被告人にとって有利に逆転できる確率が0.02%の最高裁

平野敬氏(以下、平野):最高裁判決の判決までの流れと大まかな内容について説明します。

(スライドを指して)これは上告趣意書の提出時点や本件判決が出るまでは伏せていた数字です。最高裁がいかに絶望的な戦場であるかがわかります。

毎年最高裁では刑事の上告審が2000件くらいあります。最高裁判所のホームページに「司法統計」というものが公開されていますが、そもそも「無罪」「有罪」「差戻」と自分で判断してくれるケースはほとんどない。大半は「上告棄却」で、3行書かれて終わりです。

最高裁での破棄率は0.15%。破棄無罪、つまり被告人にとって有利に逆転できる確率は0.02%くらいです。ソシャゲでガチャを引いて、星5キャラクターが連続で2体引けるかどうかというところです。「こんな絶望的な戦いなんだよ」とモロさんに言うと、気力が挫けてしまいかねないので、言いませんでした。

しかし、こうした状況の中、2021年10月7日に最高裁から事務所に電話がありました。ふだん最高裁とやり取りすることはほとんどないので何だろうと。あるとすれば、司法修士の期間に最高裁から借金しているので、せいぜい借金返せと言われるくらいです。ところがいきなり「弁論を開くことになりました」と言われ、その瞬間、心臓が止まるかと思いました。

最高裁で弁論を開くのは、ほぼ上告を認める時。つまり、控訴審の判断を覆す時に限られます。なぜなら、刑事訴訟法408条の「上告裁判所は、上告趣意書その他の書類によって上告の申し立ての理由がないことが明らかであると認めるときは、弁論を経ないで、判決で上告を棄却することができる」という規定があるからです。

最高裁の裁判官は15人しかいません。その15人が5人ずつに分かれて小法廷を3つ作っています。その3つの小法廷で日本中の裁判を扱っているので、大半は弁論を開かずに上告棄却になってしまうんです。

逆に言えば、弁論を開くのは逆転の目がある時です。この時、私の頭の中に勝利確定のBGMがかすかに流れ始めました。これはもしかするといけるのではないかと。10月7日に最高裁の書記官から「被告人本人には言わないでください」と口止めされました。

たぶん、被告人に過大な期待を持たせるのは酷だからという配慮なのでしょうが、ある程度期間が経った段階で、私はモロさんに「弁論を開くことになりました」と伝えました。モロさんが「弁論って何ですか?」と怪訝な声で聞き返したので、「逆転の目があるということです」と伝えたら、モロさんが泣き出してしまったのをよく覚えています。

2021年12月9日 最高裁の第1小法廷での弁論

2021年12月9日、最高裁の第1小法廷で弁論が開かれました。私は東京高裁や東京地裁、いわゆる下級審の事件については毎日のように出ていますが、最高裁の建物や法廷の中に入ったのは初めてでした。絨毯敷きでライトアップされていて、まるで劇場のようでした。入るだけで緊張しました。

弁護人は憲法、刑法、刑訴法の3つに分けて主張しました。憲法の主張としては「漠然不明確」。「反意図性や不正性という要件が漠然不明確すぎるじゃないか」「憲法31条に反しているじゃないか」という主張です。

それから表現の自由。プログラム自体が表現であって、インターネットは表現流通の基盤であるので、そこで公開されるプログラムについては表現の自由が及ぶ、それに過度な規制を行ってはいけないと。

次に、刑法では反意図性や不正性の論点について細かく論じ、このコインハイブとは反意図性や不正性を満たしていないと主張しました。そして、刑事訴訟法としての高裁での審議はよくなかったと。事実審査のあり方も、地裁に差し戻しをせず、いきなり破棄自判して有罪を言い渡したこともよくなかったと主張しました。

これに対する検察側の弁論はいろいろとおもしろかったです。弁護側は、CPUの低下はごくわずかなので不正性を満たさないという主張をしましたが、検察官によれば、インテルやAMDはCPUの経営向上に多額の投資を毎年行っている。だからCPUの性能低下はわずかであっても許されないという主張を行いました。

さらに、被告人や高木証人はプロであって、プロが扱っているコンピューターはぜんぜんあてにならない。高性能なコンピューターを使っている人たちと違って、世の中には貧弱なコンピューターを使っている人も多い。そういう人たちにとっては、CPUの最大50%を使用されるのは非常に大きいことなんだと主張しました。

また、仮想通貨のマイニングは膨大な電力を使用して行うものなので、一人ひとりから見れば電力消費は小さいかもしれないけれど、全体で見た損失は非常に大きいものなんだと。

最後に、他人のウェブサイトに密かにスクリプトを挿入させる行為が近年問題になっている。本件が正当化されてしまったら、取り締まりが困難になるという話が出てきました。私は、検察官の本音として最後の点がすごく興味深いと思いました。

(スライドを指して)これは検察官の出した最高検の答弁書です。下線を引いた部分「本件プログラムコードの蔵置・保管行為の違法性が否定されるようなことがあれば、不正アクセス罪の公訴時効時間経過後は、継続的に利益を獲得し続けているハッカーを刑法的に取り締まることができなくなる」。

つまり、他人のWebサイトに侵入してコインハイブのようなマイニングスクリプトを置いて、そのあとずっとお金を稼ぎ続ける。これは不正アクセス罪で取り締まることができますが、不正アクセス罪は最初に侵入した時点から時効が始まってしまうので、長い間継続的に稼ぎ続けている場合(最初の侵入から時間が経ってしまっている場合)は、もう不正アクセスの公訴時効が経過している。だから、それがもし不正指令電磁的記録で取り締まれないとなれば、取り締まりが困難になってしまうのではないか。それが検察官の主張でした。

最高裁が出した判決

これを踏まえて最高裁が出した判決。憲法と刑訴法の論点については触れず、刑法の部分にだけ触れてきました。反意図性と不正性に枠組みを示して、それぞれに当てはめました。

最高裁が出した反意図性の規範が(スライドを指して)これです。「当該プログラムついて一般の使用者が認識すべき動作と実際の動作が異なる場合に肯定されるものと解するのが相当であり、一般の利用者が認識すべき動作の認定に当たっては、当該プログラムの動作の内容に加え、プログラムに付された名称、動作に関する説明の内容、想定されるプログラムの利用方法等を考慮する必要がある」。

これをコインハイブに当てはめるとどうなのか。「一般の使用者において、ウェブサイト閲覧中に閲覧者の電子計算機を一定程度使用して運営者が利益を得るプログラムが実行され得ることは想定の範囲内であるともいえる。しかしながら…」。

本件のコインハイブは同意を得る仕組みがない。Webサイト上に説明がない。さらに当時一般的に知られていたスクリプトであるとも言えない。だから反意図性がある、という認定になりました。

では、不正性はどうなのか。「不正性は電子計算機による情報処理に対する社会一般の信頼を保護し、電子計算機の社会的機能を保護するという観点から、社会的に許容し得ないプログラムについて肯定されるものと解するのが相当であり、その判断に当たっては、当該プログラムの動作の内容に加え、その動作が電子計算機の機能や電子計算機による情報処理に与える影響の有無・程度、当該プログラムの利用方法等を考慮する必要がある」。

これをコインハイブに当てはめるとどうなるか。「広告表示プログラムと比較しても、閲覧者の電子計算機の機能や電子計算機による情報処理に与える影響において有意な差異は認められず、事前の同意を得ることなく実行され、閲覧中に閲覧者の電子計算機を一定程度使用するという利用方法等も同様であって、これらの点は社会的に許容し得る範囲内といえるものである」。反意図性については認め、不正性については否定する。結論は横浜地裁の判決とほぼ同じです。ただ、地裁や高裁とはかなり枠組みが違うと感じました。

(スライドを指して)これは大コンメンタールという刑法の注釈書に書かれた、それまで通説とされていた解説です。「『不正な』指令に限定することとされたのは…(反意図性を満たすプログラムの中には)社会的に許容し得るものが例外的に含まれることから、このようなプログラムを処罰対象から除外するためである」。

この説によると、反意図性が認められれば、原則として不正性が推定されるから、無罪になりたければ不正性を否定してくれという話だったわけですが、最高裁で示された枠組みはこのように見られます。まず、「反意図性と不正性は独立の要件」であって、一方が認められれば直ちに一方が推定されるというものではなさそうだ。

「反意図性の判断」とは、心理的要素を指すものだということです。当該プログラムの動作の内容に加えて、プログラムに付された名称や説明内容、利用方法やユーザーの心理に着目して判断しなさいと。不正性は、反意図性とは異なる見地から物理的・客観的に判断しろと言ってるように思えます。

「(当該プログラムの動作の内容に加え、その動作が電子計算機の機能や電子計算機による情報処理に与える影響の有無・程度、当該プログラムの利用等)」と例示されていました。

これらもまた、判例上非常に重要なものだと思いますが、私個人はさらに注目するポイントがありました。最高裁の判決の中に「ウェブサイトの運営者が閲覧を通じて利益を得る仕組みは、ウェブサイトによる情報の流通にとって重要である」と書かれています。

ここを正面から認めたことは私も意外でしたし、その後話を聞く限り、多くの憲法学者や刑法学者にとっても、非常にインパクトのある文章だったようです。インターネットとは、情報流通を通じて表現の自由に資するものだ。その運営は健全な財政基盤によって支えられなければならないものだ。現代における言論の在り方に最高裁の価値観を示したものと評価することができると思います。

(次回に続く)