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漫画家として引き出しを増やしにスクエニに入ったらいつの間にか任天堂子会社社長になっていた寄り道人生 〜聖剣伝説LoM、MOTHER3、EGGLIAを作った男〜(全4記事)

「島耕作」に会いに就職したら、課長なんてどこにもいなかった 漫画家からゲームの道へ、亀岡慎一氏のキャリア遍歴

クリエイターヒストリアは、ゲーム業界でお仕事をしているデザイナー、プランナー、エンジニアなどのクリエイター向けに、キャリアデザインをテーマに実施するセミナーイベントです。第10回は、『聖剣伝説』シリーズや『MOTHER3』を手掛けたクリエイターである亀岡慎一氏が登壇し、ゲームクリエイターズギルド代表の宮田大介氏が歴史をひもときます。本記事では、連載漫画家だった亀岡氏が、ゲームクリエイターの道を歩み始めるまでのキャリア遍歴を語っています。

「クリエイターヒストリア」第10回目のゲストは亀岡慎一氏

司会者:みなさん、こんばんは。クリエイターヒストリアのお時間です。今回は記念すべき第10回、「亀岡慎一編 漫画家として引き出しを増やしにスクエニに入ったらいつの間にか任天堂子会社の社長になっていた俺の寄り道人生」です。

クリエイターヒストリアは、ゲーム業界で成功を収めているクリエイター人生を疑似体験できるトークイベントです。ゲーム業界でお仕事をしているデザイナー、プランナー、エンジニア、マーケターなど、すべてのクリエイターにご覧いただけます。

確立されたロールモデルを見つけることが難しいゲームクリエイター。自分自身が人生の岐路に立った時に道に迷わないよう、あの人のキャリアを一緒に覗いてみませんか? 各回に豪華ゲストをお招きし、さまざまなキャリアヒストリーをインタビュー形式でひも解いてまいります。

まずは、メインインタビュアー、ゲームクリエイターズギルド主宰の宮田さん、自己紹介をお願いします。

宮田大介氏(以下、宮田):ご紹介ありがとうございます。本日モデレーターを務めさせていただきます、ゲームクリエイターズギルド主宰の宮田と申します。今回も第10回にふさわしいゲストの方をお呼びしてますので、ゲストの紹介にいきましょうか。よろしくお願いいたします。

司会者:それではさっそくですが、本日のゲスト、株式会社ブラウニーズ代表取締役社長の亀岡慎一さんにご登場いただきましょう。亀岡さん、お入りください。

亀岡慎一氏(以下、亀岡):みなさん、こんにちは。株式会社ブラウニーズの亀岡と申します。今日はよろしくお願いします。

宮田:亀岡さん、よろしくお願いいたします。

(会場拍手)

宮田:今回からはオンラインだけじゃなく、オフラインの観覧席も用意しています。目の前にも何人かお客さんに入っていただいて、見られながら話すところに若干緊張してますね。

亀岡:そうですね。最初は「生じゃない」って聞いてたんですけどね。

宮田:すみません、生です(笑)。生の観覧席も用意させていただいちゃいました。

亀岡:騙されました。

トントン拍子で『月刊少年マガジン』での連載が開始

宮田:じゃあ、さっそく話を進めていきましょうか。

司会者:こちらが今回のヒストリー年表です。年表で見るだけでも、クリエイター人生の濃さが伝わってきますね。

宮田:そうですね。1990年にクリエイターになる前から現在に至るまでを、この1時間で駆け足で。たぶん1時間で終わらないと思います(笑)。2、3があるのかもしれないですが、本日お話しいただける分だけがっつりお話しいただければと思います。よろしくお願いいたします。

司会者:よろしくお願いします。それではさっそく、亀岡さんのヒストリーを一緒に覗いていきましょう。クリエイターヒストリア、始まり始まり~。

(会場拍手)

宮田:さっそくではあるんですが、先ほども言ったように1時間では時間がぜんぜん足りないと思うので、どんどんやっていきましょう。

亀岡:(笑)。

宮田:ヒストリーポイント1から。1992年、「サラリーマン漫画が流行。課長島耕作に会いに行くためにスクウェアに入社したら課長は存在しなかった!?」というエピソードのタイトルですが、もともと亀岡さんは最初は漫画家をやられていたんですよね。

亀岡:そうですね。専門学校を出てすぐに講談社に作品を送ったら、そのままトントンと連載の話が進んじゃって、『月刊少年マガジン』で連載をしてました。

宮田:なるほど。そこからどうしてゲーム業界へ?

亀岡:小学校くらいからずっと漫画ばっかり描いてたので、最終的には、「俺はもう漫画家にしかならねえぞ」ぐらいの気持ちで漫画を描いてたんです。

27、28歳ぐらいの時に一回連載が終わって。やっぱり連載だと漫画を自由に描けないので、好きに描いて持ち込むのが一番いいなと思って、しばらくアルバイトをしながら漫画を描いては持ち込んで載せてもらってたんです。

漫画家としての引き出しを増やすため、就職活動を決意

亀岡:27、28歳ぐらいの時、なぜか世の中では「サラリーマン漫画」というものが流行りだして。

宮田:『島耕作』だったり、『サラリーマン金太郎』とか。

亀岡:そうですね。そこらへんの漫画が流行りだして読んでたんですが、サラリーマン経験がないからいまひとつ役職とかがわからなかったんですね。

宮田:課長、次長とか。

亀岡:そう。「次長って何なんだ? どういうポジションなんだ」って。

宮田:「課長と部長、どっちが偉いの?」みたいな。

亀岡:そう。「専務と常務ってなんか偉そうだけど、どっちが偉くて何をやる人なんだ?」というのがさっぱりわかんなくて。ゆくゆくはまた漫画に帰ろうと思ってたので、一回サラリーマンを経験しておいたほうが漫画を描くための引き出しになるかなと。

それで、「就職するなら30歳ぐらいまでかな。ここで一回就職を経験しとこうかな」と、就職雑誌を覗いていたら、まったく期待していなかったグラフィックデザイナーという仕事があったんですよね。

美術系の専門学校を出たんですが、その当時は絵で就職なんかできなかったわけですよ。ペンキ屋かアニメーターか漫画家ぐらいしか、絵で食べていくことができなくて。

宮田:(笑)。

亀岡:それから何年か経ってみたら、「グラフィックデザイナー募集」というのが何ページか載っていて。そしたら、その職種を募集していたのがみんなゲーム会社さん。ゲームのグラフィックデザイナーっていうのが、今はサラリーマンとして成り立つのねと思って。

そこにちょうど天野(喜孝)さんのイラストが出ていて、「これ、遊んだことあるゲームのイラストだ」って。当時のスクウェア(・エニックス)ですね。「作品を送ってください」と書いてあるけど、あんまり就職活動もしたことがなかったので、そのまま雑誌を送って。そしたらトントン話が進んで。

宮田:ちょうどスーパーファミコンが盛り上がってきたタイミングですね。

亀岡:そうです。ちょうどスーパーファミコンが出た頃ですね。ただ、僕はスーパーファミコンを持ってなかったので、まったく知識もない状態でした。

ゲームのグラフィックデザイナーの募集にダメ元で応募

宮田:ゲーム会社さんも超たくさんあって、どんどん規模も大きくなっている時期です。確かにそのタイミングだと、絵で仕事ができるのは、ゲーム会社とさっきお話いただいた職種(ペンキ屋、アニメーター、漫画家)ぐらいしかないので。

亀岡:あの頃はないですよね。

宮田:(漫画の)ネタ作りのために入ったんですか?

亀岡:そうですね。本当はゲーム会社なんて考えてなかったので、普通のサラリーマンとして一回営業でもやってみるかと。その時、『東京ラブストーリー』というドラマがあったんですよ。

宮田:懐かしいですね(笑)。

亀岡:あれで営業の完治君が東京中を走り回っている姿を見て、「営業マンってのはちょっといいな」と思って。

宮田:「漫画になりそう」みたいな。

亀岡:「営業をやろうかな」と思って、営業の仕事を探してたんですよ。そしたらなぜかそのページ(ゲームのグラフィックデザイナーの募集ページ)が目に付いちゃって。まあ、ダメ元で応募してみようかなと、スクウェアに応募をしました。

宮田:でも、もともとは(サラリーマンを経て)漫画に戻るつもりだったというお話をされてたんですが、ゲームに携わってみて「おもしろいな」と思ったんですか?

亀岡:そうですね。本当は「1本(ゲームを)作ったらまた漫画に戻ろうかな」と思ってたんです。当時って、今で言うオタクという人をそんなに見たことがなかったんですが、スクウェアに入ったらそういう人がいっぱいいるわけですよ。

話がマニアック過ぎてあまり合わなかったりするので、「俺はあんまりここには合わないな。1本作ったらまた漫画へ帰るからいいや」って思ってたんです。

ゲーム制作で味わった「学園祭」のような雰囲気

亀岡:いざ1本作ってみると、漫画はシナリオから世界観からすべて1人で完結する仕事なんですが、ゲームは何十人かで分業して作る。そのおもしろさが、マスターアップ(開発の最終段階)間近になると、学園祭みたいな雰囲気になるんですね。

宮田:チームでみんなで作る。

亀岡:そうです。集団のスポーツが好きだったから、その感覚が味わえたので、「ちょっと楽しいな。もう1本作ってみようか」ということでズルズルと。

宮田:で、今に至るんですね(笑)。

亀岡:最終的にはそうですね。

宮田:なかなか珍しいゲームクリエイター人生のスタートですよね。

亀岡:でも、あの頃のスクウェアって変な人ばっかり来てましたよ。

宮田:(笑)。

亀岡:ゲームの専門学校がなかったので、専門に勉強してる人っていなかったんですよ。

宮田:確かにそうですね。

亀岡:そうですよ。本当に有象無象にいろんなところから人が集まってるので、おもしろいですよね。

宮田:それこそ、映画に憧れたとか、いろんなことに憧れてる人が来てましたよね。

亀岡:そうです。アニメーターをやってたとか、いろんなところから来てましたね。

宮田:なるほど。タイトルに戻りますと、「課長は存在しなかった」ということですが、実際に期待していた課長や次長はスクウェアさんにはいなかったんですね。

亀岡:ちょっとびっくりしましたね。社長がいて、その下に専務さん、常務さんがいて、部長、課長という段階があるのかなと思っていて。スクウェアに入社してみたら、マネージャー、ジュニアマネージャー、シニアマネージャーとか、まったく聞いたこともないような職種の人たちがいて。「誰が偉いんだ? 何なんだ?」って、さっぱりわからなくて。

『ファイナルファンタジー』は大学生が作っていた?

亀岡:さらにびっくりしたのが、僕は28歳で入ったんですが、たぶんその時のスクウェアの開発陣の中で上から2、3人目ぐらいの年寄りだったんですよね。

たぶんあの時の一番上が、植松(伸夫)さん、次が田中(弘道)さん、青木(和彦)さん。その下が、僕と同じ歳の坂口(博信)さん、河津(秋敏)さんで、あとはみんな大学生ばっかりだったんです。

宮田:ええ?

亀岡:現役大学生ばっかりでした。

宮田:当時のスクウェアでも、そんな感じなんですね。

亀岡:そうですよ。大学を休学中とかの人たちばっかりでした。

宮田:でも、有名タイトルをバシバシ作っている時期ですよね。

亀岡:そうですよね。『FF』なんて大学生が作ってました。その現実を見て、ちょっとショックはありましたね。「ここは会社なのかな? 会社ってこういうものなのか? 俺がサラリーマンのドラマを見てる限りは、もっとおっさんがいたんだけど……」と思ったんだけど。

宮田:サラリーマン漫画の参考にはぜんぜんならなかったという(笑)。

亀岡:ぜんぜん参考にならなかったです。僕が知識を入れたあの漫画たちは嘘でしたね。

宮田:なるほど(笑)。スクウェアでゲーム開発を経験して、「おもしろいな」と、どんどん深みにはまっていくスタートの地点だと思います。

「16色」という制約の中でのゲーム制作

宮田:ここで次のヒストリーポイント2に進めていただきます。実際に開発が進んでいく中で、1995年は『聖剣伝説2』と『3聖剣伝説』の頃かなと思います。

タイトルに「あの会社、ずるしてるんじゃないの? 16色という限られた環境の中で繰り広げられたさまざまな工夫バトル」と書かせていただいています。今でこそフルカラーでいくらでも色を使えるんですが、スーパーファミコンの端末や機種に応じて、限られた環境の中で工夫して作っていくことが必要だったのか。『聖剣2』『聖剣3』ぐらいの時期ですかね?

亀岡:そうですね。僕が入った時にちょうど『FF4』がマスターアップ間近で、スクウエアもFF4が初めてのスーパーファミコンのタイトルでした。

このプロジェクトが終わって、その後で何チームかを作った中に「聖剣チーム」も立ち上がって。そこに配属されたんですが、『聖剣』はコマンドロープレじゃなくてアクションゲームなので、どのぐらい1人のキャラに容量を使っていいかが誰もわからず、キャラ(容量)を使い過ぎだと何度も描き直させられました。

スーパーファミコンの時は本当に制約がいろいろありました。でも今思うと、あれがすごく楽しかったんですけどね。同じスペックの中で、みんなコンテストに応募してるような感覚でした。基本的に色はだいたい16色っていうのが決まりとしてあって。

普通のRPGはスクリーンという背景が2枚とUI的なのが1枚のモードがあって、だいたいはそれを基準に使ってたんですよね。手前と遠景のスクリーンをスピードを変えてスクロールさせたりするのが、スクリーンを2枚使った「多重スクロール」ってやつです。そういう作品が多かったんですが、(タイトルにある)「ずるしてんじゃないの?」っていうのは、任天堂のことですね。

宮田:(笑)。

「ずるしてるんじゃないの?」と思うような、任天堂の技術

亀岡:スーパーファミコンで『聖剣』の参考になりそうなアクションゲームがちょうど出たんですが、それが任天堂から出た『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』ですね。

宮田:あぁ、なるほど。

亀岡:僕はその時コンピュータのことをよくわかってなかったので、あんまりテンションは上がってなかったんですが、会社の連中はみんなトライフォース(『ゼルダの伝説』シリーズに登場する架空の秘宝)に「うわ、すげえ! ポリゴン(3DCGで立体の表面を形作る小さな多角形)だよ!」とか盛り上がっていて。

最初にトライフォースがくるくる回っているのがあって、それにやたら感動していて。「え? これの何がすげえの?」って僕は見てたんですが、当時初めてスーパーファミコンでポリゴンを使ったんです。スーパーファミコンなので、解像度はジャキジャキなんですけどね。それにみんなが驚愕していて。

さらにゲーム内が、どう見てもスクリーンが3枚ぐらい動いているっぽいんですよね。だから、「何これ? スクリーンをこんなに使えるモードあるの?」って。

宮田:「任天堂さんしか知らない『隠しモードが』あるんじゃないか?」みたいな。

亀岡:そうそう。だから「任天堂だけがやってるずるいやつじゃないのかな。サードパーティには教えないで」とか思ってたんです。

いろいろ研究していくと、色数をそんなに出せないモードでスクリーンを4枚出せる、多重スクロールを4枚ずらしたりできるモードがあったんですよね。だから色数を抑えてたんですよ。それが微妙な色のバランスで作ってたので、気付けなくて。

宮田:なるほどですね。

亀岡:ただ、それがわかった時は「同じルール内でこんな見せ方もできるんだ」と思って。

宮田:裏技じゃないですが、当時はみなさんけっこういろんなことをやられていて。

亀岡:そうですね。

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