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メディアは福島をどう報じてきたか(全5記事)

戦後日本の風景は奇妙な愛郷心によって作られた 福島をめぐる議論の出発点を開沼博・武田徹両氏が語る

東日本大震災と原発をめぐる問題は、さまざまな立場の意見が乱立し、冷静に捉えて議論することが難しい状況にあります。そんな中、社会学者の開沼博氏が福島の問題を総体的に捉えなおした『はじめての福島学』の刊行。それに合わせて、メディアと社会の相関領域を執筆対象にしているジャーナリスト・評論家の武田徹氏をゲストに迎えたトークイベントが開催されました。人口、農林水産業、観光、復興政策、雇用、家族、避難指示区域など、さまざまな論点をかかえる福島、そして日本について、メディアがどのように報じてきたか、そして報じていくべきか。このパートでは、戦後日本の風景を作った奇妙な愛郷心や、政治と生活の間にある溝などについて語られました。

冷静に、正面から福島を語る難しさ

開沼博氏(以下、開沼):早速始めたいと思います。今日は『はじめての福島学』の刊行記念ということで武田徹さんとお話させていただきたく思います。本の刊行から今は3月、4月、5月の半ば過ぎているわけですけれども、おかげさまで3刷り1万2千部です。

(会場拍手)

はじめての福島学

ああ、ありがとうございます(笑)。今の出版事情を考えると刷り部数で1万部を超えるのはとても貴重なことかな、支えていただいてありがたいなと思っています。

そのありがたいというのは、そもそも福島の議論というのが帯にも書いてありますとおり「難しい、面倒くさい」状況になっている。その中で、もしかしたら実売で数千部で終わるんじゃないのかなという危惧が、書いているときは正直ありました。

最初の刷り部数も、安全策でいったら4千、5千でもおかしくないテーマなのかなと。ほかの福島の本を見ればそれでも多いんじゃないかという実績も出てきている状況の中で、イーストプレスさんが初版7千部刷ってくださった。

これは、僕は特に細かい話は聞いていないですけど、内部ではいろんな調整をして、力を入れていただいているということだと思っております。

編集部の部長さんが福島市出身の方だったり、今日来ている編集者である藁谷さんのお父さんがいわき市出身だったり、そんな縁があることも、力を入れていただいた理由の一つとしてあるのかなと思ったりします。

そういうわけで、「福島の本」「原発関連の本」自体、なかなか売れづらい状況がありました。3月10日に関西の本屋をずっと回ったんですけれども、福島・原発関連書籍コーナーで近くに置いてある本が、ひとつは雁屋哲『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』。その横に内海聡『放射能と原発の真実』がだーっと並んでいる(笑)。で、ちょっと上を見ると内田樹本が全棚取っている。

そんな最近の出版事情を象徴するような状況があることを目の当たりにし、その中で冷静に、正面から福島を語る、あるいは3・11を語るのはとても難しくなってきていることを痛感しておりました。

そういった意味では、「開沼が3・11から4年にあてて書いた本も3千部で終わっちゃったんだ」と実績を出せなかったら、今後、正面から福島を語る本の企画が版元を通らなくなってしまう。通っても、「福島の本の刷り部数を増やすのはなかなか躊躇するよね」という話がますます出てきてしまう。出版する前はそんな危惧をしておりました。

そういった意味では、次につなげることもできたのかなと思っています。

開沼氏と武田氏の出会い

開沼:その点では、『はじめての福島学』自体の上に色んな議論が蓄積されていけばいいと考えています。様々な方に『はじめての福島学』をネタとして対談をお願いして参りました。オンラインで確認できるものだと、糸井重里さんや上野千鶴子さん、武田さんも『核と日本人』の書評をどこかで書かれていましたけど、山本昭宏さんという若い核・原子力の歴史の研究者との対談も京都でやってきました。

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)

そんな中でこの度、武田徹さんに対談の相手をお願いしたのは当初より考えていたことでした。やっぱり武田さんは、僕にとっては一方的に指導教官的な存在というか、北極星のように目標に向かって走りながら横目でどこにいるのか確認をして「ああ、方向を間違ってないな」と確認するような存在だと思っています。

大変僭越な言い方ですけれども、とりわけ3・11以降の言論状況の中で、これほど信頼を持てる方はなかなかいないと思っていて、今回も本を出した事実がある程度浸透するところに浸透して、自分自身もう一度冷静にこの本の意味を考えなおさなければならないタイミングが武田さんとお話ができる機会だと思っておりました。

一番最初に武田さんと公開の場でお話ししたのが、2011年の4月5日のニコ生で、あと飯田哲也さんがいて、ニコ生で福島の原発について語りました。それから、2012年度末に毎日新聞で私が連載を持っていたんですけれども、そちらで私の指導教官の吉見俊哉さんを交えてお話をしたことがありました。

今回はそういった意味では直接お話するのは久しぶりのものになりますけれども、この本の内容自体ではなく、本の内容は結構おさえてくださってる方、ハイエンドユーザーというか、ハイコンテクストなこともついてこられる方も多いんじゃないのかと想定していますので、込み入った、本に書いていない話を中心にしていければなと思っております。

ということで前置きが長くなってしまいましたが、私のほうからいろいろ質問を振っていきたいと思います。最初に自己紹介や単純に拙書を読んで思ったことなど、何でもいいですので、お話しいただければなと思います。

『「フクシマ」論』の毎日出版文化賞受賞

武田徹氏(以下、武田):今ご紹介いただきました武田です。北極星などというすばらしい(笑)喩えをしてもらって恐縮しています。私の方からも開沼さんとの出会いを話させていただくと、福島の本(『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』)の元になった修論の配布版をファイルで見せてもらったんです。それが私のデータ上の開沼さんとの出会いでありまして、ちょっと圧倒された。すごいなと思いましたね。

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

この若さでこんなものが書けちゃうって、どういう人生を生きてきたのか、そしてこの人はこの後、どういう人生を生きてゆくことになるのだろうと思いました。私は時間だけはもう倍ぐらい生きているんですけど、多分、読書量でも開沼さんのほうが既に多いんじゃないかと思うぐらいで。

その修士論文をお出しになった直後に3・11を経験されて、これは『「フクシマ」論』として出版された時にだったように思うけれど、「自分は孤独なランナーだったんだけれども、スタジアムに戻ってきて最後の周回をしているときにスポットライトがあたってしまった」とすごく印象的な書き方をされていました。原子力問題が既に世間的には周縁化されている中でこつこつと研究を続けてきて修論を出したと思ったら突然注目を浴びたということですね。

私は3・11のときに日本になかったので、日本に戻ってきた後に4月放送のニコ生の番組で初めてご一緒しました。

確か浜町のスタジオでした。夜の収録で、スタジオに向うエレベーターホールでまず会って、そこで名刺交換をさせていただいたのが最初のリアル開沼との出会いでした。

その後も開沼さんとは色々とご縁があって、今ご紹介をされなかったものをひとつ補足すると毎日新聞で2011年の8月1日に『ニュース争論』という、私たちふたりで話したものをまとめた記事がでています。

その時、毎日新聞の学芸部の人から「こういう企画があるから、誰かと対談をしてくれないか」という依頼があって、お相手は誰がいいかと聞かれたので「開沼さんがいいんじゃない?」という話をしました。ところが「え、どんな人?」みたいな感じでしたね。

そこで修論のことを教えてあげて、それから毎日新聞の人も『「フクシマ」論』を改めて読み始めて、「ああ、この人いいじゃない」となった。対談したときには開沼さんのほうがもちろんはるかに詳しいからメインにお話しになって、それが記事になっています。これは今もデータで読めますから読んでいただきたいと思います。

この記事は2011年の7月中に収録してますけれど、今のやりとりからわかるように、このときまで毎日新聞は「開沼」を認識してなかったわけですね。それが結局、『「フクシマ」論』は毎日出版文化賞をお取りになるわけですから。私の紹介、推薦の働きが少しは役に立ってるのかなと思っております(笑)。

福島に関する講演は200回以上

武田:その後もシンポジウムでよく会って、実は私の勤め先の大学にも1回来てもらったんです。玄侑宗久さんと大澤信亮さんと、開沼さんと3人で話をしてもらったことがあって、2011年の11月でしたけども、それもすごくいい内容のシンポジウムだったと思います。

というのもうちは山本太郎とかゲスト講師に呼んじゃう大学ですから(笑)、私のような議論の仕方は、多少の摩擦を学内に発生させる場合が時にある。

でも自分で企画するシンポジウムでは、私が原子力に関してはこういう話をしたほうがいいんじゃないかと思うような人選から始めてテーマ設定をしますから。そういう意味ではアウェイの雰囲気の中で、開沼さんに話をしてもらったと思います。

そして2011年12月3日に「日本現象学・社会科学会」というのに出ました。このときは毛利嘉孝さんと、確か3人でパネルをやった記憶があります。毛利嘉孝さんはストリートデモ系の人なので、この時期にはアウェイじゃないですよね。

開沼さんもそのころは結構うまく話してらっしゃって、批判をかわしていました(笑)。ところが私はあのシンポジウムではいろいろおっしゃっていただいて。

そのときはこんなの別に平気だよと思ってたんですけれども、内心では実はこたえていたようで、その3日後にひどいぎっくり腰になって、その後しばらく動けなくなるという経験をしました。

このように私も2011年の間はシンポジウムで話をするなど、結構いろいろなところに出ていたんですけども、その後、大学の仕事が忙しくなったこともあって、人前で話すような場からは少し距離を持つようになりました。

そのあいだにも開沼さんはずっと福島のことをやってらっしゃっていて、講演が200回?

開沼:はい、200回以上ですね。

武田:すごいですよね。これだけやってこられたのは、どうしてここまで頑張れるのか、その辺の話も聞いてみたいかなと今日は思っていまして。

福島への愛郷心は事後的に芽生えた

武田:というわけで本論に行きましょうか。前に毎日のメディアカフェでお話をされたときに、後で質問をしたんですけども、開沼さんは磐城高校出身で、東北が地元ですよね。

それが200回の講演活動・イベント活動をしてきた開沼さんにとって大きかったのかなと思うところがあって。そんな話をメディアカフェでちらっとしましたけれども、改めて聞きたい。やっぱり愛郷心はありますか?

今、開沼さんは福島のために本当に献身的にがんばっていると思うんだけど、それがストレートに愛郷心の産物なのかというのは、ちょっと気になるところなのです。

開沼:メディアカフェのときにお話ししたことから言えば、私の福島を対象とした社会学的な研究は修士論文に落とし込まれるかたちで2006年から2011年にかけてやってたんですけども、それが終わったら、もうやめようって思っていたんですね。多少興味はあるけど、別に一生ずっとやるもんではないと思っていた。修士論文の内容までで、やりたいと思っていたことはもうだいぶやり終えたと思っていた。

ただ震災があって、そこに継続的に関わっていくことになりました。でもその時点では愛郷心というよりは、そこに自分にしかできない仕事があるから、という感覚が強かった。ろくに事情知らないのに適当なことばかりいう人が溢れてましたからね。聞きかじりの誤解・デマを色んなところでふれ回ったり、自分のイデオロギーを正当化するために福島ネタ利用したり。そういうのを潰す必要がありました。

ただ、「楽しいから」という感覚も強かった。何年も人と地域に深く関わって根づいていくうちに、農家さんでもそうですし、学校の先生でもそうですし、研究生同士でもそうですし、顔の見える関係ができていく中で、確かにこの地域に関わり続けるのは面白いな、好きだな、と。

それは愛郷心と呼ばれるものの芽生えと言ってもいいでしょう。愛郷心は後から事後的に芽生えたのかなという感覚があります。

出身者だからといって必ずしも当事者ではない。震災のときは当事者ではなかったのかもしれない。そんな自分が、事後的に当事者的なものを獲得していった部分があったのかなと思っています。

愛郷心をキーワードに戦後の日本を読み解く

開沼:その愛郷心の正体は何かというと、今言ったことなんですけど、エリアに対する空間的なものじゃなくて、人のつながり的なもの、俗人的なものなのかと思っています。

これはもしかしたらずっとケアし続けないと消えていってしまうものなのかもしれない。今いる福島大学は、一応復興予算でできているので、5年間で組織が見直しされ任期が切れる前提があるんですね。今年度で一応終わりということになっていって、現時点で、進路はまだ特に何も決まっていません。

そうしたら、今よりは若干人間関係とかが希薄にならざるを得ない。そうなると愛郷心みたいなものは薄れていくのかなということもぼんやりと思ったりします。だから「動的な愛郷心」みたいなものを持っているというのが答えかなと思っています。

武田:愛郷心って、私は日本の原発を考える上でキーワードになると思っているのです。かつて福島に原発を誘致したのも、愛郷心の産物でしょう。

開沼:そうです。『「フクシマ」論』にはそんな話を重要な議論の軸として描いています。

武田:それに対して、ああいう事故があって、ああいう形で福島に対する風評被害とかの問題があって、それに対して開沼さんがある種カウンター的な役割を果たすというのも愛郷心の産物だったようだし、愛郷心つながりで、いろんな展開の仕方があるのだろうけれども。

愛郷心という言葉で戦後の日本のかなりの部分が説明がつくような気がしていて、その辺はどんなふうにお感じになられますか。

開沼:おっしゃるとおり、『「フクシマ」論』ではこういう言葉は使わなかったですけれども、『はじめての福島学』で使っている枠組みで言うと、政治と生活の見え方の溝がある。都会から見ると政治の議論にしか見えない。福島といったら、原発・放射能。あるいは除染・賠償・避難の問題だと。すぐに「政府はしっかりしろ」みたいな話になる。

そのステレオタイプな、福島を政治的に語り統治の対象としようとする意識が風評被害等の源泉になっていった。しかし、実際に現地に入ってみると、政治の問題の前に生活の問題としてとらえられている。ここにギャップがあると思うんですね。

外から見た政治と中から見た生活のギャップをどう埋めるか

開沼:例えば、沖縄でも、外から見ていると、「基地の問題としての沖縄」みたいなのがあるけれども、地元に行ったら、「いや貧困問題もあってね」とか「シングルマザーが多くなってね」という中で、そういうのを積み上げていった先に、ひとつの問題として基地があるのかもしれない。

それと同様に、福島の問題も外から見ると、みんな原発反対運動をしているような空気なんじゃないかとか思うかもしれないけど、中に行くとそんなことはないいし、むしろ、運動を盛り上げるネタとして福島が利用されることへの違和感・反発が強い。

そうではなく、「雇用のことをどうするのか」とか「病院が混んでるんだけど、どうするの?」「教育水準をどうあげていくか」「高齢者が元気で入れるようにどんな施策を打つ?」という生活の話が普通にある。

だから外から見るときの政治の問題と、中から見るときの生活の問題のギャップをどう埋めるのかということを、すごく考えています。戦後の日本社会の作られ方は、まさに生活の問題として、「どうやって自分たちの子や孫がこの地域に生きていくのか」というような言葉で表される愛郷心を、うまく動員する形で政治が動いてきた。

例えば田中角栄的な政治はまさにそうです。武田さんの本にも書かれていますけども、「裏日本」の若い人がどんどん出ていくような地域を「土建で変えるんだ」と。今ならば「ITで社会を変える」というベンチャー企業家の若者がやったりしているわけですが、田中角栄がそれをやっていたわけなんですね。

「土建で日本を変えれば、出稼ぎに行かなくてもいいんだ」と、そこに新幹線や高速道路や原発を作った。それは確かに、愛郷心であった。他方、それは中央から見たら、開発主義的に未開なところを開発していく、ある意味で統治者意識だったのかもしれないけれど、この奇妙な愛郷心と「国家を一流のものにしていくんだ」という統治者意識が一致していったところに、戦後日本の風景ができていったわけです。

ここでいう戦後日本の風景を作っていった愛郷心と、今の自分が獲得したのかもしれない愛郷心らしきものの異同については、まだ整理がついていませんが、『はじめての福島学』を書く背景にいずれかの愛郷心があったというのは確かですね。

はじめての福島学

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