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外国人特派員協会会見『伊達公子選手記者会見』(全3記事)

【全文1/3】引退試合から1週間 伊達公子氏が心境を語る「最後までコートに立ち続けることができて幸せだった」

2017年9月20日、外国人特派員協会にて先日引退を発表した女子プロテニスプレイヤーの伊達公子氏が会見を行いました。1996年に一度引退したものの、2008年に現役復帰を表明し、2017年まで活躍。8月28日に自身のブログにて引退を表明し、自身のプロ生活を終えました。会見では、有明コロシアムで行われた引退会見から1週間を経た自身の心境について語りました。

伊達公子氏、引退の心境を語る

伊達公子氏(以下、伊達):みなさん、こんにちは。伊達公子です。今日はこのような機会をいただきまして、みなさんと、短い時間ではありますけれども、時間を共有することをたいへんうれしく思っています。

先日のジャパンウィメンズオープンを最後に引退をし、そこにいたるまで、引退表明をブログでして、そしてメディアの前で引退会見をして、そして引退試合ということで時間を過ごしてきました。

私がテニスに出会ったのは6歳の時でした。テニスというスポーツをずっとやってきて、いつしかプロを目指して、プロになったのが高校を卒業してからでした。

プロになってからは、本当にテニスというスポーツのすばらしさと同時にタフさというものも経験することができました。

第1キャリアの時というのは、私自身まだまだ20代前半から20代半ばまでだったので、自分自身でいろんなさまざまなテニスのなかで起きること、それをハンドリングするだけの器というのが自分自身にはなかったように思います。

みなさんに「まだ若いんじゃないか」と言われながら、26歳という年齢で第1キャリアを終えることになったのですが、その時はやはり自分自身、テニスというスポーツが好きでいることも難しく、いつしかテニスが楽しくなく、勝ち続けることのプレッシャーということにも自分自身がメンタル的に限界を感じていて、引退をすることになってしまいました。

そして、2度目の挑戦へ

その時代から約12年のブランクを経て、1つのエキジビションをきっかけに私はセカンドキャリアをスタートすることになりました。

スタートはしたものの、とくに私はWTAののレベルで、そして世界戦うことをイメージしてのカムバックではなかったんですけれども、30後半になり、もう一度いろんなことにチャレンジすることの楽しさというものを、それまでにもマラソンを通じてとかピラティスをするなかで自分自身も感じていて。

また新たに、そのエキシビジョンを機にもう一度テニスでチャレンジしてみようという気持ちでスタートしたところ、ランキングも少しずつ戻ってきて。

気がつけばグランドスラムの予選にチャレンジできるランキングがあったことをきっかけに、WTAの世界にもう一度戻ることになりました。

まさか、私自身が、セカンドキャリアがファーストキャリアよりも長い年月をやるとは想像もつきませんでした。

そこに加え、2度目のキャリアで、誰もがプロテニスプレイヤーを目指す人はもちろん世界のトップ100というものを大きな目標に掲げるんですが、2度目のチャレンジで40代を迎える私がトップ50をクリアできることが起きるとは、私自身も想像できませんでした。

セカンドキャリアでは、もちろんそのランキングトップ50という経験ももちろんなんですが、なによりも、1度目のキャリアで経験できなかったツアーを楽しむということが私にとってはとてもいい経験になりました。

20代ファーストキャリアのときには、外国に行くことも自分自身あまり好きではなく、いつもパスポートを持って「有効期限が切れてくれてないかな?」とか(笑)。

(会場笑)

飛行機に乗って涙ながらに、乗った瞬間から「早く日本に帰りたいな」と思うような日々が多かったんですが、2度目のキャリアでは本当に海外に行くことが好きになって。

自分の半分の歳になるような選手たちと冗談を言い合って話すことも、その選手たちと一緒に海外で現地の食べ物を食べることも楽しくなって。

スタッフたち、またコーチたち、フィジカルトレーナーたちというのはほぼ私と同じような年代の人たちなので、選手とも、そしてスタッフたちとも、たくさんの人たちとコミュニケーションをとっていることが、とてもとても私にとってはツアーの醍醐味の1つでもありました。

勝負にこだわりつつ、楽しみながら戦えた

またテニスというスポーツは、オフシーズンが短いスポーツで、1年中毎週違う場所で大会があります。毎週毎週いろんなところに行けるチャンスというのは、これはもう本当にテニスをやっていたからこそで、そのたくさんの国に訪れることも私のツアーの楽しみでもありました。

訪れた国をあげれば本当に……テニスの場合、大都市に行くことが多いんですけれども、グランドスラムが行われるオーストラリア、パリ、フランス、ロンドン、ニューヨークと。

その大きな大都市に加えて、テニスの大会が行われる場所にはなるんですけれども、ファーストキャリアの時には行く機会のなかったアジアも含めて、中東にも行くチャンスがありましたし、南米のほうにメキシコにも行く機会を得ることができましたし。

本当にたくさんの国を訪れて、いろんな国の文化、いろんな国の人たちのカルチャーにも触れることができたのもすごくいい経験でした。

とにかくセカンドキャリアというのは、私にとっては、ただ第1キャリアの時のように勝負にこだわり、ランキングにこだわっただけではなく、もちろん負けることは大嫌いな性格なのでセカンドキャリアのなかでも勝負にこだわってはいたんですけれども、ツアーを楽しみながら最後まで戦うことができたことはとても幸せだったと思います。

怪我に悩まされたキャリア終盤

最後の数年間は本当に怪我に悩まされ、今思えば、カムバックしたのが37歳の時なんですけれども、37から41歳ぐらいまでは本当にすごく元気だったなと。

41歳を過ぎてから少しずつ回復力というものに悩まされることが多くなって。そして最後の2〜3年というのは痛みと戦う毎日で。それでもやはり大好きなテニスを続けたいという気持ちのほうが強くて、やり続けていました。

怪我と向き合わなきゃいけないことというのは本当に精神的にもタフではあったんですけれども、これも1つ自分の、自身で自分の身体をここまで考えて、自分が向き合えたことというのはすごく貴重な時間であったとも思います。

最終的に引退を決断しなければいけなかった大きな理由というのはやはり自分の身体の問題であり、気持ちは本当に「限界というものを作らずやり続けたい。不可能なことはない」と自分でずっと思い続けてやってきたのですが、どうしてもやっぱり気持ちと身体のバランスというものが崩れてしまったことが引退の大きな決断となりました。

昨年の4月に膝の軟骨、骨軟骨移植の手術を受けてからは、常に朝起きると「今日の足の状態はどうかな。腫れていないかな。痛みは感じないのかな」と、いつも気にする毎日でした。

そのなかで練習をしてきた日々なんですけれども、リハビリをしていた時には本当に数センチの段差すら怖くて、左の足で踏み込む、階段を登る、階段を降りる、そのような日常生活すらできなかった自分が、リハビリを続けていくことでもう一度コートに立ってプレーができたということはすごく自分の中でも大きな成果でした。

身体を心配しなくていいことに安心している

その過程を考えると本当に、最後の最後までコートに立ち続けることができてプレーができたことは本当に幸せだったし、最後の引退試合には、たくさんの方に見届けていただけるなかでプレーを終える、コートに立ってプレーをした姿をみなさんとともに共有することができたことを考えると、最後の大会の会場を東京にして本当によかったなという思いがいっぱいでした。

本当にテニスというスポーツに出会えたこと、そしてたくさんの出会いがあったこと、そのようなことが本当に私にとってはとてもとても大きなもので、自分がここまでファーストキャリア、そしてブランクを経てセカンドキャリアでやってきたこと、すべてに対して私自身、自分自身でも誇りに思ってやってきたつもりです。

そのテニスという世界からプレイヤーとして去らなきゃいけないことは悲しいこと、残念なことではあるんですが、それと同時に今は、本当に自分の身体の心配を毎朝しなくて済む開放感と(笑)、そこに少し安心感も得ながら、引退してからちょうど1週間が経ったんですけれども、過ごしています。

これまで応援をしてくださった方々にも、そして今日来てくださったみなさんにも、テニスを応援してくださった方々にも、最後にみなさんに感謝を申し上げたいと思います。

(会場拍手)

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