行かないことを怒っていましたし、そして私の妻は「野心がない」という理由で離婚したのです。相変わらず同じ問題が起こっているようでした。私はまたしても他者の期待に沿うことができなかったのです。しかし今回は、彼らが考える“私がなるべき人物”になれなかったことで、自分に失望することはしませんでした。
彼らの夢と私の夢は違ったのです。私はその2つをもう二度と混同しません。私は愛するものを見つけました。シエラ、ヨセミテ、そして太平洋。これらの自然の不思議は私にものすごく大きな喜びと幸せをもたらしてくれました。そして今後の人生でももたらし続けてくれるでしょう。
私はコンピュータをプログラムするというおもしろい仕事と、必要以上のお金を得ていました。この時になって初めて、私はこの世界で生き残ることができるだろうと確信し、恐怖という巨大な重荷がなくなるのを感じました。
私はあの瞬間を決して忘れないでしょう。大いなる喜びの時間がやってきたのです。私はヨットを買い、バークレーマリーナでネコと一緒に暮らす日々を送りました。
ジェームズ・ジョイスの言葉にこのようなものがあります。「私は1人だった。若く、頑固で、冷めていた。しかし生命の激しい本質に近づくことができて幸せだった」。
20代の間、私は実験し続け、さまざまなことを試し、バイクとボートのレースに出場し、そして定期的に仕事を変えました。
「おもしろく価値のあるプログラミングの仕事は、サンノゼ北部、スタンフォード大学の南にある会社群で見つかる」ということがわかるまでに、そう時間はかかりませんでした。
シリコンバレーはまだ生まれたばかりでした。私が最初のシリコンバレーの新規事業、Amdahl社に携わった時はまだ20代でした。私たちはそこで世界最速の、IBMのどのコンピュータよりも速いメインフレームコンピュータを開発しました。また、Ampex社では、世界最大のデジタルデータストレージシステムを構築しました。
その後、Precision Instruments社では、レーザーを使ってさらに巨大なストレージシステムを構築しました。私はソフトウェア開発担当部長でした。それはみな最先端でやりがいがあり、かっこいい仕事でした。私はほとんどの仕事が好きでしたが、愛してはいませんでした。
私は愛せる仕事を探し求め続けましたが、航海を愛するのと同じくらい愛することができるソフトウェアエンジニアの仕事は、見つけることができませんでした。そこで私はそれを作り出そうとしました。私は自分自身の会社を始める計画を立てました。自分の働く環境を完全にコントロールすることができる会社を。
私は知り合いのもっとも才能あるプログラマーたちを雇いました。私たちはみな、もっとも興味深くやりがいのあるソフトウェアプロジェクトで一緒に働く予定でした。私の目的は、私にとって完ぺきな仕事、私が真に愛する仕事を作り出すことでした。私は会社が50人以上に成長することを期待していませんでした。だから私はあの頃、本当に野心あるいは未来を見通す力に欠けていたのかもしれません。
それについてはわかりません。ずいぶん昔のことで、私はとても若かったのです。いずれにせよ、今日のOracle社の従業員は15万人ですが、私が始めたときには、大きな会社を作るつもりではなかったということです。なにが起こったのでしょうか。
まず私たちは自分たちがやるべきだと言ったことを確実に行いました。シリコンバレーでもっとも才能あるソフトウェアエンジニアを雇ったのです。私たちはその功績において世界最高の水準にあった才能あるプログラマーによるオールスターチームを作りました。そのチームと1つのクレイジーな考えが、巨大な会社を生み出したのです。
私がそれをクレイジーな考えと呼んだのは、当時誰もが私にそれはクレイジーな考えだと言ったからです。その考えとは、世界で最初のリレーショナルデータベースを構築することでした。当時、リレーショナルデータベースに関する論文はいくつかすでに発表されており、IBMは自社の研究所でそのプロトタイプを構築しているところでした。
しかしその頃、コンピュータの専門家たちの集合知は次のような立場でした。「リレーショナルデータベースは構築可能かもしれない、しかしけっして利用するのに十分な速さにはならない」と。私は、そのいわゆるコンピュータの専門家たちはみんな間違っていると思いました。
専門家が間違っていることを指摘する人は、最初は「傲慢だ」と言われ、そのうち「クレイジーだ」と言われます。だから、卒業生のみなさん、このことを覚えておいてください、人々があなたのことをクレイジーだと言い始めたとき、あなたはその人生においてもっとも重要な、革新的な時であるかもしれないのです。
(一同拍手)
もちろん別の可能性……単にあなたが本当にクレイジーである可能性もありますがね。
このときは、専門家たちが間違っていました。傲慢さと狂気は、隠れた革新だったことがわかったのです。Oracle社のデータベースは、情報時代の夜明けにおける決定的なテクノロジーであることを証明しました。また、私と数人の友人たちが働く完ぺきな場所、小さくて居心地のいい会社を作るという私の計画を完全にひっくり返しもしました。
情報時代が夜明けから昼へと移り変わるにつれ、テクノロジーの地平線は、定期的に変化し、新しい可能性と機会にあふれた勇敢で刺激的な世界の一面を見せてくれました。
それから10年の間、1年ごとに仕事の規模が倍になり、自分にとって完ぺきなプログラミングの仕事を作るつもりが、代わりにプログラミングをやめなければならない仕事を作り出してしまいました。
自分で完全にコントロールできる環境を作り出そうとしていたのに、いつしか、誰もコントロールできないほどの速さで成長する何千人もの人々を抱えた会社を経営していました。それはハリケーンのなかで航海しているようなものでした。
そして私たちは株式を公開しました。なんということでしょう。おそらく私は医者になるべきだったんですね。
(会場笑)
私はいわゆる職業訓練で定期的に学び続けました。毎日なにか新しく興味深いもの、1日前には知らなかったものを学ぶことが好きでした。新しい仕事はやりがいがあり、魅惑的で、夢中にさせられるものでした。私はいつも働いていました。
今になって思い返すと、私はそれを愛していなかったと確信できますが、あまりにも疲れていて自分がなにを考えているのか知ることができなかったのかもしれません。
それでも私は世界に場所を見つけたのです。私の家族はついに、私が医学部に行かなかったことを許してくれました。そして誰かが「野心が欠けている」と私を責めることは、二度とありませんでした。
さてみなさんに、最後に1つお話したいと思います。私の親友、クレイジーなアイディアをたくさん持ち、私に重要な教訓を教えてくれた男について。
30年にわたるスティーブ・ジョブズとの親交は、何千回もの散歩によって作り上げられました。彼は話したいことがあるとき、だいたいいつもあったのですが、私たちは散歩に行きました。私たちは風の強い丘のてっぺんに登ったり、キャッスルロックの周囲や村の海岸を抜けてハイキングをしたりしました。
そのなかでもいつも思い浮かぶ、ある特別な散歩があります。その日、私たちはたくさん話すことがあったので、車に飛び乗り、ほろを下げて、サンタクルーズ山脈にあるキャッスルロック州立公園へ向かいました。20年以上前のことです。1995年半ばに遡ります。
スティーブはPixar社の『トイ・ストーリー』を終え、Apple社を離れた後に彼が創設したコンピュータ会社、NeXT Computerをやるところでした。Apple社は危険な状態にありました。スティーブのいない10年の間、Apple社はずっと坂を転がり落ちていたのです。その問題は非常に深刻でした。人々はApple社は果たして生き残るだろうかと思っていました。
傍観し、なにもせずにいるのは苦しいことでした。そこで、その日のサンタクルーズ山脈での特別なハイキングの目的は、Appleコンピュータを引き受けることに関する話し合いでした。私の考えはとてもシンプルで、「Apple社を買おう」というものでした。そしてただちにスティーブをCEOにするのです。
Apple社は当時50億ドルほどの価値しかありませんでしたが、私たちは二人共大変な信用がありました。
そして私はすべての予算を借り受ける算段を済ませていました。スティーブがやるべきことはただ「そうしよう」と言うだけだったのです。
スティーブはもう少し回りくどい方法を提案しました。まず、NeXT Computerを買うようにApple社を説得する。次にスティーブがApple社の取締役会に加わり、そのうちに取締役会がスティーブは会社を率いるのにふさわしい人物だと気づくだろう、というものでした。
私は言いました。「わかった。それもうまくいくかもしれない。でもスティーブ、僕たちがApple社を買わなかったら、僕たちはどうやってお金を稼ぐんだい?」
突然スティーブが歩くのをやめ、私のほうをふり返りました。彼がその左手を私の右肩に、その右手を私に左肩に置いたとき、私たちは向かい合っていました。まばたきもせずに私の目を見つめ、スティーブはこう言いました。「ラリー、だから僕がきみの友達だってことはとても重要なんだ。もうお金は必要ないんだよ」。
私は言いました。「ああ、わかってるよ。でも取っておくこともないだろ。全部手放してしまえばいいじゃないか」。私は泣き言を言っていました。スティーブはただ首を横に振って言いました。「僕はお金のためにやっているんじゃないんだ。お金をもらいたいんじゃない。もし僕がこれをやるなら、モラル的に優位な場所に立ってこれを行う必要があるんだよ」。
「モラル的に優位な場所?」私は言いました。「ふむ、それはきっと地球上でもっとも高い家賃の物件だろうね」。
しかし、私は自分がこの議論に敗北したことがわかっていました。スティーブはまさにその場所、その時間、1995年の夏にキャッスルロックにおいて、彼の方法でAppleを救うことを決心したのです。
そのハイキングの終わりに、私たちは車に戻りました。「スティーブ、きみがApple社を作ったんだ、きみの会社なんだよ。そしてそれはきみの天命だ。僕は、きみが僕にしてほしいを思うことはなんでもするつもりだよ」。私はApple社の取締役会へ行き、スティーブが地球上でもっとも価値のある会社を作り上げるのを見守りました。
(会場拍手)
この教訓は私にとって、非常に明確です。スティーブは正しかった。ある時点以降は、お金が問題にはなり得ないのです。ある時点以降は、どんなにがんばっても、それを使うことはできないのです。私は一生懸命やってみようとしましたが、不可能でした。最後に残されたたった1つの現実的な選択肢は、そのほぼすべてを手放すことです。
なぜスティーブはApple社に戻ったのでしょうか。なぜ彼は、人生で残された多くのものを仕事に捧げたのでしょうか。なぜ私はそうするのでしょうか。その答えは私たちみんなのなか、奥深くにあると思います。私たちみんなです。
私たちは人生でなにか重要なことをしたいという原初的な願望を持っています。フロイトは、人生に大切なものは愛と仕事の2つだけだと言いました。彼は愛と仕事が同じものだと言ったのではありません。私は自分の仕事に情熱を持っています。それは私が誰であるかという意識において、大きな満足感を私に与え続けててくれます。
しかし情熱と愛は別のものです。少なくとも私にとってはそうなのです。私は私の家族、数人の貴重な友達、4匹のネコ、2匹のイヌ、日本の桜、太平洋の島々の砂浜と入り江、そして私にとってすべての始まりであった、あの威厳のあるシエラネバダ山脈を愛しています。
仕事に対する私の感情はとても真剣なものですが、まったく別のものです。次のように述べるアメリカ海軍のテレビ広告があります。「それはただの仕事ではありません。冒険なのです」。それはまさに、私のシリコンバレーでの年月について私が感じることです。おもしろく、やりがいがあり、心を奪われるような冒険です。
すべての進行中の冒険がそうであるように、それがどうやって終わるのかはわかりません。しかし私はそれについてよく知っています。今からずっとずっと昔の私、そしてみなさん一人ひとりにお伝えしたい。
しかし卒業生のみなさん、今日みなさんは偉大なる冒険を始めようとしています。すべての世代がそうするように、みなさんの世代がこれから世界を変えるのです。みなさんは新しいテクノロジーのなかにあって、新しいタイプの芸術を作り出すのです。
不可能が可能へと姿を変えるでしょう。そして思いがけない機会が目の前に現れるでしょう。みなさんが学び、成長し、そしてもっと自分を知っていくにつれ、みなさんは世界を変え、そして世界がみなさんを変えることでしょう。
実験することを恐れず、あらゆることを試してください。そしてみなさんが現状に挑戦しようとするときに、専門家たちに邪魔をされないようにしてください。マーク・トウェインは言います。「ところで専門家ってなんだ? ただの町から出て来た奴らだろ」。
(会場笑)
みなさん一人ひとりに、自分がどうなるべきかというよりも自分が誰であるかを知る機会、誰かほかの人の夢ではなく自分の夢を生きる機会があります。みなさん一人ひとりに、自分を高めて人類とこの惑星をよりよいものにするという優れた目標に専心する義務があります。
すぐにみなさんの多くは新しい仕事を始めるでしょう。それがみなさんにとって、おもしろいものであり、やりがいのあるものであり、そして目的と満足という意味においてみなさんに報いるものであるよう、願っています。しかし、もしそうでなかったら、探し続けてください。それはどこかにあります。
しばらく時間がかかるかもしれませんが、みなさんの情熱に火をつける仕事を見つけるまで、探し続けてください。私がそうしたように。いや、私よりもっとうまくやれるかもしれません。みなさんは愛を注げる仕事を見つけるかもしれないのです。
どうもありがとう、そしておめでとうございます。
(会場拍手)
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