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寛容と不寛容の間ー仏教の智慧を科学する(全6記事)

「人間はどんな悪者にもなれる」脳科学者・中野信子が説く、“わかりやすさ”だけで判断する恐ろしさ

寛容と不寛容の間にこそ、人の本質が詰まっているのでは――。そんなやりとりから始まったトークイベント「寛容と不寛容の間ー仏教の智慧を科学する」では、脳科学者・中野信子氏と向源代表・友光雅臣氏が登壇。人間の寛容・不寛容についてお互いの考え、脳科学と仏教から見た考えを語りました。本パートでは、冒頭から中野氏が「役割さえ与えられれば、人間はどんな悪者にもなれる」と指摘。本当に正しい人より、たとえ間違っていても「わかりやすい人」が受け入れられやすい社会へ警鐘を鳴らしました。

役割さえ与えられれば、人間はどんな悪者にもなれる

中野信子氏(以下、中野):大衆に判断をゆだねることの恐ろしさについてもう少しお話していきましょう。

人は、自分のことを「正しい判断をするものだ」と無自覚に信じている。これは多くの実験が示唆しているところです。

例えば、ミルグラム実験と呼ばれる有名な実験があります。これは、閉鎖的な状況で、権威者の指示にどれだけ人間が従ってしまうものか、その心理状況を調べるために行われた実験です。

実験者、つまり権威者から「あなたは生徒役の被験者が課題を間違ったら、罰として電気ショックを加えてください」と依頼される。あらかじめ、自分でもその電気ショックがどんなものか、体験もしてもらいます。

生徒が一問間違えるごとに15ボルトずつ電圧を上げるように指示されるのですが、それぞれの電気ショックボタンには「ストロング・ショック」やそれを超えた「エクストリーム・インテンス・ショック」、さらに強い「デンジャー」などの電気ショックの程度の強さを示す言葉が書いてあるわけです。「デンジャー」を超えたボタンも用意されていて、それが最強です。

実験前の予想では、その最強のボタンを押す人はごくわずかでしょう、と考えられていました。たかが実験なのだから、人間の倫理はそんな指示には打ち克って、相手にひどい苦痛を与えたりするようなことはほとんど行われないだろう、と。

しかし、実際にやってみると、6割以上の人がそのボタンを押したのです。職場の上司でも友人関係にあるわけでもない、実験時に会っただけの、白衣を着た「権威がある風に見える人」に指示されただけで。

このエスカレートしたものが監獄実験ですね。もう今では禁止されている、ドイツ映画にもなったスタンフォード監獄実験です。ごく普通の人が実験の枠を超えて、囚人役の人たちにリンチを加え始めたということで中止になったのです。

人間は役割さえ与えられればどんな悪者にもなれるという可能性を示したのが、この実験であると言えます。逆に、これは人間がその可能性を完全に無視して普段は生活しており、自分のことを善良ないい人だと思っているということでもあります。

「本当に正しい人」より「わかりやすい人」が選ばれる

他にも、「ウェーブ」。陰惨な実験例ではありません。4人の学生をリクルートして、数学の問題をみんなに解かせるのです。

そうするとAさんが最初に1、2、3の選択肢の中で「1番が正しい」と答えます。Bさん、Cさんは「ああ、そうかもね。Aさんの言う通りかもね」となり、ちょっと遅れてDさんが「こういう計算結果だから正しいのは3番だよ」と言います。

そうしたトライアルを繰り返していって、その4人の中でどうもDさんが一番数学が得意だということが、わかっていきます。そして、最後に「どの人をリーダーに選びますか」という課題を行なうのです。誰が選ばれたと思いますか?

友光雅臣氏(以下、友光):賢いDさんじゃないですか?

中野:Dさんだと思うでしょ。みなさんも賢い人が選ばれるはずだ、と思いますよね。でもね、Aさんが選ばれるんですよ。最初に、真っ先に自信をもって答える人。

友光:毎回そうなるんですか? Aさんが間違っていてDさんが正解だとみんなが理解したうえでそうなるんですか?

中野:集団の意思決定では、回りくどい正しさよりも、簡潔にみんなを納得させられるリーダーシップが重要視されるということですね。

友光:いの一番が。

中野:アメリカの大統領選挙を思い出しません?

人間はどうしてもわかりやすいものが好きです。わかりやすいものが好きで、それに束ねられていくし、そこで仲間意識を強めるオキシトシンの濃度が高まっていくなら郷土愛が生まれる。そうすると、なにが起こるかというと、よそ者の排除と裏切り者への攻撃が始まります。

2極化が進んでいくネット社会

友光:結局、ネット社会になりました。個人が情報を出せるようになりました。情報の総量が増えました。それによって世の中の寛容と不寛容、いいこと悪いこと、イエス、ノーの2極化ではなくて、間が増えるかなと思ったのですが。より極端と極端が増えることになっていき、間のところの中間層は極端なポリシーがないのでそれまで以上に言う必要もないし言わなくなりました。

強いポリシーがある人のほうが発言をするに決まっているので、情報量の増加によってグラデーションや幅が広がったということは起きず、2極化が進んでいるだけなのだなということは感じています。

それこそ仏教の役割としては、「極端になりましょう」とは言いません。真ん中の道、「中道」というのですが、いろんな偏りに寄らず真ん中らへんにいましょうという基本方針があります。

社会全体にもっとグラデーションができてくれればいいと思うのです。真ん中というもう1つの対立軸。第三が欲しいという意味ではなく。

「どうしても人がたくさんいると、どっちかの強い意見に行ってしまうね」という中で、「なんとなくどっちでもない真ん中らへんに心の軸足を置けたらいいよね」というのが仏教なのです。

中野:灰色でいてもいいじゃないかという。

友光:そうなんですよね。今、どうしてもイエスかノーか。良いことか悪いことかみたいになっていて、かなり2極化したところでの議論や判断が目につきます。話し合いにしても、右と左が話をして、間の人は眺めているだけというのもある。

それは昔からそうだと思いますが、相容れない者同士が立場で言葉を投げ合っているだけというシーンがかなり広がってきてしまったなと思っています。

中野:そうですね。1つにはSNSがあることで自分と同調する人とだけ付き合うことが可能になった、という事情があると思います。

地域が限定されていたり、移動が困難だと、どんなに嫌なやつでもなんとか話を合わせる必要が出てくる。例えば、職をなかなか移動できなかった時代には、どんなにクソみたいな上司でも言うことを聞かなきゃいけなかった。

しかし、SNSはそうではない。もうコンタクトを削除しちゃえば二度とその言説に合わせる必要はなくなるわけですね。

そうすると、実は多様性が高まっているようでいながら、非常に意見が均一になりやすいという状況が形成されつつある。

アイスバケツチャレンジというのがありましたね。

友光:ああ、ありましたね。

中野:覚えていますか? あれは賛否両論があって、非常に激しい論戦が繰り広げられましたね。

そんなとき、患者さん自身が「こんな運動をしてくれてありがとう」という主旨のツイートをしたのです。それを賛成派の人は何度もリツイートしたのですが、反対派の人は一度もリツートしない、という面白い現象が起きた。

これは、主張に合わないことは無視することができる、というのがネットのクラスターにおける言論空間の特徴だということを示唆する好例だと思います。そうなると、言い方は良くないですが、自分にとって都合の悪いことは真実でも無視できるということになりかねないので、対応のしようがない。

ネットは多様性や寛容性を高めるようでいて、実は逆方向に作用しているのではないかと思えてきます。

強い意見や極端な意見を持つことは「強さ」ではない

友光:これも極端な発想ですが、そのうえコミュニティに属すること自体がリスクになっていくと、本当に極端な人ばかりが世の中に増えていく方向性にいくのかなと思いますね。

中野:また極端でわかりやすいことを言う人ほどもてはやされる・もてはやしたいという性質が人間にあることを考えると、これからはそういう人が選ばれていくのだろうなという想像できますね。

友光 :「もっとバシっと派手なコメントくださいよ、中野先生」というのはやはりあるのですか? 言われる時とかあります?

中野:間接的には(笑)。「At your own risk.」 というのですかね。仕方ないですね。そのほうがみんな喜ぶし。

友光:そうなんですよね。仏教や宗教はいいものだと思っている人がいたり、宗教はダメ、怖いものだと思っている人もいます。

僕はリテラシーゼロの状況からお坊さんになって見て思うのが、宗教や仏教は別に良い悪いのどっちでもないよということです。

そうはいっても、宗教なんて信じるか信じないか、個人の妄想の世界ですというつもりもぜんぜんありませんよ。でも一人ひとりの心持ちとしては、「こっちに行っちゃうときもあるよね」「でも、良い日もあるよね。悪い日もあるよね」という中で、その揺れていったり、人を許せたり許せなかったりということができない自分を受け入れていく。

極端な意見を持っている人も、逆のこと言う人も、ヒステリーを起こす人も、どんな人でも「まあ自分もそんなときがあるよね」といって多少でも自分と違う人を受け入れていくというのを、僕は仏教や修行から学びました。

強い意見や極端な意見を持つことは、別に強さじゃありません。そんなに意固地にならないでくださいというか、もっとグラデーションを持っていきてほしいなとか、人に対しても自分に対しても、極端にならないで生きていってもらいたいなとすごく思っています。

中野:そうですね。

ルールがある夫婦ほど離婚しやすい

ルールを作った夫婦ほど離婚しやすいという研究がありまして。

友光:研究マニアですよね。世界中の研究を知っていますよね(笑)。

中野:マニアって(笑)。仕事なのでね。

これは弁護士の仕事を奪うつもりで言っているわけではありませんし、婚前契約書に助けられた人もたくさんいるだろうと思います。しかしながら、ルールが多い夫婦ほど離婚しやすくなるというデータはある。これは相手を糾弾するための口実が増えるからですね。相手を罰するための。

ルールは原則としてあるにしても、話し合いの余地があればまだ大丈夫ですね。ルールを破ったからには、なにか止むに止まれぬ事情があったのだろうと斟酌できる余裕があれば。

例えば、毎月どのくらい旦那さんが使うのか大体わかっているところに、「今月はどうも出費が多いようだ、あやしいな」「他の女性の元にでも行っているのか」と糾弾するつもりでいたら、「実は私宛のプレゼントをサプライズで買ってくれていました」なんてことだと、糾弾してしまったらすごく悲しいですよね。

友光:その不安がもったいないですよね。

中野:まあ、本当は誰かいるのかもしれないけどね(笑)。

友光:ちょっと金額が釣り合わないかもしれませんね。

中野:相手の事情も斟酌しましょう。よっぽどのことがなければ、ある程度は好きにさせてあげるのも、関係性を保つ上では大事なことかもしれませんし。

友光:そうですね。これがルールですというね。

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