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“おもしろい仕事”をしている人は、いつも何を考えているのか(全7記事)

AKBからイエモンまで 監督・高橋栄樹氏がドキュメンタリー映画を撮るようになった理由

NHK連続テレビ小説「あまちゃん」のディレクター・吉田照幸氏が、その話術をまとめた『「おもしろい人」の会話の公式』(SBクリエイティブ)を刊行。それ記念して、下北沢・B&Bにてイベントが開催されました。イベントではゲストにAKB48からTHE YELLOW MONKEY、Mr.Children、GLAYなどの映像作品を手がける監督・高橋栄樹氏を迎えて、高橋監督がビデオアートの世界からミュージック・ビデオ、そしてドキュメンタリー映画へと進んでいったきっかけなどについてトーク。なぜ高橋監督は国民的アイドルのドキュメンタリー映画を撮ることになったのでしょうか?

吉田照幸氏との出会い

高橋栄樹氏(以下、高橋):お越しいただきまして、どうもありがとうございます。今日は私と、NHKのディレクターで「あまちゃん」などを作っていらっしゃる、番組ディレクターの吉田さんとの対談という予定で進行しておりますが、先ほど連絡がありまして、今日急遽撮影をやっていると。終えられて頑張ってこっちに向かってくるみたいなんですが、少々遅れているようなお話であります。

なので、吉田さんが到着するまでの間は、私と、吉田さんの著書を出版されているSBクリエイティブの多根さんと、2人で進行させていただければと思っておりますので、よろしくお願いします。

多根氏(以下、多根):吉田さんの方から、今新番組の収録の最終日で、40分ほど撮影が延びてしまったので、急いで栃木の方から今、駆け付けているところですとの連絡がありました。

高橋:栃木からですか!?

多根:ただもう本当に楽しみにしているみたいなので、どうぞよろしくお願いいたします。

高橋:ありがとうございます。何か非常にやりにくい状況、めったに遭遇することのないような状況から始まるんですけども。そもそも吉田さんと僕とが、どういうふうに知り合ったかをお話すると、TBSのドラマ番組のプロデューサーの方で、わりと業界飲み会をセッティングするのがお好きな方がいらっしゃいまして、その方と一緒に、飲み会の場で初めてお会いしたっていうのが、吉田さんとの出会いだったんですけども。

僕それまで吉田さんの人となりは全然存じ上げていなくて、女優さんや女性社長みたいな人とか、わりといろいろな多種多様な方がいらっしゃる中で飲み会をしていたら、急にフラッと変なおじさんというか、普通のおじさんが入って来られまして。そしたらすごく話がお上手で、やたらおもしろいんです。

すごい場が盛り上がって、てっきり、「僕は知らなかったけど、女優さんとか女性社長さんの知り合いの方なんだな」と思って。いきなりタメ口でワイワイ話をしていて、おもしろい人だなと思ってよく聞いてみたら、「あまちゃん」というドラマの、もちろん国民的なドラマですけど、その監督の方であると。その前には、同じくNHKで「サラリーマンNEO」という、恐らくNHKで初めてのコントの番組ですかね。

多根:そうかもしれません。

高橋:それを手掛けてらっしゃった方で、「ああ、なるほど」っていう。「じゃ、皆さん、番組でのお知り合いなんですね」「いや、今日初めて会いました」っていう。だから、いきなり初対面で入ってきて、そのあと急に周りの方がワーッと盛り上がっていくような場を作られる。非常に話術の巧みな方だという印象です。

監督にも役立つ会話術

高橋:でも巧みって言っても、計算してやっているというよりは、素のおもしろさが際立っていて、やっぱり「あまちゃん」を作っている人ってすごいんだなと思いました。何かどうも、何で俺が宣伝するのか良くわからないんですけど、その方が最近本を出されて。

多根:こちらです(『「おもしろい人」の会話の公式』)。

高橋:買ってちゃんと読んだんですけど。

多根:どうもありがとうございます!

高橋:何で俺、人の本を宣伝しないといけないんだろ(笑)。『「おもしろい人」の会話の公式』っていうのは、最近出た本だとお伺いしているんです。早速僕も読ませていただいたんですけど、日常会話で煮詰まることとか、会話が上手く発展しないってこととかいっぱいあって、僕も正直、話が上手い方じゃないので、ノウハウ本として非常におもしろかったです。

それから僕は映像のディレクターなので、演出する側としては、監督目線でもあるなと思って。俳優さんを演出する時に、初対面の人とか、変な話、緊張をほぐしていきながら会話を弾ませていったりすることってあるじゃないですか。

たぶんそういうところでの、監督としての経験も入っているんじゃないかなと思って、非常におもしろく読ませていただいたので、ぜひ、あとでご本人がいらっしゃった時は、そのお話をしたいと思うんですが。

という感じで始めて、進めていっていいんでしょうか?

多根:すみません。

高橋:大丈夫ですか? 本当に僕、話がそんなに上手くないので。なおかつ早口なんです。なので、もしちょっと話が速いと思われた方は、遠慮なく挙手していただいて、「もうちょっとゆっくり喋って欲しい」とか言っていただいた方が、すごいありがたいと思います。

たまにミュージック・ビデオとかのメイキング見ると、「何か1人だけすごい早送りみたいな奴がいるな」とか思う時があるんです。「現場ですごい勢いで動いていて、早口で喋っている変な人がいるな」と思ったら自分だったっていうことが、本当によくあるので、むしろよくわからないことがあれば、いつでも遠慮なく言っていただければいいかと思います。

組織の中のクリエイターという共通点

高橋:それで差支えなければ、私の自己紹介をさせていただければと思います。改めまして、高橋栄樹と申します。私は映像の監督というのを、かれこれ25年ぐらいやっておりまして、今はミュージック・ビデオの監督を主にしております。

最初の頃は、一番有名なところで言えばTHE YELLOW MONKEYっていうバンドであったり、あとはMr.Childrenとか、あるいは佐野元春さんとかGLAYとか、どっちかっていうとわりと硬派な男性アーティストのミュージック・ビデオを作ることが多かったです。

その一方で明和電機という、現代美術のアーティストの方ともご一緒させていただいておりました。僕自身もともとビデオアートという今で言うメディアアートの走りですね、そういう現代美術に少々携わっていたというか、専攻もそういうところだったので、多少アートの方向にもいきつつ商業監督をやっていた、というのが今までの経歴だったんですが、昨今ではどちらかというとAKB48というアイドルグループ、みなさんよくご存知だと思いますが、そのグループのミュージック・ビデオやドキュメンタリーを作ることが、わりと主たる業務となってきております。

最近お会いする方からは「アイドルの仕事をしている人」と思われていて、「え、ロックもやっていたんですか?」というような驚き方をされるんです。ちょっと前までは「え、アイドルやっているんですか!?」という驚き方から、ここ数年でガラッと変わったなという感じです。

まあ、そういう経歴であると同時に、吉田さんとも今日の話の論点になると思うんですけど、僕はフリーのディレクターじゃなくて、凸版印刷という印刷会社がございまして、その会社の社員なんです。

もちろん、存じ上げているかもしれませんけど、吉田さんもNHKエンタープライズの社員の方ですよね?

多根:そうです。

高橋:今はそう。もともとは、NHKの本局にお勤めですよね?

多根:はい。

高橋:ですので、そういう大きい国営の放送局の方なので、その意味では、「フリーでガンガン行くぜ!」というよりは、その大きな組織に属していながら、その組織の中で自分の考え方を通していったり、逆に通せなかったりとかやっていきながら、自分のポジションみたいなものを作っていったっていうところで、吉田さんとは共通点なのかなと思っています。なので、いらっしゃったところでそういうお話もできればと思っています。

アイドルと震災

高橋:あともう1つは、僕がAKBのドキュメンタリーを初めて撮ったのが2012年なんですが、2012年公開のドキュメンタリーということは、そのアイドルグループの昨年の出来事、ほぼ2011年ぐらいの出来事を追いかけたドキュメンタリーとなるわけなんですが、2011年というのは、皆さんご存知の通り、3月11日に東日本大震災という、大きな地震がありました。

その地震のあと、AKB48は被災地支援活動を行ったんです。直ちに。それは実は今も続いていて、3月に地震があって、6月から始まったから、3ヶ月後って結構早い時期なんです。それからずっと、昨日もやっていたんじゃないかな? 福島で。だからずっといまだに続いているっていう、そのドキュメンタリーを作っています。

だから2012年に「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」非常に長いタイトルですが、そのドキュメンタリーの中で、アイドルと震災というものを初めて描いたと。

同時に吉田さんは、2013年に「あまちゃん」というドラマが始まりまして、ご存知の通り、岩手の海女さんになろうとしている女の子がいて、それが東京に戻って来てアイドルになって、という中で、3月11日の東日本大震災が、最終的に1つのクライマックスになって描かれると。

そこでもアイドルと震災というものが描かれていて、恐らくこの話にも吉田さんとはなるんじゃないかなと思っています。吉田さんと以前お話させていただいた時は、個人的に聞いたお話なので、もしかしたら間違いかもしれないですが、「あまちゃん」を作る時に、「DOCUMENTARY of AKB48〜」をご覧になっていただいたという話もあったので、その辺のことにもあらためてお聞きしたいと思っております。

ここまでで何か質問とか、聞いてみたいこととかあれば、全然遠慮なく受け付けますけども。大丈夫ですか? 学校の授業じゃないので、いきなり質問って言われてもよくわからないって感じですか(笑)?

AKBのドキュメンタリー映画を撮ることになったきっかけ

高橋:その「DOCUMENTARY of AKB48〜」ですが、これ実は2011年の10月の半ばに、初めて「ドキュメンタリーの監督を」っていうオファーを、秋元先生からお電話でいただきまして。

「え!?」という驚きだったんですけど、兎にも角にも。というのは、「公開いつですか?」ってお聞きしたら、「1月の終り」って仰るんです。「10月半ばにお電話いただいて1月ってことは、これどう考えても3ヶ月ないですよね」っていう。

当然、劇場にいろいろ送り届けたりってこと考えると、「正味2ヶ月半ですね」っていう話で。ただ僕にはあまり断るという選択肢はなく、当然、今回みたいな被災地支援活動も存じ上げていたので、きちんと描くいい機会だと思ったので、お引き受けしました。あとにも先にも、2ヶ月半で1本のドキュメンタリー映画を仕上げるというのはありません。

しかもそこには震災という大きなテーマがあるので、取り扱いを誤ると、非常に多くの方を傷付けてしまう可能性もあることだったので、やっているこっちも結構ドキドキだったんですが、どうにかこうにかきちんと形にできて、見ていただいた方からは、「ドキュメンタリーとして非常に良かった」という評価をいただけて、安心したのを覚えています。

そこから広がったご縁っていうのがたくさんありまして、それが今日に繋がっているっていう感じです。

初めてのドキュメンタリー映画

多根:それまでもAKBさんのお仕事はいろいろやっていらっしゃったんですよね?

高橋:はい。一番最初にやったのは2007年ぐらいで。ドキュメンタリーのご依頼を受けた時点で、ミュージック・ビデオを5〜6年やっていたのかな。ただ、ドキュメンタリーっていうのは、ほぼ初めてだったですね。

多根:ドキュメンタリーは初めてで。

高橋:正確には初めてではなくて何本かやってはいたんですが、「ドキュメンタリー映画」は、本当に初めてですかね。

多根:今3ヶ月ぐらいでとお伺いしたんですが、通常はどのぐらいの時間かけて作るものなんですか?

高橋:本当に何年もかけて作られる方もいらっしゃいますし、いろいろだと思うんですが、ただその後2013年と、2014年のAKBドキュメンタリーをやらせていただいて、それはだいたい半年から1年弱ぐらいはかけていたので、普通に考えれば、「やっぱり半年は欲しいよね」っていうところだと思います。

多根:過去3本やっていらっしゃって、それぞれ高橋さんなりのテーマっていうのはあったんですか?

高橋:震災の話が続いちゃっているんですけど、初公開っていうのも失礼な話だけど、そのドキュメンタリーを撮った時に行った陸前高田市の写真がたまたま今日持ってきたHDDに入っていました。

これが2011年の11月ぐらいですね。AKBのメンバーがここにいらして、献花した上で被災者支援活動のコンサートを行うんですけど、その前の日に僕らが実景を撮影していた時の写真ですね。

これ初めてみなさんにお見せするんですけど。震災を受けて半年ぐらいだとこういう感じで。たぶんこの瓦礫は、今はもう残っていないと思います。

多根:確かに今拝見しまして、やっぱりああいう(メンバーやスタッフが乗るような大きな)バスが通るのも、なかなか難しいところもあると思いますし、仮設の舞台を作られるのも、すごい大変だったんじゃないかなっていう気がしまして。撮影なんかも結構大変だったんじゃないですか?

高橋:そうですね。ただ、大変って言っても、僕らは行って、その場で撮影させていただくだけなので、あまり大変だっていうべきでないんですけど、そうですね。

まだ自動車とかも全然、普通に(ひっくり返っていたりして)。これ2011年11月12日ってありますね。そういう写真が今入っていたので、ちょっと(お見せいたしました)。

学生時代にビデオアートで受賞

多根:吉田さんとの共通点がもう1つありまして、高橋さんも他に映像をやっていらっしゃる方がいない中で、ご自身で、その会社の中で、独学、今まで大学で学んだことと、あと自分の経験で学んだとおっしゃっていましたよね。

吉田さんも「サラリーマンNEO」を撮るまで、コントとかドラマを一切撮ったことがなくて、台本っていうのも見たことがなかったので、大河の班に借りに行ったなんてお話もお伺いしておりまして、お二人とも会社の中で新しいことをやり遂げていらっしゃるかなと思いまして。

高橋:そうですね。ありがとうございます。僕はそもそも凸版印刷っていう会社には、普通に大学を卒業して新卒で入社したんですが、その前に日大芸術学部映画学科というところに行ってました。映画学科にいつつ、どっちかっていうとビデオや、当時で言うニューメディアと呼ばれるものを勉強していまして。

そこでたまたま、学生時代に作ったもので大きな賞をいただいたんです。大学3年の時です。それが翌年のビデオフェスティバル、青山スパイラルというところでやっていたんですけど、とても大きなビデオフェスティバルだったんですが、そこで上映しつつ、今みたいな形の、こういうトークなども受賞作家として行ったりテレビに出演することになったりして、そこで世の中が変わってしまったというか。

本当に錚々たる方々のいらっしゃるビデオフェスティバルだったんですけど、ビル・ヴィオラさんやゲイリー・ヒルさんっていう、ビデオアートの作家としてヴェネツィア・ビエンナーレなどに出ていらっしゃる方から、批評家の浅田彰さんやダム・タイプの古橋悌二さんなど、一介の学生では到底お近づきすることの出来ない方々と、一気にお会いする機会を頂いて、本当にガラッと自分自身の学生としてのスタンスが変わった時期でもあります。

ビデオアートからミュージック・ビデオの世界へ

高橋:その会場で初めて「ミュージック・ビデオを作りませんか」っていうお誘いを受けまして、確か美術評論家の椹木野衣さんもいらっしゃったんじゃないかな、その時。どっちかっていうと、そういう現代美術の範疇の中のミュージック・ビデオの監督のお誘いを受けまして。何が言いたかったかっていうと、僕、ミュージック・ビデオ、それまで見たことがなかったんですよね。

多根:そうなんですか。

高橋:そうなんです。自分が初めて作るまで、4本ぐらいしか見たことがなくて、The Art of Noiseの、チェーンソーか何かでピアノを切るやつと、あとNew Orderの「Bizarre Love Triangle」っていうのと、あとは「スリラー」。それと坂上忍。

多根:坂上さんも出していたんですね。

高橋:坂上忍さんのミュージック・ビデオっていうのがあるんですよ。当時井筒和幸監督が撮ってらっしゃったんじゃないかな。

多根:すごいですね。

高橋:だから基礎知識もないままに、いきなりミュージック・ビデオを監督することになった。それが大学4年の時かな。その作品が思いのほか妙にウケまして、ありがたいことに。それをキッカケにいろいろとお仕事を学生時代にいただくことができたんです。

当時ミュージック・ビデオって、年代で言うと1989年なので、日本ではまだ出始めの頃であまり観るすべがなかったんです。今じゃ信じられないかもしれないですけど。今だったら例えばMTVとか、スペースシャワーとか、普通にじゃんじゃん見られるじゃないですか。当時は見れなくて。

かろうじてケーブルテレビとか入っている人は見れたのかな。あとTVK〜テレビ神奈川でかろうじて観れるっていうような状況で、全国的には普及していないメディアだったんです。

だからレコード会社としても、「どうも海外でそういうの作るのが流行っているらしい」というのはあっても、「じゃ、実際誰に作らせたらいいんだ」っていうのはわかっていなくて、「ビデオアートで賞獲っているんだったら大丈夫じゃないか」という憶測でお声掛けをいただき、撮ることが出来たって感じでしょうか。

コマーシャルの仕事のはずが……

高橋:それまで学生時代、僕はあまりバイトに恵まれていなくて、本当に不思議なくらい。ある人から「コマーシャルの現場で働かせてあげる」って言われて新大久保まで行ったら工場があって「ここで撮影するのかな」と思ったら、工場の社長さんが「よく来た、よく来た」って言うんです。

「よろしくな」って言われて、「はい、わかりました」って言って、「この金属とこの金属で、こうやって削るとダボが取れるから、それをずっとやってくれ」って言われて、「え!? どういうことだ?」っていう。

あとで聞いたら、某広告代理店の方にお願いしたら、仕事の口がなくて奥さんに相談して、奥さんのおじさんが町工場を経営しているから、「学生だからそこでもいいだろう」みたいな話になって、コマーシャルやるはずが、工場でダボ取りっていって、金属の出っ張ったところを削るのをやったり。

あとパン屋さんでバイトしてたな(笑)。何が言いたいかっていうと、(当時のバイトは)時給がエラい安いんですけども、それに比べるとミュージック・ビデオの仕事は時給がよかったというか、なにより映像が作れるっていうので、大学時代に何本かやっていたっていう。ただそれが正業に出来るとはまったく思って無くて「偶然とはいえ、青春のいい記念になったな」ぐらいの気持ちで仕事してたんです。

当時10万ぐらい頂いていたのかな。今から考えれば、もうちょっと貰っとけばよかったかなとも思うんだけど(笑)、でも学生の頃は大金なので、10万円と言えば。「すごい俺、10万円も稼いでいるよ」っていう感じでした。

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