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トークセッション(全7記事)

「シュガーベア」とバカにされて… 時代の変化とともに振り返る、建築家・坂 茂の新人時代

2017年7月21日、銀座 蔦屋書店にて、同書店主催が主催のイベント「坂 茂と語る建築家の社会的役割」が開催されました。映画『だれも知らない建築のはなし』の監督、石山友美氏と建築家の坂茂氏が登壇し、トークセッションが行われました。イベントでは、映画に登場した建築家らのエピソードとともに、建築に求められる社会的な役割というテーマで語り合いました。建築家とは一体何か? 建築家は社会から何を求められているのか? 世界中で活躍する坂氏と、世界各国の建築形にインタビューした石山氏が、その深遠なるテーマを紐解きます。

磯崎新氏を中心とするコミッショナープロジェクト

石山友美氏(以下、石山):こういったバブル景気にどういった建築物があったかということと同時に、第3章では、磯崎新さんを中心に、コミッショナープロジェクトというかたちで、建築家がコミッショナーとしてさまざまなプロジェクトを日本の国内に立ち上げていた、その様子を描きました。

映画では主に、「くまもとアートポリス」というプロジェクトを取り扱っています。当時、熊本県知事だった細川護熙さんが、磯崎新さんに声をかけて「くまもとアートポリス」というプロジェクトが始まりました。

今でもそうですが、日本の公共建築というのは、入札のシステムによって公平、平等に建築家が選ばれるという前提があるんですけれども。その過程で生み出された建築物が果たしてどんな意味があるものかという問いかけとともに、発注、受注のシステムをある種打ち破って、磯崎さんが主観で、建築家を指名し、指名された人がそのプロジェクトの設計をする、という非常に特殊なプロジェクトを立ち上げました。

まさに街並みであるとか、本当によい建築を提供するにはどうしたらいいんだろうか、ということの実験的な試みだったのではないかと思います。

これは篠原一男さんの警察署です。

これは伊東豊雄さんの「八代市立博物館」。

これは石井和紘さんの文楽をテーマにした小さな博物館。

これはレンゾ・ピアノさんの橋の設計。

こういったプロジェクトを紹介していくんですが、バブルがはじけてどうなるかというのを、最終章で描いております。

コールハース氏が「日本の街並みに影響を受けた」というその真意は?

第3章にもつながるのですが、磯崎さんは「くまもとアートポリス」だけでなく、福岡で「ネクサスワールド」というマンションの設計をコミッショナーシステムで行っていました。彼が指名して、建築家が選ばれるというシステムのなかでデザインしていったわけです。そのときに来日して設計した設計者の1人が、映画の登場人物でもある、オランダ出身の建築家、レム・コールハースさんです。

ここにある写真が、レム・コールハースさんが建てたものなんですけれども、非常に話題になって、日本建築学会賞をとりました。

このあとレム・コールハースさんが世界的に活躍をするようになる、ある種のきっかけだったんじゃないか、というふうに考えています。実は、このマンションというのは、バブル崩壊をまたいで、完成したんですね。そのため、マンションができあがってからほとんど売れなかったということがありました。

それで、このプロジェクトをやっていた福岡にある不動産というかディベロッパーの「福岡地所」の方にもインタビューをしに行って、映画にも出てきます。「福岡地所」が同時期に抱えていたプロジェクトがありまして、「キャナルシティ」という博多にあるショッピングモールです。

福岡地所としては、片一方のマンションのプロジェクトが赤字だったので、背水の陣でキャナルシティに挑まなくてはいけない状況だった。そのときに、磯崎さんには頼むことはできなかったということをインタビューでおっしゃっておられます。

それで、商業建築のプロフェッショナルである、アメリカ人のジョン・ジャーディさんという建築家に頼んで、結果、大成功するわけですね。そのこと自体が、この第4章をあらわしているというか。じゃあ「建築家は今、どういうことを考えて、どんな建築を生みださなきゃいけないのか?」「建築家は社会のなかで何をするべきなんだろうか?」ということを第4章でインタビューしました。

これは、レム・コールハースさんのロッテルダムにあるホテルです。ちょっと話が前後するんですけれども、先ほどの話にも出たのですが、日本で「ネクサスワールド」というマンションの設計をやったことが、彼にとってすごく大きなきっかけになったとインタビューでもおっしゃっているんですね。それはこの建築で賞をとったとか、そういう次元の話だけではなくて。

この、最近できたロッテルダムのホテルを設計するときにも、「日本に滞在していたときに日本の街並みを見て、いろんなことを考えた。そのことが影響している」とインタビューでおっしゃっていました。

映画を観ればわかるんですけれども、要するに、なんの変哲もない建物、作家性もないような建築を日本に来て見て、そういうものにすごく影響を受けたとおっしゃっていたんです。逆説的に、皮肉も込めて発言なさっていると思うんですけれども。このホテルの建築も、日本での経験に影響されているとおっしゃっています。

コミッショナープロジェクトの挫折と現在

そして、最後なんですけれども、先ほど第3章で取り上げた「くまもとアートポリス」というプロジェクト。これは、現在も続いておりまして。もともとは磯崎新さんがコミッショナーだったんですけれども、地元のいろんな建築家が来て、個性豊かな建築を建ててました。その1個1個はたいへん素晴らしいんですけれども、実は、あんまり地元に根付いていかなかったんですね。

地元の住民の反対もかなり大きかったようで、なんとなく磯崎さんの時代のコミッショナープロジェクトというのが尻すぼみになってしまう。それと同時にバブルが崩壊してしまうんですけれども。それでも熊本のアートポリスは続いていて、コミッショナーを変えながら、方針を変えながら、「良い建築を街に建てる」という思想だけはキープし続いているのです。

今のコミッショナーは、映画の出演者でもある伊東豊雄さんです。その、コミッショナープロジェクトのあり方の変容が、非常に時代をあらわしていると感じていたので、その「変わり方」も映画でフューチャーしました。

これは西沢立衛さんによる、駅前の広場ですね。

これは、「シーラカンスアンドアソシエイツ」という事務所の小学校の建築になります。

2つとも本当に気持ちのいい建築です。私は、この映画のなかで50個ぐらい建築を紹介してるんですけれども、嫌いな建築って1つもなかったです。それぞれの時代の流れがあって、スタイルはいろいろですが、それでも建築家たちがどのような想いでそれぞれの建築を設計していたか考えながら、そして、それがどのように時代を経て今佇んでいるのか。「とにかく自分が好きなものを撮ろう」という気持ちで撮ってきました。

以上で、映画の概略は終わります。今回、せっかく坂さんに来ていただいたので、私の方からいろんな質問をしたいと考えております。

ピーター・アイゼンマン氏との苦い思い出

これが、先ほどもお見せした映画の公開時のポスターなんですけれども。何も知らない方に、「やくざ映画か?」と間違えられて(笑)。

(会場笑)

石山:本当にちょっと「すごい迫力」という感じなんですけれども。坂さんは、このなかの全員と、ある種交流があったわけなんでしょうか?

坂茂氏(以下、坂):評論家のチャールズ・ジェンクスさんは会ったことはないんですけれど、それ以外の人はみんなよく知っている人です。

さっきおっしゃった「P3会議」というのは、1982年に、アメリカのシャーロッツビルでありました。そのとき僕は、高校を卒業してすぐアメリカに行って。ニューヨークのクーパー・ユニオンというところで勉強してたんですけど、そのときの僕の先生が、ピーター・アイゼンマンという人で。

当時、非常に世界的に有名な建築家で、彼に習ったんですけれども、非常に仲が悪くて、というかいじめられていました。その当時はパワハラという言葉はなかったですけど、パワハラじゃないかって思うぐらいいじめられましたね。彼の課題をとっていたんですけれども、どうも彼の考え方が自分と合わなくて。

彼は一生懸命学生を、彼の考え方にbrainwashing、洗脳しようとするんですね。僕はどうししてもそれが気に入らなくて。彼の課題自体はおもしろかったんですけど、毎週、彼が期待するものとは違うものを持っていったんです。

彼は、僕の名前「シゲル・バン」がややこしくて覚えられないので「シュガー・ベア」とあだ名をつけてですね。「シュガー・ベア」「シュガー・ベア」と、ずっとあだ名で呼び続けられました。

(会場笑)

苦さばかりではなかった、ピーター・アイゼンマン氏との関係

結局、それも人種差別なんです。彼はJewishで、「ユダヤ人は一番優秀な人種だ」と。アジア人に対して、日本人に対して偏見をもっていたんですね。それで、課題ごとに僕が違うものを持っていって、毎回、最後怒ってるんですけど、結局「お前は日本人だからこういう考え方ができないんだな」という結論になる。

そのあと卒業制作をやったときに、最後の講評で本当にいじめられました。外国人にはわからないようなことをずーっとまくしたてて、僕はfailureで、落第して。彼のせいで卒業制作の課題を落としました。卒業できなかったんですね。

それで、半年間またやり直して、彼の最終講義は出なかったんで卒業できたんですけど、本当に彼とは仲が悪かったです。

(会場笑)

そのあと約20年後の2002年ぐらいに、ベルリンで世界建築賞というアワードがあって。それはおもしろいショーで、ノミネートされた建築家を、ディナーみたいにテーブルでばーっと囲んで選んでいくんですね。

そこで、運悪く同じテーブルになった(笑)。彼の2番目の奥さんの、当時10歳ぐらいの男の子も連れてきていたんですね。その男の子に「彼はシュガー・ベアだ。シュガー・ベアって呼べ」って。卒業してからもう20年近く経ってるのに未だに言ってて。

でも実は、彼は帰るときに、僕に投票していってくれて。彼のおかげかわからないですけど、僕は賞をいただきました。そういう仲ですね。

(会場笑)

日本で最初に国際コンペを戦い勝ち抜いた男

:(スライドを指して)このなかで言うと、ピーター・アイゼンマンと磯崎さんは同じ世代で。僕は高校時代に、磯崎さんの代表作である群馬県立美術館を見て、その当時から憧れていて将来は磯崎屋にとにかく入りたいと思っていたんです。

それで、アイゼンマンにいじめられたりしてクーパー・ユニオンで本当に嫌な思いをしていたんで、疲れ果てて1年学校を休学して、憧れの磯崎さんところで面接を受けて1年契約で入れてもらったんです。

ちょうど磯崎さんの事務所にいたときに「P3会議」があったんです。磯崎さんが、安藤さんと、伊東さんを連れて行った、ちょうどそのタイミングで、僕は磯崎さんの所にいたんですね。当時、磯崎さんはポストモダンをやっていて、僕はあまり興味はなかったので建築のスタイル的にはぜんぜん影響は受けていないんですけど。

やっぱり磯崎さんのすごさは、建築界で世界の人たちとはじめて国際コンペを戦って、世界で有名になったのはたぶん磯崎さんが最初だということ。僕は、そういう磯崎さんの背中を見て、世界で戦っていくスタンスを学んだんじゃないかという気がします。

もちろん世界的に最初に有名になったのは丹下健三さんで、彼は国を背負ったオリンピック選手みたいなもんですけども。

はじめて世界中の有名建築家とコンペで戦って勝ち抜いて、世界デビューしたのが磯崎さんじゃないかな、と。実は磯崎さんの奥さんの宮脇愛子さんが、世界中でアーティストをしていたから、磯崎さんを連れ出して世界中の有名な人を紹介したっていうのもありますけど。

それで、当時まだぜんぜん無名だった伊東さんと、安藤さんを「P3会議」に連れて行ったと。

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