男性は離婚やパワハラ、女性は恋愛の挫折が引き金になる

奥山晶二郎氏(以下、奥山):このテーマとは違いますが、おーちゃんのエピソードでいうと、恋愛ということがありますよね。ちょっとおーちゃんの説明を。

菅野久美子氏(以下、菅野):はい。この本の核となるエピソードに、50歳でゴミ屋敷になって失踪したおーちゃんという女性がいるんです。おーちゃんは失恋をきっかけに、部屋の壁に生理用ナプキンの山を築いて、ゴミの中で何年も生活をしていた。家族についにそれがバレて、突然部屋からも職場からもいなくなったという。

超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる

おーちゃんは病院で介護のお仕事をしていました。孤独死される方の特徴として、男性は、離婚やパワハラ、女性はおーちゃんのように恋愛関係の挫折で引きこもってしまう方がけっこう多いんです。

今回のおーちゃんの例だと宗教や自己啓発セミナーに救いを求めた時期もありました。おーちゃんのエピソードについては、ぜひ宮台先生にお聞きしたいと思っていました。映画、『嫌われ松子の一生』についての評を、以前にされていたと思います。「悲しい人生は果たして不幸なのか?」というような内容だったと思います。

宮台真司氏(以下、宮台):名前がとてもいい映画でした。あの映画の批評を中島哲也監督に気に入ってもらえて、その後、監督とのトークイベントに出る機会もありました。

菅野:『嫌われ松子の一生』を観られた方はいますか?

(会場挙手)

菅野:あ、けっこう。

宮台:まあ、とても有名な映画ですよね。

菅野:(笑)。まだおーちゃんは失踪中なので、松子のように最後亡くなってしまったかどうかはわからないですけれど、おーちゃんの人生はリアル嫌われ松子だったんです。

不幸は本当に不幸なのか?

宮台:『嫌われ松子の一生』は映画表現なので、それを通じて中島哲也監督が訴えたいことがはっきりしています。それは「不幸は本当に不幸なのか?」という問いです。人の感じ方にもいろいろあるという話ではありません。「不幸を経験することも幸いの一部なんだ」という強い主張です。

松子の人生の対極には、喜怒哀楽のフラットな、山のない、オチのない、意味のない、終わりなき日常みたいな人生もあります。何も期待せず、生きることも死ぬことも大差ないな、という気持ちで生きる人生です。

自殺した漫画家のねこぢるさんが、死ぬ直前の『ぢるぢるインド旅行記〜ネパール編』で描いています。それとは別に、たくさん期待をするからこそ、期待が外れて地獄のどん底に落ちて、かろうじて這い上がったらまた落ちて……という人生もあります。『嫌われ松子の一生』は、そうした人たちの人生に祝福あれ! みたいな映画です。

菅野:そうですね。

宮台:おーちゃんって、そういう感じじゃないですか? いまどきの50歳の人にしては珍しい命懸けの大恋愛をして、ものすごく残酷な形で裏切られてしまいます。病院に勤めている方で、宗教を通じて知りあった病院の同僚と、家族ぐるみで奥さん同然に付き合っていたのに、相手の男が突然その病院内の別の女と結婚してしまい、職場を移ることもできずその病院にずっとい続ける、という永遠に続く地獄を経験する。

イニシャル(初発)の状態がロマンチックな極楽だったからこそ、その崩壊が地獄として経験されて、それがきっかけになって崩れていったんじゃないかと想像されるんです。映画の価値観に則して言えば、それほどの大恋愛をしたという記憶があることこそ幸いなり、ということになります。そこから先は少し難しい問題になるので、みなさん、慎重に聞いてください。

かつての日本人が持っていた「別れた人もそこにいる」感覚

僕は2年くらい前から、菅野久美子さんの旦那さんである真鍋厚さんと映画トークをしてきていますが、そこで繰り返し話題にしてきたように、日本だったら100年前までは、僕たちは今のような時間感覚を持っていなかったんです。「過去は過ぎ去っていく。死んだ人は永遠の不在になる」という観念は、実はなかったんですね。

死んだ人は、天に昇ったり地獄に落ちたりと垂直方向に移動するのではなくて、山の向こうに行くとか、海の向こうの島に行くとか、水平に移動するんです。だから、お盆の時に、火祭りをしていると、火を囲んでいる人の輪の中に(死んだ人が)いつのまにか入ってくる。もともとのハロウィンもそういうケルトの風習でした。

そういう伝統的な観念とともにあると、死者は失われずに、少し遠くに行くだけです。同じように、過去も過ぎゆかないんです。過去にあったことは、もちろん過去に過ぎないけれど、今も思い出せる限りで、「別れた人もそこにいる」わけです。実は僕もそういうふうに生きています。

それは生き霊という概念にも関係します。物理的には遠くに離れて生きている人の怨念が、いまそこにあるように感じられる。近代社会になるまでは、共同体の暮らしの中で、「失われたように見えて、実は失われていない」というタイプの時間感覚や、それに支えられた死生観が、広く共有されていました。それをいまの僕たちは失ってしまったので、別れを過剰に悲しんだり、失われた関係を過剰にリグレットしたりしているわけです。

僕たちがついこの間まで持っていた、人類が長く生きてきた時間感覚や死生観を、できれば自分のものとしたほうがいいだろうと思います。そうすれば、とてもすてきな恋愛経験があったことが、不幸の原因になる代わりに、生き延びさせる力にもなると思うんです。そんなことは無理だと思わないでください。現に僕はそうやって生きてきています。

こう言いながらも、今ここにいらっしゃる若い方々が、そういう死生観や時間観念を取り戻す可能性がほとんどないとも思うので、言いながら「残念だなあ」というふうに感じています。その意味で、嫌われ松子は処方箋にならないかもしれません。僕がいま言ったことも、みなさんにとっては処方箋にならないかもしれない。僕のゼミに4年くらいいると処方箋になるんですが……。

失恋でセルフネグレクトに陥るかどうかは紙一重

奥山:おーちゃんと、今の先生の話を聞いていると、すぐには吸収しにくいかもしれないですけれど、すごく揺さぶられる気持ちは当然あります。おーちゃんが恋愛を経験する機会がすごく少なかったが故に、1回の失敗ですべてを自分でシャットダウンしてしまったような、そうした決めつけのようなもったいなさを感じました。菅野さんはおーちゃんの取材をされて、ご家族のお話なども聞いていて、どうでしたか?

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