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“プロフェッショナルなプロダクトマネージャー”になるためには何が必要か(全2記事)

エンジニアリングもマネジメントも、成功させるための手段にすぎない dely奥原拓也氏がプロダクトマネージャーになった経緯

日本ではプロダクトマネージャー、特にエンジニアの知識を持ちながらマネージメントをする人が足りてないと言われます。そこでプロダクトマネージャー兼エンジニアの奥原拓也氏に、日本でプロダクトマネージャーとして活躍するにはどのようなスキルや心構えが必要なのか、特にプロダクトマネージャーのプロフェッショナルになるために必要な素質などについて聞きました。まずは奥原氏がプロダクトマネージャーになった経緯についてうかがいました。

大腸菌を使った実験からプログラマーに

――最初に、奥原さんのことについてお聞きしたいと思います。まず、大学時代のことについて教えてください。

奥原拓也氏(以下、奥原):早稲田の先進理工学部で応用生物化学の研究をしていました。研究室では、生物化学やバイオテクノロジーを学んだり、大腸菌の研究をしたりしていました。フラスコの中で大腸菌を培養することをずっとやっていました。

――生物・化学から、エンジニア・プログラマーになったきっかけはなんでしょうか?

奥原:大学1年生の後半ぐらいに、知り合いと「起業しよう」と話していました。大学でよくあるノリです。「起業しよう」「Webサイトを作ろう」などとやり取りをしていました。

僕が理系だったということもあって、僕がコードを書くことになりました。それがプログラミングを始めるきっかけになったんです。そこで、プログラミングの勉強をするための本を買いました。でも、本を買ったのに、Ruby on Railsをインストールする時に途中で動かなくなってしまったんです。プログラミングの本は3,000円ぐらいして高いじゃないですか。こんなに高いお金を出したのに止まってしまった、と著者に連絡したんです。

そうしたら、著者がメチャクチャ丁寧に答えてくれて解決したんです。その時、のちに僕の師匠となる著者の黒田さんから、「君、大学生か? アルバイトしない?」と言われました。そこはRailsを専門とした受託会社で、第1号のアルバイトとして働き始めました。

結局、4年間ぐらいお世話になって、それがプログラミングの礎になりました。大学時代に仲間とサービスを作って、200人規模のイベントやフットサルのイベントなどを立ち上げたり、Webサイトを作ったりしていたんです。そういったところで、プログラミングにはもう関わっていました。

ただ、将来は化学・生物学の分野に進もうと思って大学に入ったので、その道もずっと歩んでいっていたんです。でも、大学院1年生の時、大学院に来て半年ぐらいたった時、プログラミングの道か、化学の研究職の道か、と。アカデミックか企業の研究職か、どちらの道を選ぶかという時に、今の執行役員の柴田さんから「delyに来ないか?」と誘ってもらいました。

それがきっかけで、「クラシル」の立ち上げ期だったdelyに入社しました。その日に即決して、退学する決意をして、引き継ぎして、すぐに退学届を出して、次の日にはもう出社する感じ。そうして、僕のエンジニアとしてのキャリアがスタートしました。ちょっと長かったかな。

なぜRuby on Railsなのか?

――今、Ruby on Railsの話が出てきました。そもそも、Ruby on Railsのほかにも言語はいろいろあったと思うのですが、Ruby on Railsでやろうと思った理由はどこにあったのですか?

奥原:2012年当時、Ruby on Railsがたぶん2.12、2.13ぐらいでした。スタートアップでは、「早く作って壊すならRailsでしょ」といった雰囲気があったんです。Webでいろいろと調べても、「Railsでしょ」という感じだったので、勘といいますか、わりとノーチョイス、あまり迷わずにRuby on Railsを選択しました。それがきっかけで、今に至るんです(笑)。

――なるほど(笑)。当時はほかのものをやろうというよりは……。

奥原:そうですね。ただあの時はJavaScript、HTML、CSSなどはわからずに、Rubyを選んだんです。

――今もずっとRubyなのですか? それとも、今はもっとほかのいろいろな言語も?

奥原:根底という意味でRailsはずっと続けていて、もちろんJavaScriptなどの言語も。最近はPythonなどを勉強していますが、メインはずっとRuby on Railsです。

サーバーサイドからフロントエンドまで

――今お勤めのdelyでは、最初はサーバーサイドのエンジニアだったんですね。エンジニアにも当然いろいろなキャリアがあると思いますが、サーバーサイドのエンジニアになった理由は何かありましたか?

奥原:もともと受託会社でRailsを書いていたことがあります。あとは、delyには大竹さんという、もともとCTOをやっていた人がいて、その人がiOSを書いていました。ちょっとしたインフラも作っていて、いなかったのがサーバーサイドのエンジニアだったんです。

ちょうどポジションが空いていたため、サーバーサイドのエンジニアになったというわけです。「さくらインターネット」などを使って、自分でサーバーを立てて、Webアプリをローンチしたりしていました。最初のうち、インフラも見よう見まねでやっていましたが、その後すぐにインフラの人がジョインしたので、ずっとサーバーサイドをメインでやっていた感じです。

――フロントエンド的なところもやっていたのですか?

奥原:そうですね。わりとガワ、フロントエンドも。Railsはサーバーサイドと画面を作るので、クラシルのWebサイトのWeb面やバックエンド、管理ツールなどを作っていました。

「プロダクトマネージャーとは何やねん」

――どこかのタイミングでプロダクトマネージャーになったと思いますが、そのきっかけなどについて教えてください。

奥原:プロダクトマネージャーになったのが2018年の5、6月頃だったと記憶しています。その頃の組織は、開発チームで10人ぐらいだったかな。そうすると、2つのチームに分かれます。全体では50人ぐらい。クラシルが伸びたことによって、けっこう大きくなってきていました。その時で、クラシルも2年運用していたことになります。

そうすると、基礎的な機能は出来てきます。そこから「次に何をしよう?」という段階に移ります。組織が大きくなり、次に何をしようかというフェーズになると、WhyとWhatを決める役割がジワジワと必要になってきます。今でいう、いわゆるプロダクトマネジメントです。

当時の弊社では、そこにはもともとロールがなかったので、「誰が」という感じではありませんでした。CTOの大竹さんと社長の堀江さんがプロダクト面を見ていたんです。でも、大竹さんも経営のことや面接などもあったので、いろいろ忙しい状況でした。時間をそちらにかなり突っ込む時もあれば、プロダクトを見ている時もあって、ベンチャーあるあるですが、何役もやっているような状態でした。

「やはり、プロダクトマネージャーが必要だよね」という意見が出たので、外部から採用しようとしたんです。でも、2018年当時、例えば『プロダクトマネジメントのすべて』といった書籍はまったくありませんでした。今、みなさんはnoteなどいろいろ書いていると思いますが、そのようなものは何もなくて、「そもそも、プロダクトマネージャーとは何やねん」という感じだったので、採用することはなかなか難しく、なんか……わからない(笑)。わからないけど、プロダクトを見る人を採用するということで、なかなかうまくいきませんでした。

そして、必要に駆られて「社内でやるか」となったんです。僕はサーバーサイドのエンジニアだったので、いろいろなところとのハブになることが多かったんです。営業とのハブ、カスタマーサクセスとのハブなど。どちらかというと、僕はディレクションや施策を考えることが好きだったので、自分がプロダクトマネージャーになりました。必要に駆られて、というのがきっかけでした。

まずは「何やねん」をメチャクチャ調べた

――情報がぜんぜんない中でそのような役割を任されて、どのようにやろうとしたのですか?

奥原:まずは「何やねん」をメチャクチャ調べました(笑)。「プロダクトマネージャーとは何だ」という情報はポツポツあったので、そういったものを参考にしました。

日本より海外のほうがプロダクトマネージャーの情報が早く、役割もしっかりしていたので、海外の資料を見ました。あとは、自分なりに考えながらやっていくことが多かった、と今振り返れば思います。なので、あの時の自分は、もうプロダクトマネージャーだと言いつつも、違うこともやっていたのかもしれません。

――「ここはちょっと違ったかも」と思ったところはありますか?

奥原:やはり「なんでも屋」だと、成功のために何でもする人だと思っていたことです。今でもそのスタンス自体は変わりませんが、役割をちょっと持ち過ぎていた、範囲を広くとらえてしまっていたと思います。

例えば、コードも時々書いていましたし、いろいろな業務をやっていた覚えがあります。結局、プロダクトマネジメントとは、戦略とイシューを考えて、何が課題なのかを考えて、そこに優先順位をつけて、解決策を考えて、それを推進する、そのような役割かと思います。本質的な部分は、そのいっぱいある中の1個ととらえていたイメージがあります。

その時は抱え過ぎてしまったことがけっこう大きくて、みんなに迷惑をかけていたと思います。僕がボトルネックになってしまっていたことが反省点です。

――自分がボトルネックになっていたことには自分で気づいたのですか?

奥原:いや、いろいろな人に指摘してもらった気がします。当時は自分を客観視する余裕はなかったです。なので、僕発ではなく周りが「PMをもう1人立てよう」「採用しよう」と。僕が仕事を持ち過ぎているからそれをはがそうとしていた気がします。

どちらもプロダクトを成功させるための手段

――プロダクトマネージャーになったきっかけは「いなかったから」とありましたが、その時の心境はどうだったのでしょうか?

奥原:エンジニアリングもプロダクトマネジメントも、プロダクトを成功させるための手段だと思っていました。自分がやりたいことは、「いいサービスを作って世の中に届けてみんなを幸せにすること」と思っていたので、自分がやりたいことにかなり近かったです。「これは自分がやりたかったことだ」と、今でも思っています。

――奥原さんには「届けたい」という目的がそもそもあるから、その目的のためだったらエンジニアであろうがプロダクトマネージャーであろうがいいのではないか、ということですね。

奥原:そうですね。僕はそうとらえていて、リソースをもっともフォーカスさせたほうがいいところはどこかと考えています。プロダクトマネジメントだったらそれはそうだし、もしエンジニアリングだったらエンジニアに戻ってもいいと思っています。

3年ぐらいやっている新規事業があるのですが、最初は僕1人でエンジニア兼プロダクトマネージャーでした。ほぼ毎日コードを書いていましたね。その時は、新しいサービス・事業を成功させるために必要なことと、とらえていた感じです。

ユーザーに価値を届けることに一番ワクワクする

――ぶっちゃけ、プロダクトマネージャーは楽しいですか?(笑)

奥原:そうですね(笑)。天職だと思っています。

――何が楽しいのですか?

奥原:ユーザーに価値を届けることに一番ワクワクします。例えばクラシルの場合。「もともと料理や台所に立つことが苦手でした。でも、クラシルを使ったら料理が楽しくなりました」という手紙をもらった時に、やっていてよかったと思ったんです。次に、クラシルをいろいろな人に使ってもらっていること。すでに3,700万ダウンロードのデカいサービスになっています。

そして、それを達成するというより、サービスを届ける過程を楽しめるようになった、そこに行き着く過程を今のチームのみんなとワクワクしながらやり遂げられるようになった、それがすごく楽しいです。今を生きているという感覚があります。「大切なものはほしいものより先に来た」、『ハンター×ハンター』のジンの名言ですね。

お店にいって買い物してもらうための「クラシルチラシ」

――私もクラシルを使っています。

奥原:ありがとうございます(笑)。実は3年ほど前から「クラシルチラシ」という事業を担当しています。「クラシル」で主にスーパーのチラシが見られるというもので、そこのリテール領域のプロダクトをやっています。クラシルは食のレシピ動画からスタートしたプロダクトなので、「食」を考えた時に、買い物も料理の一端だろうと僕らはとらえています。

今はオンラインで買う人もいるので、「クラシルマート」というサービスもやっています。とはいえ、ほとんどがオフラインでの買い物だったとしたら、オフラインの買い物で、よりお得なもので献立を考えられたほうがハッピーだと思うのです。

やはり主婦の一番の悩みは「今日は何を作ろうかな?」です。僕も結婚して料理するようになったら、そこが一番悩みます。そこでクラシルチラシでは、お買い得商品から献立を考えられるというソリューションをサービスとして提供しています。

新聞の購読率が下がっていて、高年齢化もしているので、スーパーの意向にマッチしていました。クラシルのメインユーザーは20代から30代の女性なので、まさに買い物に行っている層とマッチしています。そのようなクラシルチラシを3年間ぐらい開発していて、今かなり伸びています。今はスーパーだけにとどまらず、ドラッグストアやホームセンターなど、スーパー以外にも拡大して事業は成長しています。

――やはり、スーパーに行くことが一番の目的になるのですか?

奥原:スーパーに行って買い物してもらう。お買い得商品とともに、併売されているものをできれば買ってもらう。例えば、ちょっとオーソドックス過ぎるかもしれませんが、カレーを作る時に、カレー用の牛肉が安いことをきっかけにジャガイモやカレールーなどを買ってもらえれば、小売さんもハッピーでしょうし。

カレーを作ることがハッピーかわからないですけど、今日の献立が決まる点ではハッピーだと思うので、そのような献立の意思決定を解決できる。スーパーは、より多く買い物してもらえる。

僕もそうかもしれないけど、若い世代は「Uber Eats」を利用したりコンビニで買ってしまったりします。スーパーの立場からしたら、スーパーに来てもらって内食需要を高める、それがハッピーだと思うので、そういうものを僕らはやっている感じです。

日本でプロダクトマネージャーが増えたのは「必要だったから」

――日本では、過去プロダクトマネジメント・プロダクトマネージャーがあまり重要視されていなかったと思います。プロダクトマネージャーの役職・ポジションが、なぜ必要なのか教えてください。

奥原:僕の持論になってしまいますが、もともと役割はありました。たぶん、ディレクターやプランナー、プロデューサーなどの呼ばれ方をしていたと思います。そして、例えば事業責任者などがその役割を担っていました。組織の中の役割としては存在していて、きっと誰かが担っていたのだと思います。

それが今になって、なぜプロダクトマネージャーというロールが作られて、呼ばれるようになったのか。やはりもう、サービスを作って出せばはやる時代ではないからです。「何を出せばいいんだっけ?」「どういうものを、どういう課題を解決するプロダクトを作って届けないといけないのか?」と考えなければならず、メチャクチャ難しい時代になったと思います。

今、SaaSがはやっていますが、この5年ぐらいは、日本発に限って言えば、toCではやっているサービスはほとんど出てきていないと思っています。やはり、不確実性が高い世の中になっている象徴のひとつなのでしょう。そういった中で、プロダクトを作るとなった時に役割として出てきたのが、プロダクトマネジメント・プロダクトマネージャーだと思っています。

どのような課題をどのような優先順位でどのように解決するか、それに対して責任を持っている者がプロダクトマネージャーです。不確実性の高い世界において、「どうすればプロダクトがうまくいくねん」とみんなが考えて、その結果、「プロダクトマネジメントというのがあるらしいぞ」と。そこから来たのではないでしょうか。

あと、組織が複雑化・細分化し、専門性が高くなっていくと、情報の非対称性が生まれやすくなると思っています。マーケティングは進化がメチャクチャ速いし、セールスの手法の進化も速いので、組織最適化が必要になります。情報の非対称性を集約させて、みんなのベクトルを成功に対して向ける、そういった旗振り役・リーダーシップは、今まで社長だったと思うんです。

IT企業はプロダクトを作っています。御社であればWebメディアを作っているし、僕らだったらレシピ動画のサービスを作っています。そのプロダクトを主体としたビジネスが成り立った時に、プロダクトマネジメントをする人が必要になったのではないかと思います。(後半へつづく)

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