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塚本晋也監督が語る究極の自主映画制作​術(全4記事)

塚本晋也監督が振り返る映画づくりの原点「いまだに最初の作品からテーマは変わらない」

クエンティン・タランティーノやマーティン・スコセッシをはじめ、世界の名監督が賞賛を贈る塚本晋也監督が、ショートショートフィルムフェスティバルに講師として登場。「塚本晋也監督が語る究極の自主映画制作​術」と題して、塚本ワールドの基盤となったセルフ・ プロデュース力について語りました。

8ミリフィルムで撮った怪獣映画が原点だった

東野正剛氏(以下、東野):みなさん、盛大なる拍手でお迎えください。 塚本晋也監督です!

(会場拍手)

東野:そもそも監督が少年の頃とか、映画に興味を持ったきっかけなど、そこからまず。どういう映画少年だったのか、何かそういったSFが好きだったのかとか……。

塚本晋也氏(以下、塚本):そうですね、最初に映画に興味が起こったのは、中学生くらいのときですかね。渋谷に全線座という名画座があったんですが、そこに行きながら漠然と映画を作りたいと思っていました。中学2年生くらいだったか、もうちょっと前くらいだったかなんですが。

その頃、機械好きの父親が、僕のためじゃなくて自分のために8ミリのカメラを買ったんですね。あれがあれば映画ができるぞ、ということでずっと指をくわえて見ていたんです。今はビデオですが、当時はこんな細い家庭用の8ミリフィルム……若い人は知ってるか、知らないか微妙なところなんですが。それで作り始めたという。

東野:それはすでに、中学の時代から作られていたということですか?

塚本:自分が最初に作ろうとしたのは、中学2年の時です。そのころさっき言った全線座で映画を観はじめるんですが、それ以前は怪獣映画とかしか映画館では観ていませんでした。テレビでは「大脱走」とかすごくいい映画をいっぱい見たんですが、映画館に行くという目的でいうと、怪獣映画だったんです。

ですから自分としては、中学校の時に自然と作ろうと思った映画は怪獣映画でした。

東野:その時作られたっていうと、いわゆる仲間と一緒に、遊びの感覚だったのか、もうその頃からある意味もしかしたら映画監督になりたいとか、そういった強い思いが当時からあったんでしょうか?

塚本:そのときに、大きくなったら大きなスクリーンに映画を作って写したいと思い始めました。

でも、怪獣が難しかった。昔、円谷一さんという、円谷英二さんの息子さんの『特撮のタネ本』という、僕にとってはバイブルのような本があって、これに怪獣の作り方が書いてあったんですが、ラテックスを使うとか、ちょっと専門的なんですね。他は素人にもできるとんちみたいな事ばっかりでワクワクしたのですが。

それで「どうしてもできない!」となって、結局処女作になったのは、怪獣をあきらめて『原始さん』という水木しげるさん原作の、原始人がビルを壊して町を緑に戻すという作品を作ったんです。 最初、長編の怪獣映画を作ろうとしましたが、現実的に、短くてもちゃんと仕上げようというんで、10分くらいの『原始さん』を中学3年生の時に作ったのが最初ですね。

最初の頃からテーマはまったく変わっていない

原始さんが壊すビルも自分で作りました。当時ミニチュアを作った時、いつか将来映画を作るときにミニチュアも自分で作りたいと。誰かがその仕事をやっちゃうのかと思うと、ちょっと残念だなと思った記憶があって。

で、主人公の原始さん(一緒に映画を作った友人)に「よーい、ハイ!」ってカメラを回したら「ハイ」で原始さん、ビルを壊しちゃったんですね。

(会場笑)

つまり、建っている状態が撮れていないという。そういう数々の失敗を繰り返し反省して「よーい、ハイ!」と言ったら、数拍置いてからやるよう指示しなけりゃいけないんだな、とかですね(笑)、基本的なことをやりながら学んでいった感じですね。

東野:8ミリの自主制作ではそういった試行錯誤で。子供の頃ということで、ちなみに、8ミリフィルムを買うお金だとか……。

塚本:お金はですね、当時3分24コマで回す場合と、18コマで回す場合があって。いわゆる映画は24コマなわけですが、その24コマだと2分40秒しかないんですね。でも8ミリには映写機で18コマで見せられるところがあり、それだと3分20秒あるので、長いほうが助かるわけですから、僕は18コマのほうで撮っていました。

そのフィルムが1本1,000円で、現像費が500円ですから、月のお小遣いがたしか1,500円ぴったりだったので、月に1本しか作れない。そうすると『原始さん』10分ですから、全然失敗しなきゃ3本できる。

東野:ということは、自分でカットはストーリーボード的に作っておいて。

塚本:そういうのを入念に準備して。たぶん3本じゃ無理だったから5本くらいで。5本でも5ヶ月かけてお金貯めなきゃいけませんから。それで作ったような。今の映画作りはそれがもうちょっと複雑化しただけ、ということで、お話は以上! という感じですね。

東野:すごいですね。ということは基本的には、あんまりそこの精神的なことも含めて変わっていないという。

塚本:まったく変わっていないですね。監督とか作家って、最初に作る映画にいろんなものが全て入っているといいますが、その最初を『原始さん』とするか、劇場デビューの『鉄男』とするかですが、両方ともテーマとしては、テクノロジーと人間性の関係性とか、何かを自然に戻すという、そういうところが結局同じで、いまだにテーマもおんなじっていう。最初からまったく変わらないんで、やっぱり最初の映画は大事かもなーと。

東野:すごいですね。

中学生で上映会をセルフプロデュース

塚本:それで『原始さん』の時も、僕の学校小さい学校だったんですが、そこでとにかく見せたいということで。僕、図書委員だったので、静かな学校だったんですが図書室に300人ビックイベントという、ここでとにかく上映して、多くの生徒を呼び寄せようという。 僕の8ミリだけやるんじゃ駄目なので、模造紙によく読まれているベスト10とか学年ごとに分けて貼ったりし、それで上映もして。

その上映のためにですね、自分のお友達をみんな、放送委員長とか集会委員長とか、仲間をみんな各委員会の委員長にしちゃってですね、計画して、昼になれば放送が流れますし、図書室 300人みんなで行きましょうとかやりました。

東野:素晴らしい……。それも今考えると、基本的にセルフプロデュースをその中学生の時から……。

塚本:(笑)ええ、全校生徒が集る集会のときに宣伝しようと、前の日、通学路の電信柱の横で集会委員長に何度も練習してもらって、ギャグもきかせてもらって。武田鉄矢の真似なんですけど(笑)。

(会場笑)

塚本:働いて働いて働き過ぎてって、「もうちょっとこうじゃねーか」とか言いながら。それが集会でやって受けて、お客さんは見事に300人……300人しか学校にいないんですけど、300人来ましたね。

東野:その流れで高校もずっと何か作り続けられて……。

塚本:高校からはやっぱり本気になったんですね。高校に入ると、僕、美術学科に入って、友達で映画好きの人とかがいたので、もし映画やってるんだったら「黒澤明知ってる?」とか言われてですね。「いやぁ、名前は聞いたことあるけど知らない」とか言って。「映画やってるなら黒澤監督知らないんじゃだめだよ」と言うんで、銀座にあった並木座っていう映画館に見に行って。日本映画を1週間に2本立てで毎週変えて見せてくれたので、そこで黒沢映画を初め、日本映画を見まくりました。

黒澤監督から市川崑監督から、今村昌平さんから、寺山修司さんから、ATG作品をやたら見まくって、もう眼がパッチリ開いちゃったような。それで8ミリも作り続けるという。

大学は美術科、映画を学んだことは一度もないまま演劇へ

東野:それが高校時代という。なるほど。その後大学に行かれて……。

塚本:大学は日芸なんですが、高校が美術学科でそのまま同じように美術学科で。映画を学んだことは1回もないんです。

東野:そうなんですか?

塚本:映画は見ることでしか勉強したことはなくて。

東野:じゃあもうすべて、自分がずっと自主制作でそれまで8ミリで撮られた経験を元にもうやられていて。

塚本:そうですね、もう自分のやり方でしかわからなかったから、やりながらだったけど。最初に上映する時は、音を合わす方法も知らないんで、8ミリに対してカセットテープに音を入れてやってましたから。

上映しながらライブ感覚で、ちょっと映画が早くなったり遅れたりするもんですから、音がずれてくるとチュルチュルって送ってちょっと前にしたりとか、ちょっと行き過ぎたらチュルッって戻したりして。それがやがて、そういうんじゃないマグネコーティングというフィルムの横にコーティングするような方法があるのがわかって。これならずれない、ってやりながらですね。

東野:では、もう一度ちょっと繰り返してしまいますけど、監督はやっぱり今でいう映画の学校であるとか、大学での映像コースとかそういったことじゃなく、あえて美術だったんですか?

塚本:そうですね、父親が美術の学校の出身で、基本をどこら辺に置くのかというようなことを厳しく言われて。悩んだんですが、絵を基本に置くことにしました。まぁ心の奥底では、美術だったら付属だったのでスルッといけますが、映画学科は落ちる可能性もあるということで……(笑)。

東野:わかりました。そこで大学から少し期間があるかもしれないんですが『電柱小僧の冒険』という初期の……。

塚本:そうですね、ずいぶん飛びますね。

東野:かなり飛びますか? そのあと大体どのくらいですか?

塚本:そうですね、10代で7本くらい映画を作るんですが、それが終わって演劇の活動なんかもして。本当は当時石井聰亙さんとか大森一樹さんが、自主映画で大活躍していた時で、そういう憧れがあったので、自分もなんとか大学卒業するまでに、そのまま1本劇場映画デビューしたいという野望があったんですが。

初自主映画作品『電柱小僧の冒険』

まぁ無理だったんでCMの会社に入りまして、そこで4年くらいいました。その後に演劇を再開するんですが、その仲間たちと一緒に作ったのが『電柱小僧の冒険』です。それまでは10代でしたが、26歳までに6、7年空いた感じになって、『電柱小僧~』をついに作りました 。

東野:いろいろと監督の作品があるのですが、その初期の作品があんまりなかったということで。『電柱小僧~』が、Blu-rayなどソフト化されているもので古いものですよね。

塚本:そうですね、これは昔作った8ミリってフィルム。その8ミリでとにかくやれるだけのことをやって、先のことは考えないということで、全てを注ぎ込もうと作りました……。

東野:せっかくなので、みなさんに『電柱小僧の冒険』、45分の中編の作品ですが、冒頭を5分ほどご覧いただきたいと思います。

(冒頭を上映)

(会場拍手)

東野:ありがとうございます、どうぞ。

塚本:もう二度とは登場できないくらい恥ずかしいです!

(会場笑)

東野:いえいえ、いかがでした? 改めてご覧になりまして。

塚本:いや、これ実をいうとですね、デジタル化したので、去年はこれかなり見ていました。実を言うとこれ、好きなんですね、僕。『電柱小僧~』。

(会場笑)

塚本:もういつも『電柱小僧~』をもう一回作りたいとかですね。アニメで作れないかなーとか、実写で作れないかなと考えています。CGはあんまり使えないんだとか言ってますが、CGちょっと使っちゃってみようかなとかですね。でも初期衝動が大事だから、二度はやらないほうがいいなーとかですね、何度も思っている愛着のある映画ですね。

東野:なるほど。でもこれは20代の中頃に作られて、すでにこれを観ただけで、本当に我々なんか塚本ワールドのすべてが出ているなというように感じました。音も音楽もそうですし、ストップアニメーションでガー、ゴーって行く表現も本当に。ええ。これで当時「ぴあ」のグランプリを獲られたんですね?

『電柱小僧』でぴあフィルムフェスティバルグランプリ受賞

塚本:そうですね、88年にぴあフィルムフェスティバル(PFF)でグランプリをいただいて、新宿のミラノ座という映画館で、8ミリはあんまり大きくはできないんですが、スクリーンにでかく上映できるような特殊な映写機でかけてもらったのは、本当にもう夢のような体験でしたね……。

東野:なるほど。当時これを作られたときの監督の意図としては、自主制作ということで、これもご自分の予算で作られたということですか?

塚本:そうですね。

東野:作られた時の目的というのは、映画祭に出して賞を目指すことだったのか、映画監督としての次のステップにつながるために作品を作ったのか……。

塚本:もともと一本一本に全力を費やすので、次のステップのため、とかいう発想がないのですが、むしろそういう野望とか野心はですね 、10代の時に強かったですね。10代の時に20歳くらいで死ぬと思っていたりするじゃないですか? しないですかね(笑)。死ぬかもしれないっていうことで、それくらいの勢いで、10代でなんとか映画を作ってですね、未来につなげたいと。その頃はその野望がうまくいかなくて就職しちゃったわけですから、かなりの挫折感だったんですが。

でも「電柱小僧~」の時はもう、将来どうなるとかこうなるとか訳わかんないですね。目の前のことだけをやっている感じだったので。とにかくもう、いま手元にあるものでできる限りのことをやろうというのが『電柱小僧の冒険』でした。

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