【3行要約】
・スタートアップで日本一を目指すには何が必要か――多くの起業家が悩むテーマです。
・BitStar創業者の渡邉拓氏は、シリコンバレーでの衝撃的な出会いと電気自動車事業での学びを経て、クリエイター支援事業を立ち上げました。
・サッカーで培った「日本一を目指す環境づくり」の哲学を経営に活かし、優秀な人材の採用と育成で業界トップを目指すべきだと語ります。
「100年後に名前が残る産業・文化をつくる」というビジョンの原点
――クリエイタープラットフォーム事業を展開する「BitStar」を率いる渡邉拓氏。学生時代のシリコンバレー訪問で「世界を変える」起業家たちと出会い、衝撃を受けました。電気自動車カーシェアリング事業を経て、なぜYouTuber支援という未開の領域に飛び込んだのでしょうか。「100年後に名前が残る産業・文化をつくる」というビジョンの原点を聞きました。
シリコンバレーで受けた衝撃
藤井創(以下、藤井):いきなりなんですが、渡邉さんは実は以前からログミーを知っていただいていたとか。
渡邉拓氏(以下、渡邉):そうなんです。実は川原崎さん(編注:ログミー創業者)がいらっしゃった時から知っていて。BitStar立ち上げ前にクローズしてしまったのですが、当時メディアビジネスもやっていたのでお会いしたことがあったんですよ。あと、スタートアップとして参考になるようなログがたくさん残っていてよく拝見していました。
藤井:なるほど、そんな前からログミーを知っていただいてありがとうございます。そんな渡邉さんの前でインタビューするのも緊張しますが(笑)、まずは渡邉さん自身についてお聞かせいただけると。
他の記事で拝見したんですが、このクリエイタープラットフォーム事業である「BitStar」を始める前の原体験になっているのが、在学中にシリコンバレーに行かれて、ということだと思うんですけど。その時に、どういう衝撃を受けて、どうしてそういうものをやろうと思ったのかについて、まずお聞かせいただければ。
渡邉:まず、私、学生の時にビジネスの立ち上げをやっていまして。今のBitStarの共同創業者の原田(直)と山下(雄太)とやっていたんですけど、その時はどっちかというとサークル感覚で、「あっ、こういうのがおもしろいからやってみよう」という感覚でやっていたというのが、そもそもありました。
そこで「新規事業が楽しいな」とか、なんかそういう思いはあったんですけど、いざやってみたらうまくいかなくて、先輩に「シリコンバレーに行け」って言われてですね。
藤井:いきなりそんなことを言われたんですか(笑)?
渡邉:「なんで?」って言っても、なんか理由を教えてくれなくて、「行ったらわかるさ」みたいな。というので行ったんですけど、そこには当然知り合いもいなくて。
そうしたら、先輩がいろんな方を紹介してくださって。起業家の方もいれば投資家の方だったり、MBA生とかスタンフォードの研究生とか、いろいろご紹介をいただく中で、なんか、みんな少数でも世界をこういうふうに良くしていきたいという大きなビジョンを持たれていたというのが、私的にはけっこう衝撃的だったんです。
当時、学生時代に「mixi」の起業家コミュニティとかで話したりしても、なんかあんまりピンと来る人がいなくて。私自身もそこまでの大志は持っていなくて、結果、だからやめてしまったというのがあったのかなって自己分析しているんですけど。
やはり、シリコンバレーの起業家は少人数で2人とか3人とかでも、「こういうビジネスをこんなふうにしていきたい」とかというのが、普通に平場でけっこう会話されていたりとか。
スタンフォード大学に行ったりしても、道端で、教授なのかわからないですけど会話しながら、何かについてディスカッションをしていたりとかが日常的に行われているのを目の当たりにして。
なんか、自分が考えていたことはすごく小さいなって思ってしまって。せっかくやるんだったら、もっと世の中に残るようなことをやりたいなと思った時に、じゃあ、例えば死ぬ間際にと考えた時に、孫とかに残せるぐらいの、「これをやったんだ」って言えるぐらいのことをやれたら、すごく格好いいなと思って。
ビジネスでそれを置き換えると、やはり、産業とか文化をつくっていくことなのかなと思いました。
少なくともそういうことに貢献できるような、なんか刹那的に売上を上げるとかということではなくて、中長期にやはり積み上がっていって、後から振り返ったら、「これこれをやったんだ」って言えるものをつくりたいなと思ったのが、(BitStarのミッションである)「100年後に名前が残る産業・文化をつくる」ということにつながっていますね。
藤井:僕もずっとTech系のメディアの編集長をしていたので、その当時からシリコンバレーはやはりなんとなく世界的にやはり進んでいるなとかあったと思っていたんですけど、やはり行った時には、日本ともぜんぜん違う感じとか、差はけっこうあったんじゃないかなと。
渡邉:そうですね。今でこそ、なんか起業しやすくなっていて、いろんな情報が出てきたぶん、やりやすくなっているかなと思うんですけど、僕がいた時って、本当にスマートフォンが出てくる前と、出た後という、本当に境目の時期でして。
本当にWeb 2.0の時は、なんかmixiコミュニティとかで探したりしていくと、なんか変な大人に変なところに連れていかれそうになって。共同創業者の原田と、「ついていって、これ、大丈夫かな?」って。
その時は、新しいスマートフォンが出てきても、新しいアプリが出てきても、「それって何なの?」という人が多くて。ちょっとカジュアルな、ちょっとした便利になることがあったとしても、その先に何か大志を持っている人があんまり周りにいなかったりして、スモールビジネスの印象がすごくあったんですよね。
クリーンテック、そして電気自動車への情熱
藤井:そこで、シリコンバレーに行かれて、帰って、まずはカーシェアリングの会社に入られて。
渡邉:そうですね。その当時からIT業界に行く人が多かったんですけど、僕の場合はシリコンバレーに行く前後ぐらいからクリーンテックに興味を持ち始めて、その象徴となる存在がテスラでした。
電気自動車自体が新しい産業になってくるだろうなという可能性をすごく感じて、シリコンバレーに行った後にも、そこまででもクリーンテックの企業さんもいくつか見させていただいて、日本に帰ってきた時に、やはりこの産業を盛り上げていきたいなと。
それで日本の町工場とか、日本の電気自動車を作っている町工場さんとか、電気自動車研究室、まぁ、慶應(義塾大学)にはあるんですけど、そういう研究室に行かせていただいたりとか、いろいろと回って、行脚していく中で。
中国でも、BYDとか当時からもうすごい売れていたので、日本のビジネスとしても車の自動車産業が強いのに、(電気自動車の普及は)なかなか難しくなりそうだなとかということを、なんか聞きながら思ったんです。
当時、自分でビジネスをやるのか、それとも就活をしてスタートアップに行くのかという、どっちかで考えていたんですけど、たまたまマンションの工事会社の社長さんが、「新規事業を何かやっていきたい」って言っていて。
僕は電気自動車のビジネスをやりたいんですという話をしている中で、その時社長がマンションにネットワークがあるとのことで、カーシェアリングとかってどうかという話があって。確かに電気自動車のメーカーをつくると、イーロン・マスクですら500億円かかったものを、がきんちょができるはずがないなとかって思いながら、調べていました。
電気自動車のカーシェアリングであれば、電気自動車を普及させていくうえで、マンションが日本全人口の2割ぐらいのマーケットに対して、そういうところからアプローチしていくというのは、意味があることなんじゃないかなと思って、共感してしまったんです。
それで「じゃあ、お前、ビジネスプランを書いてくれ」みたいなかたちになって(笑)、少しずつ入っていって、新卒でそこの会社に入って、3年勤めて。
藤井:その時はまだ自動運転みたいな話はなかった?
渡邉:ぜんぜんそんな話はまだ出ていない時代でしたね。今でこそ、三菱さんの「i-MiEV」も撤退しちゃいましたけど、電気自動車の中では、i-MiEV、「リーフ」が当時は全盛期でした。そういう、日産さんと三菱さんが、もっとそれをやれていればよかったのにと思います。