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メディアは福島をどう報じてきたか(全5記事)

「右も左も不幸になってきている」原発推進・反対論争がポエム化する弊害を開沼博・武田徹両氏が語る

東日本大震災と原発をめぐる問題は、さまざまな立場の意見が乱立し、冷静に捉えて議論することが難しい状況にあります。そんな中、社会学者の開沼博氏が福島の問題を総体的に捉えなおした『はじめての福島学』の刊行。それに合わせて、メディアと社会の相関領域を執筆対象にしているジャーナリスト・評論家の武田徹氏をゲストに迎えたトークイベントが開催されました。人口、農林水産業、観光、復興政策、雇用、家族、避難指示区域など、さまざまな論点をかかえる福島、そして日本について、メディアがどのように報じてきたか、そして報じていくべきか。このパートでは、原発に関する言説が、現実に基づいた地に足の着いた議論ではなく、隠喩的な物言い=ポエムになってしまいがちな理由について考察。過去にある種の「美味しさ」を生み出してきた推進反対の二項対立構造が機能しなくなっている現状を解説します。

2014年に福島をめぐるモードのターニングポイントがあった

武田徹氏(以下、武田):今日のテーマ「メディアと福島」で、メディアのほうをあんまり話してないので、そちらを話しましょうか。

開沼博氏(以下、開沼):はい。福島をめぐるメディア論的なトピックとして私の方からは「2014年ターニングポイント仮説」を提唱しています。つまり、2014年は、3・11から3年間、それまでのメディアに存在した特異なモードが転換したのではないか。5年後、10年後に振り返って現在を見た時に、「2014年の前と後でモードが変わった」と言われるのではないか。

何がターニングポイントかというと、ひとつは政治的なモード。具体的には2014年2月の都知事選ですね。都知事選で小泉、細川連合や、日弁連の宇都宮さんなどが非常に華々しく象徴的に登場し敗北した。それは「脱原発」というカードを切れば政治は勝てるんじゃないか、という幻想が潰えた最後の花火であった。

この幻想自体は、2014年2月に始まった話じゃなくて、2013年8月の参院選、あるいは2012年末の衆議院選でも同様にあった。2012年末の衆議院選というのは、未来の党が出てきた選挙ですね。

あの時は、選挙結果が出る前に出版された本の中に、未来の党の出現を礼賛するようなものもあったのを覚えています。書いた人からすれば恥ずかしい本になっちゃったでしょうけど(笑)、それで2012年13年、14年となってさすがに最後っ屁だったと思うのが都知事選だった。

とりわけ、あの細川護煕はもちろん、小泉純一郎が出てきての結果は、2011年以降、ひとつのポピュリズムとして有効だと思われていた、選挙で使える1枚のカードを徹底的に陳腐化させる機能を果たしたと言わざるをえないでしょう。

もうひとつが、メディア論的なモード。具体的には吉田調書ですね。朝日新聞社長の首が飛ぶくらいのことになった。

その背景には、原発や放射線というイデオロギー、あるいは東電や経産省をつるし上げるひとつの文法を極限まで突き詰めて行く先にメディアの活路がある、かのようなバブルがあった。そのバブルに乗っかりすぎた結果、「もっと過激に」「もっと叩けるんじゃないか」と、実際にはネタが切れているにも関わらず、筆がすべって脇甘く飛ばしてしまった。

そして、最後、社会的なモードが転換するきっかけとして美味しんぼ事件ですね。先ほども出たとおり、さすがに放射線のことを言いすぎる人はいかがなものかという空気が高まっている。ここらへんは今後、良きタイミングで実証的に記述していければと思っています。

この3つのエポックメイキングな事件があった中、2014年前とその後で、だいぶ議論の文法が変わったと思っています。

盃を大きくしていくような論法の問題点

開沼:武田さんはそこら辺を全然別の枠組みで分析されているかと思いながら今日来たんですけど、いかがでしょうか。

武田:そうか。都知事選で細川が負けたことも勝負がついたことのひとつなんですね。

開沼:そう捉えています。

武田:私は開沼さんの実証的な方法が結構メジャーになってきてキテレツな説が支持を失っていったことでも勝負がついたと思っていたんですよ。同時にその両方があったのかもしれないですね。

後者のほうでいうと、歴史は繰り返してるところがあると思っていて、私がそのことで思い出したのは、福田恆存なんですね。福田恆存のお屠蘇の盃問題。これはお屠蘇を飲む盃って大きながそれぞれ違っていて全部重ねて収納されるじゃないですか。

その盃のような構図で議論をしていると福田恆存はいうんですね。たとえば内灘の教育の問題を言うときに、米軍がいるから風紀が乱れる、それは日本がアメリカの植民地と化してるからいけないのだとか、そもそも安保が問題だって、盃をどんどん大きなものにして説明してゆく。そうした論法が問題であることを福田恆存が50年代に言ってたんですね。

私は今回もそれと同じような話だと思っていて、原発事故が起きたことで東電が悪いとか、陰謀論になったり、どんどん大きな盃の話にしちゃうじゃないですか。そういう発想の仕方が、困ったことに結構、訴求力があったと思うんですよ。

私の分析だと、それは隠喩的な説明の仕方だと考えていて、質的につながるものを、より大きな盃で説明してしまう。同一性を媒介にして説明していくやり方ですね。

ポエム的な語り口のボロが出た

武田:これに対立するのは換喩的な説明の仕方で、何かがあったときにその原因を探る。その原因に対してはまた何か原因があるんじゃないかと探していく、つながりでどんどん説明していく、そういうやり方ですね。

質の類似で論を進める隠喩的な方法と、内容の関連をたどって論を展開する換喩的な方法、この2つが説明の原理として対照的になっていて、福田恆存は換喩的な説明の仕方をするべきであると言うんですよ。

内灘の教育問題を解決するのは別に安保を引いてこなくても、先生が優れた指導をすればいいとか、もっと具体的なことが指摘できるはずだし、具体的に解決できるやり方があるだろうと。開沼さんが使った言葉でいえば政治の問題以前に生活の問題っていうことですよ。

つまり目的を果たすための手段を具体的に選んでいけば、解決すべき目的はおのずと果たせると言っている。屠蘇の盃的な説明の仕方ではだめで、目的と手段の関係をちゃんと追っていこうと言っていたんですね。それを思い出すところがあって。

その点、今回の『福島学』での開沼さんのやり方は、一つひとつ繋がりで、Aの原因は何だろうってことで、Bを調べていくということを実証的にやるやり方ですよね。

それは私から見るととても換喩的なやり方だと思っていて、換喩的なやり方というのは散文的なやり方でもあると私は言いたいと思っていて、その逆の隠喩的なのは詩的です。つまりポエムですよ。

で、ポエム的な言い方が、実証的な、散文的なやり方の前にボロが出ちゃった。空虚な説明の仕方に過ぎなかったことが歴然としたのが2014年かなと、思ったんですよ。そうして潮目が変わった。

なぜ社会がポエムに走ったのか?

開沼:そうですね。本当に今の説明図式の通りで、ポエム的なものがどんどんバブっていたところが当初はあったと思います。だから本の中では、文明論的なという言い方をしましたけれども、つまり、「我々は物質の大量消費社会を反省し、日本を根本的に変えなきゃ」云々と延々と語る輩が跋扈する状況があった4年間があったわけです。

ただ、そんなの現場からしたら、「いや別にもう目の前で人が死んでんだから、その人をどうするかってことを考えろ」ということでしかない。

高齢者を無理やり避難させることで死んだとすれば、避難していることの体へのリスクがあるんじゃないのか、とか、病院が混んでいるんだったら、お医者さんをどうやって呼び集めて医療福祉体制を再構築するかという議論をすべきであって、そこで抽象的でふわっとした文明論を語っても仕方がない。

その点で、3・11以後の思想空間など未曾有でも何でもない退屈で戯画的なな焼き直しでしかないのかもしれない。左翼的なもの、右翼的なもの、あるいは理想主義的なもの、現実主義的なものの対立。まさに福田恆存はリアリストとして出てきた人なわけですけども、ずっとあった図式を反復しているだけなのかとも思っていたりします。

その上でもしかしたら、これは私が若いから適当なことを言っているのかもしれないんですけども、昔はこういうことがあったときに、リアリズムで、武田さんの言葉を受けるなら散文で対応できる論者なり、あるいは社会の体制があったんじゃないかなと。

なぜここでいきなりポエムに走ったのかは、ずっと問わなきゃならない問いだと思っています。自分の中にいくつか仮説があるんですけども、武田さんとしては、なんでここに来てポエム的なものがバブったのか。

メディアもそこを煽った部分が非常に強くあったんじゃなでしょうか。わかりやすく、しかし不可解な問いでもありますが、右派メディア、右派論壇雑誌に書いているような人までも一気に反原発だと言ってポエム化したのはなぜなのか。

彼らは、ある面、ずっと耐えていたじゃないですか。歴史認識論争にしても、それ以前の安保系の話にしても、ずっと耐えて耐えて、リアリズムを軸に散文らしきポエムを相対化しながら議論の演壇を広げる一定の役割があったはずなのに、そこまで崩壊した理由は何なのか、ずっと答えが出ないところなんですけど、いかがでしょう。

日本のポエム化は80年代から始まっていた

武田:3・11のインパクトは大きかったですよね。普段だったらとても通用しないような言葉が優れた鎮魂の詩のように思われたり、どうしようもないドキュメンタリー作品に感動する人が増えたり、やっぱり平常心でいられなくなるほどの衝撃の大きさがあったと思うのだけれども、実はそれ以前から私たちの社会はポエムに対して弱くなっていたんじゃないのか。

ポエム的なもの、キャッチコピーとか見出の短い文章に惹かれて本質を見誤ってしまうような感性というのは、まさに80年代の高度消費化の中で育ってきたものでしょう。情報に対しても消費者として関わるように馴らされていったわけです。今のポエム化問題というのは、80年代以降の日本社会が短い文章や詩的なものに喚起されやすくなってきていたところに、3.11のインパクトが重なって起きた現象なのかなと思うこともありますね。

やっぱり論壇誌は弱くなってるし、雑誌の記事もどんどん短くなっているわけですね。どんどん短文化していって、わかりやすい言葉で端的に示す。それは左右の別なく進んだ傾向でしょう。

でもそのわかりやすいというのはあくまでも感覚的なもので、何となくわかったような気がするというポエム的な受容の仕方です。そんな感性が徐々に作られてきていった中での3・11。そういう巡りあわせもあったのかなと思うのですけどね。

ポエム化に対抗する散文をどうやって生み出していくか

開沼:とはいえ先ほどの当事者・統治者問題でいくと、当事者に近いところで言葉を作っていく限りは、ポエムなんてやってらんないという切迫感があるわけです。でも統治者も右も左もポエム的なものを駆使し事態を見誤り続ける政治の中で、どう現実を投げ返していって抵抗するのか、これは一生向き合わなくちゃならないぐらいの大きな戦いだと思っています。

だからこの本ではポエム的なものを1個1個叩きつぶしていくことをやったつもりです。そして、それは福島の議論について、私がある程度は特異なポジションを偶然にも取れたから可能になっていることだとも思ってます。

ただこれは偶然なもので、リアリズムがもう議論として生き残れない社会になってきていると思ってもいる。

武田:それじゃあ困りますね。絶滅危惧種のリアリズムをなんとか保護しなくてはならない。その点、開沼さんが修士論文からデビューされたのは、ある意味では象徴的だと思いますよ。アカデミズムの世界はまだ長いものが書ける。

で、アカデミズムの世界で長く書いたものを出版する、それはできたものを出版するわけだから、出版社としてはコストがかからないやり方です。今、経営的に大変な出版社が多いわけですから、それくらいコストダウンしないと出せやしない。

書き下ろしでこれだけ長いものをゼロから面倒見つつ書かせることは、もう今の出版社には耐えられなくなっていて。修士論文とか博論の出版が、ポエム化に抗う散文の力のひとつとしてあるのかなとも思います。

だから、開沼さんも読売の書評委員をやってらっしゃったけど、私は今、朝日でやってますので、博論が元になった本を意識的に紹介しようと思っているんですよ。

それは博士を守ろうとしているわけではなくて、散文を守ることを意識的にしていかないとだめかなと思うから。私自身は本来的にはポエム的な人なのですが(笑)、散文的な精神を守りたいなと思ってます。

原発推進反対の二項対立の構造

開沼:その中で議論を発展させていくとすると、放射線の問題はそれこそ勝負がついてきていると思っています。ポエム的なものがもたらす害悪の部分は、相当つぶされてきているし、今後もこれ以上は膨らんでいかない構図がある。それを支えうる議論、散文的なものがある程度充実してきたのが、この1、2年かなと思うんです。

一方で問題だと思っているのは原発で、これは武田さんが震災前からまさに提示された図式ですし、私はそれを「『フクシマ』論」の中で引き継いでいるんですけども、原発推進と反対の二項対立構造の問題ですね。

体制側はずっと推進だということを言っていて、官僚機構の中で、あるいは巨大産業機構の中で淡々と、最近の流行で言えば「粛々と」やっていくと。一方で、社会運動なり、「リベラル」知識層の中では、いや反対のほうがいいよと、それこそポエム的なノリからずっと言っている。

ここはずっとすれ違いながら、結果としてどっちも美味しくない形になっている問題があったのが、僕は震災後悪化しているともとらえていて。

さらにポエム化が大きくなっている反対派と、大きくなりすぎたポエムに一切向き合おうとしない推進派の議論にならぬ議論の末に、現状は、推進派は「もう時間が経って冷ますのを待とう」というような投げやりな戦術になってきているし、反対派は同じお題目をひたすら繰り返す芸のみになり益々現実を直視しない状況が深まっている。

この原発推進反対二項対立による誰も美味しくなくなる構造について、3.11のその後の変化、4年間たってどういうふうに見てらっしゃるかなと。

二項対立構造が「美味しさ」を生み出していた時代

武田:推進と反対の対立構造がともに美味しくないとおっしゃったけれども、3・11前は結構美味しかった、あるいは美味しく感じさせられていたんじゃないか。

時々小さいトラブルのがあったけれど、そんなに大きい問題にはならなくて、原発は淡々と運転してくれていたわけでしょう。それで交付金がくるわけだし、いろいろな問題があるとは思いながらも地域は豊かになっていったわけだし、反対派の人がいると、政府側の交付金を出す側も、反対派を意識して、もっとたくさん交付金をくれるからこれも美味しい。

開沼:安全の基準もなんとなく高まったみたいな。

武田:表面上ではそうでしたよね。対立構造の中で何となくうまくやって来られたんです。大きな問題が起きなかったというのが背景にあって、対立が問題化しない平和的な状況があった。

憲法の論争も近いところがあって、護憲と改憲でいろいろ言い合うんだけども、別に大局に影響しない。日米安保条約があって日本はアメリカ側の一翼を担いつつも、冷戦構造の中で戦争は起きないので9条が試されることもない。同じように議論をいくらしても大局に影響を与えることなく、議論として完結してしまう構図が原発をめぐってもあったと思うんです。

それが変わったのが3・11で、具体的な問題が出てくるわけですよね。それを解決しなきゃいけないときに、推進と反対の構図がうまくいかなくなってくるってことですよね。そういう変化があった。

私自身は3・11前から「推進反対の対立構図は、実はリスクを増やしている」という問題に気づくべきだという議論をしてきたけども、それは外から見た時の話であって、地元はとりあえず事故はなかったし、豊かになれたんだからよかったじゃないかという認識だったのではないかと思うのです。そういう意味では、反対派も推進派もお互いに結構美味しかったのではないか。

福島では現実的な議論が受け入れられるようになってきている

開沼:生活実感のレベルで言えば全くそうですね。事故が起こらない限り、地元のおっちゃんにとっては、「知らねーよ。別に事故起こんないって話を聞いてるし。以上」ということなので。それで大して問題がなかった。

でも、そうではないことも3・11で顕在化したし、あるいは原発の再稼働をなかなかしてくれなくて、地元の弁当業者や民宿がつぶれまくってる事実が現にあるわけですね。今後も安定的に行けるかわかんないという話が地元にはあったりして、「とっとと再稼働しろよ」という突き上げがある。

一方で、反対派としていろんな不安を持つ方は、淡々と震災前の状況に振り子が戻ろうとしている中で、不安不満を募らせてきている状況になって、右も左も全体の幸福量から見るたら相当不幸になってきているのは、震災後の二項対立の中でありますね。

武田:潜在的なものが顕在化したと思うのです。そして顕在化してより具体的になってきていますよね。そうすると、そこで今度こそ問題解決しなきゃいけないので、当事者としては「この問題に関しては、これが原因だからこれを解決しなきゃいけない」と散文的な対応の仕方を余儀なくされる構図はあったと思います。

福島はそういう場所になって、開沼さんの議論が受け入れられるような余地ができてきたのだろうと思う。しかし、福島以外のところではどうなのかは別な問題ですね。

対立構造自体を意識化する必要がある

開沼:でも、ずっと取り組まれてきた問題の中で、リスクであったり生活実感の上でのベネフィットが悪化し続ける構造が進化したところに対して、武田さんとして、こうしたらいいとかいうヒントが見えていますか?

武田:「囚人のジレンマ」を使って私はずいぶん議論してきていて、開沼さんと一緒にシンポジウムに出たときにいろいろと批判されたんだけれども、明らかに力が違うだろうと。東電と政府はすごい巨大な権力であって、反対派は全然小さい泡沫な力しかない。にもかかわらず「囚人のジレンマ」とかいって、力が均衡してしまってリスクを避けられなくなるというのはおかしいという意見を出されたのですけども。

それは逆におかしくて、「囚人のジレンマ」状態に至るのは力の大小の問題ではないですよね。力の大小とは無関係にある種の均衡状態になってしまい、それが必ずしも望ましい状態ではないということ自体が問題。対立の構図によってそうした膠着状態が作られると、ちょっとずつリスクを減らしていくことができない。その問題点を議論するためには、力関係の大小ではなく、枠組み自体を意識化する必要があると思っています。逆に力の大小に眼を眩ませられてはならない。

だからこそ東電がとか、政府が、世界の原子力資本の陰謀がーっとどんどんデカイ話の杯を出してくるんじゃなくて、今度こそ散文の世界でちゃんと具体的な問題解決を、具体的に目的と手段を結びつけながらやっていかなきゃいけないと思っていますけども。

原発の問題をポエム化せずに語れる人が足りない

開沼:ほかの議論については散文で語れる人でも、原発の話になると一気にポエムになるというパターンがある中で、原発の問題をポジションを取らずに、別に推進でも反対でもなく語れる人がもう片手で数えられるぐらいしかいない。学問的にはそういう立場がマジョリティーであっておかしくないはずなのに、ほとんどいない状況がますます強まっている。

その中で具体的な問題解決が疎かになりながらも現実が進行している側面は確かにあるんではないでしょうか。

武田:自分がその内部にいるので、あんまり薄っぺらな批判はしたくないんだけども、商業的なメディアはある種の自然体として、ポエム化せざるを得ない宿命をはらんでもいると思うのですね。利益を出そうと思うと、多くの人にわかりやすくとか、多くの人を惹きつけるようにもっと気が利いた言い方でとかいうことに重心が置かれて、そのうちに面倒なディテイルははしょってとか、ポエムになびかざるを得なくなってゆく面がある。

だからこそ、そこをもっと意識化するべきで、そうしたポエムになびくシステム的な形式を意識した上で内部から戦うべきだと思う。

たとえばアカデミズム起点の出版活動の領域を意図的にちょっとずつ増やしていくとか、違うシステムを作っていくような努力を一定程度意識的にやっていかないとまずいと思うんですけどね。

開沼:なるほど。そうですね。それはなかなかすぐにはできなくても具体的に実践する中で違うシステムづくりを続けていきたいと思っています。

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